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ベランダで球根で植えたカサブランが花芽を四つつけ日ごとに大きくなる。2年ぶりに花芽をつけたクジャクサボテンも開こうとして、赤い部分が大きくなってきた。花は見るのはもちろん楽しいが、水やりをしながら花が咲くのを待つのも楽しみのひとつだ。散歩の途中、近所のお宅の花をそっと写真に撮らせてもらうが、何か悪いことをしているような気がしないでもない。人がいれば、「写真を撮らせてもらっていいですか」と聞くが、時によってパスしてしまうこともある。花を愛した詩人は人さまば植えた花ではなく、野の花に心をとめた。山の花を愛でるのは、そんなことから解放されて思うままに楽しむことができるからかも知れない。
ロセッティの詩、「花の教え」を読もう。花を愛でる心がより深まっていく。上田敏「海潮音」の名訳である。
心をとめて窺うえば花自ずから教あり。
朝露の野薔薇のいへる、
「艶なりや、われらの姿、
棘に生ふる色香とも知れ。」
麦生のひまに罌粟のいふ、
「せめては紅きはしも見よ、
そばめられたる身なれども、
験ある露の薬水を
盛りささげたる盃ぞ。」
この時、百合は追風に、
「見よ、人、われは言葉なく
法を説くなり。」
みづからなせる葉陰より、
声もかすかに菫草、
「人はあだなる香をきけど
われらの示す教暁らじ。」
花は何も語らない。だがそれを見る人に、何かを語りかけている。水やりをしながら花と話を交わしている人がいる。咲くまでにしっかりと時間をかけ、その一瞬に命の輝きを放つ。生命のあり方を、花は教えてくれる。
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