- Massy’s Opinion
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- ・Facebook 増田 弘
- ・you tube 日野市モーニング・フォーラム第147回「自動車業界...」

★Massy’s Opinion
*「人生 行旅の如し」と故人も言へり
正に教師の如きも行旅の如く人渡し場の渡守の如し
君ら教子達を学校と言う船に乗せ 卒業と言う向う岸に渡し了ると共に 旅人の渡守を忘れるる如く教師も 又君らより忘れらるるとせば寂しさ譬もなし
されど 我が限りをつくせる魂が教子達 君らの心一隅に宿され 永久に生きて うるほいて共に もゆる温かさを持つとせば 師の喜び限りなきものあるべし
いつかは別るるべき宿命を持つ我と教え子達よ 清らけく 美しく豊かに あの大空をます巨木のそれの如くに生き抜くべし 秋来たらば公孫樹の一時に落葉すれど 春と共に限りなき生命の伸長を若葉のみどりに見せるであろう
我が愛する教え子達よ 君達も又永久に かの大樹の大空に屹立する姿たるべし 五年を送るにあたり 春の暖かき光を浴びつつここに一葉の写真を取りぬ
幾年か後 君たち教え子が 大人となり 老人となり 又白髪の老翁となりたる時 これを見て その昔 高井戸なる小学校に就学云々せし 生徒たりしを思い その懐かしく愉快なるは譬えるものなきを信ず
教え子たちよ 我が愛する少年達よ 幸あれ永久に
我が教え子たちよ 初五了るの日に 春の陽を浴びつつ
*僕は、旧芝区の愛宕小学校に入り、1~2年を過ごし、3年~4年を群馬県桐生市の昭和小学校に疎開で入学し、5年~6年を浜田山に帰り、高井戸小学校に転校した。桐生は太田の中島飛行機の工場がアメリカの爆撃目標に成り、空襲が激しくなった。両親は浜田山に引っ越していたが、未だ桐生より田舎だったので、浜田山に帰って来た。第二次大戦の終戦の玉音放送は浜田山の家で聞いた。6年生の時、神田川へ遊びに行き、警戒警報から直ぐ空襲警報に成り、グラマンの戦闘機に機銃掃射をされた事がある。此の小学校時代は、とても印象に残っているが、それは佐藤先生との出会いがあったからだろう。教わった事は、「本を読む事」、「誠実」、「感謝」である。文学青年だった先生は、國木田独歩、島崎藤村、夏目漱石等を良く勧められた。
中学受験の時、母親が先生に家庭教師を頼んで家に来て貰った。その時、僕が作って居たこの「先生の言葉」のノートを見て、凄く喜ばれた時の事を今でもよく覚えている。先生から見たその当時の僕は、落ち着きがなく、先生の言う事を聞く子には見えなかったのだろう。先生のその後の消息は解らないが、風の便りに慶応の文学部に入り、青山学院小学校で教鞭を取られた様なことを聞いた事がある。そうそう、三田の丘の図書館の前で、一度、お会いした事があった。余り、話もしないで別れてしまった。この2回に亙り載せた「先生の言葉」は旧仮名使いの古い文体だが、とても奇麗な文章だと思う...
