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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

外国で行方不明に

2023-06-07 | 老い
昨日、帰路、駅のバス停で列に並んで待っていた。
すると、見知らぬ高齢女性が、わたしに「こんにちわ」と言った。
表現としては主観を入れず標準的に「高齢女性」と書いたが、わたしには「老婆」という2文字が浮かんだ。
なので、、、失礼かも知れないが、、、この人は認知症気味の人で、見知らぬわたしに声をかけているのだろう、と思い、首をほんの少し前に傾け、「どうも、、、」程度の無言の挨拶をした。
数秒?数十秒後に、ん?待てよ?ひょっとして知っている人かも?と思い、「こんにちは」と言って、顔をまじまじ見た。
昔、見たことがある顔の原型が、じわ〜っと目の前の顔から浮き出て来るような気がした。
じろじろ、じわじわ、誰?誰?この人、、、
目の色はお年寄り独特の薄いグレー(シベリアハスキーのような)、目の周りは少し赤みを帯び、ピンクとグレーに近い透明感のある顔の皮膚(肌)とのコントラストを成し、帽子からのぞく髪は白髪ボサボサ、、、
と、顔の一つ一つを深く読み込むように見ていると、、、自然にわたしの口から出た。

「○○さんですか?」
脳の奥深くで考えたわけではない。
一定の時間(数秒)で、目の前の顔、風体から、時間の経過の予想変化を割り引いて、すっと名前が出てきた。
たいしたものだ、わたし。(自画自賛)

うち(自宅)の斜め前(2軒隣り)のご近所さん。
あらどうもどうも、とおしゃべりがはじまった。
面白い話がいっぱい。
彼女は90歳、ご主人は93歳ぐらい?
わたしの母世代。
彼女の旦那さんが、認知症が始まって困っているらしい。
そもそも10年ぐらい前からその前兆はあったとのこと。
スイス旅行にきょうだい夫婦2組で行った時、一人で荷物を置いたまま、行方不明になって大変だったらしい。
現地の警察にも連絡し、家族は足止めになり、丸1日、同行したきょうだい夫婦は待機して自由行動ができなかったという、その時の不満が噴出する。
ご主人は一人で楽しく観光していたそうだ。
つい最近も娘さん家族の誕生日会を開いたのに、出席したご主人は、そんなことは知らぬ存ぜぬと言い張る。
で、その時の写真を見せても、知らないというスタンスは崩さない。
わたしの実母もそういうこと、あるある、だ。

いやはや、大変。
だが、この○○さんは面白い方。
話がきちんとしていて、わかりやすく知性もユーモアもたっぷりなので、聞いていて楽しい。
色んな最新エピソードを披露してくださる。
昔の知人がお互い老化して顔がわからなくなり、つい最近、待ち合わせ場所のホテルのフロントに聞き合わせに行ったところ、二人ともがわからず聞きに来た。
目は細くなり、あんなに美人だったのに片鱗がないと。
お互いがお互いを、変貌した姿を認識できないので、待ち合わせても、他人の力を借りないと出会えなかった、と笑顔で仰る。
いろんな、あるある話、話術に長けている。

難点はただ一つ。
聴く一方に徹しないといけない。
オーディエンス(観客・聴衆)となって、楽しいお話をゲラゲラ笑いながら聴く。
だからそれで結構なことなのだが、質問したり、話の流れを変えたり、こちらから何か言ったりしても、一向に耳にも頭にも入らない。
一方通行のラジオやテレビだと思えば良いわけで。
ただし、チャンネルを変えたり、消したりは出来ない。

いくつになってもユーモアは大事だと感じる。
お人柄が滲み出る。
ただ、歳を取ると、外見は確実に老いる。
肌の美しい、この方、依然、肌は美しいままだが、年齢は正直だ。
わたしの今いる実母と完全に重なる。
年老いた人々は次々に歳の順に他界し、実母はわたしの家族親戚(親世代)で生存している貴重な高齢者である。
そりゃそうだ。
わたし自身が高齢者なのだから。



恥を恐れず前向きに

2023-05-17 | 老い
あまりにも長い前回の記事。
ざざざざーーっと、スクロールしていただければ幸いかと思います。

わたしは何かを考える時、書いて煮詰める癖があるので、行き着くところまで書く。
あくまでも、結論は何?が知りたいために、書く。
なかなか結論に導けない時は、、、
ただただ駄文がダラダラ続く。
というわけで、読み手側のことは、全く考えていない、わたし以外の人にとっては疲れるブログになっている。
自分を救うための、サービス精神ゼロ、ブログ。

さて。
それはさておき。
わたしのオモチャはやはり文字。
iPhoneに元からくっ付いている別機能で、自由に何でも描く「フリーボード」というものがある。
フリースタイル、フリースペース、文字も、絵も写真も、形も色とりどり、なんでも描ける、、、のだが、ちょっと触ってみて、やめた。
なぜなら、、、スマホ作業だから。
パソコンならいざ知らず、スマホは画面が小さい。
(背中を丸めそうな)一定姿勢や、連続して画面を見続ける目が気になる。
どこでも移動中に作業出来るが、バッテリーも減るし、そんな作業をわざわざ外でするなんてことは、よほど時間を潰さなければならない事態に遭遇しなければ、やらないだろう。
ブログを始めた頃なら自分で絵?らしき落書きを描いていたが、あれはパソコン操作だったし、今は面倒でやらない。
やるとしたら、簡単、単純、文字と写真。
これは実に良い便利なオモチャである。

