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’23-3-14 ”昔と今の野球練習方法の違い“

2023-03-13 22:21:00 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
WBCが始まり、今年のチームは本当にいいチームだ。勿論、テレビや新聞からの情報だが本当に我々の時代から考えると、すべてが様変わりだ。
野球の練習方法を昔と比べてみよう。

*1940~50年代
戦後で設備も用具もなかった。布製のグローブ、ボール、バットは超貴重品。
それでも、成蹊中学時代は、旧制高校の先輩からのお古の使いまわし。硬式のボールは麻糸で縫い合わせをやらされた。ユニホームは自前。試合の時にはそれでもお揃いのものがあったな。
練習は、午後授業が終わってから、2時か3時頃から暗くなるまで...暗くなるとボールに石灰を塗ってノックをやっていた。
慶応に入ったときは、専用グランドがなく、方々のグラウンドを借りて練習、グラウンド探しはマネージャーの大きな仕事。キャッチャーのプロテクター、レガーズ、マスク一式を運ぶのは下級生の仕事。それも、二組しか無かった。その内に、今の矢上にキャンパス予定がグランドになった。小石の混じった長方形のグランドだった。
練習はほぼ全員が集まった処で、全員でグランドを大体、3週ランニング。軽いラジオ体操、キャッチボール、大体、50球。次は、3人一組でトスバッティング、一人20本。
さて、それから待望のバッティング練習、1塁側、3塁側の2ヶ所、守備位置には二人ずつで守る。余った部員は1塁側、3塁側に横1列に並んで、バッティングを見守る。高校は当時、外野の土手の上で球拾い...フリー・バッティングは約20人のユニホーム・メンバーが1人、5本、4回=20本。まあ、ぴったり5本でやめる選手はいない。「良い当たり、5本…」という感じになってしまう。バッティング・ピッチャーはコントロールの悪い奴は嫌われる。 大体、投げるボールは、シュート回転をして行く。個人差はあるが、えげつなくシュートするやっは、バッティング・ピッチャーには嫌われる。打ちにくいし、打球が飛ばない。フリー・バッティングが終わると「1か所バッティング、又はレギュラー・バッティングと言ってゲーム形式バッティングで、ピッチャーは2戦級の調子のいい者が投げる。大体、一人4打席位である。そして、守備練習、テーマ(ゲッツウとか...)を決めてやる。
さて、これらが終わると、2軍のフリー・バッティングである。この間、1軍の選手以外は、「声出し」で1軍の練習を応援する訳だ。僕の大学時代は、1年から3年までが最後の早慶戦時代のキャプテン阪井監督、3年時に稲葉監督に替わった。稲葉さんは、ノンプロ「トキコ」の監督を経験されていた。この時から練習方法が変わった。ネットをふんだんに使いゲージを作り、横からトスをしたボールを打つ。ネットは太いビニール紐の網だった。当初は2ヶ所位だったが、今では室内練習場を含めて5ヶ所位あるのかな?前記したフリー・バッティングの待っている間、このトスバッティングがやれる。これは授業のある学生野球ではすごい効果的な時間の使い方と練習量の増加になっている。個人個人が自分の練習をする時間なんてなかった。ピッチイングマシーンも凄い進歩だ。今殆どの学校が2~3台持っている。昔は、人が投げていたが、大体5人位で100球になって仕舞い、コントロールの良い人が投げないと時間ばかり掛かってしまう。今は、時間で交代するか1回で10本位打ち、それを4回位打てる。雨の日でも、室内練習場があり、トスをして貰ってのバッティングは十分に出来る。我々の時代の10倍位のバットスイングの量だ。
オリックスの中田君がコーチ時代、キャンプ中、「一日3000本バットを振れ」と教えていたそうだが、朝から晩までやっていたらその位の素振り数は出来ると思う。今度のWBCの若い選手は、一日5000本位スイングをして居るのじゃないかな?
兎に角、野球は道具も、お金がかかるし、設備にもお金が掛かる。それでも、世界で広まって行くのだから魅力的なスポーツなのだ。
体のつくり方も、随分、変わって来た。昔は、高校生の年頃には、ウエイト系の体つくりを指導していたが、今は、ストレッチ系の筋肉を固くしない様なトレイニングが主流だ。子供には、小さい頃から、色んな運動をさせて、その中から適性に合ったスポーツを選ばせるように成ってきた。僕は、ワイフや恵の関係で、リハビリテーションについて割合に詳しいが、リハビリに終わりはない。よく、骨折などで入院して、一応歩けるようになるとリハビリは取りあえず終わりです...なんて話を聞くが、要は、それからが始まりだ。毎日、少しずつでも続けることが大事だ、先日、ある昼食会で、股関節を手術した人が、「マスさんに言われた事が一番役に立ちました...」と言って呉れた。プロ野球の選手の練習を見ていると、「ゴム紐引き」「プラスチックポール乗り」「足上げ」「腹筋」「片足立ち」などに時間を掛けている。女子ゴルフも体作りにみんな相当時間を掛けていると思う。この15年位随分,体作りや練習の仕方が変わってきている。
P,S
*幼少期の体作り 体幹重視
*ビニール紐のネット
*ピッチイング・マシーンと高校生の金属バット
*室内練習場 練習方法
*ポジションごと向けのグローブ、ミット、スパイク


‘23-3-7 “Diary 194”   

2023-03-06 23:09:43 | Massy's Opinion
  • Massy’s Opinion

*2月の情勢
今年の2月は、何か、寒暖の差が激しい2月だった様な気がする。珍しく我が庭の白の沈丁花が蕾を持ち、早く咲かないかな と見守っていたが、蕾は硬いまま2月が過ぎた。
コロナは2類から、5類に分類が変わると発表されて世の中少し変わって来たようだ。タクシーのドライバーさんに話を聞くのが一番いい。しかし、町の人出は時間帯が変わった様で,コロナ前のように夜遊びする人は少ないようだ。
政府は物価対策のように賃上げを煽っているが、国民も考え方を変えた方がいい。よく商品を何処が作って居るのか?見て買わないと、ブランドは変わらずに製造元は変わっている商品が多くなっているような気がする。
ウクライナ問題は、何か季節替わりを待っているのか?ニュースが少ないのでよくわからないが、進展、は無さそうだ。とにかく早く終わってほしい。
国内は、相変わらずの旧自民党スタイルの岸田型で、安倍政権が長すぎたのだろう。誰か15年先の日本の形を立ち上げる人は居ないのか?寂しい限りだ...
*2・16 Stic  第5回 Web セミナー
早いもので、早稲田大学スポーツ学部広瀬教授の立ち上げたSticのセミナーも5回目を数える。今回は、靏池先生が中心、恵はサンノゼからWeb参加、サイトを見ている人も少しずつ増えている様だけれど、専門的すぎるのは、仕様がないのかも知れない。 

*2・19 鈴木エイト講演会 樋脇 岳 吉田はるみ議員も参加。
旧統一教会 チェックの鈴木エイト氏を講師に地方選準備の後援会。会場は浜田山会館 入場料は500円 130人位集まったかな。今、話題の中心人物の生の話外見から想像していたより、鈴木エイト氏は正義感の強い人だと感じた。それにしても、宗教と政治の問題は難しい問題だ。歴史的に見て、すべての戦争は、宗教が絡んでいるものが多いのだから…
吉田はるみ議員国会を体験して、一回り自信がついた様に見えた。「有料でもいいな」という感じの後援会だった。

*2・21 日吉倶楽部 総会・壮行会・講演
新制高校になって75年、慶応高校の野球部のOB会の年次総会に合わせ、福沢諭吉センターの都倉先生の講演会慶応野球の歴史についての講演会も合わせ、三田山上の北館ホールで開催された。新塾長も来られて、ご挨拶をして呉れた。これも、今度の選抜大会出場の効果の一つだ。Web配信もしているし、見ている人は相当に多いだろう。山食で懇親会、さすがにビールは出たが、缶ビールは僕には味気なかった。兎に角、参加者の中で最年長だから考えされる…
*八代教授と懇談
日吉倶楽部総会の前に14時からかねて約束をしていた、「日産・ルノーアライアンス オーラルヒストリー」を書かれた八代教授と2時間ばかり、談話室で懇談した。「よく色んな人と話し合われましたね...どんなルートでアプローチされたのですか?」と僕の読後感で抱いた疑問を話し、懇談を始めた。あの本の中には、ゴーン以前の人は出て来ない。矢張り教授も僕と20年歳が違うし、このジェネレーション・ギャップはどうしようもない。教授もよい受け取り方をして貰い、僕には有意義な懇談だった。

*2・23 日本橋室町 砂場
無心会(ウラナシ会)のメンバーアメラグのK君からレスのY君が「甲子園での高校野球部の話を聞きたいと言っているから付き合ってよ...」という電話。場所は、室町のそば屋砂場 おおさすが日本橋育ちの連中もちろん異論が有る訳もない。久しぶりで砂場へ行った。Y君が色気がないと詰まらないだろうと硬式テニスのOGを呼んで来た。4人で結構、飲んだ。野球の話は長くなるので、この前にブログに書いた「サヨウナラ保田忠明君」のブログを持って行った。「野球の話は後で読んでよ...寄付を頼むよな、一口でいいから...」
実は、10日位前にヨット部のW君から同じような話があり、K君と3人で矢張り、渋谷の鳥銀で飲んだばかり...野球部の甲子園選抜は「お陰様で...」と言う様な効果ありだ。

