大佗坊の在目在口

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小田原 浅田兄弟敵討

2016-10-20 | 小田原

16年5月に小田原城常盤木門の二階渡り櫓部分に「常盤木門SAMURAI館」がオープンした。小さなスペースだが、鎧冑や刀剣類など武具に特化した展示をするという。
 
ここに小田原藩、浅田兄弟の仇討ちの遺品が展示されているのを知って訪ねた。この展示館はカメラのフラッシュを使わなければカメラでの撮影も出来るのも嬉しい。
 
 
浅田兄弟の仇討ちと云うのは、文政元年(1818)七月、小田原藩足軽浅田唯助は乱心した傍輩足軽の成瀧万助に切り殺された。入牢を命じられた万助は三年後の文政三年、脱獄に成功して行方不明となった。浅田唯助の養子となった浅田鉄蔵と唯助の実子で浅田五兵衛家に養子に入った浅田門次郎は敵討ちの伺書を提出、藩は直ちに幕府に届け、町奉行所は敵討帳、言上帳に帳付けして浅田兄弟に書替(謄本)を渡し、正式に敵討の許可が下された。万助を捜して各地を廻っていた鉄蔵(二十四歳)門次郎(十六歳)の時の文政七年(1824)、水戸願入寺領磯浜村祝町(今・茨城郡大洗町)にいた万助を討取った。

神奈川県立公文書館資料(ID2201320013)資料名「文政七申年大久保加賀守様足軽、父之敵討候始末 浅田鉄蔵、浅田門次郎敵討一件」に岩船地田町大黒屋庄吉店借九兵衛による万助死骸改書が記載されている。
一 左之耳よりほふを切下長五寸横四寸三分
一 首の左右より矢はらニ切下前之方少々は残り長九寸三分深サ三寸巾七寸
  但ひたい長壱寸程之古疵有之候処刀疵共難見分
一 右之肩先へ背ニかけ長壱寸六分、深サニ寸巾二寸五分
一 左之腕先より二ノ腕迄切下長壱尺二分深三寸巾四寸
一 右之二ノ腕深壱寸巾壱寸
一 左之大指切落背より左之脇へかけ長九寸三分深二寸巾二寸三分
一 左之あはら長八寸四分深八分巾二寸三分
一 左之足ひさ下長四寸壱分深壱寸巾壱寸六分
万助の体には、古疵か見分けがつかない疵を含めると都合九ケ処の刀疵があったことになる。凄まじい敵討だったことがわかる。

帰参した浅田鉄蔵・門次郎兄弟に藩主大久保加賀守忠真が与えた御教書が「常盤木門SAMURAI館」に展示してあった。(彰道院殿御教書御染筆)

其方共孝志厚く、殊兼而申渡置候相守り、此度本望を遂、一段の事候、出極ニ取立候上ハ、猶更一己を慎ミ人にほこるましく候、世上へも相響き候次第ニ付、其身者勿論、我等名迄末長く汚さゝる様心掛、忠孝之道弥可相励候

浅田兄弟は敵討ちの成功により下級藩士の諸組之者から五十石の知行取の代々御番帳入りの中級藩士として抜擢された。
(安政五年小田原藩順席帳より)
   
浅田鉄蔵の墓は高長寺に、浅田門次郎の墓は新光明寺にある。

 小田原 高長寺から新光明寺へ

コメント
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