が、オモチャで遊ぶほど、わたしは退屈していないので、何か書きたいことがないとつまらない。
自分の関心事や思いを一気にアウトプットしたい。
だが、無知丸出しがバレバレのことは文字で残したくない。
公の場ではない非公開のプライベートな場で、ぺらぺら喋ってお終い。
政治や宗教、国際事情に対する、怪しい知識からの薄い軽薄な感想を一気に一方的に喋って10分?ぐらい(体内時計カウント)、相手は猫でも仏像でも何でもよいが、一応、有機物が対象。
目の前にいる生きた人間が相手であるが、相手は聞いてないので、引っかかりがないため、わたしも気持ちよくぺらぺら捲し立てることができる。
たまに、どう見ても(どこかに載っていた情報の受け売り見え見えで)全くわかっていない人が社会を語る話に、付き合うことがあるが、わたしは話が通過して終わるのを静かに待っている。
が、家族を相手にぺらぺらはやらない。
なぜなら、家族にうんざりされるのが見えているし、わたしとしては、うんざりされたくない思いがある。
特に娘たちを相手には、もうあまり話さなくなった。
彼女たちは、わたしの言っていることを理解しようという気持ちで耳を傾けるのは疲れるし、全く無視されているのに(明らかに聞いていないのに)、一方的に話すのはわたしは嫌だ。
もっと歳を取り、まったく人のことなどどうでもよくなったら、一方通行であろうがなんであろうが、自覚なしに喋るだろう。
娘たちも、たまに接して介護親孝行なら聞くフリをしてくれるだろう。

かと言って、ブログはちゃんとしているかというと、全くいい加減だが、主観の内容が主なので、正解は一人一人異なる。

若い人はいいなあ、成長は眩しいなあ、と喜んでいたのも束の間、
アブラの乗り切る年齢に差し掛かかった子供たちとは、彼らが関わる最新の出来事にも理解も追いつかず、話にも着いて行けず、もう接点もなくなりそうだ。
彼らの目を見張る成長&活躍、減少する接点、、、。

で、お年寄り(同世代)同士で、お互い聞いていない、好きな話を順番に代わりばんこにするのが、無難で平和だと感じている。
やはり同世代の仲間は貴重だ。

若い感性や知性の輝きを浴びるにも、受け手自身の感受性、理解力が劣っている現状を、若い側も老いた側も感じている(はず)。
かと言って、理解できなくても、たまには刺激を受けるのは脳の活性化につながる。
恥ずかしいと尻込みせず、わからなくても挑戦するのは良いことだ、と思う、最近のわたしだ。




わたしの愛の行方

2023-05-16 | 老い
わたしのブログは著しく宙ぶらりん。
等身大の自分を軸に書いている。
が、等身大が、あっちこっち極端な要素を抱えて分裂、分断していて、まんなかの平均値を取ると、わたしではなくなる。

昔、昔、、、
わたしが若い独身の頃、、、
お付き合いしていた相手を見るとよくわかる。
自分に相応しい相手というものを勝手に自分で想定して設定したため、歪みが生じていた。
お付き合いしても、瞬時に壊れる。
つまり、続かないのだ。
お付き合い経験なし、と同じ。
そもそも、お付き合いの定義がおかしかった。変。
お人形のように血が通っていない。人間なのに。
付き合うというのは、共通の何か、接点があり、お互い好意を持ち合い、共鳴し、進んでいくものだと思う。
結婚や恋愛になると、途端にギクシャクする。
その人と結婚する気がない。
逆もある。
わたしがその気満々でも、相手はその気がない。
なので、深い関係にはまるでならない。
電車は信号待ちで止まったまま。
付き合ってその結果、結婚があるのが順序。
なのに結婚を前提とした途端、がらがらと間柄が崩れてしまう。
遊び期間がない。
今、思えば、恋愛コースに限ることなく、広くお友達や仲間でも良かったのに。

人間性そのものを見ようとしなかった。
というより、そういう目が育っていなかった。
未熟にも程がある。
人に責任を転嫁して気持ちを楽にしようとするとすれば、親に洗脳されていた。
洗脳を解いて自分独自の道を歩き始めるのが自立の第一歩なのに、それをしなかったのは自分である。
なので、その方面の情緒が未経験、未踏のまま今日に至る。
もう枯れているから、火をつけても燃えない。
ではあるものの、とても良い調子だ。
嘆くわけでも後悔するわけでもない。
自分が歩んできた道を全面肯定している。
理由は、、、今が良ければそれまでは何でも良い。
懺悔とか、しない。

ただ、老化に対してはアタマの中だけでの想像や予習、予備知識だったので、実践を積み重ねたのではないから、ある日、突然、教室の引き戸をガラっと開けたら、頭から金属製の洗面器が落ちてきたようなかんじ。(昭和のギャグ)
落ちてきたのは、チョークや黒板消しではなく。