★Massy’s Opinion
*最近、超高齢化がドンドン進んでいる。週刊誌等を見ていると、「ボケ防止に昔の楽しかった事を想い出せ」と言う記事が多く出て居る。素直に従って見ると本当に見方に寄っては良い人との出会いに感謝である。友人はもとより、先生方との出会いは、格別だろう。
その筆頭に高井戸小学校の佐藤良夫先生だ。確か、新潟師範を出てすぐの高井戸への赴任だったと思う。文学青年で色々教わったが、勉強の大切さ、読書の大切さを特に教わった。
僕は、それの中から感銘を受けた文章を小さな1冊の本みたいに綴じてある。先ず、ボケない為に其れを書いて見よう。
*此の1冊のノートは我が最良の年
愉快に過ごして来た小学校時代の教訓を書き綴ったものであります。
*「学問だ。学問だ。何よりもすぐれた学問のないところには、すぐれた個人は生まれない。
すぐれた学問を持つ人は、必ずすぐれた人間であるはづだ。すぐれた学問とすぐれた人間とは、同じものであることを先生は信じる。
皆よ、若き少年よ、すぐれた学問をもって生きぬいてくれ。学問を忘れるな。死んでも死んでも決して学問をわすれるな。
学問は魂だ。学問は魂だ。 若き少年達よ生涯学問への執着をもて。
1946年10月21日
『真実の学問だ』
『真実の学問を忘れるな』
*みんながみんなの力でみんなの仕事をしているのを、先生は、今見た。
先生は、みんなの力を信じている。さうしていつもその日がくるのだけを待ってゐた。
若き少年よ、若き少年達よ、自分の力を信じてくれ 自分の力を信じてくれ、そしてこの自分をこの自分を自らの手で 丁度芸術家がすぐれた彫刻を生み出すやうに自分自身を其の儘、すぐれた芸術作品として生み出してくれ 先生は、その日だけをまつるのだ。
1946年10月 (日にち不明)
*真実 真実 “花のやうな社会を作れ”
人間は真実の上に築いた学問でなければ決して力とはならないと先生はいつも思う。
誠実 誠実
1946年11月 (日にち不明)
白露のごとくあれ 真実は必ず 人の胸をうつものである 常に感謝の気持ちをなくさぬよう
★Massy’s Opinion
‘22年の振り返りと’23年への期待
*一向に収まらない コロナ
寒さが例年より厳しいような気がする。インフルエンザの予防注射もしたが、コロナも収まりそうもない。中国政府は、白旗運動に負けたのか、規制を解除したが、コロナは又大きな波に成って来た様だ。僕はワイフには、「コロナとインフルエンザと同時流行に成るよ」と言って居た。数字の発表は毎日増加の一途を辿っている。ワイフは異常と思われるほどナーバスに毎日のコロナによる死亡者のニュースに関心を持って居る。僕は死亡者の数字だけではもう一つ納得がいかない。例えば、東京を例に取れば、総人口、総志望者、コロナによる死亡者、と云う様な発表をして貰えないかな?年齢別が解ればもっと良い。我が家はTBSファン、井上君数字を読む君も、そんな風に感じないかな?前日比ばかりだと本当にどの位危険なのか、良く解らない。
*ウクライナ戦争と安倍元総理のこと
本当に22年は、血なまぐさい年だった。世の中の変わり目がこんな形で現れるなんて本当に予想もしなかった。精々、ミヤンマーのクーデターが又起こったのか...と云う位でもう大きな戦争なんて世界では起こらないだろうと思って居た。ミヤンマーは’96年の観光年の時にヤンゴンに行って居るので、内情も少し解って居たので、多少の予測はして居たが、ウクライナとロシアの関係は全く知らなかったので、本当に驚いた。また世界の対応も米英、NATOの連携を見ていると、素早い対応で驚いた。周辺各国の動きを新聞情報で見ていると皆、良識が有るなとは思うが、兎に角、早く辞めて欲しい。コロナが長引いてスッカリ生活感が変わってしまって本当に人生が詰まらなくなってしまった。安倍さん事件も驚いた。長く首相を遣りすぎた結果だと思うが、後日大きな日本の変わり目に成るだろう。
僕は、「一帯一路」が出来なくなることが残念で仕方ない。
*岸田人事の酷さとオリンピック汚職
岸田総理には僕はある種の大きな期待を持って居たが、少なくとも古い自民党に気を使い
過ぎるのではないか?自民党を割る様な心構えで人事を遣ればよかったのに...余りにも酷すぎる身体検査不足だ。ガッカリさせられた。全ての問題に時間を掛け過ぎる。野党も酷すぎるが、若い議員が古い政治の体制に染まって行くのが心配だ。オリンピック問題は、本当にこれも酷い...僕は、甲子園も余りに商業的な匂いが強く成りすぎもう一つ騒ぎに乗り込めない。大体、森元総理も小池都知事もスタンドプレーが多すぎる。神宮の再開発も小池さんは如何言う積りだろう...もう再開発は要らない。人口減少で将来に修繕負担を積み残すだけだ。
