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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

一斉に放り込まれる先は?

2021-04-14 | 老い
同じ話を何度も書いている。 
2分割のお宅、建設中の話。
ごく最近、アップしている記憶はあるものの、どの記事だったか、探すのが面倒。
何しろ記事が長いので、読むのが疲れる。
と、自分の長文ブログに疲れていたら世話がない。
探せばすぐ出てくるのだが、それがどうした?という話。
気になっていることをきちんと正確に確認するのも面倒なお年頃。
わかっていながら、ほったらかし。
それがどうした?戦法。

本日は完全オフ、フリータイムなのだが、どう過ごそうか迷ったまま、すでに半日が経ってしまった。
小学生チームの孫たち、給食がまだ始まっていないので、うちに食べに来る?と誘ってもいいのだが、誘わず、うだうだ、ぼーっとしている。

我が家へ昼食のお誘いは、娘が育児休暇中で給食が始まるまでの今しか出来ないことには違いないのだが。
いや、まだ明日もその定時ルーティン路線のスケジュールであるし、別件予定もあるので、今日はパスしよう。
のんびり、何にもしない日にしよう。

「今しか出来ないこと」の定義、選択、基準、さじ加減、バランスが難しい。
とても楽しいことでも、毎日精一杯すると、とても楽しいことではなくなってくる。
仮に食に例えると、大好物も大量に頻繁に食べ続けると感動が薄れる。
疲れてきたり、摩耗したり、義務になったり、期待に応えようと無理したり、徐々に負担になってくる。
あるいは、飽きてきたり、慣れっこになって不満が出てきたりする。
自分が楽しい分量、熱量になるように選択するのが望ましい。
ちょっと手前、八分目がわたしのモットーだ。

全てにおいて、そう。
例えば、くだらない例を出すと、ファッションひとつにしてもそう。
公式の場以外では、ここぞという時も、一つ手を抜く。
そういうのを「抜け感」「こなれ感」と、ファッション誌では謳うが、そんな大層なものではない。
頑張り過ぎるのが快適ではないだけだ。

行動もそう。
100パーセント頑張っているのだが、80パーセントも出来ていない。
200パーセント頑張って、必死になっても85パーセントぐらいの達成率。
客観的に見ると、もっと低いだろう。
わたしには100パーセントは無理、増して200パーセントなど程遠い。
頑張って成果を出している人を見ると応援したくなる。

自分への期待値を極力低く下げるように日々、周りにアピールしているように思う。
特に意識していないかも知れないが、ドジ脱力ばかりなので、周りも諦めているのだろう。
これは悲しいかというと、じつに楽ちんなのだ。

だが、銀行や携帯電話ショップや、自動支払機で払うショップなどで、一テンポの遅い反応のわたしに、スタッフの人は、目を釣り上げるか、大きな声でゆっくり話したり、いかにも高齢の人に対するような態度を取られると、不快になる。
「深く傷つく」と書こうかと思ったが、そう書くのは情けない。
テンポがほんの少し間延びしていると、その瞬間、理解の遅い高齢者枠に放り込まれる。
「あ、この人は、わかってない人!」と見なされる。
いたくプライドを傷つけられる。

元々、ピンと目から鼻に抜けるタイプではないのだが、おっとりは自分のキャラだと捉えていた。
が、高齢枠が加わると、自覚していないまま、他の大勢の高齢の人々と共に同時に弱者枠に放り込まれるイメージ。
トロイのを自覚するか、テンポを上げてシャキシャキするか、だが、一番有能なピーク時の若い時でさえ、「大正時代のお姫様」と時代遅れレッテルを貼られていたのに、心身ともに歳相応分の老化を加える今は、ますます、まばたきもしないお姫様になっている。

しかし、無駄な抵抗はやめよう。
開き直るしかない。
65歳以上の高齢者にはワクチン優先だそうだが、65歳以上は高齢者なのかと思うと感無量である。
わたしは、あと数ヶ月で高齢者になる。
ちなみに、政治家はほぼ全員、高齢者だ。

そこで苦肉の策として、高齢者呼ばわりされるにはふさわしくない前期高齢者と、後期高齢者に行政では分けていたように思う。
65歳以上の人口に占める割合は、いったいどれぐらい?
65歳は、まだまだ働ける。
が、高齢者ということで、ひとくくりされる。
これからは、高齢者という自覚をじわじわ徐々に持っていこうと思う。
へんに傷つかないで、かわいいおばあちゃんになれば良いわけで。

しかし、銀行やお店の方、もうちょっと余裕をもって対応していただきたい。
無理かも知れないが。

とかなんとか、期待されずに、義務を最小限にして、ぼーっと遊びたい。
一人で遊べなくなったら、最近、どうしてるの?と気にかけてほしい、、、なんて言うとムシが良すぎか。

サボりすぎると、楽しみまで取り損ない溢れ落ちるから注意が必要だ。
他者と自分、お互いの微妙な力の加え方が要だ。
(タイミング、圧の強弱、持続状態、関わり具合、などなど、、、)

ちなみに、人生100年時代において、わたしの敬愛する上野千鶴子さんは、とてもこころにピタっとはまることを言っている。
その話はまたの機会に。

ハラスメント

2021-04-06 | 老い
あのご高齢の、昔、高い地位に就いておられたモリさん、いろいろ女性差別発言をあちこちでしている。
ある秘書の女性のことを「女性というような年齢ではない」と言ったとか。
そう言うなら、じゃあ、貴方(モリさん)は、どう見ても男性という年齢の男性ではない。
彼は公人なのだから、閉ざされたオフレコの時に、土中に穴を掘って発言したらよい。
いくら辞職しても、アタマの中は変えようがない。
が、世の中の男性たちも多くは似たようなものだと思う。
特に高齢層。
なぜダメなのか、なぜ自分の意見や思いを口にしてはいけないのか、理由はわからないが、世間や家族からバッシングを受けるため、口にチャックをしているだけで、まるで理解していない。
というか、理解できない。
自分の考えは正しいと思っているから。

