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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

一陽来復

2015年12月30日 | 漢詩


青空の歳末となった。冬至を過ぎて心なし、陽ざしが強くなったような気がする。雪が多かった昨年に比べると、朝屋根にうっすらと雪を見るぐらいの冬景色だ。滝山の雪が、やっと青空とのコントラストをなしている。一陽来復とは、易で陰暦10月に陰気が最大になり、冬至に至って陽気が生じ始めること言う、と漢和辞典が説明している。今年は、ことの他の暖冬で、この言葉がぴったりの季節の巡りである。

中国には古い言い伝えがある。水の神に不才の子があった。この子が冬至の日に死んで疫病神になったが、なぜか赤い豆を恐れたという。そこで、人々は小豆の入った粥を炊いてお祓いをするようになった。こんな言い伝えが、日本にも入って来て、冬至には小豆カボチャを炊く風習が生まれたのかも知れない。だが、小寒から大寒を過ぎ、立春に至るのはまだまだ先である。

 内に示す  沈受宏

歎ずる莫れ貧家歳を卒うるの難きを

北風曾て過ぐ幾番の寒

明年桃柳堂前の樹

汝に還さん春光満眼の看

清の詩人沈が、歳末に旅先で妻に送った詩である。貧しい家で、歳末に夫の帰りを待つ妻に、詩のなかで、春光のなかに咲く、桃や柳の花の景色をプレゼントした。「北風 幾番の寒」と「春風 満目の看」との対比、明暗を強く打ち出したところがこの詩の眼目である。 
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七歩の詩

2015年12月09日 | 漢詩


三国志で劉備と争った魏の曹操には、息子が25人いた。そのなかで傑出していたのは曹植である。父の問いにいつも即答し正鵠を得ていた。曹操は聡明な植をを寵愛し、兄をさしおいて後継に植をと考えたことも度々であった。気が収まらないのは長男の曹丕である。地味な兄ではあったが、取り巻きの必死の擁立運動で、後継争いは曹丕に軍配が上がった。曹丕が太子となるのは建安22年(217年)のことである。この年、曹植は27歳であった。太子になっても、曹丕にとって植は目の上のたん瘤のような存在であった。あるとき、曹丕は植に難題をふっかけた。「七歩歩くうちに詩を作れ。できなければ死刑にする。そう言われて作ったのが「七歩の詩」である。

 七歩の詩 曹 植

豆を煮るに豆萁を燃く

豆は釜中に在りて泣く

本是れ同根より生ず

相煮る何ぞ太だ急なる

豆を自分に、豆萁を兄に例え、同じ兄弟なのになぜこんな辛い仕打ちをするのか、と遠回しに非難する詩を作った。これを見て、曹丕は深く恥じ入ったと伝えられている。だが、曹植の文集にこの詩は見えず、後世の人の偽作らしい。だが、魏の王朝に、この兄弟の詩のようないやがらせがあったことは確かである。日本詩吟学院の教本に、曹植(そうしょく)を「そうち」と読んでいるが何故であろうか、手元の三国志関連の本をみてもそうした記述はない、ちょっと納得できない。


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菊花

2015年12月01日 | 漢詩


今日から師走。もう例年であれば、平地に雪が降っている季節である。田んぼのあぜ道に春に咲く花が咲いている。寒暖が交互にやってくるので、花たちも咲く時期を間違えるらしい。そんななかで、初冬の花は何といっても菊の花にとどめをさす。今日の詩吟教室で習ったのは、白居易の『菊花』である。

一夜新霜瓦に著いて軽し

芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く

寒に耐うるは唯東蘺の菊のみ有りて

金粟の花は開いて暁更に清し

敗荷というのは、蓮(ハス)が枯れたもので、それが倒れている。東の籬の菊だけが、寒さにめげずに咲いている。古来、菊の花を酒に浮かべて飲む習慣は、この菊の強さを愛でたことにある。事実、霜枯れた庭に、これほど爛漫に咲く菊には、人間の身体を守る霊力あると信じられてきた。どの花びらも霜におかされることもなく、黄金色に輝いて、あたりの風景を清らかななものにしている。