心構えがちゃんと出来ていなかった。
若い頃は、若さを享受しながらも、若さを失った先の自分を想像して、あまり若さ故の勘違いで天狗にはならないように自戒していた。
今度は、同じ若さでも、また色合いが違う。
老年へ。
前回は、若者から中年、充実期への以降。
それを超えたこの段階で、いよいよ中性になる。
外見も中身もダウン。老化。
へんに自分の特性である「女性」を意識しても、肉体とはかけ離れたところで「女性」。
女性は灰になるまでオンナだと言われているが。
女性としての肉体が不在なのに、魂だけ女性だなんて、、、。
LGBTQの概念、意識を一から学んでいるような気になっている。
女性でも男性でもない。老人的中性。

さてLGBTQ。
生まれた時の体が女性で、心が男性の人。
またはその逆。
女性の身体、女性の心で好きになるのは同性の女性、あるいは異性の男性、あるいは両方。
元○、現○、好きになる相手は同性または異性または決まっていない。
相手も、元○、現○または、同性または異性または決まっていない。
・・・ややこしい。
何通りのパターンがあることやら。
数式が必要だ。

整理すると、自分に関しては、
生まれた時は体は女性で、見た目も女性であることを好み、自分が好きになる相手は異性(男性)。
その相手は生まれた時の体は男性で、見た目も男性であることを好み、好きになる相手は異性(女性)。
これが基本情報だが、生まれた時の体が女性である事実は不動だが、老年になって体は元女性であっても女性としての機能は衰え中性に近づくのだが、精神的には女性のままであり、好きになるのも異性(男性)。
あまり変化や問題はないように思われるが、一つだけ変化があり、体が元女性で中性になったこと。

異性(男性)が異性(女性)を好きになるとすると、わたしはその相手範疇から、はみ出る。
元男性が女性になった現在女性という人と同じグループに属する?
肉体も、外側だけの形を変えても、臓器までは取り替えられない。
病気で心臓や腎臓移植する人もいるから、子宮を移植して女性になるケースもあるのだろうか?
健康な子宮を取り出して他人から移植されるよりも、健康な子宮を本人の身体に入ったままお借りして子供を生み出すほうが自然な流れ。
肉体的に自分が(例え移植されたものでも)子宮を持たなければ完全に女性になった気がしない、という超こだわり屋さんがいるとしたら、、、最新医学と倫理との擦り合わせをして検討していただきたい。
基本的に病気を治す目的ではない場合は、倫理的な側面から臓器には手を付けないとされている。
健康な人の健康な臓器を、病気の人に移植することはあっても。

とすると、老女になると、臓器は女性特有の臓器が老化しただけで、そのせいでホルモンの影響を受けて女性らしさは失われた中性に近づいていく。

ところで、
体は元女性、現在中性の女性を好きになる相手はどんな人か。
女性で異性が好きな場合、相思相愛になるには相手は男性であるのが望ましい。
元女性の男性でもオッケーか?
いや、わたしの場合、性転換した人とお付き合いする嗜好はまるでない。
相手からオファーがあれば、その時考えるとしても、普通は元・性同一性障害の人同士がペアになるほうが、すんなり行くと考える。

もし、元女性で現在老化女性のわたしを好きだ、素敵だと思ってくれる人がいれば、元女性であっても、バイセクシャルの人であっても、トランスジェンダーの人であっても、何でも良いのだが、、、それ以前にどんな人であっても恋愛感情を抱いたり、肉体関係に移らないと想像する。
男女に限定されない人間愛に移行している。
性別の垣根は超えてしまい、性別そのものが消滅している。
それが老化なのか。
かわいいおばあちゃん、元女性。

わたしが愛を注ぐ相手は、世界中の生きとし生けるもの?
とはいうものの、宗教家ではないので無理だ。
目指そうという気持ちも全くない。
無理して精神を高めたり広げるのではなく、自然派、土に還る派か。
大して豊かな愛をたっぷり持ち合わせているわけではないので、大きく手を広げても愛が自然増しない分、薄まるだけ。
それなら有機野菜を育てるように、自分の滋養を土に還して、地に足ついた余生を送りたい。(わかりにくい説明、自分だけがわかって陶酔系)
自分を濃縮させたエッセンスをぽとり土に垂らす。
液体にならなければ、気化するか、小さく個体にまとめて土に埋める。

出来の悪い偽瀬戸内寂聴みたいなかんじ?
言い過ぎ?
が、決して今東光ではない。
世俗に背を向けるのではなく、身に張り付いた垢は無理やり剥がさず、強制的に除去しようとせず、そっと騙し騙しそのままにしておく。
無病息災ではなく、一病息災。


本日の記事、長すぎました。
自分の人生もそう思うことだろう。





おばあちゃんの幸福

2023-05-12 | 老い
おばあさんになった、わたし。
「祖母」には10年前から、なっているが、今、新たに、実質的老女に格上げされた。
格下げではなく、格上げである。

自分の腕をふと見る。
腕だけは細い。
肉が付いていない細い腕。
細かい「和柄」(日本の伝統的な柄)かと思うような、幾何学模様がカサカサ現れている腕の皮膚。
顕微鏡で皮膚を拡大したかのごとく。
ところが、、、倍率1倍。