ちなみに、赤ちゃんは英語でit扱い。
性別をつけない。
高齢者もitにするなら、女性だけでなく男性も。
発言する立場の人に男性が多いことが、そもそもの日本のジェンダー立ち遅れを物語っている。

ある大学教授が言っていたが、女性の美や若さに対する、氾濫する広告に皆んなが無意識に影響を受けることに警鐘を鳴らす。
シワ、シミ、ほうれい線をなくす広告を頻繁に目にする。
ひどい広告では、高齢女性の顔写真をボカシ無しで出して(本人の許可を得ているのかどうか定かではないが)、醜い見本のように扱っている。
高齢男性のリアルな顔写真も見たことがある。
男性も同じように取り扱ってます、女性差別してません、と主張したいのかも知れないが、明らかに年齢差別している。
高齢者は醜いと言わんがばかり。
その醜い老化で弛んだ皮膚や目の下のたるみ、この薬?で、ほら、キレイに!
というようなくだり。

顔は生きてきた証だと思う。
あえてそれを醜悪だと認知させ、改善させようとは。
何かが違う。
若さとは、機能や中味、肉体に加えて、見た目も含めて若さなら、若さを維持するには、歳を重ねる行為に逆らって生きていくことになる。
真理に逆行する。

生きるために食べる。
食べるために生きる。
どっち?

美しく歳を取りたいために努力する、、、
それって、健康オタクに通じるものがあると思う。
一生懸命生きていたら、あるいは楽しく生きていたら、または力まず善行をしていたら、それなりに自然な老いが訪れて美しく歳を取ると思う。
笑いシワは愉しげだし、眉間のシワも味わいや深みを添える。
表面的な美を追求するなら、老化は正に敵。
老化を否定する必要はあるのだろうか。
若さばかりにこだわるのは、目的と結果が逆だ。

不老不死は結構残酷である。
いろんな物語にも登場するが、苦しみをもたらす罰ゲームのようなもの。
いつまでも死ねないなんて、どうする?
必ず人は生まれたからには死ぬ。


それより問題は、女性差別!!
男性のシワ広告は今のところ見たことがなく(一件だけ、目の下のたるみ?男性モデルはあったように記憶するが)、ほとんどが女性。

よく言われているが、ヨーロッパでは熟成されたマダム文化が根付いているにもかかわらず、日本人男性は若い女性を好む。
生殖には若さが必要らしい。
その割には男性には元気がない。
今時、何も知らない女の子などいないだろうから、ロリコン趣味に行き着いてしまいそうだ。
それは、法に触れる。
若い女性には当然相手にされない、なら、ターゲット歳を上げていけば良いものを。
熟成された年齢の女性は、若い女性以上に手厳しいと、わたしは勝手に想像する。
けなされる腹いせに、すでに若さを失っているくせに、と、熟成女性を上から目線で見る。
自分だって若くなく同じなのに。
ああ、やだやだ。
ろくに女性を満足させられないくせに、女性は思い通りになると思い込んでいる、大いなる勘違い。
これ、毎回、時代錯誤時代劇で、虫酸の走るお代官様だか商人だかお殿様だかが、話しているセリフだ。
自分本位の満足を求める男達が女性を置き去りにするのならまだしも、女性を虐げて、踏みつけて、男達の満足を得ている。


わたしは毎日、時代劇がテレビで流されるのを同じ自宅空間で聞いている。
聞きたくないが、無理やり耳に入ってくる。
時代錯誤のセリフが絶え間なく流れ、不快この上ない。
封建時代なので身分差別パワハラも頻繁に出てくるが、特に女性へのハラスメントが著しい。
毎日毎日、金太郎飴のように、ハラスメント劇が流されると、ヒ素か何かを盛られるかのごとく、日々、毒が身体に溜まる。
やめて〜〜〜と、耳を塞ぎたくなる。
架空の造りものの娯楽時代劇なんだから、真に受けるのは明らかにおかしいのだが、毎日、あのセリフを聞くとノイローゼになりそうだ。
これが今の時代ならモリさんどころではない凄いストーリー展開に、夫はストレス解消、溜飲を下げているのだろう。
人の愉しみを邪魔する権利はないが、しかし、わたしの不快の上に、その愉しみは成り立っている。
なので、お互いが不快にならないように工夫して、別々に趣味を楽しめば平和解決だと思う。
相手を否定してはいけない。
人には人の道。
パワハラ、セクハラ時代劇が大好きな人と大嫌いな人が、同時に同じ空間で時代劇を観てはいけない。 
配慮が必要だ。
トラブルを回避するのは、「知恵」を駆使する。
モリさんのアタマを改造するのと、夫の時代錯誤ハラスメント時代劇趣味を変えさせるのは、ほぼ同じぐらい不可能なことだと思う。

今の若い人はそうでもないようなので、先には光明を見る思いである。
未来、将来に期待しよう。
そのためには、我々夫婦は今から種を蒔き育てていかなければならない。
だが、我々は先が短いからそんな地道な時間がかかる面倒な作業ではない、もっと良い方法を採用しよう。

世の中的には随分前から種は蒔かれていると思われるが、悲しいかな、しっかり育っていない。

考えない

2020-10-08 | 老い
加齢が進む。
自覚症状、ありありあり。

認知度、低下。
一番恐怖は、スマホ。
どこいった?  どこに置いた?
サイレントにしているから、電話をかけても鳴らない。
耳を澄ませば、ブルブルと静かに震えている。
しかし、柔らかいものの上に置いていると、振動音はなかなか伝わらない。
映画館ではあんなにブーブー鳴るのに。
スマホ探しが、自分探しか?
それなら大丈夫。すぐ見つかる。

だいたい、移動経路は決まっているので、ヒヤリとはするものの、必ず見つかる。
刑事や探偵より簡単な作業だ。
状況証拠を手掛かりに足跡をさかのぼる。

わたしはもう、認知症予備軍、または、入り口に入っている、、、と、嘆いていたら、、、

しっかりしていることを自負している義姉も似たり寄ったり。
スマホやメガネ、いったん、ほんの数秒でも手から離れるとなかなか戻って来ない。
一度や二度ではない。
その光景を目の当たりにして、思いっきりわたしは、お腹の中で楽しんでいる。
ブルータス、お前もか。
賢い人もアホな人も、老いは平等にやって来る。