‘23-2-20 “昔と現代のトレーニング方法の違い”

2023-02-20 22:39:06 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*僕の経験: 
さて、88歳を無事に過ぎて、良く生きて来たものだと思う。色々、振り返る事が多いが、本当に良い先輩と人間性に優れた先輩に出会った事に感謝しかない。太平洋戦争も機銃掃射に会ったり、東京大空襲に会ったりしながら、富士山を眺め、富士山の大事な役割も知ることが出来た。何時も米軍の飛行機は我が家の西北の方から東京の中心に向かって来る。機銃掃射は殺されるという感じより、グラマンの操縦士が良く見えた事にある種の感激を持つようだった。屹度あの時の操縦士は、子供だと解ってワザと離れた畑を撃ったのかもしれない。あの頃は、警報が解除に成れば柏の宮公園で草野球だ。近所の子供たちが10人位集まってくる。
自分自身成蹊中学に入って、直ぐ野球部に入った。当時は、学制改革のすぐ後で、旧制高校の野球部と一緒の練習で、高校の後、中学生の練習で硬球から軟球に変わると言う様な練習だった。まあ、球拾いから自分達の練習と云う様な具合。練習前のランニングは高校生と一緒。
まあ、くたびれて暗く成る迄...帰りは高校生と一緒、駅前のラーメン屋で一杯35円のラーメンが美味かった。家へ帰れば、直ぐ風呂に入って寝る。と言う毎日。野球のトレーニング何て全然やらなかった。慶応高校に入ったら、部員が60人もいる。さすがこれが慶応の野球部かと驚き、これは並の事じゃレギュラーに成れないな、と外野の土手の上で球拾いに明け暮れた。そして、やっと自分で野球の練習をしなければ、と言う気に成った。2年の夏休み7月10日から自宅で練習を始めた。
午前中9時から永福町迄往復約5kのランニング、バットスイングを400本。
片手ぶり、右、左各50本水平振り、インコース高めを100本、真ん中ベルトの高さ100本、アウトコース低目を100本の400本である。此れには、一振りずつ丁寧に振るので、2時間掛かった。これで、午前中、一杯掛かってしまう。この頃は、スイングバットもなく、バットに鎹を4本打ち込んでスイングバットにしていた。バットはアメリカ製のルイスビル製のバットを1350円で買った。日本のバットは確か300円位だった。8月1日からの夏練習に行った時、本当にバットが良く振れた。アメリカ製は音が金属製の様なキーンと云う音がする。直ぐ監督の目に留まり4番に抜擢された。この時ほど、努力の大切さを身に染みて感じた事は無かった。此のバットは、当時、一緒に球拾いをしていたK君に貸したら、詰まって折ってしまった。後日、本人に聞いたら、すっかり忘れていたのでガッカリした。
この夏休みは、小学校の級友に山中湖へヨットを乗りに行こうと誘われた。女の子二人と男の仲良し3人である。散々、迷ったが練習のプランを立てたので断腸の思いで断った。処がそのヨットは運悪く突風に会い、転覆し、女の子は二人死んでしまった。忘れられない年だった。その後、秋のシーズンは、トスバッティングの返球の上に、ジャンプして降りてしまい捻挫をしてしまった。守備練習はしないで、バッティングだけで良いという特別扱いでシーズン終わりを迎え、余り痛いのと如何も少し変形している様なので医者に行ったら「骨折が固まっている」と言われた。それ以来、スキーもスケートもコートバンの靴も履かないようにしている。大学の時は、1年の時に滑り込みの練習をさせられたが、珍しく阪井監督に褒められた。それで、もう1回と思ってやったら、ベースの近くで滑り、右足首を骨折してしまった。慶応病院へ入院したが、野球の骨折の模範的な例と言う事で、入院後から退院するまで階段教室の一番下でモデルとして使われた、骨折の事、リハビリの事マッサージのン仕方等、5月1日の入院から6月28日の退院まで、ミッチリと医学部の学生と同じに勉強させられたのである。この時に、覚えたマッサージは後の野球部生活で投手陣には藤田(元巨人軍監督)さんを筆頭に随分、重宝がられた物である。殆どのピッチャーは肘を痛がっていた。今は皆、ジョーブ手術を若いうちからしてしまうのだろう。随分と変わって来たものだ。
*ワイフの症歴
部品屋からコーヒ―・ショツプに転業して、10年位経った頃か、ワイフが股間節が痛むと言い出した。幸い僕の骨折で慶應病院へ入院していた時にインターンだった先生が開業して居たので、相談に行ったら、「股関節は慈恵の連中が熱心にやって居るよ」と云うので調べたうえで慈恵に行った。整形外科部長の藤井先生は巨人軍の槇原投手の膝関節を手術した先生だった。しかも僕は慈恵で生まれたのである。それで全部慈恵でお世話に成る事にした。叉、縁は恐ろしい物で藤井部長先生は、住まいが浜田山、犬がゴールデン・レトリバーと言う事でスッカリ仲良くなって仕舞った。20年後の再置換も慈恵でズットお世話に成っている。当然、リハビリの事も随分話しあった。娘の恵は人と同じ様な就職は嫌だと、渡米してトレーナーの道を進みだした。
*Megumiの出会い
恵は、FootHill Collegeと言う専門学校に入ったが其処で出会った先生が、MR,Garyと言うアメリカの女子陸上チームのチーフトレーナーを勤めた人。殆ど毎年日本の大學に教えにる。僕と気が会い、我が家へ泊ったりしている。恵はサンタクララのプールで泳いでいて、東京オリンックの水泳チームの監督だったMr,シーハンに可愛がられ我々夫婦も1週間HomeStayさせて頂いた。恵は渡米してから、本格的にトライアスロンを始めたがironman raceを年間5レース位やって居る。小さい女の子で目に付くのか?仕事パーソナル・トレイナーにも役立っているのか?日本からアメリカへこの分野の勉強に行く人はサンノゼへ行く人が多い様だ。日本での著名人も又学校の先生方にも知り合いが多く成っている。
*stic 5回目のシンポジウム(Sporttech Inovetars Consortium)
5回目のオンラインセミナーが開かれた。タイトルはVRに関する事。コロナ騒ぎでVRの利用が各方面で取り沙汰されている。この方面でも例外で無くVRで遣る場合の考え方などが主題にされて居た。最近では、歯医者でも病院でも待合室のテレビは、テレビ画面か映像が掛かっている。5回目のシンポジウムでは、室内のトレーニング用のバイクが大きく写されていた。病院のリハビリ室なんかには全くピッタリだと思った。ゴルフの練習場では狭い室内や売り場の試打室には大分前から設置されている。病院のリハビリ室は未だ余り設備されているのは見た事がない。病院は治療まで、リハビリは専門の所で、と言う風な考え方なのかも知れない。僕にもこの辺りの考え方は、如何あるべきなのか良く解らない。
唯、幾つかの他人より豊富な経験からは、リハビリと言う事は「治療後はこれで終わり」と言う事はない。ズット長く続けなくてはイケないものだと思う。

初めに書いたように僕の高校時代は、僅か20日間の一日400本のスイングで効果が在った。大学時代、阪井監督は夕食後、寝る前に「素振り100本やれ」と言って居た。同期の阪急へ行った中田君はコーチ時代に「一日3000本のスイングをキャンプ中にやれ、そうすればお前は3割打てるぞ」と言って居ると言って居た。投手は、昔は、一日200球位投げていた。今は精々50球位、勿論、ある時期は投げ込みをするだろうが。兎に角、練習方法が変わって来た。先ず、体、全体、要するに「体幹」鍛えることに最重点を置いた練習方法に変わって来ている。

‘23-2-14 “日産・ルノー問題”

2023-02-13 22:48:23 | Massy's Opinion
★Massy’sOpiion
自動車界も何か、すっかり元気がない。トヨタ一強で、そのトヨタもあまり元気のよい話も聞かない。半導体不足とか納期が掛かるとか...中古車の市場では、高値が続いているとか...断片的なニュースしか解らない。
昨年、日野市のモーニング?・フォーラムで与えられた議題は、「自動車業界の真実...」と言うテーマだった。ゴーン問題も事務局から言われたが、極く簡単な事しか、喋らなかった。
今、朝日新聞でこの問題を連載しているが、何か僕には、迫力が感じられない。丁度、僕が日産特販の社長を遣らせて頂いた、‘91年から’99年迄、「日産の最後の戦い」と思って、8年の長きに亙り、陣頭指揮を遣って、対トヨタの失地回復を考えて来た。限られたスペースで深みのない文章に成るだろう。しかし、将来貴重な物に成るかも知れない。