これは、全然、自虐表現ではない。
事実を事実として書いている。
それに引き換え、
83歳のデビ夫人の美貌!
国会で生のまま、ほうれん草?をムシャムシャ。(CM)
お見それしました。
おそらくもう、何も思い残すことはないと思う。
やりたいことは、やり尽くした感がある。

市川房枝、沢村貞子、、、その路線から時代は、森光子を経て、草笛光子、さらにデビ夫人。
歳を重ねても美しい女性を目標に、憧れに、女性たちは将来を見る。
しかし、女優でもない、文学者でも政治家でもない一般人は、頑張らなくてもいいと思う。
そう思い、アンチ・アンチエイジングをわたしは一人唱えていた。
ところが、、、時代は20年も寿命が伸びて人生100年。
あと20年は、若く活動しなければならない。
それから、寝たり起きたり、健康寿命が揺らぎ始める。
なんと、長いことか。

和柄模様の皮膚に感嘆(マイナスの)している場合ではない。
寝たり起きたりを30年も続けるわけにはいかない。
まだもうひと踏ん張りしなけばならない、そんな歳。
でも、ひと踏ん張り、したくない。
シワシワでよい。だが、まだ、年齢が若い。
困ったものだ。

若い皆さんは、将来、一人につき一人の高齢者をおんぶしなければならない。
重い。気の毒。

かといって、姥捨山は令和の時代なら虐待、犯罪。明治でも昭和でも犯罪だ。
老人鬱なんていうものもある。
歳が行って生産性がないことをマイナスに捉えては、明るく生きていけない。
人間はだれでも生を受けたからには、老いる。
そんなことを嘆いていては、せっかく生きているのに、かえって罰当たりである。

ではあるものの。
今回の旅で思った。
半世紀近くも前に造られた、アメリカのアリゾナ州のサンシティのように、高齢者が集う街があればいいなあ、と。
快適なのは良いが、その一方で異世代間コミュニケーションや刺激がないのがネックらしく認知症などの弊害もあるようだ。
受け身だけではなく、積極的にキャリアを社会に還元できるような仕組みが作られているとか。
なんだか、ちょっとわたしにはピンと来ない。
理想的すぎて、現実味がない。

高齢になるとお金のあるなし、ではなく、好奇心があるなしがポイント、重要らしい。
両方ない人は?
と、憎たらしいことを言ってみても始まらない。
お金がなくても工夫すれば楽しく生きていけるようになっているとも思うが、引きこもりがちな孤独、独居の人には、絵に描いたようようには行かないのが現実かも知れない。

わたしは、政治家ではないし、高齢者向け美容家でもないので、はっきり言って、広く浅く遠く、自分と関係のないことには興味はない。
とは言うものの、自分の幸福の定義を自分で確定すると、幸福になれるそうだ。
だがしかし、実際のところ、そうそう定義出来る人は多くないと思われる。

さっそく、わたしの先ずは一つ目の課題は、、、見た目の老化にどう向き合うか。
中身もしっかり老化している。
自分の目標、対策としては、好奇心を持ち、積極的に活動しないことには、老化をそのまま引き受けることになる。
ではあるが、皮膚へお高い美容クリームを購入する気はゼロ。
皺にヒルアロイン酸注射をする気もなし。
フェイス、リフトアップもしない。
若い人が見ると老婆に映るだろう。
いいの、いいの。
老婆を卑下する自分には決してなりたくない。
誰か他者に認められたい欲求もない。
ただ一人、自分が自分を肯定したい。

さて、肯定するために、何をしようかな、、、と、、、
お天気、快晴、太陽ポカポカの一日を外にも出ず、コーヒーとFMラジオで終わらせようとしている、わたし。

言い訳は用意している。
明日、次女一家(超こだわりグルメ娘婿が頭痛のタネ)が晩御飯を食べに来るので、今日は目一杯サボっている。
サボりまくっている。
ああ、気持ちよいサボりタイムだった。

と、皺をまた増やしているが、良いのだ。
自分の幸せは自分で決める。
毎日が楽しければいいそうだ。
そう著名な宗教家が言っている。
サボる時にはその宗教家の教義?をいただく。
サボらない時は、それはそれでまた良し。
なんでもよい。

わたしにとって、幸福とは、、、限りなく自分を甘やかすこと。
だが、脳みそが溶けるのが弊害。
良いことばかりを望むのは欲どしい。
一つでも良いことがあれば、良い。


すごく老けて愕然とした

2023-05-10 | 老い
さて。
旅の話を書きたかったのだが、またの機会に。
トップ画像に、南国写真はずっと続くが。

写真と言えば、わたし、マスクを取った顔、表情筋が破滅状態で、写っている。
孫たちとの手作りブレスレットや、シーサーを使ったオブジェ作りの店でスマホ撮影したものを、家族写真共有アプリに長女がアップしていた。
その中の一枚を目にしたところ、姿勢といい、頭髪といい、表情といい、あまりにもわたしのおばあさんぶりに驚愕、落胆したので、先ほどアプリからの削除をお願いした。
たぶん、なかなか削除されないだろうけれど。
数年ぶりに見た自分の生写真が、想像を超えて老けていて、それはそれはもう、、、現実を直視せざるを得ないのだが、、、直視出来ない。受け入れられない。
手っ取り早い安易な方法は、直視しないで、写真をなかったことにする。
削除してもらう。そして忘れる。
現実が消えたわけではないのに。

