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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

まだキリリと痛い、トラウマの傷

2017-12-07 | 趣味
例の大嫌いなトラウマの主、Aさんから離脱して、やっと2カ月ちょっと。
だが、やはり、まだトラウマは、ちょいちょい顔を出す。

わたしを知る人は、トラウマの主、Aさんと踊っている一定期間、わたしはとてもやつれた顔をしていたという。
複数の人に指摘された。
やはり顔に出ていたのだろうか。

新しく踊る相手も暫定的、非固定的ではあるが、現れた。
が、やはり、トラウマはなかなか治らない。
悲しいとか、怒りとかではなく、傷ついた、という感覚である。
傷みによる痛み。
心の傷は見えにくい。

恨みが同時に湧き上がる。
相手はもう目の前にいないのに、湧き上がる気持ちに蓋は出来ない。

しかし、こういうパワハラはあちこちで起こっているのではないだろうか。
声を上げられない人が、弱虫というレッテルを貼られる。

トラウマの主、Aさんの、前のお相手の方、Bさんの日記を読む。
その人は、わたしよりは強気のようだった。
が、Bさんも、わたしと同じぐらいの期間でペアを解消していた。
「みなさんに、感謝します」と最後のあいさつメッセージが残されていた。
日記では、相手を恨んだり、罵ったりはしていない。
泣きごとではなく、「ペアを組むのは難しいことが多く、よい勉強になった」と書いてあった。
理知的な人である。

が、リアルな人々ばかりの中ではホンネや、実際のこと、想いは書けないだろうから、さらっと表現してあった。
わたしは、その行間を読み込んだ。

わたしのタイムスケジュールと、その人のタイムスケジュールは、ほぼ同じだった。
場所、登場人物、行動も同じ。
不思議な気がした。

トラウマの主、Aさんは、相手をBさんからわたしに替えただけで、まるで同じことをしている。
前の女性、Bさんも、わたしも、良い勉強になった。
わたしは、みなさんに感謝、とまではいかないが。
そうなるには、わたしは我慢しすぎていた。

一旦、トラウマになると、なかなか元には戻れないと思った。

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はけないトラウマ日記

2017-11-16 | 趣味
またまた、未公開の記事(日記)がたまって来だした。
他のSNSのマイページの日記である。
もう何編も書いては修正し、溜め、また修正しては、見直し、延々とやっている。
そのサイトの日記には、書いた後は保存日時を変更出来ないシステムになっているので、別の日時にアップするには、古い日時の未公開日記をいちいちコピペして、新しい日時に更新しなければならない。
何度も何度も、面倒臭いコピペを繰り返し、最新の日時に更新し、さあ、アップ、というところで、アップできない。

すっきり、きっぱり、アップしたい。

だが、やはり、まだトラウマは癒えていないのだ。
書いても書いても、同じような内容。
よく飽きもせず、同じことを書くなあと自分ながらに感心する。しかも、非公開。
が、トラウマは、半年に渡るパワハラとモラハラが続いたせいで起こったもの。
元に戻るには、やはり、同じだけの時間を要すると思われる。
あと半年かかる。

今まで、こころの痛み、傷、特にトラウマなどには縁がなかった。
なんの経験もしていなかったので、耐性がなく、拒絶反応が起きるまでに時間がかかったようだ。
こころが悲鳴をあげるまでのタイムラグがあった。
トラウマの元を断ち切るまでに時間がかかった分、その間にも傷は進行していた。

しかし、人は見かけや外側からではわからないものだ。
わたしは、今までよほどラッキーな道のりを歩いてきたと見られる。
一見、普通、もしくは、好印象でも、中身はわからない、という、いともわかりやすい、当たり前のことを学んだ。

自分の切っても切れない濃厚な関係者でなくて良かった。
全身全霊、そう思う。
切れない人間関係であれば、静かに蝕まれ、再起、回復は不可能になるに違いない。

と、こんな同じような内容を呪文を唱えるかのごとく、ブログに書き重ねるわたしは、そうとう冷静を欠いて、参っているようだ。
蝶ブログをお読みの方のことなど、これっぽっちも、アタマの片隅にもないことを今、気づいた。
すみません〜〜。
そのうち、まともなのも書きます〜。(たぶん)

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ホンネが書けない

2017-11-14 | 趣味
別のSNS。
いい人ぶりっこしていたら、わたしの日記ファンが現れた。
じつは、困っている。

昨日から、ハラワタ真っ黒な毒づきネタの日記を書いては修正し、書いては修正しているが、アップする勇気がない。
わたしらしくない。

なぜ、アップできないのか?
ひとつには、リアルな当事者に読まれることを恐れる。
よく考えたら、他に理由はなく、ただただそのためだけに過ぎない。
本人に言わないで陰で毒づく自分の、人格評価を(今よりなお更に)下げたくない。