企業は。何の業界でも戦いだ。勝敗はシェアーで決する。いい例がトヨタのジャパンタクシーだ。いま、タクシー業界では殆どこの車に成っている。しかも、価格は20年前の2倍の価格である。正にトヨタはタクシー車が収益車種に成っているだろう。1957年この社会に足を踏み入れ、様々な業界を見て来た。そしていつも僕の回りには野球が付いて回る。一番初めに後楽園でプロ野球を見たのが、巨人・阪急戦何となく阪急が好きになり、ネット裏で見ていたのだが、隣りのお兄さんが阪急の良いプレーにすると拍手をする。大体、後楽園で関西のチームを応援するなんて少ない訳だ。何となく話をするようになった。「阪急フアンですね...」「僕も江戸っ子なのに、ヘソ伝(山田 伝センターハワイから)が好きで...」なんて言う会話だ。「僕は、日産なんです...」「へっ、僕の兄貴日産ですよ...研究所に居るんです」(確か、布施さんと言ったかな)色んな話が弾んだ。その中で「僕は伊勢丹の企画室に居るんです...新規店舗の開設をやって居るんです。だからその土地の不動産の新規申請をいつも見て居るんですよ。」と言う話をして呉れた。この話は、今でもよく覚えて居る。先行指標だ。これは、中古車部長時代には、販売所造りにとても役にたった。僕は、昔は日産が圧倒的に強かった頃から、クラウンが出始めてブルーバード、セドリックがドンドン負けて行く様を目の当たりにして居たので、何とかトヨタに取られたシェアーを取り戻そうと、マツダを使って居るユーザーをターゲットにした。幸い以前は日産を使って呉れた会社なので顔の繋がりは在った。業界の組合や会は色々あるが皆顔出しをした。営業マンには、週1回の曜日と時間を決めて顔出しをするようにと、当時は、タクシ―会社でも従業員対策費野球が盛んだったので、月1回の野球試合と、ゲームが終わったら相手チームと「握手する事」を指示した。勿論、僕も出場する。これは、業界では評判が良かった。代替えは車の調子、耐用年数等で代替えが起きる。一斉代替何て言うのは中々出来るものでは無い。この商売は時間が掛かるのである。3年で100台規模の会社を3社しか受注出来なかった。1度失ったシェアーを取り返すのは本当に時間が掛かる物である。 

香港は、1990年代タクシーが2万台あった。その昔は、日本から中型車の中古を買って使っていた。殆ど日産セドリックである。それが95年位からトヨタのクラウンに変わってしまった。香港政庁が排気ガス対策でLpg化をしようと30台のテストをすることに成った。何とかそのシェアーを取り返そうとして、営業活動をして、この内15台は受注する事が出来た。当時、香港のLpgスタンドはオーストラリア製の注入バルブを使っていた。 トヨタは新車でオーストラリア製のバルブに合わせたが、日産はメーカーが純正に固執した。最終的には全部、トヨタ車に成ってしまった。

1950年代日本のメーカーはヨーロッパのメーカーから製造技術を学ぶ為、日産はワーゲン、いすずはヒルマン、日野はルノーと提携した。その時のルノーは主力が4CVと言う小型車だったが良い車だった。後発の日野はタクシーに売り込もうとしたが、小型車の料金に全長が足りず、前後のバンパーとボデイーの間にエプロンを付けて寸法を間に合わせたが、ユーザーに受け入れられず、早々に撤収して、トラック専門メーカーに成った。

日産は小型車料金に合わせる為に、クルーと言う小型車を作ったが、此の売込みにはタクシー会社の主だった所を工場に招待し、試作の段階で試乗させたり、かってない売り込みを遣った。この車は後部座席のドアーの幅が左右で異なる、後部左側のドアーは右側より5cm幅の広い車だった。今のトヨタのタクシーキャブは此れを取り上げて左側の後部ドアーはスライド式、右側は従来通りのドアーである。これは、それまでの自動車では無かった車だった。

ルノーは日本では良い販売店が見つからず、タバカレラ貿易、三井物産、キャピタル、日英と10年毎にデイ―ラーが変わっている。日本との関係の上では、日産の株主は願ってもない話だった筈だ。しかし、ルノー自体がフランスの自動車メーカーが経営不振で再編成されて、「公団」になった訳で、官僚的な体質だった。今度の持ち株比率の対等は、ルノー自体が経営不振で日産の株の保有が出来なくなった為だろう。ルノー―保有の日産株28%がどこに持たれるかに依って日産の将来は左右されるだろう。日本が世界と競争して行くうえで産業の形が如何言うものが良いか、政府の態度が明確に解らない。通産省も運輸省も外国の状況は良く解って居ない。企業の再建も国家の再建も同じ...ゴーンのコストカットは不動産の売却と簡素化した組織の作り直し、要するに縮小しかなかった。アメリカ、カリフォルニアのガソリン車規制は2035年と言われているが、産業用車両を含めた原動機の実態を良く見つめ直す事が必要だと思う。今この原稿を書いて居る時、「ルノー・日産・三菱連合でインドに進出」と言う記事が知らされた。2045年と言う。カリフォルニア規制のガソリン車禁止が2035年一体自動車業界はどうなるのだろう?人口の多い国、輸出の為に海の近い国、が発展するのは間違いないだろう。

’23-2-7 “Diary 193 “

2023-02-06 22:00:07 | Massy's Opinion
★Massy‘sOpinion
*1-5 ニューハート 検診
昨年6月末 ペース・メーカ―を入れて、早や6ケ月を経過、指示された検診の日。
指定された13時に病院に行く。 ・血圧測定 自分で遣る。機器は、使い慣れた物。
レントゲン、心電図を取り、14時予定通り施術したK先生の部屋へ...兎に角、良く合理的に設計された病院である。 事前に取ったデータが診察室に全部回されてくる。それを見ながら先生が説明をして呉れる。自分では、多分、順調だろうなと思って居たが、特に異常なし、順調とのこと。矢張り、御宣託を聞けば、一安心。僕よりもワイフの方がホットした見たい。ペースメーカ―のモニターが家のベットサイドに置かれているが、異常値の場合、「先生の処(病院)へ届くのですか?」「そうです」と言う事。素晴らしいシステムだ。今度は7月ペースメーカーのチエックがあるからもう少し詳しく聞いて見よう。
*1-11 Jazz Bird   ShimacoOshimaカルテット
スケジュールが変わって11日に成った。お店休みの日でスタッフは居なかった。ママが1人。お客はいつものシマコの常連でほぼ満席。ドラムの佐々さんの関係か?スエーデン大使夫妻が来る。奥様がジャズのプロ級のアマ。3曲ほど歌った。最後はダンシングツーチークツウチークで大使とduet 凄い盛り上がり...とてもいいライブだった。
*1-27 選抜発表 旧友と渋谷鳥ぎん
春の選抜出場の発表日、テレビで見ようと楽しみにして居たが、それよりも楽しい大学同級アメラグのK君から、「ボートのW君と渋谷で会わない?」と言う誘い。いつも電話で長っ話をしているだけなので、一つ返事で会う事に...場所は、「鳥ぎん」14時から16時半迄、久しぶりによく飲んだ。話が合うと言うのはいいものだ。お互いに、コロナで足止めを食い友人も少なくなり、気の置けない仲間で、選抜のニュースは、スマホでキャッチ、又盛り上がり長居をしてしまった。帰り道、買いたい物が在ったので、ロフトに寄って来る。大分人でも戻って来たような感じがした。
*1-28日吉倶楽部総会Web
昨日のお祝い、選抜出場を見越しての「日吉倶楽部総会」執行部の皆さん、三田倶楽部の総会とダブルで日程調整、ご苦労様でした。僕は、Webで参加...チョット参加者が少なかったな。天野会長本当にご苦労様。新しい形のクラブの運営、定着を祈って居ます。これで、春の大学も広瀬新キャプテンの下、いい野球、いい集中を見せて欲しい。
*1―30 日本橋 砂場 旧友と会食
又、今日もアメラグのk君から、室町の砂場で昼飯を...葉山からレスのY君が出て来るから...と誘いが来た。勿論、即答。Y君は、硬式テニスのOGを声掛けて4人で昼のみ。
高校野球の話が聞きたいとの事。矢張り、高校野球の甲子園出場は、OBに与えるインパクトは大きい。寄付も応援をお願いする。暗い世の中、我々、スーパーOBには希望を持たせてくれる。久しぶりの日本橋、5年振り位かな?三越より神田より室町には、未だ昔の風情を残した一角があるアナゴ専門店もある。ヤッパリ 昔は良いよな...
*P,S 去年の“Diary”を読み返してみた。基本的には、”Diary”日にち毎に出来事を書く事にしているが去年は、日にち毎に成って居ない。それだけコロナが真っ盛りだったと言う事。今年は、人の集まりが多く成っている。春遠からじ...ウクライナが早く片着くといい。