*可成りドラスチックなプロ野球界
今年のストーブ・リーグは本当に凄い、インフレーションだ。それと各球団がドラスチックにポジションの補強ポイントを絞っている。又、選手の対応も可成り割り切りが良くなった様に想える。選手後の人生が長いので考え方変わってた様に感じられる。タレント長島一茂さん此の頃随分勉強したな...野球をやって居る時にあの位だったらモットいい成績を残せたでは...と思う。それにしても、日ハムの新球場問題野球界のレベルの低さを露呈したような問題だ。モット勉強しろよ。
*自動車よりも早く世界を変えたスマートホーン
家の恵は、コロナ以前は毎年、年末に帰って居た。此の3年はコロナの影響で帰って来なかったが、今年は帰って来た。毎週、2回スカイプでリハビリのコーチイングをして貰って居るのでそんな離れている感じはないが、我が家のテレビ画面を使ってスカイプ使える。こんな事、然知らなかった。彼女も最近知ったかな...自動車の自動運転も又、一段と研究の余地が広がるのかも知れない。戦争だってドローン戦争の様になって来ている様だ。ワイフもスマホ使い方に自信を持ち始めた。
★Massy’s Opinion
*アメリカ日産から増田商会へ部品依頼
1960年頃、アメリカ日産の社長には、Mr,Datsun事、片山豊さんが成っていた。片山さんは、その後、日産の米国市場拡大に尽くされた人。有名人である。息子さんは、三菱のサッカーでこれも有名な人で、お二人とも慶応の先輩。僕の上司の小林さんは、片山さんに可愛がられて居た。
「小林君、君の部下に部品屋さんの息子がいたろう。アメリカで部品が足りないのだけど、日本の部品屋さんで持って居ないかな?」
「マス公、片山先輩から部品を頼まれたのだけれど...親父さんに聞いて見て呉れ...」
「何で、片山大先輩が、部品が手に入らない無いんですか?そんなもの親父の所にある訳無いですよ。」
「まあ聞いて見て呉れよ...」勿論、無かった。色々原因を調べると、メーカーは3ケ月タクトで生産計画を組むから、「納期が掛かってしまう」と云うことだった。僕にすれば「何てメーカーは融通が効かないんだ...」と思う訳。当時アメリカ日産は体制が来ていなかったのだと思う。よく記憶に残っている事だ。
*香港からのセドリック中古車の依頼
僕の先輩で東アジアの貿易やって居た人がいて、「セドリックの中古車を70台欲しい」と言って来た。70台と言っても「車型、ミッション、燃料等」色んな種類があり同一の車種を集めることは至難である。この時に「ああ、 香港のタクシーは、中古車を使って居るんだな...一体何台タクシーは、或るんだろう」と調べたが、其の後、香港行く機会があり十分な予備知識を持つ事ができた。香港には、20000台のタクシーがあり、90%は、セドリックだった。’97年には、日本国内のシエアーを反映して、80%クラウンに成っていた。この時期香港政庁が排気ガス対策の一環として、30台のLPG車を走らせる言う情報が入り何とかテスト車30台日産車にしよう考えて色々動いたが、トヨタ、日産の15台ずつに成ってしまった。今は如何なって居るんだろう?僕らのプロジェクトは、日産最後の戦いだったように思う。
*バハマクルーズのFantasy のボーイから
多少、時代が前後するが、’93年「ダットサン研究会」(戦後、ダットサン使ってタクシ―営業を始めた人の団体)の旅行でバハマへ行き、クルージングでナッソ―に行ったFantasyという豪華客船である。我々が自動車界の団体だと言う事を知って、若いボーイが車の部品が欲しいと言って来る。「モット詳しく車型、年式、部品番号等解らないと駄目だよ...」と教える。ナッソ―港へ着くと、三菱デリカのバンが旅行会社の手配で待っている.さっきの若いボーイが運転手と何か話している。運転手も解りはしない。大体、こんな話が色々伝わって来る。今では中古車のオークションに外国人が参加しているが、こんな話の中に良い筋の話もある事がある。
*ボリショイバレー団のプリマが中古のブルーバードを買った
この話も古い話であるが、ボリショイレー団が日本公演に来た時に、そのプリマドンナが、中古車を買いたいと話が入って来た。当時は一番大きかった品川の展示場へ連れて行った。ブルーバードの確か2年物位の車を、90万位で買って呉れた。処が領収書を「65万に書いてくれ」と言う。「領収書高く書いて呉れ」と言う話は有るが...「なぜ?」聞いたら、「税関が煩い」と言う。「面白い事が有るな...車の輸出には色んな事が有るな...」
*輸出担当者設置のご案内