なあんだ、結局、嫌われたくないだけ?
人からの評価を気にしている自分を発見する。

だが、トラウマをわたしに与えた当事者の相手は、痛くも痒くもなんとも感じていない。
わたしがトラウマを感じるほど傷ついていることも知らない。
本人にしてみると、ニコニコしていただけのわたしに裏切られた気になるだろう。
わたしが、直接、相手に不満を伝えることが出来ず、根性の無さで、ガマンにガマンを重ね、突然、壊れた。破綻した。

初めて口にする反対意見は、最後の通達、宣告になってしまっている。
わたしも非がある。
相手だけが悪いわけではない。

そう思うと、トラウマは一向に癒えない。
相手を悪者にして、後ろを振り返らずに一目散に逃げ、忘れるようにしないと。
いつまでも後を引きずる。

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どんより薄暗い

2017-11-04 | 趣味
前日、どんなに楽しいことがあって、爽やかな朝を迎えるはずであっても、
新しい朝は、のんびり解放された時間であっても、ぼんやりしたアタマに、ふとまたトラウマが蘇る。

大嫌いなAさんのことを思い出しているのだ。
別SNS。スマホでいつも見ているので、画面を指でスクロールする時に、会員の皆さんがアップしている写真コーナーみたいなのがあり、そこを通過しないと、目的のところにたどり着く操作が出来ない。
大嫌いなAさんが何枚も公開している写真の束のところをそおっと指をスルスルと滑らせているのだが、今朝は指の押さえ方、力の入れ方をミスったようだ。

Aさんの写真のところで、たまたま指が強く押されたのか、Aさんのページを開く流れになってしまった。
ページを開くまでもなく、猛スピードでUターンしたのだが、わたしのハンドルネームは、Aさんのページにくっきりと足跡として残されているはずだ。
足跡をつけた時間と共に。

よく日記をアップするわたしとは違い、Aさんはほとんど日記を書かないので、Aさんのところには、あまり訪問する人は多くないはずだ。
だから、わたしの唐突なアクセスは目立つはず。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
意図せずアクセスしてしまった。

日記を新たに書いて、「指ミスで偶然、訪問する場合がありますが、全くのミスですので、無かったこととしてスルーしてください」とでも知らせようかと思ったが、やめた。
逆効果。

どんより、重い、黒いどろっとしたものが、貼りついた気分。
単に、足跡がたまたま付いただけなのに、それがキッカケとして、嫌な想いが喉から逆流してくる。

今朝は、別のある人が、「性ホルモンが減少し、ダンスでもドキドキしなくなった」と日記に書いていた。
Aさんに関しては、わたしは男性的魅力を全く感じなかった。
背もそこそこあるし、顔も悪くないのに、どうしてあんなに男性として、アピール力がゼロなのだろう。
逆に、ギラギラして嫌悪感、拒絶感を抱く人もいるのに、性的に全くニュートラル。
全ての機能は、もうとっくに終了して、今はロボットなのかも知れない。
赤ちゃんや子供のように中性的、というわけでもない。
ロボットのよう。

別れることが出来て、本当に嬉しい。
しかし、喜びよりも、痛みや、怒り、無念さ、情けなさを折につけ思い出す。
そこまで嫌わなくてもいいようなものだが、ある意味、自己嫌悪も含まれている。
だから複雑でタチが悪く、後を引く。

結果的には、最小の被害で、最大の経験が出来たのだから、良しとすべし。
やはりこの経験を得るには半年はかかる。
1日や2日では、この経験は、経験とは言えない。
半年の経験で、貴重な体験が出来て、ある意味、エコ、能率が良かったのかも知れない。

この経験をしないと、趣味関係のことで、モノ申すには深みがない。
説得力に欠ける。
気分の悪い、指ミスから始まった朝であるが、まあ、そういう日もある。
晴でも雨でもない、薄暗く、どんより曇った今朝の天気と同じだ。

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低レベルの争い

2017-10-31 | 趣味
またまた、大嫌いなAさんが、趣味関係の他人様の日記で持論を展開していた。
それに対して、日記の主から、賛同とは言えないコメントが返された。
その意見を一旦、聞いたふりをして、ふたたび自分の意見を主張していた。

わたしにも再三、言っていた内容である。
自分が下手なことを自覚せず、相手に要求をつきつける。

たまりにたまったわたしは、ついに、コメントしてしまった。
しかも、Aさんとわたしの、共通の先生のおっしゃった実話を交えて。
さて、どう出るか?