'23 Index

2023-01-31 15:21:26 | Massy's Opinion
‘23-2-1
★Blog Massy-Academy Index   ‘23―2-1
*Blogも書き続けて月日が唯過ぎていく。コロナ以降社会生活のペースが変わって来て、考え方も、感じ方も変わって来た。御覧頂く方に’22年分は、
★MassyOpinion, ★Megu‘sSportsに分けてタイトルの一覧表にして記載した。
*Massy’sOpinion
22-12-20 中古車輸出のあれこれ.docx"
22-12-13’通行区分あれこれ.docx"
22-12-6 ”Diary 191”.docx"
22-11-22日野プロジェクト... .docx"
22-11-15 講演 原稿.docx"
22-11-8 読後感.docx"
22-11-1Diary 190.docx"
22-10-18 最近考えること.docx"
22-10-11ジャズの事。.docx"
22-10-4 Diary 189.docx"
22-9-20 転業のプロセスⅢ .docx"
22-9-13 転業のプロセス Ⅱ.docx"
22-9-6 Diary 188.docx"
22-8-23 転業のプロセス.docx"
22-8-16 英語のメニュー.docx"
22-8-9 銀座 和光 docx"
22-8-2Diary 187.docx"
22-7-19世情雑感.docx"
22-7-12 安倍元総理事件と宣教について.docx"
22-7-5 Diary 186.docx"
22-6-21選挙結果.docx"
22-6-14 三田評論.docx"
22-6-7Diary 185.docx"
22-5-24 犬に魅せられて70数年...ⅲ     .docx"
22-5-17犬に魅せられて70数年ⅱ.docx"
22-5-10.犬に魅せられて70数年...1docx"
22-5-3 Diary 184.docx"
22-4-19 読後感.docx"
22-4-12読後感「シリコンバレーで結果を出す人は何を勉強しているのか.docx"
22-4-8 Diary 183.docx"
22-3-15 Documentary 箱根路 3.docx"
22-3-8 Documentry 箱根路 2 (自動回復済み).docx"
22-3-1 Diary 182.docx"
22-2-15 Documentary 箱根路.1 docx"
22-2-8 偲ぶ!慎太郎  ’22-2-8.docx"
22-2-1 Diary 181.docx"
22-1-16 letter to shioji.docx"
22-1-12 磯村先生.docx"
22-1-4 Diary 180  ’22-1-4.docx"

*Megu’sSports
'23-1-31Annual Visit Tokyo  .docx"
'22-12-27”2022 High Light.docx"
'22-11-29 “2022 Ironman 70.3 World Championship”docx"
'22-10-25Athletes.docx"
'22-9-27“Exercises are Supplements” .docx"
'22-8-30 __Perfectな医療システム__ .docx"
'22-7-26“Got Corona…”.docx"
'22-6-28シリコンバレー。。。文書1.docx"
'22-5-31 Technology into Sports.docx"
'22-4-19Anual tokyo visit Finaly.docx"\'22-2-22Year of Tiger.docx"
'22-1-25 “Webinar 101” .docx"

★Blog Massy-Academy Index ‘21ジャンル別 一覧   
(‘21-12-20 R/W)
URL
  • ・http://massy-academy.blog.ocn.ne.jp/ ('14年11月30日迄)
  • ・http ://blog.goo.ne.jp /massy-academy('14年11月1日以降)
  • ・Facebook  増田 弘
  • ・you tube   日野市モーニング・フォーラム第147回「自動車業界...」


”サヨウナラ保田忠昭君”

2023-01-25 14:50:11 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*三田倶楽部からのメールで保田君の訃報が届いた。半月位前に仲間の薄君から保田君の亡くなった事は連絡が在った。塾高の時は1年下の5回生。新制高校時代に成り、塾高が初めて夏の大会で、神奈川県代表に成り、甲子園に行った時の3塁手だった。
*真面目な男で、正義感の塊の様な男だった。通称 「ヤスコウ」 あだ名は「熊公」。
考え方は、極右的 と言ってもそれをひけらかす訳ではない。頭が良く、気力が物凄い。礼儀正しい男である。この2~3年体調が良くないと言う事はきいて居たが、何でもリアルタイムで話し合える仲間が一人減ったと言う事は限りなく寂しい...
*昔の事が、走馬灯のように思い出される。何と言っても、1番は高校1年の時の所謂千本ノックだ。2番は大学1年の時、野球の練習を休まずに済むように、僕の取った学科を教えて、僕の家へノートを取りに来たこと。夜、10時ごろ家へ真っ暗な処、ランニングしながら来たこと。3番は2003年だったかな、当時高校は館山で、春期合宿をしていた。何とか強いチームにしたいな...当時、中林君と言う左の好投手が居た。其の合宿に我々4人でチームを組んで押しかけコーチに行った事である。 少し、詳しく記憶の範囲で項目ごとに綴って見よう。
*千本ノック
当時、大学野球部と高校野球部の関係は、今ほどスムースではなかった。普通部と商工の野球部があり、商工の方が強かった。或る時は、東京代表に普通部と商工の2校が東京代表に成った事もあったそうだ。
新制高校に成り学校が日吉に移り、神奈川の学校が東京代表に成るのはおかしいと当時明治高校の監督だった島岡さんがクレームつけ、慶応は神奈川に行き、明治高校が東京代表に成ったとか...その頃、夏の試験休みの時期、大学の野球部員はそれぞれの出身校にコーチに行く事に成っていた。慶応高校には後の5回生の監督をされた加藤さんと普通部でバッテリーを組んでいた小野さん由来は解らないが「饅頭さん」というあだ名の先輩がコーチに来た。当時のグラウンドは、今の工学部のある処に在った、通称「嵐が丘」と言われたグラウンドで,小石混じりのグラウンドだった、練習前のある時間小石取りを遣らされたようなグラウンドであった。慶応高校は何となくショートには巧い選手が多いが、3塁手にはいい選手がいなかった。そこへ出て来たのが1年生の「ヤスコウ」だった。4時ごろだったかな、個人ノックが始まりその対象はヤスコウ...当時、読売巨人軍の茂林寺の猛練習とか、いろんなチームの凄い練習の話を聞いてはいたが、僕の長い野球生活の中でも初めての千本ノックだった。ヤスコウは厚い胸板でボールを止める。ノックをする「饅頭さん」の手から血が滲む。本当に凄い個人ノックだった。決して華麗なプレーではなかったが、兎に角、ボールに向かって行くヤスコウの気力は凄かった。あれから一皮むけた様な兎に角、「体で止める」彼のプレーは、監督以下チームの信頼を得て立派に甲子園で頑張って来た。ノックが終わったのは、日が暮れてボールが見えなく成った頃だった。
*ノート取り
大学の野球部に当時、三田倶楽部の山岡会長、高校野球部長の長尾先生に大学野球部に入れと言われて6人、入部したが、予想外に外部から著名な選手が入って来た.皆、デカく今の大谷君みたいに2刀流が衆樹、中田、日野3人はプロ入り、内藤、石黒、石原、土河、等甲子園出が多く、慶応高校は肩身の狭い事、2軍の打撃練習を楽しみにして居たら、阪井監督に「慶応高校は打たんでいい...」と言われた。「監督、学校で打たんでいいなんて言わないでくださいよ。せめて増田打たんでいい...と言ってください」、頭にきて山岡さんに言ったら山岡さんが直ぐ阪井監督に怒ったらしい。阪井さんに呼ばれて凄いお説教をされた。そんな事があって甲子園へ出て居ないと大学では駄目だなと思った。5回生は甲子園に出て居るのでまとまりも良く、黒松主将を中心に一チームが入って来た。何とかレギュラーに成って欲しいなと思ったが、黒松君と保田君は経済学部に進めた、しかも、N組である。当時、高校からの内部進学には経済は70点くらいの成績が必要だった。そして、ドイツ語とフランス語で80点以上の組がG組とN組と二クラスあったが二人ともN組だったのだ。
僕も、N組だったので、練習を休まないように試験は本の持ち込みが許可される科目ばかり取った。しかも、午前中の授業を重点にした。保田君の家は偶然にも西永福我が家と近い。それで、学科の取り方やノートを二人に教えたのである。保田君は家へ来た時、汗をかいて来た「如何したの...」聞いたら「練習の為、走って来たんですよ」その位熱中する男だった。あの晩のヤスコウの姿は鮮明に覚えて居る。
*押し掛けコーチ
僕らが会社を辞めてから、高校の野球を見に行く機会が増えた。僕は、色んな事があって「高校の監督も専任で先生がいい」と言う考えだった、やっと上田監督が来て体制が出来上がった。選手も特に、左腕中林君が入って、上田監督も気を入れて色んな取り組みをして、館山で春合宿を組んでいた。日吉倶楽部との接点をタイトのしようと思い、ショートをやって居た薄君に声を掛け合宿に泊りがけで行く事にした。一つは中林君に「スローカーブ」を覚えて貰いたかった事がある。それには、長島に8号ホームランを打たれた林薫(神戸高校)に来て貰おうと誘った。彼のブルペンキャッチャーは殆ど僕がやって居た。当時、林、広野、高橋栄一郎、巽の4人が主戦投手陣だった林君はスピードはそれ程ではなかったが、コントロールは良く、特にカーブの速い球、スローカーブが絶妙だったのだ。合宿では、一泊したが、翌朝七條部長先生が我々の部屋に来て、「昨日は、とてもいい日でした。部員全員が感激して居ました」と丁重に正座してご挨拶を頂いた。帰京してから3人に気が付いた点をレポートして呉れと言ったら、ヤスコウは曽田香料、林君は鐘化でそれぞれ責任ある立場で仕事をして居たので、素晴らしいレポートをPCで書いてくれた。薄君は手書きだったが、僕が全部まとめて上田監督と七條部長に渡した。次の世代の勝本君達に同じような事をやって呉れと云ったのだがキャンプには行ったもののゴルフ会に成ってしまった。今年も多分選抜に行けると思うが、あの押し掛けコーチは「ヤスコウ」にもいい思い出だったろう...
*ヤスコウ... 大学の23年度キャプテンは,広瀬君だよ。僕の記憶では、幼稚舎出のキャプテンは、黒松君以来だと思うよ。ヤッパリ君達の甲子園行きは、慶応野球の中で大きなエポックだったな。黒松キャプテン、保田新人監督の1958年以来だ...
P,S
当時、浜田山には、8回生鶴岡、(後、塾高監督、甲子園)会社福岡日野でも、いいチームを作っていた。12回 宮川、36回 友成(アフリカ野球)等が近所に居た。
                                  *   早慶戦 100週年 神宮球場にて
                                 2003・11・26
                  左から 保田君、徳丸大先輩、僕                 

