大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

奥多摩旧川野村杉田氏

2016-05-19 | 會津

西多摩郡奥多摩町川野は昔、武州三田領小河内川野村とも武蔵多摩郡川野村と云われていた。戦国時代、ここの地侍で三田氏に仕えた杉田一族は三田氏滅亡後、北条氏に仕え、武州北條領と甲州武田領の境目の地として武田方の小菅勢と対峙していた。以前、神尾伊予(保科正之生母静ノ方父親)を探していて、たまたま新編武蔵風土記稿記載の杉田一族の舘跡の在った川野村に浄光院という寺があった。この寺の名は保科正之の生母、静の院号と同じであり、江戸幕府領になってこの地を検知したのが竹村与兵衛、時代は大分異なるが、神尾伊予の娘が嫁いだのが竹村助兵衛、この夫婦の次男を会津藩は杉田家を継がせ藩士として召抱えた。杉田氏、浄光院、竹村氏と正之誕生のとき、生母静に関係する名前が川野村に揃った。

5月の連休のあと奥多摩に向った。東京駅から青梅快速で1時間22分、青梅駅での乗換時間1分でどうなるかと思ったが、立川方面発着と奥多摩方面発着が島式1面2線ホームの隣り合わせで便利だった。青梅線は大体1時間に1本4両編成で今の時季、ハイカーでかなり混んでいた。中年の女性ハイカーが多いのに驚く。それでも沿線の駅でぽつぽつ降りて、終点の奥多摩駅まで乗っていたのは20人程度だった。以前、氷川駅と呼ばれていたころ、日原鍾乳洞や御嶽にはよく来たが、昭和46年(1971)奥多摩駅に改称されてからは初めてきた。単線だったのも忘れていた。
 
バスは10人ほどの観光客を乗せて発車したが殆ど途中の奥多摩湖で降りてしまい、
 
 
杉田氏の菩提寺がある大津久まで乗っていたのは1人だけになってしまった。
 
奥多摩湖は昭和32年、多摩川を小河内ダムによって堰き止めて造られた人造湖でバスはこの湖の北岸を曲がりくねって走る。
 
大津久バス停から浄光院まで歩いて2・3分で着いた。新編武蔵風土記稿の浄光院記載では「金剛山と号す禅宗臨済派鎌倉建長寺の末寺弘安五年(1282)の草創なりといえども開山開基の人を傳へず」とあるが、青梅の史家齋藤真指によって明治十一年頃から編纂された西多摩郡村誌に「開基創建は文安二乙丑年(1445)杉田右近允平重直にて、開山僧は、壁芸良鐡禅師なり、寛正元庚辰年(1460)八月十二日死す、法名を、西勝院浄空道光居士と号す」とあり「庭上に、一株囲み九尺有余の垂り枝の梅あり、花盛りには、銀光燐然しして、馨香馥郁たり、以て、近隣の美観となせり」とある。小河内ダム建設により浄光院も高台に移転したようで、枝垂れ梅も奥多摩湖の底に消えてしまったようである。
 
 
墓域もお寺の裏側の急斜面に段々に造られていた。比較的新しい幾つかの杉田家の墓域があったが、家紋はすべて「三本杉紋」で会津藩士杉田家の「丸に左根笹紋」では無かった。
 
ご住職にお話を聞きたいと思ったが、今は無住のお寺さんみたいで、兼任のお寺を聞こうと両隣のお宅を訪ねたがいずれも不在で、仕方なく、いま在るかどうか分からなかったが昭和50年代に出版された「奥多摩町異聞」に載っていた杉田重直の子孫の杉田さん経営の「湖水荘」を訪ねることにした。

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