僕が中古車部長に成った時、本格的に輸出を遣ろうと思った。大体、事情は解って居たので、新車販売の経験のある次長と課長、それに台湾出身の日本人と結婚している女子を移動させて、チームを造り、「輸出担当者設置のご案内」と言う文書を造り、商社を中心に東南アジアの各国大使館に手紙を出した。これは、猛烈に反響が在った。職場はお客様から電話が多く掛かれば、活気が付く。本当に面白かった。そして、次長と課長には大使館周りをさせた。中国大使館には、台湾出身の彼女を同行させた。次長が帰社して、「部長、K嬢が中国大使館に行くの嫌だと言うのですよ」と言って来た。「台湾生まれと言う事が言葉で、解ってしまうから大使館には行きたくない」と言って居るという。此れも大変勉強に成った。
*中国大使館からセドリックの要望
早速、中国大使館からセドリックの注文が入った。出来るだけ「新しい中古車...」と云う注文である。早速、中古車業界用語で言う「ピンピンの走行キロの少ない車、3万キロの2年物」を選んで持って行ったら、「メーターを7万キロに巻いて呉れ...」と言われた。関税の関係なのだ。登録は都内にある「糧油公司」と言う日本登記の会社である。輸入する国々で法律が異なるし、「輸出は埠頭渡し、FOBの取引に限る」と言う事が解った。
*ミヤンマー観光年を迎える体制に中古車が欲しい
日産特販に移動してから、本格的に輸出をしようと思った。先ず、国内ディーラーの既成概念を変えなくてはならない。幸い、中古車時代に顔見知りだった専務の永田さんは、僕と同じ問題意識を持って居たので、大賛成。役員、部長クラスに中古車輸出市場の大きさを理解させるため、先ず、横浜の埠頭にある船済み待ちの中古車が集荷されて居るヤードの見学にマイクロバスで見学会を開いた。これは、カルチャー・ショックだった様だ。その内に、ミヤンマーの話が何か所からも入って来た。350台ワンロットの輸出なんて対応できるディーラーは無い。さて、幾つもの情報の中から信用できそうな仲介商社を選び、取り組んだ。其の頃には、社内の顧客管理はお客様の会社の簿価で一台一台を管理するシステムが組み上がって居たので、マニュアル・ミッションの車を指示して代替させる事が出来た。細かい事は山ほど有ったが、無事ミヤンマー観光年に向けて対応する事が出来た。この時、ミヤンマーは右側通行、左ハンドルだったが、特別に右ハンドル車を認めたのである。
*さて、今日綴った事は、色んな輸出絡みの記憶に残っている事を書いた。自動車ディーラーは固定費の70%を部品、サービス、中古車で賄えないと安定した経営は出来ない。これは、アメリカでは100年位前から言われて居た事。メーカーは新車を作る処。これから、世界は急速に脱ガソリン・エンジンに進んで行くだろう。自動車産業に従事している人々は、急速に既成概念を脱して行く事が大事だ...こんな仕事をしながら若い人々が、視野を広め仕事を覚えて呉れ、大きく育ってくれた事に感謝である。永田専務は、有名な陸軍軍務局長、暗殺された永田鉄山将軍のご子息で在る。改めて、感謝。
★Massy’s opinion
*ウクライナ戦争
ロシアのウクライナ侵攻もボツボツ1年に成る。太平洋戦争を肌で知っている世代も少なくなく成って来ている今日この頃である。全くこんな事が起こるなんて想像もして居なかったし、ソ連邦が解体した時に、こんな禍根を残しているなんて、関心も薄かったし,米国とNATOの関係なんて最近の様に詳しくは知らなかった。今では毎日you tubeで戦闘の情報を見ている。ドローンが活躍している様子や核を使わない、何か「人を大事にしようと言う良心がある様」に見える。「民族、領土」が昔からの戦争の元なのだろう。改めて「国連」の弱さを痛切に感じる。
*一帯一路
中国が打ちだした「一帯一路」構想確か、「2049年目標」だったと思う。僕の考えた「通行区分の世界統一」は目標が「2035年」が目標だった。何も確たる理由が有った訳ではない。
およその「エイ!ヤア!」で取り上げただけである。「一帯一路」構想を見て「これは良いな...」「中国主導なら右側通行に成るな...推移を見守りたいな...」と楽しみにして居たが昨今の中国の経済情勢を見ていると「一帯一路は3000年目標」に変わらざるを得ないだろう。世界の自動車産業は、「カリフォルニア規制のガソリン車禁止」に如何言う風にメーカー、ユーザーが対応して行くのだろうか?目下、自動車は「電気自動車」に方向は動いているが、自動車ももっと細分化した部分までの「世界基準の統一」が必要だろう。その第一歩が「通行区分の統一」だと思う。まあ、これも国連レベルでの問題解決が必要に成るだろう。