”先生の言葉 2“     ‘23-1-16

2023-01-16 21:49:14 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*「人生 行旅の如し」と故人も言へり

正に教師の如きも行旅の如く人渡し場の渡守の如し

君ら教子達を学校と言う船に乗せ 卒業と言う向う岸に渡し了ると共に 旅人の渡守を忘れるる如く教師も 又君らより忘れらるるとせば寂しさ譬もなし

されど 我が限りをつくせる魂が教子達 君らの心一隅に宿され 永久に生きて うるほいて共に もゆる温かさを持つとせば 師の喜び限りなきものあるべし

いつかは別るるべき宿命を持つ我と教え子達よ 清らけく 美しく豊かに あの大空をます巨木のそれの如くに生き抜くべし 秋来たらば公孫樹の一時に落葉すれど 春と共に限りなき生命の伸長を若葉のみどりに見せるであろう

我が愛する教え子達よ 君達も又永久に かの大樹の大空に屹立する姿たるべし    五年を送るにあたり 春の暖かき光を浴びつつここに一葉の写真を取りぬ

幾年か後 君たち教え子が 大人となり 老人となり 又白髪の老翁となりたる時 これを見て その昔 高井戸なる小学校に就学云々せし 生徒たりしを思い その懐かしく愉快なるは譬えるものなきを信ず

教え子たちよ 我が愛する少年達よ 幸あれ永久に

我が教え子たちよ 初五了るの日に 春の陽を浴びつつ

 

*僕は、旧芝区の愛宕小学校に入り、1~2年を過ごし、3年~4年を群馬県桐生市の昭和小学校に疎開で入学し、5年~6年を浜田山に帰り、高井戸小学校に転校した。桐生は太田の中島飛行機の工場がアメリカの爆撃目標に成り、空襲が激しくなった。両親は浜田山に引っ越していたが、未だ桐生より田舎だったので、浜田山に帰って来た。第二次大戦の終戦の玉音放送は浜田山の家で聞いた。6年生の時、神田川へ遊びに行き、警戒警報から直ぐ空襲警報に成り、グラマンの戦闘機に機銃掃射をされた事がある。此の小学校時代は、とても印象に残っているが、それは佐藤先生との出会いがあったからだろう。教わった事は、「本を読む事」、「誠実」、「感謝」である。文学青年だった先生は、國木田独歩、島崎藤村、夏目漱石等を良く勧められた。

中学受験の時、母親が先生に家庭教師を頼んで家に来て貰った。その時、僕が作って居たこの「先生の言葉」のノートを見て、凄く喜ばれた時の事を今でもよく覚えている。先生から見たその当時の僕は、落ち着きがなく、先生の言う事を聞く子には見えなかったのだろう。先生のその後の消息は解らないが、風の便りに慶応の文学部に入り、青山学院小学校で教鞭を取られた様なことを聞いた事がある。そうそう、三田の丘の図書館の前で、一度、お会いした事があった。余り、話もしないで別れてしまった。この2回に亙り載せた「先生の言葉」は旧仮名使いの古い文体だが、とても奇麗な文章だと思う...


“先生の言葉 1”   ‘23-1-10

2023-01-09 23:31:10 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*最近、超高齢化がドンドン進んでいる。週刊誌等を見ていると、「ボケ防止に昔の楽しかった事を想い出せ」と言う記事が多く出て居る。素直に従って見ると本当に見方に寄っては良い人との出会いに感謝である。友人はもとより、先生方との出会いは、格別だろう。

その筆頭に高井戸小学校の佐藤良夫先生だ。確か、新潟師範を出てすぐの高井戸への赴任だったと思う。文学青年で色々教わったが、勉強の大切さ、読書の大切さを特に教わった。

僕は、それの中から感銘を受けた文章を小さな1冊の本みたいに綴じてある。先ず、ボケない為に其れを書いて見よう。

*此の1冊のノートは我が最良の年 

 愉快に過ごして来た小学校時代の教訓を書き綴ったものであります。

 

*「学問だ。学問だ。何よりもすぐれた学問のないところには、すぐれた個人は生まれない。

すぐれた学問を持つ人は、必ずすぐれた人間であるはづだ。すぐれた学問とすぐれた人間とは、同じものであることを先生は信じる。

皆よ、若き少年よ、すぐれた学問をもって生きぬいてくれ。学問を忘れるな。死んでも死んでも決して学問をわすれるな。

学問は魂だ。学問は魂だ。  若き少年達よ生涯学問への執着をもて。

         1946年10月21日

  『真実の学問だ』 

  『真実の学問を忘れるな』 

 

*みんながみんなの力でみんなの仕事をしているのを、先生は、今見た。

先生は、みんなの力を信じている。さうしていつもその日がくるのだけを待ってゐた。

若き少年よ、若き少年達よ、自分の力を信じてくれ 自分の力を信じてくれ、そしてこの自分をこの自分を自らの手で 丁度芸術家がすぐれた彫刻を生み出すやうに自分自身を其の儘、すぐれた芸術作品として生み出してくれ 先生は、その日だけをまつるのだ。

         1946年10月 (日にち不明)

 

*真実 真実    “花のやうな社会を作れ”

 

人間は真実の上に築いた学問でなければ決して力とはならないと先生はいつも思う。

 誠実 誠実

         1946年11月 (日にち不明)

白露のごとくあれ  真実は必ず 人の胸をうつものである 常に感謝の気持ちをなくさぬよう

                                           


“Diary 192”  ‘23-1-3

2023-01-02 01:48:35 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

‘22年の振り返りと’23年への期待

*一向に収まらない コロナ

寒さが例年より厳しいような気がする。インフルエンザの予防注射もしたが、コロナも収まりそうもない。中国政府は、白旗運動に負けたのか、規制を解除したが、コロナは又大きな波に成って来た様だ。僕はワイフには、「コロナとインフルエンザと同時流行に成るよ」と言って居た。数字の発表は毎日増加の一途を辿っている。ワイフは異常と思われるほどナーバスに毎日のコロナによる死亡者のニュースに関心を持って居る。僕は死亡者の数字だけではもう一つ納得がいかない。例えば、東京を例に取れば、総人口、総志望者、コロナによる死亡者、と云う様な発表をして貰えないかな?年齢別が解ればもっと良い。我が家はTBSファン、井上君数字を読む君も、そんな風に感じないかな?前日比ばかりだと本当にどの位危険なのか、良く解らない。 

*ウクライナ戦争と安倍元総理のこと

本当に22年は、血なまぐさい年だった。世の中の変わり目がこんな形で現れるなんて本当に予想もしなかった。精々、ミヤンマーのクーデターが又起こったのか...と云う位でもう大きな戦争なんて世界では起こらないだろうと思って居た。ミヤンマーは’96年の観光年の時にヤンゴンに行って居るので、内情も少し解って居たので、多少の予測はして居たが、ウクライナとロシアの関係は全く知らなかったので、本当に驚いた。また世界の対応も米英、NATOの連携を見ていると、素早い対応で驚いた。周辺各国の動きを新聞情報で見ていると皆、良識が有るなとは思うが、兎に角、早く辞めて欲しい。コロナが長引いてスッカリ生活感が変わってしまって本当に人生が詰まらなくなってしまった。安倍さん事件も驚いた。長く首相を遣りすぎた結果だと思うが、後日大きな日本の変わり目に成るだろう。

僕は、「一帯一路」が出来なくなることが残念で仕方ない。

*岸田人事の酷さとオリンピック汚職

岸田総理には僕はある種の大きな期待を持って居たが、少なくとも古い自民党に気を使い

過ぎるのではないか?自民党を割る様な心構えで人事を遣ればよかったのに...余りにも酷すぎる身体検査不足だ。ガッカリさせられた。全ての問題に時間を掛け過ぎる。野党も酷すぎるが、若い議員が古い政治の体制に染まって行くのが心配だ。オリンピック問題は、本当にこれも酷い...僕は、甲子園も余りに商業的な匂いが強く成りすぎもう一つ騒ぎに乗り込めない。大体、森元総理も小池都知事もスタンドプレーが多すぎる。神宮の再開発も小池さんは如何言う積りだろう...もう再開発は要らない。人口減少で将来に修繕負担を積み残すだけだ。