同じく姉。
最近、耳が悪くなっている。
前までは、聞こえないのは話し手が小さな声だったり、声が通らなかったりと相手に責任を負わせていた。
が、耳鼻科で診断を受けてから変わった。
逆ギレはなくなった。
自分の弱点を知ると対応が変わる。

さらに、夫側の叔父。
相談役、重鎮、、、だった。
今では耳が遠く、皆んなの会話を遮り、業者との打ち合わせには、明らかに進行の邪魔。
叔父に聞いても、無理。
聞こえない、聞かない。
電話でのやりとりは無理なので、直談判、直接話さないと、通じない。
しかも時間がかかる。
耳の問題なのか、はたまた、、、?

そして、さらに、真打ち登場、、、
依然、強気なのは夫。
明らかに耳が悪い。
なので、テレビは大音量。
電話も自分が話す時は大声。
自覚しているくせに、弱点を認めない。
たちが悪い。

特にテレビの大音量は同居人としてはストレスの山。
大嫌いな番組、24時間、時代劇。
こころをやられる。
別の時間、別の空間で、隔離作戦のもと、楽しむようにしてもらうと平和解決。

自分に弱点がある場合、100パーセント認めさせようとはせず、少しは控えめに譲歩することは出来ないのか。
ハンディをまるまる当然のごとく主張するのは、いかがなるものか。
じっと耐えて我慢せよ、とは言わないが。
自分の弱点を完全に補完、補充できないなら。

弱点があると、人の弱みや痛みが少しはわかると思う。
逆ギレしている人はいるが。

とはいえ、今はまだ、加齢もかわいいもの。
もっともっと本格的に歳を取り、生きるのが辛くなるほどの弱点を抱えていると、どうなるのだろう。
わたしの想像では、考える力が徐々に緩やかにユルくなると思われるので、あんまり物事を深く追求しないのではなかろうか。
脳の解放は、神さまからのプレゼント。

しかし、まだ、なってもいないことをくよくよしても始まらない。

そんなに勝ち誇ってる?

2020-06-23 | 老い
わたしは夫とは3歳違い。
わたしのほうが下である。
わたしには4歳年上の実兄と、2歳年上の実姉がいる。
夫には1歳年上の姉がいて、兄嫁はわたしと同学年。
つまり、近親者のわたしのまわりは4歳の間に6人がひしめき合い、似たり寄ったりの年齢であるということだ。
男女比は、男2人に対して女4人。
姉の夫(義兄)や、夫の姉(義姉)の夫を含めると、年齢が少し上がるが、4対4で男女比は同数となる。
さらに、その義兄や義姉のきょうだいや配偶者を入れると、ほとんど年齢的には同窓会メンバーになる。
別に不思議でもなんでもないが、皆、似たような地域出身で、似たような学生時代を送り、似たような暮らしをしている。

さて、長い前置きだった。
(あれ?誰もいない、、、)

似たような年齢の似たような人々を横にズラリと並べると、どういう並べ方になるか。
美醜で並べるのも芸能人じゃあるまいし、意味がない。
好みもあるし、基準もあいまい。
わかりやすいところでは、頭脳。

嬉しいことに、と言えば良いのか、悲しいことに、と言えば良いのか、、、
わたしは飛び抜け、最下位である。
特に夫とわたしの格差が激しい。

小学校、中学校では(生徒数は少ない中)優秀な生徒は結構いたが、わたしが進学した高校では、(生徒数が多い割には)、中学ほど優秀な人はそれほどいなかったように思う。
少数精鋭vs一般。
なぜなら、優秀な生徒は私学や越境して他市に流出し、普通の生徒だけが地元高校に残る。
だが、あくまでも高校の時の話。

で、夫とわたしの格差は著しいのであるが、夫は、わたしの実姉や兄嫁には勝てない。
なぜなら、頭脳だけの問題ではなく、性格のせいもある。
夫は自分より劣る格下のわたしを傘下に選んで、優越感に浸っているのだろう。
たとえ夫のほうが優秀でも、すぐ後ろにピタと付いてくる姉や義姉は強敵。
義姉においては、同レベルか、抜いたり抜かされたり?
実姉もかなりなもの。
おかしなことを言えば鋭く指摘される。
キーンと斬れる刀の音が飛び交う。

わたしのように、はるかかなた、話にもならないような無接点に近いぐらいが、どんなことをしても、何をしても、しなくても、絶対に勝てる相手には神経をピリつかせなくてよいようだ。
ウサギと亀。
亀は永遠にゴールにたどり着かない。
試合以前に、レース種目やレース日時を間違えていたりする。

子供へは、遺伝子的にはどちらかと言えば頭脳面では優秀なDNAを受け継ぎ、問題はなかった。
幸か不幸か、わたしの遺伝子を受け継いだ子供はいなかったように思う。
いや、一人いるかも?(ごめんねー)


まあそれはそれとして。
優秀な頭脳を誇る夫。
最近、順調にエイジングしてきて、見ていると面白い。
どんなに優秀でも老化には勝てないようだ。
自分の老化を決して認めたくなく、忍び寄る脳への老化を全面否定しているかの如く見えるが、、、
ある意味、気の毒である。
もともと、高いものを持つ人はプライドも高く、たいへんである。
ご苦労様。

長嶋茂雄の如く、「なんてことはなく、来たボールを打てば当たるんだよ」のノリで、出来ない人の苦悩は理解できない明るい朗らかな人にとっては、初めての試練なのではなかろうか。

