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“Check List”              (17-10-29)

2017-10-31 08:59:52 | Megu's Sports

★Megu’s Sports

 So, 夏は、トレーニング・レース。 9月は、World Race Tour。なので、今月は、”Get things done” の月。

 1.NATA BOCの2016-2017とNCSA-CSCS 2015-2017の Continuing Educationのレポートの期日が迫っている。まだ、時間は年末まであるけど、ギリギリまで待たずに、終わらせようと。なので、このエリアでのセミナーを見つけ出席。いつもセミナーに行くときは、何か一つでいいから学ぶことを見つけるのが目標。”Functional Mechanics of the Lumbopelvic Region and Lower Extremity“ 。パーソナルトレーナーというよりは、理学療法士、ATCを対象にしたセミナー。個人的には、パーソナルトレーナー対象の “サミット”形式のものよりは、ひとつのことについて深く学べるセミナーを好む。Did I find something I can use? Yes. ほとんどのリハビリ・エクササイズは、知っていたものだけど、理学療法士ならではの、細かさと処方に、”those are good”という感じで、納得。仕事で活用。

 2.San Jose State University Graduate Athletic Training Programでの、プレゼンテーション。今年、4回目。そして、プログラムがエントリーレベルに変わるので、ラスト。Public Speaking だいぶ、慣れて来たのになーと、ちょっと残念。また、新しいプログラムでレクチャーの機会ができればいいな。私がしている仕事は、あるようで、なかなかない。というか、教育課程と趣味の、両方を活かせられる仕事ができることって、貴重だと思う。どんな仕事をするのであれ、今の学生に、“自分の仕事が好きだ”と言える大切さ、仕事に対するPassionを伝えたい。

3. 健康診断。医者が苦手なので、ちょっと苦痛。

4. Enjoy “Exercising”, Not “Training”  オフシーズン。Workoutは、私の社交場とストレスマネージメントであるので、続けてますが、No Structureで、精神的にリフレッシュ。トレーニングの場所を変えたり、遠出をしてみたり。カリフォルニアは、特別な場所。海岸沿いは、晴れてても、霧がかかってても、いつもImpressively Beautiful。そして、毎年のことながら、体重・筋肉の増加を心がけて(成功率は低いんだけど)、とりあえず、ストレングストレーニングを取り入れている。

5.窓拭き。たいてい、雨のシーズンが終わると、窓拭きをするのだけど、今年は、していなかった。ま、雨の季節がもうすぐ始まるから、来年まで待つかと思いつつ、あまりの汚れに耐えられず、窓拭きを始めた。Looks better and feels better.

6.クローゼットの整理。“2年ルール”。2年使わなかったものは、処分する。常に、整理・処分をしておくと、すっきりとした空間が、作れますよ。

 

 

 


“To Yoko. Tribute to Ichiro Masuda Japanese Vib man”  ‘17-10-24

2017-10-24 08:00:14 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

Mail :from Jazz vocalist Yoko

・松本はNHKのクラスはじめ、プライベートのレッスン、ライヴ等、一番身近な街ですが,西さんはじめ、東京での仕事で一番ご一緒するミュージシャンとのライヴがあります。12 /2には上田で、12/3には松本ですが、よくパンフレットを置いて下さるオーディオショップで色んな話をしている時に、お店のオーナーが「そういえば・・・バイヴの増田さんって・・・どうしていられるかなぁ~・・・?」と突然おっしゃって、「昔は御嬢さんの葉子さん?を連れてよくこっちにも~」なんて続けて言い始め・・・「ぇえ~あの、Massyさんのお家の前にお住まいって伺ってる増田さん?」とビックリしすぎて・・・私は面識が全然ありませんけど・・・お伺いしてみます~なんて話して戻ってきました。

まさか、突然、バイヴの増田さん~なんて耳にするなんて思ってもいなかったので、本当に驚いて、Massyさんにメールさしあげよう!となりました!不思議ですね、まさか!でした。

 ・Thank you Hot Mail!