*香港とメイン・ランドの通行区分
この「一帯一路」は中国の構想通りには進まないだろう。中国の本気度がどの程度なのか?先日、日野市での講演を前にして、香港の状態は、その後、如何なんだろう?と僕らが’97年に北京で開かれた「LPG博覧会」出品のプロジェクトを組んだ時の事を知っている友人に「香港の通行区分は、如何なっているの?」と聞いたところ「昔と全然変わって居ませんよ。メイン・ランドとは、深圳で区分が変わりますよ...」と言う事だった。もうタクシーは日本の中古車を使うと言う事は無く成っている様だ。
この通行区分の問題については、僕のブログに載せた以降、3冊の本が出て居る。
「左ハンドル国産車が日本を救う」 小森正智、小森正隆著 2014年11月発行
法医学教室メンバー+経営コンサルタントによる
「右ハンドル」 ワシ―リィ・アフチエンコ 著2018年発行
ウラジオストクの運命と右ハンドル車ドキュメンタリー
他にも「右ハンドルか左ハンドルか人道車系統一運転理論」富沢昭三著 2000年発行
*如何してメーカーの人は考えないのだろう?
上記した通行区分問題は考えて居る人は、色んな立場で居る訳だ。しかし、流通面から考えて居る人は少ない。リサイクル問題は一時期色んな議論が持ち上がり、日産でも解体大手の啓愛社と共同して、方向性を薦めた時期がある。現実に僕は、このプロジェクトに参画して意見を述べたことも有る。しかし、如何しても、中古輸出の業務などは難しすぎて理解して貰えない。或る実際に在った話を書いて見よう。
・kさん、日産自動車の役員から、日産ディーゼル常務に成った人、 日産時代には数々のリコールがあり、其の度に色んな議論をして来た人。
或る時、UDトラックの受注が溢れて、ラインが残業しても、納期が3ケ月位掛かってしまう時が在った。リコールの対象部品は、ラインに供給するので精一杯、リコ-ルに対処するにはラインを止めなくてはならず、役員会の議論が、
「ラインを止めれば受注しているお客様に迷惑を掛ける...」
「すでにお買い上げをして貰ったお客様の車がリコールで使えなく成っている...ラインを止めても使って居るお客様に部品を回さないと...」
「すでにお金を払っているお客様に申し訳ないでしょう...」という議論に成ったそうだ。「ラインを止めれば売り上げが落ちる...何とか部品メーカーに急がせろ...」役員会の結論は、結局、ラインを動かすことに成った。kさんは
「マスさん,如何しても僕の意見は多勢に無勢で通らなかったよ...」と言って来た。
*地球温暖化を防ぐ為 島国の解体車の処理
僕が、’84年ハワイに初めて行った。その時、ハワイ日産の社長に、「解体車は、如何するんですか?」と尋ねたら
「マスさん、大変なんだよ、やっと本土と話を付けて、今月メイン・ランドに4000台持って行くんだよ」と言う話を聞いた。今から、40年前の話である。ハワイは、御承知の通り、何処の島でも自動車以外の交通網は無い筈である。最近の事情は解らないが、地球上の何処の島でも、解体車は積み上げられて居る。メーカーは此の最終処理を考えなくては駄目だろう。‘79年日本プラストの古川専務は、「ステアリングの原料に解体車の資源の再利用を出来ないか?」と言う事で、末端の解体業者の調査に行った事がある。何とパチンコのチューリップを一つ一つ解体している物の純度が一番高く再利用が出来ると言う結論に成った。農閑期に農家の伯母さんがパチンコ台の解体をよくやって居た。メーカーが廃車処理まで考えた車造りが必要だろう。
*さて、もう一つ丁度、英国が大不況に陥った頃、日産が英国工場を作るか如何か?と言う時代である。僕が、リース会社を作って居る時代だ。英国からのセールス・マンが誰に聞いたか、僕を尋ねて来た。ロンドンのあの有名な2階建てバスの中古車を2台買って呉れないか?と言う売込みである。1台1千万と言う。どうせ20年位は使って居る償却済の筈だ。僕も何処かの観光バス会社に「リース」しようかと思った。価格の交渉に入ると800万迄、下がった。部品は、以降、「これから30年間保証する」と言う。色々検討したが、車高、転倒角等保安基準に合わない問題もある。と言う事で結局リスクが多いので、止めにした。今でも都内で偶に見掛けるが、改造申請を出し、路線を限定して、政治的に押し込んだのだろう。
この部品の補給体制には、驚いた物だ。これから、カリフォルニア規制が、展開されて行けば、ガソリン車を古く乗り続ける人も居るだろうし、中国が通行区分を変えた時の様に短期間でハンドルの位置が変わるのは難しいだろう。今、車が大変革に迫られて居る時代に車造りの考え方も変える必要があると思う...