そういうタイプの人と、わたしは実は合う。
苦節何年、苦労の人は、努力を人にも要求してくる。
何?出来ない?
努力が足りない。
血の努力をしろ。

そういうハード熱血系より、むしろ長嶋茂雄風のほうが、軽くて爽やか。
ただ、さほど多くはいない。

あまり血の滲む努力系ではないため、人に強要したり、見下さないが、自分が出来ないという事実を認められないだろうなあと。
出来る人には出来る人の、ハードルが高すぎる故の悩みがある(ようだ)。
出来ない人の悩みなら、わたしはよくわかるが、出来る人が出来ないというのは、さぞや衝撃的落ち込みだろうと想像する。

しかし、毎日、自己主張のぶつかり合いの修羅場生活を共にしていると、出来る人を思い遣るこころを持つほど、わたしは余裕はない。
敵のマイナスは、こちらのプラス。
少しでも有利になるよう、敵の弱点を逆手に取る。
だが、あまりあからさまに攻撃すると、窮鼠猫を噛む、の被害者になりかねない。
ので、顔色を見ながら、、、。


ある時、夫が先にお惣菜を食べようとして、自分のお箸が無いと言ってきた。
お箸は夫の目の前に、本当に目の前の洗いカゴに入っていた。
わたしが、「目の前にあるやん」と言うと、急に怒り出して、
「そんな勝ち誇ったかのように言わなくてもいいやないか!
そんな大きな声で!」
と声を荒げる。

わたしは、キョトンとした。
そんな気はないのに、ひょっとして無意識下にそんな気があって、いかにも勝ち誇ったように言ったのだろうか??
いや、夫の被害者妄想だと思う。
だが、当事者同士は自分に有利に物事を捉えるため、ここで言い争っても不毛だ。

しかし、、だ、、、
例えば醤油。
いつも置いている場所とほんの10センチ程位置がズレているだけで、夫は無いという。
他にも「○○が無い」とよく言ってくるが、あるではないか。
よく探せないようだ。
まだ未発見、未解決ブツは他にもあると思われる。

あんなに頭脳には自信があった夫が、パープリンのわたしのいる、こちら岸に来ている。
きっとショックだろうなあ。
とは言いつつ、いつもわたしをボロカスに貶していたくせに、ざまあみろ、と、同情など微塵も感じず、いい気味であるが。
それが反映したのだろうか、、、?

そう言えば、父より10歳若い母が、「あんなに賢いおとうちゃんが、物忘れしたりする、、、」と驚いていたことがある。
と言っても父はリタイアすることなく現役のまま他界したから、さほど深刻なものではない(はず)。

しかし、我々、、、
言った、言わぬ、ドタバタ泥沼。
真相は謎。闇の中。
神経に障ることをほじくるほど、わたしは無神経&悪趣味ではないので、そっとしている。
こういうのを「放置」ともいう。




時間切れ

2020-05-08 | 老い
姑は、老いた自分の姿を皆の前に晒すのが嫌だという強い信念で、孫娘の結婚式には参加しなかった。
姑は関西在住で、式は関東で行われたせいもあるが。

挙式や披露宴が行われるホテルに前泊すれば、そんなにハードな日程ではなかったように思う。
実の娘夫婦も同行するのであるから、サポートは万全だ。

当時は、頭もしっかり、身体もしっかりしていた。
公の場でお祝い事に参加できるのは最後のチャンスだったと、わたしは思うが、本人が辞退した。
さらに、近所に住む親戚の結婚式も辞退したため、わたしが代わりにピンチヒッターで列席した。

老醜というようなものではなかった。
姑にしてみると、かつて、身近な親戚が、いかにも老いた姿でヨタヨタ参加しているのを見てみっともなく感じたらしく、自分は不参加を決めていたようだ。

だが、、、
あの頃の姑は、別にそんなことはなかったと思う。
姑より一歳年上の実母は、同年、訪問着を着て孫娘の結婚式に出た。
晴れ着を着た実母は、老醜などとんでもない、立派な姿だと感じた。
(実母は関西在住だから、大阪での結婚式には出る事が出来たのだが)

姑は理想が高いというか、なんというか。
しかし、実際には、親戚の結婚式に姑の代理で顔を出した(姑より)一世代若いわたしでも列席すると、長時間、礼装でかなり思ったよりハードだったので、老醜云々より案外、身体の面を思うと正解かも知れない。

実際の老醜は、本人がもう老醜など意識していない段階から始まる。
頭で考えたり、決めたり、選択しているうちは、老醜ではない。
足元がヨタつくことや、出されたものがちゃんと食べられないことが、老醜の全てではない。
それは表面上、行動上、身体能力上、健康上のことである。

本当の老醜段階においては、本人はまるで無意識なのだから、神さまは上手く時期や状況をブレンドしてくれる。
自分が醜いと感じるうちは、さほど醜くない。

同様に、歳が行ったと感じるうちは、たいして老いていない。
本当に老いる時は、何も感じないと思う。
介護してもらっても、ありがとう、と、感謝の気持ちを表さなくても、それは仕方ないことだと思う。
老いるにも段階がある。

当時の姑は、自分が老いた姿が気になるんだなあと、今、思うと感慨深い。
今の姑とは別の人。

子供にも言える。
こんなに可愛かった子供が、似ても似つかぬオッサンになっている。
見た目も中身も別人。
心臓をはじめとする内臓、骨なんかは、ずっと生まれた時から同じものが経年変化しているのだろうけれど。

頭脳が働くうちに、自分の思いに従った行動をチョイスするのは、よいかも知れない。
頭脳と身体はリンクして同時進行していると思うので、衰える時も両方足並み揃っているほうがスムーズに行く。
「思い通りに行かない」と嘆かなくてもよい。
思いそのものの中身、質が変化している。
理想とか、ない。飛んでいる。
(最後まで、ちゃんとしている人も当然いる)

老化は醜いと感じるお年頃があるようだ。
わたしは、まだその域に達していない。
老化は当たり前。
何千年も永遠に死なずに生き永らえる刑罰のほうが、辛いと思う。
赤ちゃんは、可愛い。若者は爽やか。
同じく、老人は醜い?
自分は老人グループに向かって進んでいるので、醜いと思いたくない。
枯葉は醜いか?
カサカサ、踏まれたら粉々、風に舞って風化してしまう。
それは醜いわけではない。
自然の摂理。
天寿を全うできるなんて、なんて幸せなことか。
自分も周りも幸せだ。