しょうもないケンカを吹っかけて、また傷が深まったら嫌だ。
せっかく、離れられたのに。
わたしも、しょうもないことをする人間である。

こっそり見にいって、日記の主が見たら、削除しようか。
でも、実際のリアル先生が言ったことなのだから、反論するなら、先生にしていただきたい。
ただし、先生の発言の一部分だけを切り取ってコメントに使ったので、Aさんは怒ってくるかも知れない。
誤解を招くような紹介の仕方をするな、と。
抗議のメールでも来たら、ぞっとする。

わたしが、言いたいことを強調させるために、効果的に使わせていただいた。
どっちも、どっち?
我々は、低レベルの小者同士の喧嘩かも知れない。

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トラウマが、顔を出す瞬間

2017-10-30 | 趣味
またまた、大嫌いな人物への、ヘドロの想いがフツフツ沸いてきた。
ヘドロは、どろっとして、低温のイメージなのに、フツフツ沸騰は高温、しかも湧いて出てきたイメージ。
表現、温度矛盾を追求するとキリがない。

と、どうでもいい前置は、どうでもいいとして。

別SNSの、他人様の日記にコメントを入れている趣味がらみの某、大嫌いなAさん。
ある人の同じ日記に、わたしもコメントした瞬間、Aさんも同時に(ほんの少し、むこうのほうが早い)コメントを入れていて、それを見つけた一瞬でわたしは、自分のコメントを削除した。

Aさんの、相変わらずの、自分の未熟さを顧みず、人の欠点ばかりを責める、あのスタンス。
思わず、つっこみを入れたくなり、自分の日記を書いたが、非公開にした。
しかも、ふたつも。
想いを文字にしてまとめただけでも、少しは気が静まったような気がしたので。
どんどん日記をアップすると、むこうのSNSでは閲覧数が公開されるため、躊躇する。
なので、御蔵入りが増える。

しかし、まだまだ、依然わたしの気が収まらない。
一気にど〜っと吐き出したい気持ち満々。

Aさんは、本当に懲りない人。
一生、自分は悪くなく、相手が悪い、という、あのスタンスなのだろう。
わたしは、脚をはじめとする身体的ダメージだけでなく、精神的にも追い込まれた。

先月の試合を最後に、解消を切り出したのは、大正解だった。
たとえあと1ヶ月でも、Aさんの望む日まで続行し、試合に出ていたら、再起不能になって、潰れていたかも知れない。
危機一髪!
あとは、起死回生を望むのみ。
なのに、目の前でチョロチョロ、相変わらずの発言を続けるAさんは、かなり目障りである。
不快、この上ない。
コメントだけ読めば、まともそうなことを書いているかも知れないAさんであるが、実態を知っているのは、実際に(ダンス面で)深く関わったことがある人だけ。
ああ、嫌だ嫌だ。
忘れた頃に。

何もない、何気ない時にふと、悪夢が蘇ることがある。
Aさんの申し込みをさらっと、うまくかわした人もいて、断ったことによって、人生の傷がほんの少しでも付かなかった、その人のスマートな選択ができた機転を羨ましく思える。
わたしは、鈍く愚かだった。

でも、過ぎた日々を嘆いても仕方ない。
よい勉強になった。
少しでも、そんな諸々から離れて、忘れて、以前のように、戻ろう。
あまりSNSで、カッカとアタマに来ないで、冷静に。
さらっと、いきましょう。

が、なかなか時間がかかるようだ。

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幸せは、1日1日、完結で。

2017-10-28 | 趣味
この世の春である。
秋なんだけど、ぽかぽか春気分。
趣味関係で、大嫌いな人に思いっきり痛めつけられ、傷つけられて、痛みが治まるのをじっと待っていた。
で、じ〜っとしていた。
心を無にして、無風の中にいた。

聴こえる音に耳を澄まし、見えるものに目を凝らし、動かなかった。
忍者の修行か、超人バッティング練習みたいに、やがて、見えなかったものが見え、感じなかったものを感じることができた。
味が無かったものに、味覚を取り戻したかのように。

捨てる神あれば拾う神あり。
まさにそういうかんじだ。

厄を捨てて、吉を拾った。
前より断然、良くなった。

でも、回り道をした。

最初から最短の道なんかないのだ。
とても、満ち足りた思いである。

趣味分野で明るい未来を感じている。
ただし、一話一話、完結。
今日が幸せだったから、それでいい。
それ以上は求めない。
欲張って求めたら、その時から幸せは目減りする。