日頃から、アンチ・アンチエイジングを自分のブログで主張しているわたしなのに、朝令暮改。
自分の老いを真正面から受け入れることが出来ない自分と、どう向き合うか。
これからの課題になりそうだ。
理想ばかり言っている自分、、、現実との乖離、、、ああ情けなや。

もう一枚、11人全員で記念撮影した写真があるのだが、これがまた強烈にわたしの顔がブサイクで、大ショックを受けた。
写真写りが悪いのだろう、写真の撮影の仕方が悪いのだろう、と思ったが、他のメンバーは本人と写真の写りは同じ。
わたしだけが実物とかけ離れて特別ブサイクに写ってるいるわけではないという客観的証拠を前に、シクシク泣いている(胸の中で)。
突然の老女の出現に、これ、わたし?と、おろおろしている。
これからは、老女(見かけ)に自分を合わせるか、あるいは、表情筋を鍛えて(顔の)巻き返しを図るか。
今のままでは見かけと意識が一致していない。
(頭脳能力が低下している自覚はあるが)
悲しい情けない擦り合わせである。
情けないと思うのであれば、見かけを若返らせなければいけない。
だが、見かけにとらわれ、ジタバタ執着するのは不本意だ。見苦しい。
とは言うものの、見かけが自分が思っている以上に老けていることだけは事実なので、これからは少し(調整するか納得するか)自分の中で変化があることだろう。

努力して見かけを磨くか(自然の摂理に抗って)、自信を失くして中身が更にゆるゆるヨボヨボになっていくか。
中身もかなり記憶力や理解力が低下している。
それは日々、はっきり決定的に具体的に知る出来事に触れ、中身も老化しているのはじわじわ認識済み。
それに伴って外見も老化していたことに対しての驚き。
なにを今さら。知らぬは自分ばかりなり。

旅に出て、写真や行動で、自分の老いを強烈に自覚した。
普段、日常、何もないと自覚する機会がないが、非日常の場で、自分の変化が目に見えることがある。
マイナスの変化なので悲しいが、事実は事実である。
悪あがきはしたくない。
が、まだ、写真はつい最近のことなので、感情が追い着いていない。
昼行燈を地で行く。

徐々に(マイナスの)変化に慣れていくのだろう。
新しい自分を受け入れるには、時間が必要だ。
しかし思うに、このブログ内容、思春期の子供と大人の間を、成長する肉体と未熟な精神の不一致プロセスを、身体とこころが行ったり来たりで揺れ動く若い人が悩むようなこと。
そんなキラキラ時期ではなく、衰える肉体、能力と、自意識の間で揺れ動く老女、、、フレッシュさがない、かわいくない、、、。
甘酸っぱさの代わりにあるのは、渋さを通り越して、苦さ?塩辛さ?
だが、これは、生を受けた生き物の摂理である。
自然の法則を前には太刀打ち出来ない。

そう言えば、70歳超えた母(当時)が、シワがあると嘆いていたのを、あきれて聞いていたのを思い出した。

楽しい旅の話を書こうと思ったのに、なんでこうなるのか。
次こそ、旅のエピソードを書こう。
(当てにならないが)


退屈すぎて

2023-04-24 | 老い
この頃、ぼかっと空き時間がある。
ほとんど自由時間なのだが、自由時間と自由時間の間に、空きがある。
この空き時間を持て余している。
さあ、次は何をしようか。

以前ならすぐに次の行動に移っていた。
せいぜい、時間が空いてもコーヒーを飲むぐらい。
ところが、、、
最近は違う。

ごはん、、、もう食べた。
コーヒー、、、飲みすぎて胃が痛い。
お菓子、、、食べ過ぎて体重増加中。
TV、、、面白くない。
スマホ、、、ほぼ中毒、依存症のため、自粛。
目にも悪いし。

ということで、ぼーーーっとしている。

去年はこんなこと、なかったよね?
去年の今頃は何してたんだろう?
ダイアリーをチェック。
よくわからない。
一昨年の今頃なら、すごくよくわかる。
5番目孫が産まれた年。
バタバタ、バタバタ、動きがあった。

ひょっとして、何も気になることがなくなり、脳がふやけてしまった?
それはあり得る。
幸せボケ。

ストレスがある時は、ストレス状態でない時に思いっきり自分時間を貪り満喫し、次のストレスに備えようとする。
が、次のストレスがないことが続くため、脳がサボる。構えない。備えない。
あ、別に頑張らなくてもいいんだ、と。
たぶん、これ。きっと、これ。

今、読んでいるFIREブログでは、シリーズで仏教の解説を連日されている。
科学者の実験を踏まえた実証的理論も含めて、凡人にわかりやすく解説してくれるので、大助かり。
難しい専門書を読まなくてもよい。
というか、読めない。アタマ悪くて。
数秒後に眠りに落ちるのが見えている。

ちなみに、この仏教理論、得度?した人からも何度も教えられたことがある。
僧侶になれるけれど、なっていない一般人だった。
その人自身が自分の人生の参考にした文献を見せてくれたり、目指す境地を実践している人の書いたものを見せてくれたり、わかりやすく何度も説明してくれたり、、、で、わたしは頭の中には薄らと入っている。