白居易は75歳の人生を全うしたが、晩年親しく交わった友人たちが次々と先立って逝った。新酒に菊を浮かべて長寿を祈る飲酒を愛したが、その酒を汲み交わす友人が一人、二人と亡くなっていく。醒めて時間を過ごすよりも、酔うことに人生の喜びを感じた白居易である。ともに汲み交わす友がいなくなることは余りにも切ない。寒に耐えて咲く菊花と、己の晩年の生を重ね合わせたのが、この詩のモチーフになっていたのかも知れない。
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霜葉

2015年10月15日 | 漢詩


初霜はまだ降りていないが早朝の冷え込みは7℃を切ることが多く、いつ霜が降りても不思議でない気温になっている。霜葉というのは、霜にうたれて赤く色づいた木の葉をさしているが、近所のお宅に庭には、ツツジが霜葉のごとくに色づいていた。杜牧の詩に

車を停どめてそぞろに愛す楓林の晩
霜葉は二月の花よりも紅なり

という句があるが、今朝見たツツジの葉は、まさに杜牧の詩のように、花に勝るあでやかな赤であった。杜牧の詩にもどるが、車から降りて夕陽に染まっていたのは、カエデの霜葉である。カエデは葉の形もきれいで、とくに京都の紅葉の代表で、秋の紅葉の代表選手である。この2週間、山に行っていないので、ちょうどいい季節の山の紅葉の美しさに飢えている。



ツツジとならんで紅(くれない)に染まるコキア。ホウキ草で知られる。この枯れた枝を束ねるとホウキになる。お寺に竹の枝を結んで作ったホウキがあるが使いづらい。ホウキ草のほうが扱い易く、さすがに名前だけのことはある。実はとんぶりと云って、畑のキャビアと珍重される。秋田の旅館で食べたが、もう久しく口にしたことがない。秋の庭をこんなに美しく彩るのを見るとホウキ草を見直さなければならない。
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丹柿

2015年10月12日 | 漢詩


丹柿(たんし)、赤い柿の実。青空に柿の実が映えるのは、日本の秋の風景である。しかしこれは漢語で、陸游の詩に「緑橙と丹柿と時新を闘わす、一笑して聊か老いて健やかなる身を誇る」という句がある。緑の橙と赤い柿が盛りを競っている、それを前に酒席の一同に自らの元気を誇っている。陸游80歳のときの詩である。晩年になって輝きを増す、その象徴を丹柿とすれば、どうして儂もこうして元気だよ、とその健康を自慢している。

陸游は父が北宋の都汴京へ赴任する船中で生まれた。1125年のことである。ところがこの年北宋は女真族の金に滅ぼされ、揚子江南中国に局限された南宋と金が対峙する時代が150年も続く。しかもその150年後、モンゴルが南宋と金を攻め滅ぼしてしまう。まさに中国受難の時代だ。その苦しい150年の半分を、陸游は生き抜いた。80歳で、自らの健康を誇った陸游も1205年、死の床につく。そこで、あの詩「児に示す」を詠んだ。いわば、陸游の遺言である。

 児に示す  陸游

死し去れば 元と知る 万事空しと
但だ悲しむ 九州の同じきを見ざるを
王師北のかた中原を定むるの日
家祭 忘るる無かれ 乃翁に告ぐるを

死の床で詠んだ詩は、死んでしまえば万事おしまいであることは分かっている。だだわが国土が二つに別れて一つに統一する姿を見ずに終わるのは悲しい。帝王の軍勢が北を攻めて中原を平定したその日、家で祭りをして祭壇でこの父に知らせるのを忘れるでないぞ、と命じた。
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