老人が老醜を嫌うのは何故?
仮に老いの美学に反するのだとすると、今のわたしは違うと思う。
まだ、本格的に老人枠に突入していないから、ホンモノの先輩老人から見ると、なんと現実を知らない、お気楽で腹立たしい、お子ちゃま老人だと溜息をつかれるかも知れない。

色んな側面があるから、あれもこれも同時に論じると、焦点がぼける。
実際に自分が老醜を感じたら、また違う想いが生まれるだろう。
生きていると、常に変化する。

と、ふと時計を見て、ビックリ。
ちびっ子軍団がお腹を減らして押し寄せてくる時間だ!
こんなこと、している場合ではない。
ご飯作り、あたふたスタート!
あれこれ非生産的なヒマ人タイムは、終了します。

明日のことは、明日考えよう

2020-03-11 | 老い
今日は小学一年生の孫A、お預かりの日。
なので、早めに、さささとブログをアップしなければならない。
と同時に、お菓子を隠さなければいけない。
緊急の必要性もないのに、冷凍していたストロベリーショートケーキまで解凍して胃袋に収めようとしているわたし。
孫Aの食意地が張っているのは、わたしの隔世遺伝かしらん。

孫Aが一番最初に口から出た言葉は、「パン!」。
彼はもっと小さい乳幼児の頃、満腹中枢が故障していたのかも知れないと思われるが、食器に食べ物の残りが少なくなり、カリカリとスプーンの音がし始めると泣き出した。
これで食事、終わりは、最大の悲しみ。
いつまでも、いつまでも食べていたい。

次に喋ったのは、「デンシャ〜!」。
小さい頃から今も電車オタクである。
日本中の鉄道や駅名、電車名を並べて教えてくれるのだが、地理音痴のわたしには、聞く端からアタマから抜けていく。
今では、こんな教え甲斐のないばあちゃんには、あまり教える気にもならないのではないかと、、、。

言葉は不思議。
わたしの長女が初めて喋ったのは、幼児テレビ番組「ひらけポンキッキ」の視聴者向け募集要項だった。
いきなり、長い説明をベラベラ話し始めた。丸暗記。
毎日聞いて、ある日、突然、脳と口から溢れ出たのだろう。
今、末子孫が、同じ状態。
幼児言葉を全く話さない。
関西語も標準語も話す。
女の子は、口が早いと、よく言われる。
これで、オシメをしているとは思えない。
本人に、そう言うと、「オシメじゃない。オムツ!」と反論される。
いやはや、、、
最近の紙オシメは、性能が良くて快適だから、なかなかオシメ離れが出来ない。
2歳ぐらいで、自分の子供はオシメが取れていたと思うのだが。
子供の年齢が重なる時期は、3人分、全て布オシメを家で洗って干していた。
手がガサガサ、アカギレ、ヒビ割れがすごかった。
隔世の感がある。
まあ良い。いずれ、高齢になるとまたオシメだし。

と、これは前置き。
今日、書きたかったのは、孫のことではない。
姑のこと。
色々、思い出す。
戦中派なので、戦後派のわたしとは当然、時代的価値観は違う。
育った家庭環境も違うし、地域も違う。
旧態の家意識そのものの人だった。

女性が自立していない時代。
悔しい思いもたくさんしている。
家や夫への依存(権力を盾にする)から、子供への依存に移行する。
経済力がないから生きる術は、経済的には依存しかない。
だが、ものは考えよう。
依存しているのではない。
家族を経済面以外で支えている、大黒柱である。
経済が立ち行かなくなると、そんなことは言えなくなるが。たんなる理想になる。

大奥のお女中や、お姫様は、経済力無し。
武士も無し。いや、雇われの身だったから、お給料は貰えたかも知れない。
給料は、庶民からの税金。国民は統治料金を取られる。
統治料金の歳入の中には敵国からの戦利品や略奪金品も含まれているのだろう。
商人が経済力があった。
エリザベス女王だって、自らが、無から稼ぐお金は?
だから専業主婦だった姑も堂々としていればよい。
が、姑は理知的でもあり、経済構図が見えていたのだろう。
開き直ることはしなかった。
昔の女性は、みんなあんな感じ。

わたしの母は、姑と年齢は1歳しか違わないのに、全然、違った。
地域的なものや、生まれつきの性質、性格が違うのだろう。

2人の人生の先輩女性を身近に見て、色々思う。
2人とも幸せな人生だったんじゃないかと。
て、まだ生きているが、晩年である。

最近、苦難に直面したり、克服したりしている人の話しに接すると、涙が溢れる。
気の毒な悲惨な人に対しても。
以前は自分のことばかり。
自分で精一杯。
自分しか見えなかった。
谷に張られた綱を必死で渡って、他を見る余裕はなかった。
最近は歳のせいか、他人の境遇にも、自分のことのように感情移入するようになった。
だが、あまりやりすぎると自分の幸せを壊す可能性があるので、ほどほどに。
これまでが、あまりにも他人を見なさすぎた。
自分も年を取り、高齢枠で弱者に移行する可能性を感じ始めると、次に行く場所を整えようとするのだろう。
ちょっと前のお年寄りたちは、自分が次に行く先(あの世)に向かって、準備をしていたとわたしは捉えている。
毎日、お線香をあげたり、お経を読んだり、宗教行事に精を出したりしていた。
何もすることがない、自分は役に立ってないと感じるよりは、ずっと素晴らしい。
皆の健康や幸せを祈る役。
今は仏壇もミニマムだったり、なかったり、墓もなかったり、随分、様変わりしている。
お年寄りのこころの支えを見失う場合もある。
長生きしすぎると、プラン通りには行かない。
自分の健康を維持するだけが精一杯、生きるために生きることになる。
生き甲斐は、自分の健康?
健康オタク。それもまあよし。
では、健康に翳りが見えたら?
生き甲斐も失い、老人鬱になるのか。
心身が、ワンセット。
身体はガタがきて、頭脳も少々緩んでも、生き甲斐は維持したい。
でもセットになっているので、分離、切り離しは難しい。
信仰心であったり、強烈な趣味であったり、なんらかのこころの支え、生き甲斐が無いと、健康を無くした時に自分の精神を持ち堪える自信がない。