人は自我などない、ということ。
自分の意識や意志で行動しているのではない。
無意識で導かれるままに行っていることを、あたかも自分が考えて選択してやっていると勘違いしているそうだ。
最初に聞いた時は、そんなことはない、自分で考えてやったのだ!!と反発したが、色んな方面で色んなものを読むと、同じことが書かれている。
どの人も同じ仏教の教えの一部分を取り入れたのだろうか。

ところで、、、
これからユングの心理学を読もうという、ブログ村エッセイのブロガーさんを今朝、初めて見かけて、ブログを読んだ。
自分の意識と無意識の間を探ろうと、ユングに挑戦するそうだ。
この人は、わたしと共通点がいくつかある。

天然と言われるが、自分には自覚がないこと。(人とズレているらしい)
やりたいことはほぼやったので、自分が知らない部分の自分を発見してみよう、と、解析に挑む。

わたしは、あまりその、無意識の自分を知る行為はしたくない。
最近は、うんざりするほど知った。
知りたくないのに。
もっと知るのは怖い。
暗黒の沼にズルズル引き込まれていくようで。 
なので、あえて意識的に必要もない時は、無意識の世界を覗かない。

必要な時とは、、、(これが大事)
あれ?ここに置いていたアレがない!
置いてから1メートルの間になくしている!
どこ?どこ?どこ?

発見した時は安堵する。
特に不可抗力の場合。
うっかり床に落としていたり、隙間に入り込んでいたり、何かの陰に隠れていて見落としていたり、、、。
自分一人の場合は、納得できる。
あら、また、不注意。と。

問題は家族を巻き込む時。
特に次女とのやり取りは最悪。
二人のうち、どちらが行ったのか?
わたしじゃない、と、どちらも主張するが、絶対的、物的証拠として、その物は右から左に、あるいは、上から下に、明らかに位置が変わっている。
これがじつに厄介。
精神の病を発症する入り口になる場合もあるかも知れない。
が、いつものことなので、突き詰めずに曖昧に放置する。
天然力を発揮する。

と、仏教やユングを引き出すまでもない、泣き笑いの天然の毎日を送っている。



今日も明るく太々しく

2023-04-16 | 老い
蝶ブログ、過去記事に、またまたどなたかの足跡。
4年ほど前の、姑の病気と悪戦苦闘していた記事である。
老化と病によって、脳が壊れかけた姑。

聞きたいことだけが聞こえ、見たいことだけが見える。
聞きたくないことや見たくないことは、一切聞こえない、見えない。
そんな状態の人に、何を言っても、何を説明しても、何を提案しても無駄。
自分が思い込んだ思考だけしか、脳が動かない。
同じ目線に立ち、相手の気持ちになり、こころに寄り添い、、、なんて菩薩みたいなことをするなら、相手を、見た目の可愛くない壊れた老人形だと思えばよい。
まじないをして、老人形をかわいい姿に変えるのも良いが、魔法使いでないと出来ない。

わたし自身もその予兆はある。
壊れた予告のようなものを日々、断片的に感じる。
認知機能の衰えである。
出来ると思っていることが出来ない、ほんの昨日まで出来ていたのに、1ミリ、足が昨日より上がらなくなって、モノにぶつかる。
もの忘れは、冷水シャワーを浴びるような気分。

一昨日、マイナンバーカードの電子証明書、有効期間が切れたため更新手続きをした。
この手続きは、役所で対面でしか出来ないらしい。
パスワードをしっかりメモして控えて現場に臨んだが、窓口で、あれれ?無い、無い、、、と焦った。
何度も足を運ぶのは嫌だから、あんなに厳重にチェックして用意したのに、、、
4枚入れた用紙が、4枚ともあるのに、肝心のパスワードがない。
しつこく、あちこちをほじくり出して探していたら、窓口の係の女性が、「パスワードは初期設定できますから大丈夫ですよ」とわたしのモタモタに痺れを切らして言った。
「いえ、徹底的に探します」と、へんに頑張り、かえって相手に迷惑をかけているわたし。(困る痛いタイプ)
だが、どうしても見つからずギブアップしたわけではないが、(相手が業を煮やし)言われるままに新しいパスワードを渋々設定し直した。
でも設定中も、まだ執念深く探していたら、4枚の用紙のうちの一枚に、自分で書き込んでいたものを発見。
パスワードが出てきたので、元のパスワードには出来ませんか?と、わたし。
一旦、設定し直したのにまた、元のパスワードに変更!!??
窓口係にしてみると、なんとめんどくさい、一市民。
しかも業務時間は17:30で終了なのに、時計を見ると17:10。
(わたしは、まだ時間内だから駆け込みで行けると思っているが)

そもそもマイナンバーカード、めんどくさすぎる。
電子証明書は5年しか有効期間がなく、しかも出向かなければならないなんて。
マイナンバーカードを作った年によってはIDナンバーが発行されていて、スマホや郵便などでも対応できるようなかんじだが、わたしの場合は、たぶん、それより前に作ったから電子証明書有効期間通知書にIDナンバーがない。
不便だ!!
と、怒りの矛先を変えるわたし。
たまたま担当の女性が優しい方だったので、わたしは傷つかずに良かった。
以前のスマホ機種交換時のdocomoのお姉さんみたいな人だったら、またまたトラウマになっていたことだろう。