★Massy's Opinion
・11、5~6 早慶戦
如何も神宮球場のコロナ検査は応援に行く気を無くさせる。テレビの放映も多いし、テレビ応援。まあ、僕達の頃のアの熱気は、本当に昔の話に成ってしまった。シーズンを通してみると、2か月間調子を維持するのは難しいな。早稲田は後半、調子を上げて来て、まさかの2連敗、優勝は明治に成ってしまった。応援団は益々女子学生が増えて来て、東大の女子も凄く頑張っている。チアーも各校見事。まあ慶應は選手が皆良く集中していたと思う。堀井監督いいチーム造りをしている。東大も頑張っている。まあまあ良いシーズンだったと思う...
・11,15 ワクチン5回目接種
今回の予防注射の会場は、永福町のおおぞら公演 車が無いので(故障中で工場預け)タクシーで行く。来ている人も、会場の医師、看護師、お世話係も手慣れたもの...佼成会、浜田山病院、おおぞら公園、保元クリニック、おおぞら公園と5回目。
保元クリニックは、一番近いし、歩いても行けるので、区役所に掛け合ったが駄目だと言う。この辺は、本当にお役所仕事。接種率が上がる訳はない。夫婦二人身障者だと言っても駄目。年金は減る、費用は掛かる 本当に頭にくる。
・11,18 Stic 第4回目 オンライン・セミナー
めぐみが主役 鶴池さんとのトーク まあ、まあかな...
・11,20 日野セミナー
朝早く6時半のスタート 色んな会合に参加して来たが、ゴルフ以外こんな集会は経験した事がない。しかし、月1回で147回だから凄いもの...久しぶりの20号線朝焼けの空の下、豊田まで...昔がなっかしく成った。セミナーはFaceBbookからyou tube にアップしてある。小田原外務副大臣、富士高-東大 富士銀行他の職歴、アフ友の小須田君のニュヨーク時代の友人、趣味、トライアスロン、屹度アメリカでトライアスロン覚えたのかな?人の出会い、ご縁、恵は本当に恵まれている...
・11,25 みずほ銀行 来宅
当社担当のEさんの上司が新任で挨拶に来られた、法人担当のEさんの部下に慶応卒の女子、韓国からの留学生、珍しい。これまた新任の上司も慶応卒、珍しい。
・11,27 アクアクライブ コージ―サークル
西川、大島、細川トリオ、 シマコ大島君は学生時代、鈴木章治のリズムエースで、ピアノを弾いていたことがあるそうだ。三保敬太郎君みたいな男、その後、保険会社に定年迄勤めて、そののち現役ジャズメンに復帰。最高のセカンドライフを楽しんでいる。
僕のクラスメートに呼び出されて、田園調布の兵隊屋に行った時、呼び出した本人がボケていてすっぽかされた事がある。その時のメンバー未亡人を誘って行って来た。
まあ、お客は10人程度、昔、よく行った店、帰りは更科でおそばを食べて、昔に帰った様だった。コージーサークル、昔、よく行った店あれからもう5年位過ぎた。コロナのStay Homeは本当に貴重なロスタイムだ。
★ Megu's Sports
October 28, 2022; St. George, Utah
Ironman 70.3 World Championship、7回目の出場。Swim 1.9km; Bike 90km; Run 20.9km。昨年のIronman 70.3 Santa Cruzで、エイジ1位で、出場権獲得。私のWorld Championship(Ironman 70.3でもWTCでも)の目標は、いつも、1)完走; 2)Top 50%。Results: 83rd/259 in Age Group。
・今シーズン、3本目の70.3 。9月のIronman 70.3 Santa Cruzまでは、怪我もなく、良いレースができていた。70.3 Santa Cruzの後、来年の70.3 WCの出場権が取れて、気が抜けたのと、1月からStructureのあるトレーニングをしていて、身体とメンタルと疲れが溜まっていたので、6週間後の70.3 WCに向けてのトレーニングに、ちょっとStruggleをしていた。そんな中で、IT Band/中臀筋辺りを痛めて。3週間ほど、道・トレールで走れなくて。Curv Treadmillで、2−3回の試走ができた程度。レースの2週間前も、まだ痛みがあったので、出るか・出ないか、もし出てもスイム・バイクだけにしようかと迷ってたところ。1週間前になって、カイロプラクターのおかげで、走れるようになる。そこで、レースに行くことにした。行くと決めた、もう一つの理由は、同じようにで70.3 Santa Cruzの後、トレーニングがままならずだった二人の友達が、“World Championshipだから、完走しにいく”って言ってたのに、Encourageさせられたので。次は、レースのプラン。スイム・バイクをAll Outで行って、ランをしない(まだWTC World Championshipが、1ヶ月後にあるので、怪我を悪化させないように)か、スイム・バイクを控えめに行って、ランをサバイバルして完走かと。