今から考えても仕方ないが、ほんの少しでも健康を害すると一気に不安の泥沼に落ち込むだろう。
健康や知力は絶対的なものではない。
無常。
そういうこと。
一昨日、夫との冷戦中に、般若心経の本を読んだら、退屈で居眠りばかり。
読む→居眠り→読む→居眠り
これの繰り返しで、最初のページから一向に進まない。
わたしには、やっぱり向いてない。
明日のことは、明日考えよう。

て、今日に引き続き、明日も孫Aをお預かりだ。






生きること自体が目的になる年齢

2020-03-02 | 老い
スマホ、画面にチラチラ広告。
レンタル電子漫画が多い。
一度見たものは、類似的なものが表示される仕組みなのだろう。

今朝は、ボーイズラズものと、不細工女子ものの二本を、無料立ち読みした。
ちなみに、公開されたばかりの映画「影裏」、切ないボーイズラブごころを綾野剛が目で演技していた。
女の子みたいな繊細な美しさ、清らかさ、脆さを表現しているなあ、、、と。
女の子に対するジェンダー思い込み、決めつけだけど。

不細工女子ものも、好きなんだなあ、わたし。
田舎で不細工でいじめられて、田舎から出てきて美容整形して、オシャレなショップで働く主人公。
「オシャレなショップ」と自分で書いた瞬間、昭和のニオイが、ぷ〜んとした。
ほかに書き方、あるでしょう?
昭和ズブズブのわたしには、これがお似合いだ。
というか、劣等感を感じる必要性がどこにある?
天皇陛下だって、皇后さまだって、生まれも育ちも、昭和ズブズブ。

まあ、それはそれとして、「オシャレなショップ」と書いただけで、その瞬間、すでにオシャレではないが、まあいい。
漫画ストーリー説明、回り道くねくね、ではあるが、その、オシャレなショップで働く、元、ダサい女性の物語。
第1話以後は、有料。当たり前。
なので、導入部だけ読んであとは想像、空想。
わたしは余程のことでもない限り、お金は絶対使わない主義。(ケチともいう)
(が、先日、姪っ子が使用していたLINEスタンプが可愛かったので、いつも無料スタンプばかりではどうかと思い、120円で購入した。
でもあんまり使っていない。無駄遣い)
広告には惑わされない、誘導されない消費者。
じつは、実際に描かれた漫画を読むより、イマジネーションで空想するほうが、ずっと面白い。
いろんな展開が出来るから。

若い頃は見かけが全て。
仕方ない。わたしもそうだった。
コンプレックスの塊だった。
だが、美容整形もせず素の顔で今日まで来ている。

若い過ち、誤ち、、、だ。
年齢を重ねると、外側が劣化する分、中身が充実する。
そうやってバランスを取る。
だが、中身も劣化する。
どうやってバランスを取る?
劣化した自分を愛することかなあと。
劣化して何が悪い?
誰かに迷惑かけました?

バスに乗り降りする時、モタモタして後ろの人たちに迷惑はかけることもあるだろう。
全力で頑張って乗り降りしている。これは、迷惑とは言わない。
迷惑だと感じる人がいるとすると、各人が自分のこころの狭さを自覚する、適度な材料になる。
全力でしている人に、全力以上を求めてどうする?

ただ、「わたしは全力でしているのだから迷惑だと感じる人が悪い」と、もし感じるなら、それはNG。
状況把握、客観の目を持たなければならない。
客観的に迷惑をかけているなら、どうなんだろう?

しかし、日本人は、他人に迷惑をかけたくない、と、頑なに、人の手を借りる公共サービスを拒否したり、自分1人で完結して、悲惨な結末を迎える人もいる。
抱え込まずに、甘えることも必要だ。
助け助けられる、互助会のようなもの。
出来る人が出来ない人を助ける。

だが、出来る人に負担が重くのしかかりすぎることは、よくある。
難しい問題だ。
バランス。

若者には年寄りの苦悩は理解できない。
昔から言われ続けていることだ。
かつて自分がそうであったように。

話はまたまた元に戻るが、、、
立ち読み電子コミック。
若い人向きだと思う。
なので苦笑することが多くても、致し方ない。
やがて、歳を重ねたらわかることでも、若いうちは、わからない。
そういう目で、価値観の相違や違和感、ギャップを楽しむのも、ひとつの鑑賞法だと思う。

目先のことに振り回されるのが、若さの特徴かなと。
達観している若者は、もはや若者らしくない。老成感あり。

物事を悟り過ぎると面白くないかも。
なんでも、「そういうものだ」などと片付けたら、動きが無さ過ぎる。
無駄なことを必死でするのが、妙味なんじゃないかと思う。
ちなみに、わたしは何にもしないから、これはいかがなるものか。

人にはたくさん同時にタスクがあり、タスクの優先順位をどう付けるかが、その人の価値観。
選択基準こそ、価値観の表れ。
ゲームで新しいキャラクターが登場して、忙しくなったと嬉しい悲鳴をあげている人もいる。
タスク上位にゲーム。
どんなものが上位に来るかで、その人の幸せ基準が推し測られる。

ちなみに、わたしの直近のタスクは、寝る前のインナーマッスル・トレーニングと、耳浴10分が加わった。
(※耳浴とは、先週、耳鼻科を受診して処方された液体薬を耳の中に数滴落としてしばらく耳を上に横たわり、じっとしておくこと)
楽しみでもなんでもない、憂鬱なタスクではあるが、自分のことなので仕方ない。
自分のタスクは、自分の身体を生き長らえさせること。
ついに、生きるために、生きることを目的にして生きている段階に移行している、入り口に来たのかと感慨深い。

(インナーマッスル・トレーニングは、体幹を鍛える、趣味関係のボディ作りのためであり、生き長らえるためではない)