と、一昨日の話を差し込んでしまった。

話を元に戻す。
ただ、わたしはまだ自分でわざとやっている、意識してやっていることがある。
趣味分野のことで、どうしてもしたくないこと、動作は、わざと体を硬直させ、足を一歩も動かさない。
脳の指令により、硬(こわば)らせる。
その時に、ああ姑はこれを無意識にやっていたんだな、と、答え合わせをして、現象と原因を擦り合わせる。
脳の中の、自覚する箇所に一旦引っ掛からず、すっと素通り通過して、無自覚神経に誘導するようだ。
それだといいなあ、楽だなあ。
恥も痛み自己嫌悪も自省もない。
自分がしていることでも、自分が知らないことなんだから。
無意識とはなんと気楽な世界。

わたしは、意識と無意識を行ったり来たりしている。
無意識で行ったことを意識下で確認すると、落ち込む。
ジキルとハイドか。
だが、自分の能力の自己評価を下方修正する。
(上方修正ならいいなあ。まだポテンシャルを秘めている?)
いつまでも若い頃のままの能力ではない。
脳機能が一番、顕著である。


無意識にすると、傷つかない。
意識すると、深く傷つく。
神様は、天然のモルヒネをプレゼントしてくれている。
自分の非力を意識したら、絶望して生きて行けない。
知らないわ、なんのこと?なら、明るく生きて行ける。
元々、わたしは天然なので、今日に始まったことではない。
これは救いかも知れない。



負けず嫌いで過大評価

2023-03-13 | 老い
別SNSの人。
ガラケーからスマホに替えたらしい。
技術職でもない、リタイアされて結構経つシニア女性。
スマホは画面が小さいから、タブレットを活用するとのこと。
スマホはすぐ簡単に使いこなせるようになると思うが、自分はアナログが好きなので、面倒な操作は全てご主人に任せているそうだ。

この書き方に、わたしはカチンと来た。
本当にすぐに出来るのか?
面倒だからと、やらされるご主人が気の毒。
マイナポイントもスマホ申請はしていないらしい。
全てご主人に押し付けて、「アタシはカードを使うだけ」と仰る。
しかも、その人は「アタシは、やろうと思えば勘がよく飲み込みや理解が速いので、即、出来るけど、しないだけ」だそうだ。

すごい自信。
やりもしないで、やればすぐ出来るそうだ。
普通の人は、仕事から離れ、70歳を超えると結構、頭は硬くなっている。
現役時代、天才、秀才の人も新しい技術には四苦八苦している。
その代わり、小さい子供のほうがスイスイ、先入観なく使いこなせる。
普通の人はそういう脳の変化が現れ、柔軟性が減少してきている。
にもかかわらず、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツなら別だろうけれど、年配者には未踏の分野でもあり、やりもしないで、不便なアナログが好きだから、敢えて「簡単にパパッと出来るけれど、夫に任せて」いる、と、豪語される。
なんだか、この人、もう確実に老化の波が訪れていると感じる。
現状を理解せず、思い込みだけで自信満々。
前と全く同じ高さに足が上がると思い込み、階段の段差で蹴つまずいたりする。
通信分野のプロの若い人でも、最初は手間取り、四苦八苦していた、、、。
神業のすごい女性なの?
とは、思えない。

ああ、こういう、自分のことを過大評価している人って、、、なんだかなあ、、、
つ、つ、つ、、、と、わたしは静かに笑顔で後退し、距離を取った。
自己肯定感、半端なく強すぎ。
イタイと感じた。


色情系は生々しい

2023-03-01 | 老い
どうもわたしは、平均的なシニアではないようだ。
平均的なブロガーでもないようだ。
平均って?
自分は自分。
他と比較しても意味がない。
イイね!をいただいても、礼を尽くさない、営業をしないのが、悪いかも知れない。
これは結構そう思う。
愛想なし。

さて。
何を書こうか。
わたしが興味あることは、平均的ではないようだ。
わたしは少し趣味が高尚かも知れない。
いや、そんなことはない。
俗世間とは一線を画する?
うーん、どうだか、、、。
かなり下世話な面もある。

最近、吐きたい毒がない。
自慢したいこともない。
強いて言えば、瞬発力タイプではないわたしは、じわ〜っと時間がズレて遅れて、過去から続けていたことの結果が出てきている。
10年目だったり。
スパンが長い。

ぱっと見てキラキラ眩しかったりしない、わたしのやっていることが地味すぎて、忘れた頃に反応、影響がある。
持久戦向けのようだ。
若い頃は報われないタイプ。
まあそれはそれ。

ちなみに。
認知症になると、それまで抑圧していたことが噴出することがあるらしい。
「色ボケ」なんていう、すごい言葉がある。
ものすごく上品で良家のご婦人で、良妻賢母で、、、そんな人が、おばあちゃんになってからの言語行動が、それまでとは真逆で驚愕することがあるとか。
聞くに耐えない。
お嫁さんが恥ずかしがって、人にも言えない、という話を聞いたことがある。
よほど、抑圧してたんだろう。
気の毒に。