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小者は声高でうるさい

2017-10-16 | 趣味
趣味に必死になっている人がいるのに、
「所詮、趣味なのに」とSNSで書いたら、えらい猛反撃を食らった。

趣味は趣味であって、それで生計を立てているわけではない。
趣味の費用を捻出するために、働く人もいる。
趣味と、生計ジャンルは、全く違う分野のことも多い。

人それぞれ。
たとえば、バイク命の人がいるとする。
「所詮趣味なんだから、プロライダーではないのだから、遊びですやん」と他人が言ったりしたものなら、怒るんだろうなあ。

「自分は真面目にやっている。遊びなんかではない」、と、目くじらを立てる。
温度差が読めない場合、こういうことが起こる。

けん玉日本一の人も、真面目にやって真摯に練習して取り組んでいる(だろう)。
けん玉では生計は立てられないだろうから、プロではない。
では、スポンサーがつけば、プロなのか?
なんでもいいけど、所詮遊びでも、とことん極める人は素晴らしい。
なぜか、わたしは嗜好として、けん玉の人には、優しい眼差し。
所詮、遊びでしょ、と冷ややかではない。
なんか、けん玉だと、ほのぼのする。
けん玉は遊びの一種なので、遊びではないとすると、
「所詮、遊びでしょ」の逆説パラドックスが、おもしろ愉しい。

ただし、どんなに趣味を極めている人であっても、自分で言っては値打ちが下がる。
真剣そのものだ!と食ってかかる人のレベルなど、たかが知れている。
頂点に立つ人の反応はまた違うだろう。

子犬ほど吠え方が、派手。
小者など相手にしないのが、エコ。

ああ、無駄な時間を割いてしまった、、、。


と、ここで終わればよいものを、補足です。

悪者になりたくない姑息な手段としての、自分へのフォローを一言、付け加えたくなった。
機嫌よく熱くなっている他人さんに(悪意の意図なく)結果的に冷水を浴びさせ、気を悪くさせたようなので、一応、反省する。
が、その人物は、呼びも招きもしないのに、そして、その人のことなど全く関係ないのに、勝手にわたしのSNS上の家にやってきて、
全体の意味を汲み取らず、部分的なフレーズだけを取り出して、なんか苦情を述べている。

しかし、これでは反省にならずに、よけい、自分の評価を落とす「補足」となっている、、、?

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天国と地獄

2017-10-15 | 趣味
こころが、晴れて晴れて、天国状態になっている。
今までの痛みが、す〜っと取れるかのよう。
究極の接骨院か、極上スパ、マッサージに行った後のよう。
これ、ダンスの話です。

包み込むような優しいダンスは楽園ダンス。
ストレス、トラウマのAさんとのま逆、対極を感じている。
Aさんが一方的に悪いのではなく、わたしとの相性が悪かった、わたしがAさんを選んだことが悪かったのではないかと思い始めている。

どちらにしても、良いか悪いか、やってみないと想像や推測だけではわからない。
一番大事なポイントは、Aさんそのものが悪いのではなく、Aさんのダンスがわたしには合わないということ。
そういう、すとんとこころに落ちる結論に辿りついた。

カッチカチの鋼鉄のようなダンスは、Aさんの性格を表していた。
自分は鋼、絶対曲げず、相手を無理やり曲げて合わさせる。
合わないと、合うまで努力を強いる。
ま逆の、柔らかい、柔軟性、フィット性のあるダンスに触れ、その違いに今更ながら驚いた。
(実際のところは、ダンスのジャンルが違うのだけど)

評価を得るため、人の目を気にした、表面に現れ見えるもののために、全てを犠牲にして我慢し、努力するのは、性に合わない。
そして、自分の、体育系でない身体能力に合わない。限界を感じる。
種類を選び損ねた。
オリンピック選手や国体選手とは、生まれた時から違うところにいる。
血の滲む努力をして上手くなっていくには、当然ながら、本体、ベースが全く違う。
いくら一生懸命ペダルを漕いでも、三輪車で高速道路は走れない。

とは言えど、再三書いているが、やってみないとわからない。
プロローグのところで、進路変更、というか、道を降りた。
評価を受けたところで、わたしには、Aさんとのダンスそのものが苦痛である。
なので、わたしは道端の野の草花でよい。
人に羨ましがられたり崇められたり、評価を得るために、そもそもの目的であるダンス自体を犠牲にするのは、本末転倒になっている。
楽しむために趣味でダンスをしているのに、苦しみの原因、苦痛となっては意味がない。
健康にとらわれ、健康に良いと言われることをオーバーワークして精進しすぎて体を壊す、健康オタクのごとく。