*可成りドラスチックなプロ野球界

今年のストーブ・リーグは本当に凄い、インフレーションだ。それと各球団がドラスチックにポジションの補強ポイントを絞っている。又、選手の対応も可成り割り切りが良くなった様に想える。選手後の人生が長いので考え方変わってた様に感じられる。タレント長島一茂さん此の頃随分勉強したな...野球をやって居る時にあの位だったらモットいい成績を残せたでは...と思う。それにしても、日ハムの新球場問題野球界のレベルの低さを露呈したような問題だ。モット勉強しろよ。

*自動車よりも早く世界を変えたスマートホーン

家の恵は、コロナ以前は毎年、年末に帰って居た。此の3年はコロナの影響で帰って来なかったが、今年は帰って来た。毎週、2回スカイプでリハビリのコーチイングをして貰って居るのでそんな離れている感じはないが、我が家のテレビ画面を使ってスカイプ使える。こんな事、然知らなかった。彼女も最近知ったかな...自動車の自動運転も又、一段と研究の余地が広がるのかも知れない。戦争だってドローン戦争の様になって来ている様だ。ワイフもスマホ使い方に自信を持ち始めた。

 

 

 


“中古車輸出のあれこれ”   ‘22-12-20

2022-12-19 21:55:51 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*アメリカ日産から増田商会へ部品依頼

1960年頃、アメリカ日産の社長には、Mr,Datsun事、片山豊さんが成っていた。片山さんは、その後、日産の米国市場拡大に尽くされた人。有名人である。息子さんは、三菱のサッカーでこれも有名な人で、お二人とも慶応の先輩。僕の上司の小林さんは、片山さんに可愛がられて居た。

「小林君、君の部下に部品屋さんの息子がいたろう。アメリカで部品が足りないのだけど、日本の部品屋さんで持って居ないかな?」

「マス公、片山先輩から部品を頼まれたのだけれど...親父さんに聞いて見て呉れ...」

「何で、片山大先輩が、部品が手に入らない無いんですか?そんなもの親父の所にある訳無いですよ。」

「まあ聞いて見て呉れよ...」勿論、無かった。色々原因を調べると、メーカーは3ケ月タクトで生産計画を組むから、「納期が掛かってしまう」と云うことだった。僕にすれば「何てメーカーは融通が効かないんだ...」と思う訳。当時アメリカ日産は体制が来ていなかったのだと思う。よく記憶に残っている事だ。

*香港からのセドリック中古車の依頼

僕の先輩で東アジアの貿易やって居た人がいて、「セドリックの中古車を70台欲しい」と言って来た。70台と言っても「車型、ミッション、燃料等」色んな種類があり同一の車種を集めることは至難である。この時に「ああ、 香港のタクシーは、中古車を使って居るんだな...一体何台タクシーは、或るんだろう」と調べたが、其の後、香港行く機会があり十分な予備知識を持つ事ができた。香港には、20000台のタクシーがあり、90%は、セドリックだった。’97年には、日本国内のシエアーを反映して、80%クラウンに成っていた。この時期香港政庁が排気ガス対策の一環として、30台のLPG車を走らせる言う情報が入り何とかテスト車30台日産車にしよう考えて色々動いたが、トヨタ、日産の15台ずつに成ってしまった。今は如何なって居るんだろう?僕らのプロジェクトは、日産最後の戦いだったように思う。

*バハマクルーズのFantasy のボーイから

多少、時代が前後するが、’93年「ダットサン研究会」(戦後、ダットサン使ってタクシ―営業を始めた人の団体)の旅行でバハマへ行き、クルージングでナッソ―に行ったFantasyという豪華客船である。我々が自動車界の団体だと言う事を知って、若いボーイが車の部品が欲しいと言って来る。「モット詳しく車型、年式、部品番号等解らないと駄目だよ...」と教える。ナッソ―港へ着くと、三菱デリカのバンが旅行会社の手配で待っている.さっきの若いボーイが運転手と何か話している。運転手も解りはしない。大体、こんな話が色々伝わって来る。今では中古車のオークションに外国人が参加しているが、こんな話の中に良い筋の話もある事がある。

*ボリショイバレー団のプリマが中古のブルーバードを買った

この話も古い話であるが、ボリショイレー団が日本公演に来た時に、そのプリマドンナが、中古車を買いたいと話が入って来た。当時は一番大きかった品川の展示場へ連れて行った。ブルーバードの確か2年物位の車を、90万位で買って呉れた。処が領収書を「65万に書いてくれ」と言う。「領収書高く書いて呉れ」と言う話は有るが...「なぜ?」聞いたら、「税関が煩い」と言う。「面白い事が有るな...車の輸出には色んな事が有るな...」

*輸出担当者設置のご案内

僕が中古車部長に成った時、本格的に輸出を遣ろうと思った。大体、事情は解って居たので、新車販売の経験のある次長と課長、それに台湾出身の日本人と結婚している女子を移動させて、チームを造り、「輸出担当者設置のご案内」と言う文書を造り、商社を中心に東南アジアの各国大使館に手紙を出した。これは、猛烈に反響が在った。職場はお客様から電話が多く掛かれば、活気が付く。本当に面白かった。そして、次長と課長には大使館周りをさせた。中国大使館には、台湾出身の彼女を同行させた。次長が帰社して、「部長、K嬢が中国大使館に行くの嫌だと言うのですよ」と言って来た。「台湾生まれと言う事が言葉で、解ってしまうから大使館には行きたくない」と言って居るという。此れも大変勉強に成った。

*中国大使館からセドリックの要望

早速、中国大使館からセドリックの注文が入った。出来るだけ「新しい中古車...」と云う注文である。早速、中古車業界用語で言う「ピンピンの走行キロの少ない車、3万キロの2年物」を選んで持って行ったら、「メーターを7万キロに巻いて呉れ...」と言われた。関税の関係なのだ。登録は都内にある「糧油公司」と言う日本登記の会社である。輸入する国々で法律が異なるし、「輸出は埠頭渡し、FOBの取引に限る」と言う事が解った。

*ミヤンマー観光年を迎える体制に中古車が欲しい

日産特販に移動してから、本格的に輸出をしようと思った。先ず、国内ディーラーの既成概念を変えなくてはならない。幸い、中古車時代に顔見知りだった専務の永田さんは、僕と同じ問題意識を持って居たので、大賛成。役員、部長クラスに中古車輸出市場の大きさを理解させるため、先ず、横浜の埠頭にある船済み待ちの中古車が集荷されて居るヤードの見学にマイクロバスで見学会を開いた。これは、カルチャー・ショックだった様だ。その内に、ミヤンマーの話が何か所からも入って来た。350台ワンロットの輸出なんて対応できるディーラーは無い。さて、幾つもの情報の中から信用できそうな仲介商社を選び、取り組んだ。其の頃には、社内の顧客管理はお客様の会社の簿価で一台一台を管理するシステムが組み上がって居たので、マニュアル・ミッションの車を指示して代替させる事が出来た。細かい事は山ほど有ったが、無事ミヤンマー観光年に向けて対応する事が出来た。この時、ミヤンマーは右側通行、左ハンドルだったが、特別に右ハンドル車を認めたのである。

*さて、今日綴った事は、色んな輸出絡みの記憶に残っている事を書いた。自動車ディーラーは固定費の70%を部品、サービス、中古車で賄えないと安定した経営は出来ない。これは、アメリカでは100年位前から言われて居た事。メーカーは新車を作る処。これから、世界は急速に脱ガソリン・エンジンに進んで行くだろう。自動車産業に従事している人々は、急速に既成概念を脱して行く事が大事だ...こんな仕事をしながら若い人々が、視野を広め仕事を覚えて呉れ、大きく育ってくれた事に感謝である。永田専務は、有名な陸軍軍務局長、暗殺された永田鉄山将軍のご子息で在る。改めて、感謝。


“通行区分あれこれ“    ’22-12-13

2022-12-12 21:26:06 | Massy's Opinion

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*ウクライナ戦争

ロシアのウクライナ侵攻もボツボツ1年に成る。太平洋戦争を肌で知っている世代も少なくなく成って来ている今日この頃である。全くこんな事が起こるなんて想像もして居なかったし、ソ連邦が解体した時に、こんな禍根を残しているなんて、関心も薄かったし,米国とNATOの関係なんて最近の様に詳しくは知らなかった。今では毎日you tubeで戦闘の情報を見ている。ドローンが活躍している様子や核を使わない、何か「人を大事にしようと言う良心がある様」に見える。「民族、領土」が昔からの戦争の元なのだろう。改めて「国連」の弱さを痛切に感じる。

*一帯一路

中国が打ちだした「一帯一路」構想確か、「2049年目標」だったと思う。僕の考えた「通行区分の世界統一」は目標が「2035年」が目標だった。何も確たる理由が有った訳ではない。