生きるため以外に目的を持たないと面白くない。
生き甲斐は、「生きること」というのも、万人に共通するから悪くないが、その生き甲斐すら失っている人もいる。
そういう人々の暗い惨状を報道などで知ると涙が頬を伝う。

平凡そのもの。毎日が楽しい、今を楽しむ

2020-01-30 | 老い
毎日、素晴らしい写真と共に、凛とした文章を届けてくれるブログと出会い、感激している。
しかも毎日、無料で、安定した高品質のものに触れられる。
どうか、ずっと続けていただけることを願うばかり。

わたしの大好きなテイストである。
内容も、表現も。
わたしには真似しようにも真似できない。
憧れか、、、というと、また違い、現実の一部として感情移入している。
写真の感性も、もしわたしがそこにいたら、こういうアングルで、こう撮りたいだろうなあと、リアル感が迫る。
実際には、シャッターチャンスの捉え方が、いまひとつ遅れたり、ボケたりする。
わたしの脳裏に残る風景が色鮮やかに蘇る。
脳内疑似体験。 
今朝も、ほろりと涙を流した。
ステキな電子の贈りものをありがとう。
そして、ブログ村さま、ありがとう。

良いものに、ぞっこん、こころを奪われた後に、自分のブログを書くのはいささかエネルギーがいる。
まあ、わたしはわたしで別もんなので、それもありかなあと。
でなきゃ、生きていけない。


で、話は、個人的な将来へと想像を巡らせる。
高齢になったら、どういう生活を送りたいかなあと。

1)自分の生家に住むのはどうか?
無理。
例え、メンテを完璧にして、最新の設備を整えたとしても、ハード面は快適でオッケーだが、ソフト面がよろしくない。
買い物は不便だし、ふらりと外出にもイマイチ、近隣住民ともお付き合いなし、知り合いもなし。
(あ、父方の叔母が、ま隣に住んでいた。が、隣でも田舎だから遠い)
一日中、家の中に居るのなら、なにも遠い生家に住む必要はない。
あの生家を利用して、何かするのであれば、訪れる人やスタッフとも交流があるだろうが、わたしはもう関与したくない。
毎日、がやがやと人と接するのは、しんどい。
やる気なし。

2)駅前至便マンションに住む。
これは、あり。
どの駅か?
やはり知った顔が近くに居る、そういう駅か。
でも誰かと同居、シェアするのは嫌かも。
生活スタイル、スタンスの違いで摩擦が起きそう。
しかし、一人で、頑丈な鉄の扉を閉めて一切遮断し、引きこもるのも孤独すぎる。

3)老人ホーム
これは、ありかも。
元気なうちに自立棟に入居し、介護が必要になれば介護棟に移る。
自立棟の時は万が一の時しかスタッフは顔を見せないから、自室のプライバシーは確保できる。
万が一の、緊急時にも、お一人さまでも不安はないので、両方の良いとこ取り。

4)自宅
好きなように過ごす。
今のパターン。
定期的にヘルパーさんに来てもらう。
ただし、ゲリラ豪雨や台風、自然災害の時はただただ恐ろしい。
日頃の家屋メンテや備えが必要。

以上。
旅先で季節滞在、なんていうのもありかも知れないが、具体的に計画するほど、精神的にエネルギーや情熱が満ち溢れていない。

ダンスは自分でもうやめたほうがいい、と、セルフストップをかけるまで、踊る。
有終の美を目指し、美意識からも健康面からも、引退時はある。

あるいは、、、
季節の良い時に、夫の実家で、ちまちま骨董品探し。
今は、本でいうなら目次をざっと見て内容を知っているる程度。
一章一章、目を通してじっくり向き合うのも趣きがあるだろう。
だが、今はそんな気にならない。
歳がいって、老境に達したらそうしよう、、、と代々の人たちも、そう思いつつも、誰もせずに、この世を去っている。
口頭のみの、言い伝え。
わたしも、そうなる可能性は大いにある。
足腰が動かなくなっても出来そうな趣味だが、実際に動けなくなると気力もなくなるだろう。

それを見越して(かどうか意識はないが)、目についたお気に入り骨董品は、ちゃっかり自宅に持ち帰って、時々、手に取ったり、愛おしく見ている。
それは、骨董品に限らないが。

体が動かなくなったら、精神もダウンするだろう。
体が動いている今、体が動かなくなった時のシュミレーションをしてみても、精神的にも元気な今の想像では、お門違い、見当はずれの予想になるだろう。

趣味や余暇は、きっちり細かく予想できないとしても、住まいは大まかに枠として決めておきたい。
器が決まると、入る中身も決まる。
しかし、海の見える場所がいい、とか、そんな希望は特にない。
自然に囲まれて育ったから、のびやかな、おおらかに過ごせるところがいいけれど。

逆の場合もある。
中身に応じて、器を決める。
しかし、この歳になると、中身は減少する一方。
濃度が高まり、カサが減る。
だとすると、器は大きくなくてもいい。
だが、小さな器は狭苦しい。
余裕がほしい。
自分を放牧したい。
認知症が進むと、放牧もままならず、外から鍵をかけられるのだろうが。

あれこれ、半歩先の自分を想像して、進路を選びたい。
ヨレヨレの自立出来ない自分を想像して進路を選ぶとしたら、介護付き老人ホームに決まっている。
それは、楽しくない想像だが、まあ、避けて通れないので、行き先コースの通過点の1つである。

結局、楽しい想像としては、どうしたいの?
やりたい事をしようと思えば出来る今を存分に楽しみたい。
そして、老境に差し掛かってからしたいと思っていることも、少しだけ具体的に前倒しでスライドして、取り掛かってもいいかなあ、、、と、うすぼんやり、アタマの隅っこで思っている。
老いと共に歩く、落ち着いた時期。
安らぎの満ち足りた時を過ごしたい。
でも、今はまだ机上の空論である。
なぜかというと、健康な今、十分満ち足りている。
これ以上の幸せはないと思っている。
健康でなくなったとき、同じようには思えないだろう。
が、少しずつ老化が進み、健康を害してきたら、気持ちも変わり、対応していくと予想している。
(かと言って、事態はどう急変するかは、神のみぞ知る、、、である)