・St. George, Utah. Very beautiful. San Jose- (flight) Las Vegas-(drive) St. George. 現地到着。コースの偵察、ギアチェック、レースミーティングなど、お決まりのPre-race ルーティン。朝が寒い。レースのプランは、“スイム・バイクを控えめに行って、ランをサバイバル”。レース当日の気温、3.8度。こんなに寒い中で、レーススタートするのは、初めて。この寒いなか、スイムのスタートまで2時間半ほど待つ。スイム、水温17度程。水温が少し低くなってるけど、外気温よりは暖かい。2日前に泳いだ時より、良い感覚。8位でスイム通過。そして、バイク。一旦、陽が登ってくれば、気温が低くても、暖かく感じる。寒いのが苦手な私。いつもレースでは、トランジションをいかに速くするって思っているんだけど、今回は、“バイクで、どうしたら低体温症にならないようにするか”の方が、大切。なので、時間をかけて、トライスーツを変え、ベスト・ジャケット、靴下・toe coversを身につけて、バイクに出ることにした。アップダウンの多いコース。アップは、得意なんだけど、下りで、いつも抜かれる。脚のキレがあんまり良くないけど、予測していたタイムでバイクイン。さてさて、走れるのか?
と思いながら、ランに出る。とりあえず、IT Band/中臀筋辺りの痛みは無し。ランもアップダウンの多いコース。ランのトレーニングができてなかったので、ストライドがオフなのと、ヒビの入っているような道の表面で、足底が痛い。でも、腰が痛くないので、止まっちゃダメ。この時点では、完走が目標で、タイムを気にしてなかったので、足のインパクトを一時的に軽減させるため、所々歩いたりして。最後の下り5キロぐらいのところから、ようやくストライドが戻ってきて、あまり痛みが無く走れるようになった。2時間以上かかるなと思ってたんだけど、1時間58分でランフィニッシュ。全体的に、予想・予定より良しでした。
・レースって、レース毎に違った目標・Expectationがある。World Championshipって、intimidating。特に、トレーニングが、思うようにできてないと、ちょっと怖い。だけど、このレースに出てよかった。出てなかったり、バイクの後でDNFしていたら、すごく悔いが残ったはず。ベストのパフォーマンスじゃ無くても、その日に、私ができるだけできたこと。これも、また良い思い出になる。
★Massy’s Opinion
*講演会 概要
「モーニング・フォ-ラム」
1.「日野市 モ-ニング・フォ-ラム」 企画のねらい
① 「フォーラム(Forum)」とは、古代ロ-マ時代の公共広場、市民生活の中心地で公事のための集会所の意味をもっています。
② 市民のために開かれた、生涯学習の場として、地域に貢献し“生きがい”づくりに役立て 「“生き方”のカルチャ-センタ-」として活動します。
③ 「問題解決講座」の位置づけとして、「子育て関係・健康問題・企業経営・行政活動・高齢者問題」など幅広く人間関係を深め、助け合いの絆づくりをしていきます。
④ 互いの親睦をはかり、異業種交流の場とします。
⑤ いきいき・ふれあい塾は、「モ-ニング・フォ-ラム」を基盤に、出前講座として「子育て応援講座」「ライフ・デザイン講座」などを展開していきます。
2.「日野市 モ-ニング・フォ-ラム」 実施要領
- い つ: 毎月1回 原則として第3日曜日 朝6:30~7:45
- どこで: 日野市商工会館 3Fホ-ル
- 受講費: 300円
- 講 師: 地元で“いきいき”と活動されてる方なら、どなたでも…
- 内 容: 講師の“生き方”
- 後 援: 日野市 日野市教育委員会 日野ニュ-ス社
3.企画・運営・実施
- ① 事務局・スタッフ(いきいき・ふれあい塾)
・顧 問: 大坪 冬彦 日野市長
・塾 長: 林 良健 クレア-レ創研
・副塾長: 染谷 元博 (有)つむぎや
・專任幹事: 中村 友子 ㈱八王子印刷
・事務長: 本間 博之 アフタ-スク-ル・カフェ
・幹 事: 小田原 潔 外務副大臣
・幹 事: 奥住日出男 日野市社会福祉協議会会長
・幹 事: 池田 利恵 日野市議会議員
・幹 事: 古賀 壮志 日野市議会議員
・幹 事: 奥住 匡人 日野市議会議員
・幹 事: 鈴木 洋子 日野市議会議員
② 講師の手配
・地元で“いきいき”と活動している方々の自薦他薦!