およその「エイ!ヤア!」で取り上げただけである。「一帯一路」構想を見て「これは良いな...」「中国主導なら右側通行に成るな...推移を見守りたいな...」と楽しみにして居たが昨今の中国の経済情勢を見ていると「一帯一路は3000年目標」に変わらざるを得ないだろう。世界の自動車産業は、「カリフォルニア規制のガソリン車禁止」に如何言う風にメーカー、ユーザーが対応して行くのだろうか?目下、自動車は「電気自動車」に方向は動いているが、自動車ももっと細分化した部分までの「世界基準の統一」が必要だろう。その第一歩が「通行区分の統一」だと思う。まあ、これも国連レベルでの問題解決が必要に成るだろう。

*香港とメイン・ランドの通行区分

この「一帯一路」は中国の構想通りには進まないだろう。中国の本気度がどの程度なのか?先日、日野市での講演を前にして、香港の状態は、その後、如何なんだろう?と僕らが’97年に北京で開かれた「LPG博覧会」出品のプロジェクトを組んだ時の事を知っている友人に「香港の通行区分は、如何なっているの?」と聞いたところ「昔と全然変わって居ませんよ。メイン・ランドとは、深圳で区分が変わりますよ...」と言う事だった。もうタクシーは日本の中古車を使うと言う事は無く成っている様だ。

この通行区分の問題については、僕のブログに載せた以降、3冊の本が出て居る。

「左ハンドル国産車が日本を救う」 小森正智、小森正隆著 2014年11月発行

               法医学教室メンバー+経営コンサルタントによる

「右ハンドル」        ワシ―リィ・アフチエンコ 著2018年発行

               ウラジオストクの運命と右ハンドル車ドキュメンタリー

他にも「右ハンドルか左ハンドルか人道車系統一運転理論」富沢昭三著 2000年発行

*如何してメーカーの人は考えないのだろう?

上記した通行区分問題は考えて居る人は、色んな立場で居る訳だ。しかし、流通面から考えて居る人は少ない。リサイクル問題は一時期色んな議論が持ち上がり、日産でも解体大手の啓愛社と共同して、方向性を薦めた時期がある。現実に僕は、このプロジェクトに参画して意見を述べたことも有る。しかし、如何しても、中古輸出の業務などは難しすぎて理解して貰えない。或る実際に在った話を書いて見よう。

・kさん、日産自動車の役員から、日産ディーゼル常務に成った人、 日産時代には数々のリコールがあり、其の度に色んな議論をして来た人。

或る時、UDトラックの受注が溢れて、ラインが残業しても、納期が3ケ月位掛かってしまう時が在った。リコールの対象部品は、ラインに供給するので精一杯、リコ-ルに対処するにはラインを止めなくてはならず、役員会の議論が、

「ラインを止めれば受注しているお客様に迷惑を掛ける...」

「すでにお買い上げをして貰ったお客様の車がリコールで使えなく成っている...ラインを止めても使って居るお客様に部品を回さないと...」

「すでにお金を払っているお客様に申し訳ないでしょう...」という議論に成ったそうだ。「ラインを止めれば売り上げが落ちる...何とか部品メーカーに急がせろ...」役員会の結論は、結局、ラインを動かすことに成った。kさんは

「マスさん,如何しても僕の意見は多勢に無勢で通らなかったよ...」と言って来た。

*地球温暖化を防ぐ為 島国の解体車の処理

僕が、’84年ハワイに初めて行った。その時、ハワイ日産の社長に、「解体車は、如何するんですか?」と尋ねたら

「マスさん、大変なんだよ、やっと本土と話を付けて、今月メイン・ランドに4000台持って行くんだよ」と言う話を聞いた。今から、40年前の話である。ハワイは、御承知の通り、何処の島でも自動車以外の交通網は無い筈である。最近の事情は解らないが、地球上の何処の島でも、解体車は積み上げられて居る。メーカーは此の最終処理を考えなくては駄目だろう。‘79年日本プラストの古川専務は、「ステアリングの原料に解体車の資源の再利用を出来ないか?」と言う事で、末端の解体業者の調査に行った事がある。何とパチンコのチューリップを一つ一つ解体している物の純度が一番高く再利用が出来ると言う結論に成った。農閑期に農家の伯母さんがパチンコ台の解体をよくやって居た。メーカーが廃車処理まで考えた車造りが必要だろう。

さて、もう一つ丁度、英国が大不況に陥った頃、日産が英国工場を作るか如何か?と言う時代である。僕が、リース会社を作って居る時代だ。英国からのセールス・マンが誰に聞いたか、僕を尋ねて来た。ロンドンのあの有名な2階建てバスの中古車を2台買って呉れないか?と言う売込みである。1台1千万と言う。どうせ20年位は使って居る償却済の筈だ。僕も何処かの観光バス会社に「リース」しようかと思った。価格の交渉に入ると800万迄、下がった。部品は、以降、「これから30年間保証する」と言う。色々検討したが、車高、転倒角等保安基準に合わない問題もある。と言う事で結局リスクが多いので、止めにした。今でも都内で偶に見掛けるが、改造申請を出し、路線を限定して、政治的に押し込んだのだろう。

この部品の補給体制には、驚いた物だ。これから、カリフォルニア規制が、展開されて行けば、ガソリン車を古く乗り続ける人も居るだろうし、中国が通行区分を変えた時の様に短期間でハンドルの位置が変わるのは難しいだろう。今、車が大変革に迫られて居る時代に車造りの考え方も変える必要があると思う...

 


“Diary 191” ’22-12-6

2022-12-05 22:55:41 | Massy's Opinion

★Massy's Opinion

・11、5~6 早慶戦

如何も神宮球場のコロナ検査は応援に行く気を無くさせる。テレビの放映も多いし、テレビ応援。まあ、僕達の頃のアの熱気は、本当に昔の話に成ってしまった。シーズンを通してみると、2か月間調子を維持するのは難しいな。早稲田は後半、調子を上げて来て、まさかの2連敗、優勝は明治に成ってしまった。応援団は益々女子学生が増えて来て、東大の女子も凄く頑張っている。チアーも各校見事。まあ慶應は選手が皆良く集中していたと思う。堀井監督いいチーム造りをしている。東大も頑張っている。まあまあ良いシーズンだったと思う...

・11,15 ワクチン5回目接種

今回の予防注射の会場は、永福町のおおぞら公演 車が無いので(故障中で工場預け)タクシーで行く。来ている人も、会場の医師、看護師、お世話係も手慣れたもの...佼成会、浜田山病院、おおぞら公園、保元クリニック、おおぞら公園と5回目。

保元クリニックは、一番近いし、歩いても行けるので、区役所に掛け合ったが駄目だと言う。この辺は、本当にお役所仕事。接種率が上がる訳はない。夫婦二人身障者だと言っても駄目。年金は減る、費用は掛かる 本当に頭にくる。

・11,18 Stic 第4回目 オンライン・セミナー

めぐみが主役 鶴池さんとのトーク まあ、まあかな...

・11,20 日野セミナー

朝早く6時半のスタート 色んな会合に参加して来たが、ゴルフ以外こんな集会は経験した事がない。しかし、月1回で147回だから凄いもの...久しぶりの20号線朝焼けの空の下、豊田まで...昔がなっかしく成った。セミナーはFaceBbookからyou tube にアップしてある。小田原外務副大臣、富士高-東大 富士銀行他の職歴、アフ友の小須田君のニュヨーク時代の友人、趣味、トライアスロン、屹度アメリカでトライアスロン覚えたのかな?人の出会い、ご縁、恵は本当に恵まれている...

・11,25 みずほ銀行 来宅

当社担当のEさんの上司が新任で挨拶に来られた、法人担当のEさんの部下に慶応卒の女子、韓国からの留学生、珍しい。これまた新任の上司も慶応卒、珍しい。

 ・11,27 アクアクライブ コージ―サークル

西川、大島、細川トリオ、 シマコ大島君は学生時代、鈴木章治のリズムエースで、ピアノを弾いていたことがあるそうだ。三保敬太郎君みたいな男、その後、保険会社に定年迄勤めて、そののち現役ジャズメンに復帰。最高のセカンドライフを楽しんでいる。

僕のクラスメートに呼び出されて、田園調布の兵隊屋に行った時、呼び出した本人がボケていてすっぽかされた事がある。その時のメンバー未亡人を誘って行って来た。

まあ、お客は10人程度、昔、よく行った店、帰りは更科でおそばを食べて、昔に帰った様だった。コージーサークル、昔、よく行った店あれからもう5年位過ぎた。コロナのStay Homeは本当に貴重なロスタイムだ。


“2022 Ironman 70.3 World Championship”

2022-11-28 22:02:37 | Massy's Opinion

★ Megu's Sports

October 28, 2022;  St. George, Utah

Ironman 70.3 World Championship、7回目の出場。Swim 1.9km; Bike 90km; Run 20.9km。昨年のIronman 70.3 Santa Cruzで、エイジ1位で、出場権獲得。私のWorld Championship(Ironman 70.3でもWTCでも)の目標は、いつも、1)完走; 2)Top 50%。Results: 83rd/259 in Age Group。