・増田一郎 さんのこと。 本名増田 弘之 僕と一字違い それで芸名を一郎に...子供は男、女 葉子、もう一人男の3人。 長男はミキシングをしていて、次男はダンスの振り付け師をやっているらしい。

年は僕の一つ上 明治大学に通っていた頃から、ハワイアンに興味を持ち 当時はバッキー白片のアロハ・ハワイアンズを初め大橋節夫のバンドがメジャーでした。一郎さんはポス・宮崎のバンドでサイド・ギターを弾いていたようですが、北村英治のセクステットでVibを弾いていた松崎竜生(暁星卒)さんが酔っ払ってドタキャンをしたので、そのトラに一郎さんにVibを弾かせたそうです。

それ以来、一郎さんはVibを始めて、一方 竜生さんは鈴木章二のリズムエースで「スズカケの道」が大ヒット、その後は自分のバンドでライブをやっていました。僕の学生時代の追っかけの娘が晩年は竜生の面倒を見ていましたが、その子が死んで、竜生も千葉の養護ホームに入っている筈です。「竜飛会」と言う会を年3回くらい銀座BRBで開いていました。そこにはジョージの「グローバルホアー」も良く出ていました。メンバーは大体、江草圭介Pジャンボbドラムは結構替わって居ましたね。そこに或る時「秋元順子」が全くの飛び入りできて「ベサメ」を歌い、巧いので驚きました。全く何処かの下町の伯母さんそのものでした。江草さんが連れてきたようです。

さて、話がそれましたが、増田一郎さんは北村英治さんの所に15年位?居た後、MJQをまねてカルテットを組みました。ピアノ根本慶子ドラム中村吉夫ジャンボ小野 ホンとにいいバンドでした。それと同時に「金」で蒸着する「GML」というレーベルのCDを作り始めました。これが事業的には失敗の様で僕の家の前を売り引っ越しました。娘さんは桜美林を出て歌を歌っていました。惜しむらくは本当に背が低く歌は巧いし、英語もシッカリしていました、だけど余り仕事が無くアルバイトをしていました.一郎さんは年3回くらいフルバンドを組み彼女を歌わせていました。彼はこだわりが強く、このフルバンドはジャジーな良いバンドでした。

クラシックのマリンバの先生なんかとこラボもしていました。脳梗塞を7年くらい前に患い、東北の方に入院をしたりして、3年くらい前に亡くなったようです。その後、奥さんも亡くなったそうです。僕の家の通りに、渡辺晋と”SiX JOS” のドラム南広さんが居た影響でこんな様になったのでしょうか?“Six Jose”は 当時、CoolJazzと呼ばれたGeorge Shearing をコピーした、”Septenber in the Rain”をテーマに松本英彦(テナー)中村八大(ピアノ)宮川泰(ギター)安藤八郎(バイブ)渡辺晋(ベース)南広(ドラム)で最高の人気バンドでした。その頃は毎週日比谷音楽堂でJazz Cosertが開かれ大入り満員でした。あるコンサートでSixJoseが”Lover”と言う曲をやり、南広がドラムソロをやりました。その中でワルツのリズムを入れたのです。たまたま、帰り道井の頭線で一緒になりその夜のコンサートの話をしていて、「広さん、今日のloverのソロ、ワルツのリズムを入れたでしょう?あれ原曲がワルツだったから?」と聞いたら、「弘ちゃん、良く解ったね...そうなんだよ。音楽家はお客様がいい音だったね...と覚えて呉れるのが嬉しいんだよ」このやり取りは、「ふーん、そう言うものか...」と今でも良く覚えています。何しろ、僕はステレオのプレーヤーとBenny Goodmanのレコードを持っていて、広さんが「レコード聞かせてよ」と言って、ステイックとブラシを持ってきて、雑巾を叩いて練習をしていた事がありました。イチローさんはこの頃は未だバンドの坊やを遣っていましたね。一郎さんの家には、練習部屋を増設してから色んなミュジシャンが来ました。レイモンドコンデ、ミルトジャクソン、根本慶子さん(我が家のゴールデンレトリーバーのLoveが大好きでした)が良く一郎さんのところへ来ていました。 ミルトジャクソンはマレットが500グラムあったそうです。一郎さんはそんな重いのはどうしても弾けない。と言っていました。 兎に角、凝り性でした。阿見さんも暫く習いに来ていて、最後は喧嘩したようです。でも彼女のバイブは一郎さんポイですね。銀座C’est la Vieの小倉婦美代ママも一郎さんの所に習いに来ました。偶然にも僕が始めた個人リースの一号車フェアーレディーを使ってくれた人です。矢張り峰純子さんにも習っていました。後に此のお店には、三保敬太郎君とか小林潔君とかを紹介して金曜日にはライブをやっていました。一郎さんの家の後側に浜田山診療所があり僕のホームドクターですが、一郎さんの家から漏れるジャズの影響を受けてか、その先生がジャズ好きになり、従兄弟さんが「小泉清人」と言うギター弾きだそうです。先日その人のCDを頂きました。ウエスモンゴメリー風の引き方で、結構良かったです。貴女のCDをあげたら、「一緒にやったことあるんじゃないの?」と言っていました。意外な人が意外なので驚きました。懐かしい話で長文に成ってしまいました。いい時代だったのですね...