必ずそういう時は来るということを知りつつ、実際にその時になれば、その時、考えよう。









黄金期、黄昏ている暇はない

2019-11-28 | 老い
雪がちらちら降るかのように、庭の紅葉がパラパラ降る。
動画撮影したい気分だ、けど、毎年のことだし、わざわざ動画を撮るのもいかがなるものか。
秋の光景をリアルタイムで楽しもう。
しかし、落ち葉、どんどん増える。
オー・ヘンリーの「最後の一葉」のような哀しさはなく、大量の葉っぱ。ざわざわざわ。

さて、いきなり、、、
天然との対峙。
日本にいて、近所に若い世代の近親者が住んでいて、(あ、家に同居人もいた)、さして重要な社会的役割も、個人的役割も課せられていない場合、アタマはどんどんお花畑化していくだろう。

近所に80歳を超えたご夫婦が住んでいる。
30年以上前から知っている奥さんは、よく笑う明るい女性だが、近年、認知症と診断されている。
軽いものだと思うが、旦那さんは、その認知症診断に首を傾げている。
「どう見ても普通で、よくしゃべり、よく笑い、テレビも見て、機嫌よくやっているのに、なんで認知症と診断されるのか、、、」と、なかば嘆きにも近い。
だが、最近のご主人の様子を見ると、わたしが思うのには、ご主人も認知症傾向が出て来ている。
二人して、家庭内で認知症になると、外にはわからない。
そういう老夫婦の実数を把握できないだろう。
深刻な社会問題である。

それはさておき、お花畑になり放題のわたし。
とても機嫌のよい赤ん坊みたいなものだ。
お腹も減るし、やりたいこともする意欲はある。
ただ、やらなくてはいけないことの自主規制枠をどんどん狭め、やらなくてもいい枠をどんどん広げていっている。
毎日365日、お花畑に居たい意向である。
にもかかわらず、時折、お花畑から引っ張り出されるのである。
しかたない。
ちゃちゃっと義務をこなして、またお花畑に戻って、まったりしたい。

人には二種類ある。
回遊魚タイプとお花畑タイプ。

わたしのダンス練習相手。
隅から隅まで、ダンスの一部分を除いて、全くわたしと接点がない。
理解できないし、しようとも思わない。
理解できない部分を取り出して、話し合ったり改善したりするには、人生の残り時間が少なすぎる。
なので、目をつぶって理解しないまま丸呑みする。
時々、お腹の中で暴れているが、致命的な症状でもなければ、ほっておく。
共通の部分だけで、つながる。

ちなみに、、、話は違うが、(言いたいことの根は同じ)
メキシコの遺跡、学者が研究し尽くしているが、諸説ある中で、新説は、採択されないらしい。
今更、新しい学説が出てくると、これまで積み重ねられてきた研究や説を翻すことになる。
そんなことになると、膨大な蓄積がパーになってリセットされ、また一からは、大変。
だから、新しい説は、認められないそうだ。
この話をメキシコの現地ガイドさんに聞いて、う〜んと唸った。
それぞれの場には秩序があり、秩序を維持するための方法がある。
もちろん、幾度となく秩序はぶち壊され再建されていくのが歴史なんだけど。

80歳を超えると内臓に起因する病気の手術をしないで、薬で持ち堪えるほうが無難。
それと似ているのか?
守りの姿勢。
若き血沸き肉躍る人には理解できないだろうし、自分もそうだった。
姑に、過去のある日、「若いあなたにはわからないだろうね。歳がいく哀しみは」と言われ、嫌な気持ちになったことを覚えている。
歳の若い人にわかってもらうのは無理だ。
歳がいかないとわからないことがある。

と、まだわたしは60代なのに、気分はすっかり80代後半。
あと10年は黄金期を楽しみ、次の10年は黄金期は終わり次への移行期。
徐々に景色は変わり灰色へとスライドする。
その後の時期は、身体だけ生きていると予想する。
あの世との移行期を迎えるが、自分では、きっと、現状を自覚してないと思う。
今から家族と終末期の医療について話し合いましょう、と政府は推奨しているが。
(吉本に発注した啓蒙ポスターはボツになりそうだけれど)

順調なら天寿を全うする終末期を迎えるという想定だが、そんなにうまくいかないかも知れない。

話を戻す。
今更ながら、火薬庫の火種になりかねないことをほじくり出しても、スッキリするかと言えば、ろくなことはない。
持病を抱えるほうが、慎重に行動する。
だが、羽目を外したい時は外せばいい。
自分が楽しめそうな道を直感的に嗅ぎつけて、実践するといい。
が、人によっては、ろくでもないことばかりを直感で選ぶ人がいて、お気の毒としか言いようがない。
なんでこう上手くいかないことばかり、、、は、偶然ではなく、必然なような気がする。



続・老婆の、わたし

2019-11-08 | 老い
あれから考えた。
雨戸を開けるのに1時間、閉めるのに1時間。合計2時間。
開けなければ暗い一日。
いっそ、開けっぱなしにしてはどうか。
ずっと明るい。
夜には自然に暗くなる。
だが、雨戸が窓がわりなら、開けっぱなしには、ちょっと問題がある。
冬は、寒い。
雨風の日は困る。

天気の良い、気候の良い時は開けっぱなしにする。
冬は、閉めっぱなしにする。
あるいは、天気の良い日だけ開ける。
メリハリ。
毎日、決めない。
生活は日々、動く。
不快な日もあり、快適な日もある。
一日中、寝ている日もあれば、やたら興奮しまくる日もある。
見通しやプラン、年間計画が大事?
そんなものは、もはや老女のわたしには要らないかなあと。

老女の非活動のどこが悪い?
毎日イキイキしていなくてもいい。
一年中、くさくさしていてもいいではないか。
なぜ、優等生的な生活指導を受けなければならないのか。
先入観を取り除きたい気持ち、満々である。