・今シーズン、3本目の70.3 。9月のIronman 70.3 Santa Cruzまでは、怪我もなく、良いレースができていた。70.3 Santa Cruzの後、来年の70.3 WCの出場権が取れて、気が抜けたのと、1月からStructureのあるトレーニングをしていて、身体とメンタルと疲れが溜まっていたので、6週間後の70.3 WCに向けてのトレーニングに、ちょっとStruggleをしていた。そんな中で、IT Band/中臀筋辺りを痛めて。3週間ほど、道・トレールで走れなくて。Curv Treadmillで、2−3回の試走ができた程度。レースの2週間前も、まだ痛みがあったので、出るか・出ないか、もし出てもスイム・バイクだけにしようかと迷ってたところ。1週間前になって、カイロプラクターのおかげで、走れるようになる。そこで、レースに行くことにした。行くと決めた、もう一つの理由は、同じようにで70.3 Santa Cruzの後、トレーニングがままならずだった二人の友達が、“World Championshipだから、完走しにいく”って言ってたのに、Encourageさせられたので。次は、レースのプラン。スイム・バイクをAll Outで行って、ランをしない(まだWTC World Championshipが、1ヶ月後にあるので、怪我を悪化させないように)か、スイム・バイクを控えめに行って、ランをサバイバルして完走かと。

St. George, Utah. Very beautiful. San Jose- (flight) Las Vegas-(drive) St. George.  現地到着。コースの偵察、ギアチェック、レースミーティングなど、お決まりのPre-race ルーティン。朝が寒い。レースのプランは、“スイム・バイクを控えめに行って、ランをサバイバル”。レース当日の気温、3.8度。こんなに寒い中で、レーススタートするのは、初めて。この寒いなか、スイムのスタートまで2時間半ほど待つ。スイム、水温17度程。水温が少し低くなってるけど、外気温よりは暖かい。2日前に泳いだ時より、良い感覚。8位でスイム通過。そして、バイク。一旦、陽が登ってくれば、気温が低くても、暖かく感じる。寒いのが苦手な私。いつもレースでは、トランジションをいかに速くするって思っているんだけど、今回は、“バイクで、どうしたら低体温症にならないようにするか”の方が、大切。なので、時間をかけて、トライスーツを変え、ベスト・ジャケット、靴下・toe coversを身につけて、バイクに出ることにした。アップダウンの多いコース。アップは、得意なんだけど、下りで、いつも抜かれる。脚のキレがあんまり良くないけど、予測していたタイムでバイクイン。さてさて、走れるのか?

と思いながら、ランに出る。とりあえず、IT Band/中臀筋辺りの痛みは無し。ランもアップダウンの多いコース。ランのトレーニングができてなかったので、ストライドがオフなのと、ヒビの入っているような道の表面で、足底が痛い。でも、腰が痛くないので、止まっちゃダメ。この時点では、完走が目標で、タイムを気にしてなかったので、足のインパクトを一時的に軽減させるため、所々歩いたりして。最後の下り5キロぐらいのところから、ようやくストライドが戻ってきて、あまり痛みが無く走れるようになった。2時間以上かかるなと思ってたんだけど、1時間58分でランフィニッシュ。全体的に、予想・予定より良しでした。

・レースって、レース毎に違った目標・Expectationがある。World Championshipって、intimidating。特に、トレーニングが、思うようにできてないと、ちょっと怖い。だけど、このレースに出てよかった。出てなかったり、バイクの後でDNFしていたら、すごく悔いが残ったはず。ベストのパフォーマンスじゃ無くても、その日に、私ができるだけできたこと。これも、また良い思い出になる。

 

 

 

 

 

 

 


“日野 プロジェクト 終了”  ‘22-11-20

2022-11-21 22:12:56 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*講演会 概要

「モーニング・フォ-ラム」

          

1.「日野市 モ-ニング・フォ-ラム」 企画のねらい

 ① 「フォーラム(Forum)」とは、古代ロ-マ時代の公共広場、市民生活の中心地で公事のための集会所の意味をもっています。

 ② 市民のために開かれた、生涯学習の場として、地域に貢献し“生きがい”づくりに役立て  「“生き方”のカルチャ-センタ-」として活動します。

 ③ 「問題解決講座」の位置づけとして、「子育て関係・健康問題・企業経営・行政活動・高齢者問題」など幅広く人間関係を深め、助け合いの絆づくりをしていきます。

 ④ 互いの親睦をはかり、異業種交流の場とします。

 ⑤ いきいき・ふれあい塾は、「モ-ニング・フォ-ラム」を基盤に、出前講座として「子育て応援講座」「ライフ・デザイン講座」などを展開していきます。

2.「日野市 モ-ニング・フォ-ラム」 実施要領

  • い つ: 毎月1回 原則として第3日曜日 朝6:30~7:45
  • どこで: 日野市商工会館 3Fホ-ル
  • 受講費: 300円
  • 講 師: 地元で“いきいき”と活動されてる方なら、どなたでも… 
  • 内 容: 講師の“生き方” 
  • 後 援: 日野市 日野市教育委員会 日野ニュ-ス社

3.企画・運営・実施

  • ① 事務局・スタッフ(いきいき・ふれあい塾)

        ・顧  問: 大坪 冬彦  日野市長

        ・塾  長: 林  良健  クレア-レ創研

        ・副塾長: 染谷 元博  (有)つむぎや

        ・專任幹事: 中村 友子  ㈱八王子印刷 

        ・事務長: 本間 博之  アフタ-スク-ル・カフェ

        ・幹  事: 小田原 潔  外務副大臣

        ・幹  事: 奥住日出男  日野市社会福祉協議会会長

        ・幹  事: 池田 利恵  日野市議会議員

        ・幹  事: 古賀 壮志  日野市議会議員

        ・幹  事: 奥住 匡人  日野市議会議員

        ・幹  事: 鈴木 洋子  日野市議会議員

    ② 講師の手配 

        ・地元で“いきいき”と活動している方々の自薦他薦!

        ・「広報ひの」で、紹介された方々の生き方を披露して頂く。

        ・「講話テ-マ」は、講師の“生き方”から抽出します。

    ③ 運営要領

        ・実行委員会は、必要に応じて開催する。

        ・事前準備(広報関係、チラシ制作、会場準備)

    ④ 運営予算【会場費\3,600、告知¥1,000 ⇒ 受講費(1人当たり \300 )】

4.アフタ-フォロ-体制

① 受講者名簿管理

  •  受講者アフタ-フォロ-

*以上がフォーラムの概要である。

始めて林さんから、電話で依頼を頂いたのは、‘21年の12月、ソロソロ1年前に成る。

此処にもコロナの障害が出て、8ヶ月位休会に成って、今回が147回目の再会となった訳である。其の間、僕は何も知らない訳であり、「集会参加者の平均年齢、人数等、どんなテーマで話したらいいのか?」平均60名位の参加者だが、コロナの影響等もあり、「参加者は半数位の成るのでは...」と言う林さんの見通しだった。数回、電話でのやり取りでチラシが出来たが大きなタイトルに成ってしまった。1週間位前から真剣に林さんの意向を組みながら構想を練った。日野は交通の便も良く成っているが、矢張り、30キロはある。兎に角、朝が早いので、最近の暮らしでは馴染めない。東京無線のタクシーを利用する事にした。

前日は、目覚まし時計を3ッもセットして、朝4時半起床、気つけ薬に養命酒一杯とコーヒー一杯、三角チーズ一個で朝食を済ませ、5時15分のタクシー乗った。早朝の国道20号線は渋滞もなくスムーズ。昔は2年間八王子迄通って居た事が、懐かしく想い出された。

林さんご夫妻と2~3人の人が商工会館の研修室で、会場をセットされていた。定刻6時半司会の方の「お早う御座います...」の開会宣言から、林さんの僕の紹介、そして、出番。

まず自己紹介から持論の展開、前回のブログで項目を挙げてあるが、予定の時間を時計を見ながらしゃべった。レモン法の問題で「レモンに欠陥品と言う意味があります、ご存知ですか?」と聞いたが、矢張り、此処でも知っている人は居なかった。無事、時間内に喋り終えて終了。ビデオ撮影もあったし、小田原外務副大臣とのツーショット写真っで終了。

其の後、林ご夫妻と女性二人の5人で近くの喫茶店でモーニングコヒーを取りながら、懇談。皆さん、話は、平均的に良い受け方だった様だ。林夫妻は僕の元居た日産特販時代の社員の親御さん、林さんはビクターの営業研修の責任者、奥様も学校の先生をされて居たそうだ。

久し振りの人前での話、マア、身についた物は、無くならないな...兎に角、一仕事終わった。タクシーの中に、携帯電話を忘れたが、「新星交通さん」僕が帰宅する前に、家へ届けてくれた。外務副大臣の小田原さんはアフ友の小須田君の昔ニュヨーク時代の友人、都立冨士高∼東大、東京トライアスロン協会の顧問、ご自分でもオリンピックディスタンスをやって居るそうだ。僕の娘、冨士高の水泳部、現在、在米でアイアンマンをやって居ます。「おおっそうですか...」此れも又、奇遇だろう。いい一日だった。