・秋田 何処でやるのですか?知っている人も居るので案内してみますが....

Massy

 

 


“日産のリコール問題“     ‘17-10-17

2017-10-17 08:40:55 | Massy's Opinion

★Massy’sOpinion    

・解りにくい日本の自動車関連法   第二次大戦後、急速に発展を遂げたに日本の自動車産業、産業が発展する速度に遅れないように法律が次々と作られてきた。自動車産業もユーザーもこれ等を熟知しないままに隆盛を極めてきたと言う方が正しいかも知れない。僕が社会人として自動車販売に携わり実務を経験しながら僕流の自動車関連法の「法律」を学んで来たが、解釈は間違っているかも知れないが、長期間実務を無事にやって来た。兎に角、自動車の販売には幾つもの印鑑を押さなければならず、セールスマンもお客も只、印鑑を押すだけと言うことが多かった筈だ。あるセミナーで知り合った大学の先生方にこういう風に考えると、自動車関係の法律は「調べやすい...」「解り易い...」ですよと、話した事がある。そうしたら、増田さん、「お陰でよく解るようになりました...」と言われた。そこで今回の問題でマスコミ、でいろんな記事や意見が出ているが、誤っているものもある。改めて、書いてみよう。

(1)道路運送法 (主に事業について)  昭和26年・・・元運輸省主管

 (2)道路運送車両法 (主に車について) 昭和26年・・・元運輸省主管

               保安基準,民事登録 etc.

 (3)道路交通法   (主に車を運転する人について)昭和35年・・・警察庁主管

 ・自動車に直接的に関係する法律はこの様な分け方をすれば解り易いだろう。さて、此の中で今回問題になった「完成検査終了証」の関わる取り扱いの事務処理の問題である。さて、これ等の自動車に関する法律は昭和26年に施行されて以降、逐次モータリゼイションの凄まじい進歩につられる様に規則等の追加が行われ、膨大な自動車関連の法律が出来ているのが現状である。

・完成検査終了証と譲渡証

自動車は道路運送法により、「登録」をしなければいけないように決められている。それに加えて、登録する車は道路運送車両法の「保安基準」に適合するものでなくてはならない。此の「保安基準」に適合するかどうかの検査が一般に言う「車両検査=車検」である。

此の「検査」と「登録」の業務を陸運事務所がやるのである。僕がディーラーに入社した頃は未だ、「検査」と「登録」のどちらが優先するんだ?何て言う議論を明確に答えられるディーラーも町の自動車工場も無かった位である。僕の入社した会社は、戦時中の自動車配給会社が所謂ディーラーになった会社であるが、この辺の事を教えてくれる先輩は皆無だった。兎に角、「メーカーと検査官には逆らうな、気違いだから...」なんて教わった時代である。「完成検査終了証」は此の「保安基準に適合している」と言う証明書であり、メーカーでは、「新型申請」と言う「保安基準に適合しています」と細目に亙る届け出を各モデル(型式)ごとに提出して、当局側から「型式指定自動車」として、新車時の車検を免除され、譲渡証を添付して登録され、晴れて公道で走れると言う事になる。此の「指定自動車の検査」は、いわば国からメーカーが委託されている業務であり、その為に検査員の資格、証明の捺印等当局に届けられわけで、実態は解らないが、当局の監査で解ってしまった。と言うことである。従って、機構、品質に関わるリコールとは全く異なるリコールである。色々な経済誌や何かに此の記事が書かれているが、解釈に誤っている物が僕はある思う。次にその辺の問題を書いてみよう。

 ・車台番号chassie numberと車体番号 body number

良く此の二つは同じに使われる事がある。昔の自動車は馬車のコーチから発展して来ている。梯子状のフレームに車輪が取り付けられ、エンジンが付き、その上にボディーが乗せられていた。フレームの部分を「車台」と言い、上に乗せられる部分を「ボディー」と言った。「ボディー」は車台の上に乗せ替えが出来る。それで「車台」がベースになるものとして、その上に「車台番号」が打刻されたのである。今は軽量化と強度に対する技術が進歩して、一体構造(ユニタリーコンストラクション)となり車台番号もエンジンルーム運転手席との境のパネルに固有の番号が打刻されている。

・拓本 =打刻 此のナンバーを証明する為に朱肉で拓本(石刷り)を取って、譲渡証の貼り付け完成検査終了証とともに登録する事になる。(昔は、エンジンに打ってある番号=原動機番号の拓本も必要だった)

