飯盛山羅馬市寄贈の碑 (8)
東京朝日新聞大正15年5月22日号に掲載された山川博士の反論
「白虎隊の事蹟は士気を鼓舞するの資料として屈きょうなるものなれば、
そのふんねい(憤塋)を神聖なるものにする必要を感じ、かつ団体
参拝者多きも、境内甚だ狭く、一時に入り難き有様に鑑み又現在は隣接せる
厳島神社の門をいりその境内を経ざるべからざる不体裁を思い、その拡張
改良の必要を感じ来りしは十数年以来の事なりしが、余等にとりては
大金を要するにより着手するに至らざりき。然るに大正十二年六月頃
根津嘉一郎氏が同感せられ、余等に相談ありしも震災のため一時中止し
昨年に至り根津氏より再相談ありて、
一、俗悪なる茶店を取り払う事
一、境内を拡張する事
一、白虎隊ふん域にいる新道路開設の事
一、白虎隊に関係なき墓若しは石碑等を外へ移す事
の四条を実行することとし、、、域内には山川浩撰文の碑、旧藩主松平容保公の
歌の碑、外に会津藩殉節婦人之碑(未成)、並にイタリ―国愛国団青年部たる
同国首相ムッソリー撰文の碑(八月頃建設の予定)の四基のみを存し、
余は盡く外に出だす計画なり。又ふん域の遊園地となることを特に禁じたく、
墳務所を設け取締をなさしむる考へなり。楚人冠氏が工事中の未成品を見て
余等を悪罵せらるるは、余等の遺憾とする所なり」と反論している。
これから、杉村楚人冠と山川健次郎との数次にわたる反論、再弁明が
東京朝日新聞紙上でおこなわれた。
5月25日号鉄箒欄 飯盛山について 山川博士に(杉村楚人冠)
5月28日号鉄箒欄 再弁明 山川健次郎
5月30日号鉄箒欄 最終弁 飯盛山に就いて(杉村楚人冠)
6月25日号鉄箒欄 お手植の移植 改めて山川博士に(杉村楚人冠)
楚人冠は「うっかり飯盛山のことを書いて、これがために山川博士の
怒りを買ったことは、私の遺憾に堪へぬところであります」と言っては
いるものの、改良拡張に反対する姿勢は変えず再反論を掲載している。
それに対し、山川博士は「余が弁明に対し杉村君が再度筆を執られしは、
余の多とすることたり」と再反証をしている。再弁明の終わりで
「五十年の歴史は尊重したきはもちろんなれども、永き未来あるこの
ふん墓を今において改良拡張し一はもって英霊を慰め一はもって教育資料
とするに便ならしむるがためには、変更は止むを得ざるに出でしなり」
と述べ墳墓拡張工事を肯定し反論している。 (続く)
東京朝日新聞大正15年5月22日号に掲載された山川博士の反論
「白虎隊の事蹟は士気を鼓舞するの資料として屈きょうなるものなれば、
そのふんねい(憤塋)を神聖なるものにする必要を感じ、かつ団体
参拝者多きも、境内甚だ狭く、一時に入り難き有様に鑑み又現在は隣接せる
厳島神社の門をいりその境内を経ざるべからざる不体裁を思い、その拡張
改良の必要を感じ来りしは十数年以来の事なりしが、余等にとりては
大金を要するにより着手するに至らざりき。然るに大正十二年六月頃
根津嘉一郎氏が同感せられ、余等に相談ありしも震災のため一時中止し
昨年に至り根津氏より再相談ありて、
一、俗悪なる茶店を取り払う事
一、境内を拡張する事
一、白虎隊ふん域にいる新道路開設の事
一、白虎隊に関係なき墓若しは石碑等を外へ移す事
の四条を実行することとし、、、域内には山川浩撰文の碑、旧藩主松平容保公の
歌の碑、外に会津藩殉節婦人之碑(未成)、並にイタリ―国愛国団青年部たる
同国首相ムッソリー撰文の碑(八月頃建設の予定)の四基のみを存し、
余は盡く外に出だす計画なり。又ふん域の遊園地となることを特に禁じたく、
墳務所を設け取締をなさしむる考へなり。楚人冠氏が工事中の未成品を見て
余等を悪罵せらるるは、余等の遺憾とする所なり」と反論している。
これから、杉村楚人冠と山川健次郎との数次にわたる反論、再弁明が
東京朝日新聞紙上でおこなわれた。
5月25日号鉄箒欄 飯盛山について 山川博士に(杉村楚人冠)
5月28日号鉄箒欄 再弁明 山川健次郎
5月30日号鉄箒欄 最終弁 飯盛山に就いて(杉村楚人冠)
6月25日号鉄箒欄 お手植の移植 改めて山川博士に(杉村楚人冠)
楚人冠は「うっかり飯盛山のことを書いて、これがために山川博士の
怒りを買ったことは、私の遺憾に堪へぬところであります」と言っては
いるものの、改良拡張に反対する姿勢は変えず再反論を掲載している。
それに対し、山川博士は「余が弁明に対し杉村君が再度筆を執られしは、
余の多とすることたり」と再反証をしている。再弁明の終わりで
「五十年の歴史は尊重したきはもちろんなれども、永き未来あるこの
ふん墓を今において改良拡張し一はもって英霊を慰め一はもって教育資料
とするに便ならしむるがためには、変更は止むを得ざるに出でしなり」
と述べ墳墓拡張工事を肯定し反論している。 (続く)