わたしは、ランナーズハイを味わえない人間である。

いいのだ。
なにをしても中途半端でダメね、と思われても。
そう思う人は、自分が崇める道を選んで頑張ればよい。
わたしはその道から降りた。
不適合なことには、挑戦しない。

一生挑戦という人もいるが、(Aさんのプロフィールに書いてあった)、わたしは、「余生は楽しく無理をせず」がモットーである。
ますます老いようが、構わない。
老いに逆らって自分を痛めても、全くわたしは快適ではない。
ストレスが溜まるのみ。
今後の余生にまで悪影響を及ぼす。

しかし、これは、人生の、いまのわたしの時期だから言えることだ。
我慢したり、やり遂げなければいけない夏の季節、義務の季節を終えて、いまの秋、黄昏季節がある。
暑い暑い時期は、自分なりに一生懸命やってきた。
で、夏はもうケッコー。終了、卒業、履行。

背中に背負う重いものはないので、いつ、この世からいなくなっても、誰の迷惑にもならない。
生きがいがない、することがない、と嘆く人もいるだろうけれど、わたしは一人遊びも好きなので、そういう心配も(いまのところは)ない。

が、毎日の自分の身の回りのことが出来なくなり自立出来なくなったら、家には居られない。
出来ないのに、「出来る」とごまかし、抵抗しても時間の問題。
とりあえず、あと25年ぐらいは大丈夫だと自分では思っている。
貴重な25年だが、実質的には15年が黄金期で、後の10年は灰色の時期だろう。
なので、あと15年。
楽しい時期は、あっという間に過ぎることだろう。
楽しくないことに時間を割かれ、振り回されている場合ではない。

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人のせいにしたほうが、立ち直りは早いらしい

2017-10-11 | 趣味
トラウマが、なかなか消えない。
お気楽、楽天家のわたしではあるが、意外に、思っていたよりも傷が深い。

例のSNSに日記を数日前に書いたが、何度も何度も加筆訂正を加える。
で、結局、非公開のまま、アップせず。
じくじく、ぐじゅぐじゅ、じとじと抱え込んでいる。
Aさんの目に触れるのが嫌だからだ。
必ず、Aさんは見る。
なぜなら、Aさんは1日に何度もわたしのSNSページを訪れる。
アクセス跡には時間が克明に記録されている。

いっそ、その趣味SNSを退会しようかと思ったりする。
が、しない。
お気に入りから外そうか、
アクセスブロックしようか、
などなど、考えてみるが、とりあえず、放置しよう。
時が過ぎれば、記憶は薄まり、風化することだろう。
ことを荒だてて、嫌な出来事が新たに起きるのは避けたい。

自由に日記が書けない、閉塞感、息詰まり感、息苦しさ。
あらゆる自由な制約のないことが、どんどん勝手に頭から流れ出てくるタイプのわたしには、きつい。

ある人が言うには、わたしは、人を見る目がないそうだ。
包装紙の下、表面を一枚めくった中身を見抜く力がない。
そんな力が備わるのは、そうとうキャリアや情報収集力が必要だと思う。
たんに、直感や、勘だけに頼って出来るものではない。

あまり、人間関係で苦労したことがないので、身構えずに進んでしまったのか。
あるいは、良い包装紙に、絶大な信頼をおいてしまうのか。
外側が良くても、それだけで安心せず、ある程度、中身を確かめなければいけないということだ。

しかしながら、トラウマの最も大きな原因は、わたし自身にある。
相手や外因を責めて、それで終わりなら、苦労しない。
わら人形を山ほど用意すればよい話だ。
ややこしいのは、自省の念。自責。
相手が悪いと思い込もうとしている、自分が悪いのではないか、と。
刃の矛先が自分に向けられる。
相手に傷つけられたと思い込もうとしているだけで、実は自分に非があるのでは、と。
五分五分なら喧嘩両成敗。
四分六、三対七、、、
比率はどうあれ、相手を怨むと同時に自分に返ってくる気持ちになり、ヒリヒリ、キリキリ痛む。

まあ、終わったこと。
静かにしていれば、治るはず。
薬も注射もいらない。
じっと時を待つことにする。

へんにお利口さんぶらずに、相手を悪者にしたほうが、傷は早く治るし、精神衛生上、良いらしい。

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