昔此の車台番号には製造年が打刻されていた。年代わり成ると前年の生産が解ってしまう。その為に、フレームを削セイして「年」を新年に打ち変えた事があり、これはXポンチを打刻して、訂正をしなくてはいけないと決められていた。それで陸運事務所で怒られれてメーカーの始末書を持って来いと言われ、メーカーの中では誰が詫びに行くか?大騒ぎに成り、約一週間陸運事務所に謝りに行った事がある。メーカーの中でも係長りだ、いや、課長だ、部長だと大騒ぎに成った。結局、検査部長が行ったのであるが、一通りお説教「法の精神」を説かれて、大変だった。帰りしなにその部長が「解らない様にやればいいんだな...」と呟いたのを聞きとがめられて「まだ、法の精神を理解していない...」と夕方まで怒られた。打刻の訂正の仕方が法律で決められている事を検査部長が知らなかったのである。これと同じ問題が、今回の日産の問題だと思う、社長の詫び方について非難があるが、社長自身が此の「道路運送車両法」を知らなかったと思う。年間500台以上生産するモデルには「型式指定自動車」の申請が出来る」と言う取り扱いがあり、当局側もメーカー、ディーラーも車を検査場に持ち込まず登録が出来る業務簡素化の恩恵に浴している訳で、時代の変化の中で輸入外車も型式指定を受けられるように成っている。

 ・今回の日産のリコール対策の処理は非常に巧く解決をしたと思う。一回目の車検を受けていない車に対象を絞れたのは正解だ。本来、当局側がヤルべき検査の仕事をメーカー、ディーラーに委託している訳であり、メーカーも監査を厳重にする責任は在ったと思う。

自動車関連の法律は複雑で、日本のすべての法律が戦後の「憲法」をベースに作られているのだから日本の憲法を理想的なものに作り直す所に、日本の未来の姿が生まれてくるだろう。僕の持論「通行区分の世界統一」も1980年から考えてレポートにする時には2070年と時期を定めた。     

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“読後感 「君は天皇をどうしたいのかね?」”  ‘17-10-10

2017-10-10 07:38:37 | Massy's Opinion

天皇陛下のご学友 明石元紹著

★Massy’sOpinion

先日シーボニア会で明石さんにお会いした時、「又、本を出したんですよ」と言われた。「何の本ですか?又、陛下の事ですか?」と尋ねたら、テレビ取材であった小田部と言う静岡福祉大学の教授で「皇室問題」を取り上げている先生が本を出したいと言うので、その日のテレビ取材に出た問題を本にしたんですよ。部数も少ないし、買えないんじゃないですかと言う話だった。「アマゾンで探してみますよ...」と言ってその日は終わった。

僕は、明石さんとは一年違い僕が高校3年の時、明石さんは大学一年学習院から慶大経済に入り、馬術部に入った。当時、高校の野球練習場は通称「嵐が丘」と呼んでいたが、今の矢上キャンパスの在るところで、風通しの良い吹きさらしの石だらけのグラウンドだった。そのグラウンドへ行く道に「馬場」があった。僕は、家の裏側に住んでいるI君が馬術部に居たり、成城から入った顔見知りが居たり、いつも馬場を覗いては「嵐が丘」に行ったものである。その中で、一際目立つ容貌、背筋が真っ直ぐ、馬に乗ると雰囲気が何か高貴な雰囲気の人が明石さんであった。大学卒業後何処へ行ったか全然知らなかったが、彼はプリンス自動車に入り、僕は東京日産に入り、日産自動車に出入りしていた。日産の秘書室は室長がYさん、次長がAさん2人とも慶応の先輩だった。プリンスと日産が合併した昭和40年の或る日、室長のYさんから呼び出されて、事務室に行くと「今度君の先輩が来たから紹介するよ。おい、明石君...」と呼ばれて明石さんが来た。「増田さんですね」「何だ、君たち知っているのか?」「仲良くやって呉れよな」僕は、中学成蹊だし、旧制7年制の学習院や成城とは体育面でよく試合をしたりしたので、近親感もあり、明石さんの天皇陛下との関係とかも風の便りに知ってはいたが、遠慮もしていた。その後、明石さんが営業部門に変わった時も仕事の面では随分とお世話に成った。昭和40年代の末ごろか、彼が業界紙一面に、日産の「在るべき論」を書いた事があるが、正直こんなこと書いて良いの?」「明石さんだから怒られないの?」勿論、普段からは見られないような「正当論」だった。僕は、それを読んだ時に、格調の高さ、文章の正確さを改めて感じさせられた。

その後、2013年に「今上天皇 つくらざる尊厳」と言う本を書かれている。それから4年皇室を取り巻く時代、事態も変化して来ている中で、今度の本が出された訳で、陛下のご努力と今後の日本の在り方について良識の盛り上がりを期待しての一文が今回の本である。