・「広報ひの」で、紹介された方々の生き方を披露して頂く。
・「講話テ-マ」は、講師の“生き方”から抽出します。
③ 運営要領
・実行委員会は、必要に応じて開催する。
・事前準備(広報関係、チラシ制作、会場準備)
④ 運営予算【会場費\3,600、告知¥1,000 ⇒ 受講費(1人当たり \300 )】
4.アフタ-フォロ-体制
① 受講者名簿管理
- 受講者アフタ-フォロ-
*以上がフォーラムの概要である。
始めて林さんから、電話で依頼を頂いたのは、‘21年の12月、ソロソロ1年前に成る。
此処にもコロナの障害が出て、8ヶ月位休会に成って、今回が147回目の再会となった訳である。其の間、僕は何も知らない訳であり、「集会参加者の平均年齢、人数等、どんなテーマで話したらいいのか?」平均60名位の参加者だが、コロナの影響等もあり、「参加者は半数位の成るのでは...」と言う林さんの見通しだった。数回、電話でのやり取りでチラシが出来たが大きなタイトルに成ってしまった。1週間位前から真剣に林さんの意向を組みながら構想を練った。日野は交通の便も良く成っているが、矢張り、30キロはある。兎に角、朝が早いので、最近の暮らしでは馴染めない。東京無線のタクシーを利用する事にした。
前日は、目覚まし時計を3ッもセットして、朝4時半起床、気つけ薬に養命酒一杯とコーヒー一杯、三角チーズ一個で朝食を済ませ、5時15分のタクシー乗った。早朝の国道20号線は渋滞もなくスムーズ。昔は2年間八王子迄通って居た事が、懐かしく想い出された。
林さんご夫妻と2~3人の人が商工会館の研修室で、会場をセットされていた。定刻6時半司会の方の「お早う御座います...」の開会宣言から、林さんの僕の紹介、そして、出番。
まず自己紹介から持論の展開、前回のブログで項目を挙げてあるが、予定の時間を時計を見ながらしゃべった。レモン法の問題で「レモンに欠陥品と言う意味があります、ご存知ですか?」と聞いたが、矢張り、此処でも知っている人は居なかった。無事、時間内に喋り終えて終了。ビデオ撮影もあったし、小田原外務副大臣とのツーショット写真っで終了。
其の後、林ご夫妻と女性二人の5人で近くの喫茶店でモーニングコヒーを取りながら、懇談。皆さん、話は、平均的に良い受け方だった様だ。林夫妻は僕の元居た日産特販時代の社員の親御さん、林さんはビクターの営業研修の責任者、奥様も学校の先生をされて居たそうだ。
久し振りの人前での話、マア、身についた物は、無くならないな...兎に角、一仕事終わった。タクシーの中に、携帯電話を忘れたが、「新星交通さん」僕が帰宅する前に、家へ届けてくれた。外務副大臣の小田原さんはアフ友の小須田君の昔ニュヨーク時代の友人、都立冨士高∼東大、東京トライアスロン協会の顧問、ご自分でもオリンピックディスタンスをやって居るそうだ。僕の娘、冨士高の水泳部、現在、在米でアイアンマンをやって居ます。「おおっそうですか...」此れも又、奇遇だろう。いい一日だった。