大佗坊の在目在口

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杉田間宮氏

2016-06-18 | 掃苔

佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜によると始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕えた。間宮本家の間宮信冬、信盛父子は北条早雲に仕え、信盛の子信元は氏綱に仕え、その子康俊は玉縄北條の家老として武蔵國久良岐郡笹下城主となり、間宮氏は北條家に仕えた。北條家滅亡後、一族は徳川家の旗本として仕え、康俊の娘お久(華陽院)は徳川家康の側室になっている。千島・西蝦夷・樺太を探検した間宮林蔵の家系は、はっきりしないが、康俊の子傳右衛門元重の八代頼名が林蔵を名乗っているので、この一族ではないだろうか。

北條氏所領役帳に玉縄衆間宮豊前守都合六百九拾八貫百弐拾弐文の内、久良岐郡杉田参百貫文とあり、久良岐郡杉田は間宮氏の知行地であった。新編武蔵風土記稿に「杉田村は正保元禄二図は寺家村と記す杉田は古名にて妙法寺大寺なりし故中頃寺家と号し今古名に復せり彼寺縁起に古此地杉多し故に杉田の名起れり」という。風土記稿は杉田村の陣屋蹟として「間宮左衛門尉信次(或は常信に作る)以来世々の陣屋なりと云傳ふ、家譜に拠るに信次は豊前守信盛が二男にて北條氏綱及び氏康に仕ふ、天文十五年八月二十七日相州三浦走水に於て戦死す法名法西、妙法寺に墳墓あり其子左衛門尉信忠初め藤太郎と稱す氏康及び氏政に仕ふ云々」とあり、北條五世に間宮氏は仕え小田原没落後、一族は御家人となり二十一家の多きに至っている。

JR新杉田駅の近くにある間宮氏の菩提寺、妙法寺を訪ねた。
 
 
妙法寺は風土記稿によると「法華宗下総国中山法華経寺末牛頭山と号し開山は日祐上人開基妙法日荷上人此僧俗たりし時荒井次郎光善と称し後又因幡大掾と改む云々、文和元年(1352)当寺を起立す」とある。荒井次郎因幡守光善の子孫、源左衛門威忠は天正十八年東照宮に仕え、間宮左衛門信繁に属した。新編武蔵風土記稿は「子孫江戸に移り今の代官職荒井平兵衛保恵が祖なり」と云う。会津藩士山本権八の娘八重が嫁いだ新島襄の母とみ(旧姓中田)が十四歳のとき、行儀見習いのため腰元奉公に上がったのが小川町神保小路の荒井平兵衛(信州中之条御代官)で、この幕臣荒井平兵衛の遠祖が妙法寺開基妙法日荷上人(荒井次郎光善)という事になる。

間宮氏一族でも妙法寺を菩提寺としているのは、間宮豊前守信盛の二男、左衛門尉信次一族で信次(法名法西)・信忠(日法)・信繁(日縁)・信之(日諦)・信勝(日賢)・信久(日誠)・敦信(日了)・信勝(日登)と継く。妙法寺の間宮家の墓域は二ヶ所にわかれていて、寺庭にある杉田梅林之碑傍の日本武尊ゆかりの牛頭天王殿への石段を上り三十番神堂の右手奥に一列に並んでいる。
 
 
神堂の横の墓域に二基の宝篋印塔があり、一基は塔身の日附けから間宮信之(日諦)、もう一基の宝篋印塔には施主と入っていることから、この二基の宝篋印塔は供養塔なのか墓塔なのか判らなかった。
 
          
この墓域から北側奥(本堂左手上)に間宮家の墓域があった。いずれも家紋は角四目結紋であった
 
帰り、背に銘を刻まれている珍しい和様狛犬がある杉田神社に寄る。
 
  

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