わたしも実際に、病院の待合室で、見ず知らずのおばあさんが、すっとんきょうなことを言っているのを目の前で聞いたことがある。
はあ???と、首を傾げるというか、開いた口が塞がらなかった。
当時はそれも病気の一種だとは知らなかったので、ただただ不思議に思っただけだった。
シワシワの、誰がどう見ても高齢のお婆さんなのだが、、、
本人が言うには、「若い(素敵な)医師がわたしに、いやらしいこと(セクハラ)をする」んだそうだ。
どう見ても、どう考えても、そういう状況の気配は見当たらなかった。
老婆フェチなんていうジャンルの変態の一種があるのか?
聞いたことがない。
(枯専女子や肥満フェチ男性は存在するようだが)
家のお嫁さんが姑さんの病状を恥ずかしがるのならまだしも、全くの他人だと複雑なものがある。
見なかったこと、聞かなかったこと、なかったこととして、騒がずリアクションせず、そっとやりすごす。

おばあさんのタイプによっては、色ボケとは違う分野の作り話をするケースがある。
若い頃の武勇伝をまだ付き合って間がない人(例えば結婚したばかりの孫の嫁)に、延々と話す。
が、横で苦笑いの還暦を過ぎた実の子供。
「おばあちゃんにはそんな事実は無いのよ。
自分で信じて話を盛るの」と後でそっと新人嫁におばあさんの「盛り癖」を打ち明ける。
古い家族、皆はもう知っている。
だが、笑ながら皆んなそっとしておく。
武勇伝ならまだ勇ましくて良いが、色系はどうも聞くに耐えられない。
まあしかたない。

昔できなかったこと、憧れていたこと、抑圧されていたことが理性のタガが消滅した後に出るのか。
あるいは、昔ルーティーンワークで行っていたことを急に脈略なく、し始める人もいる。
突然、仕事に行く、と家を出たり、
子供を迎えに行く、と言ったり、
ご飯の支度をし始めたり。
脳に強烈にインプットされていることが、突然、何かの接触によって稼働するのだろう。

温和な人が怒り出すこともあり、こうなると、昔との因果関係はもはや関係なくなる。
脳は本人の意思とは裏腹に、制御できなくなるようだ。

それとは別に、戦争や災害でこころを病むことがある。
幼い子供だと尚更深刻だ。
カウンセリングが必要で、自力で治癒は困難だ。
穏やかな毎日を安らいだ気持ちで過ごせることは本当に有難い。



歳のせいなの?

2023-02-01 | 老い
綺麗事は書けない。
なぜか?
自分が楽しくないから。
が、ホンネを書きすぎると、自分も傷つく。
ついでに他人も傷ついたりする。
なので、適当に、いい加減に、曖昧に。
ファジーという言葉がかつて流行った。
曇りガラスで明かりを取り入れる。

さて。
ある人との会話。
「歳だから」
とわたしが言うと、なんでもかんでも歳のせいにする、と非難めいた口調のリアクション。
わたしが「歳だから」と言ったのは、ファッション。
ショーウインドウに飾られている素敵なコートを見ても、こころときめかない。
こんなコート、もう何十年も前からある、なんの新しさもないデザイン。
わざわざ買う気もしない。
着た自分を想像しても、全くワクワクしない。
なんで今更あんなコート?
手に取ってみた厚手の手編み風カーディガン。
半世紀前、エジンバラ(イギリス)のお土産に父に買ったものと似たようなカタチ。
どこが新しい?
ただただ古い思い出が引っ張り出されるだけ。
ただし、思い出はカビ臭くはないのが救い。
曇りガラスで明かりを取り入れるかのごとく。
いや、実際より鮮明に綺麗に輝いているように思う。
昔は良かった、、、なんて言うと、「今」や「未来」が明るくないお年寄りの仲間入り。
でも、昔も今も未来も明るいと思うのだが。
ただし戦争のない世の中であることを願うばかり。

売っている服を見て、欲しいとは思わない。
服は家に山のようにある。(断捨離の呪縛に苦しめられる)
次から次へと服を欲しがるのは若い人の特権だと思っていた。
先述の会話の人、Aさん。
最近、猫背気味、70代。
服が大好きでよく買っておられるのだが、確かに身だしなみに気をつけなくなると認知度、黄色信号。
ではあるが、身だしなみはとっくにクリアしているのに、それ以上に服を欲しがる。
わたしも服は好きだが、もうよほどのことでもないと買う気はほぼほぼない。
Aさんは、わたしの服に対する関心減少は歳のせいにするが、わたしはAさんの服に対する情熱が理解できない。
人は人。
自分が良いと思えばそれでよい。
ひとのことなどどうでもよい。
なので、わたしはAさんの服への情熱に対して非難も否定も賛同もしない。
お互い、感性が違う。
カッコイイと自分で思っていられることは、生きる原動力になるので、ひとの生き甲斐を奪う権利は誰にもない。
(迷惑や犯罪ではなければ)

しかし、そんな、どうでもいい点が増えると、その人との接点がどんどんなくなる。
すごい勢いで離れていっているように感じる。
(これ、仏教系の本で書かれていた)
歩む道の分岐点、曲がり道か。

逆に離れていた道を歩いていた人と合流したりする。
あらまあ、こんにちわ。
人生は予期しないことがたくさんあって面白い。