僕も、若い人々や大学教授位の年代の人と話す事があるが、1934年生まれでは60歳の世代が何を考えて居るか?、何を知っているか?(良い例が戦争体験、戦時中の世の中)本当に解らない。とすれば「日本の国家像」誰が考えれば良いのか?最近政府も何かあると「有識者会議」とか「~委員会」にゆだねてしまう。結論は、時間がたってしか出てこない。そして、皆うやむやな内に進んでしまう。高齢化時代、高齢者は戦争の悲劇、恐さそして第二次大戦後どうして今日の平和が保てるのか?をもう一度考え直していくべきではないか?とつくづく考えさせられた。  


“Diary 129”     ‘17-10-3

2017-10-03 07:59:26 | Massy's Opinion

★  Massy’s Report

9,1 豊川詣り

全く 例月通り。菊家のお母さんと話し込んで、ワイフのお参りを待つ。特に変わった事もない。お昼は僕は「冷やし狸のうどんに特別にトロロ入り」ワイフは「冷やし狐にデザート餡蜜」

 9,8八丁堀理事会

新理事長になってから始めての理事会。大きな議題はないが、紙類のゴミを纏めて、一軒の回収業者に回収を依頼しているが、「チリも積もれば山となる」で結構なお金になってくる。捨てられたゴミの中に「本」があるらしいが、それを盗んで行く人がいる。交換した新しい「防犯カメラ」の効果が出て、「防犯カメラ」にハッキリと写って居たそうだ。一応警察に届け出したようだ。何処のマンションも大規模修繕の問題が出てきて費用面で大変だ。

 9,10 Birthday

今年は、Facebookや何かで約300 位のお祝いを貰った。83歳いつの間にかだ...僕が、75歳に成った時、慶応野球部の監督を長年やられた前田祐吉さんが80歳に成った。「マス、お前俺と同級生だぞ、今度からおい前田と呼べ」と言われた。「恐れ多くてそんなこと言えませんよ」「お前、4捨5入すれば俺と同期だ...」と言われたことがある。何時ものなぞなぞ式表現だ。考えてみると、あの時、前田さんは80歳に成られて、感じることがあったのだろう。豊川様の御利益か、皆様のお陰で...83歳。

 9,11慶四会  於 新宿 さがみ

恒例の高校野球部の同期会。出席6名 病欠長期短期問わず4名。大学野球部の同期会も年2回。と言うことは、僕は年4回は殆ど同じ顔ぶれで会っていることに成る。場所も同じ、段々座る場所で声の大きさが違ってくる。「高校良くやっているよな...」と秋季の準優勝と関東大会出場を喜ぶ声が多かった。

 9,16 リーグ戦 対東大 ● ○ ○

東大戦は苦戦するから好きである。想像通り一回戦は惨敗である。投手起用大久保監督も頭が痛いだろう。

 9,23~26 リーグ戦 対法政 ● = ○ ●

これも苦戦第4戦は追い上げが遅すぎた。守備の乱れも大きい。特に外野のエラーは大きいな。久しぶりで球場から渋谷まで裏道を歩いて帰る。随分渋谷も変わったな。

 9,25 シーボニア会

今回はレディーの参加なし男ばかり...珍客、明石さん(陛下の学習院幼稚園から高校まで馬術部も一緒、僕の一年上、元日産)が参加。昨日、台北から帰国したばかりなのに、そして明日はゴルフだとか?元気なのは羨ましい。彼が来れば話題は自然に格調が高くなる。皇室の話、政治の話、日産の話、明石さんも段々思い切ったことを話される様になった。又、「君は皇室をどうしたいの?」と言う本を出したとか...

 9,28 国会解散 政局動く

巷間 噂されたとおり、安部総理国会解散に走った。加計、森友問題が表に出てから総理の言動に落ち着きが無くなった事が、見え隠れしていたが...民進党も党首選挙が終わって新しい執行部が出来たが、山尾問題で急速にガタツキ何か前原さんが小池さんに縋り付いた様な感じがする。案の定、公認問題で揉め始めた。小池さん百戦練磨だね。民進党の左派は公認しないと...どうも、前原さんの言う事と、小池さんの言う事とギャップがあるようだ。自民党も小池さんの離党問題には様子を見て、時間を掛けたようだし、自民党内の分派行動の様だ。選挙結果がどう出るか?僕の選挙区の石原先生はジッと静かにしている。あんまり派手にやると反発が大きくなると地味な戦略か?しかし、日米安保も憲法改正もやっぱり「2070年」先の世界と日本を考えなくては...