★Massy‘sOpinion
*三保敬太郎君との出会い
高校から慶応に転校した僕は2年の時に、三保君と同じ組に成り隻も前後で並んでいた。その頃、彼は[cool note]と言う塾生ばかりのバンドでモダンピアノを弾いて居た。テナーは西城孝之介だった三保君は夜遅い仕事で、遅刻が多い。 僕は、野球の練習に行きたい。そこで、お互いに「代返」をしようと言う事に成り、処が彼は約束を守らない。それなのに優等生に成ってしまった。それ位、頭の良い秀才だった。当時、盛んだった学生のダンスパーテイでは、Cool Note は圧倒的な人気があり大変な物だった。ウラバンドは、リリオ・リズムエアーズかデユークエーセスが多かったな。
*敬太郎君とのその後の付き合い
卒業後彼は、TBSへ入社し演出部の配属に成った。5年位居たかな?その後独立して事務所を作った。免許を取ってから、急速に自動車にのめり込んでいった、詳細は僕のblog「ドキュメンタリー箱根路」に書いてある。フォードの次にスポーツカーの真っ赤なMGAのオープンを買い、暫く乗って富士真奈美さんを六本木に追いかけて居た。この車は、ジャズ評論家のイソノてるをさんに売り、
イソノさんの奥様がぶつけてしまったと、或るライブでご一緒に成り、ご本人から聞いた。
この頃から敬タロー君は、自動車レースにのめり込み確か「ポルシャエは飛んだ」(題名は違ったかな?)と言う映画を作り、日本グランプリ(か何か大きいレース)フェアーレデイーに乗り3位に入った。
*瀬良美 小倉婦美代ママとの付き合い
或る時、「真夏の夜の女性ボーカル」と言うジャズのイベントがあり増田一郎さんからチケットを2枚貰い親友N君と聞きに行った、休憩時間に隣の席の女性がコーヒーをご馳走してくれた、当時は23歳位に見えたかな。素人には見えなかぅた。「何をして居るの?「青山でお店やって居るの」と場所を聞いておいた。高校野球部の懇親会が青山で在った帰りに二次会に彼女の店へ寄ってみた。青山の裏通りに「へえーこんなところにこんな店があるの?」と言う感じで、1階で日本料理、2階が倶楽部でジャズをやって居た。彼女が小倉婦美代さんである。店は、ピアノを入れた。カラオケ風、お客は皆んな巧い、歌は、ジャズばかりである。これ以来彼女との付き合いは。一昨年彼女が亡くなる迄続いた。彼女の希望は、銀座にお店を出して、白いベンツに乗り、CDを出す事だったのじゃないかなと思う。
従業員の旅行、フェアーレデイーの個人リースの一号車、僕も随分お客様を紹介したが、ついに30週年記念を原信夫さんと#&bをバックにホテルでパーテイーを開いた。兎に角、経営感覚の鋭い人で僕のワイフの店へお祝いに来て、「マスさん、此のお店、伝票一日100枚でしょう」と店の計画を言い当てていた。客層は素晴らしく尾上梅幸先生に夜最後まで付き合って、「さのさ」を歌って貰ったこともある。ある日僕の家の前にその車が止まって居た。驚いたら、彼女は一郎さん宅にジャズを習いに来ていたのである。又、彼女は体を壊して2年位店を止めて居たが、その後再開した。ジャズ歌手で余り弟子を取らない峰純子さんと云うスタンダード専門の歌手が居たが、その一番弟子が婦美代さん、2番弟子がYokoこと宮坂陽子さん再開店の日にyoko を誘って店へ行った。丁度,原信夫さんが来ていた。まあ,yokoは喜んだこと。婦美代さんも2番弟子との会合に喜んで後日、30周年の時のドレスと靴をyoko に送っている。まあ、振り返れば瀬良美の店員募集のオーデイッションに付き合ったり、三保君やスチールギター名手ライオン小林を世話したり、色々な事をした。始めの方で書いた成蹊時代の瀧君は、その後、カントリーに移り、「チャックワゴンボーイヅ」のサイドギターで、「ハンク・スノウ」ばかり歌っていた、ある時、「バンドボーイに慶応の子が来たよ...」と言って来た。それが平尾昌晃さんだった。三保君は、独立してから、音楽以外にも、スタジオだとか、ディスコの経営企画に意見を求められたり、遂には自動車レースのドライバーに成った。三保君と幼稚舎から一緒のライオン小林君が、「ミッチャンは天才だよ。自動車にのめり込み過ぎた...」と言って居た。#&bの最後のピアニスト西 真樹さんと話した時、「三保さんは天才ですよ...あの人の編曲の譜面、直筆の物を僕は持っていますよ...」と言って居た。晩年、僕が澁谷営業所の所長の時、敬タロー君は良く所長室へ来て、昼寝をしていた。車の整備に来るのだから仕様がない...フェアーレデイー-で日本グランプリに出て、3位になって居るので無碍にも出来ない。南さんも三保君も皆遊びに来いよと言って仕事場に呼んでくれる。ご飯をご馳走してくれると思って居ると飛んでもない...「水割り1杯」である。後で解って来たが彼らの仕事場なので、「水割り一杯」がおごりなのである。
*ライブハウスは面白い
ライブハウスは色んな人が集まって来る。見かけとは違う様な人が飛んでもない曲や歌が好き...この間も、昔の部下を連れて行った。バンドが「Stars fall on Alabama」をやってくれた。そうしたら彼は「僕の1番好きな曲です。まさか今日聞けるとは思わなかつた」と大喜び。後日、45年頃のアメ車のカタログ集を送って来た。キット後生大事にして居た物だろう。今、月に一度は何処かのライブハウスへ行くようにしている。店へ行っても、つい経営者の立場で見てしまう。「ミユジゥシャンの気分」「客の入り方」等...店の裏側を知って居るからかも知れない。
*高校3年の時かな...日比谷公会堂でジャzzコンサートがあり、Six Joesがメインだった。その帰り偶然、井の頭線でドラムの南広さんと一緒に成った。「お兄さん、今日良かったですね。凄い人気で...今日、「ラバー」やったでしょう...あのドラム・ソロの時、ワルツのリズムを入れましたね...あれ、「ラバー」の原曲がワルツだったから?...」「弘ちゃん...よく解つたね。そうだよ。」我々バンドマンは「客さんがいい音だったな...と覚えて呉れれば一番嬉しいんだよ」と言って呉れた事が、音もよく解らない僕をジャズ好きにしたのかも知れない。南さん=中島さんの兄弟は、次男の和夫さんもドラムをやって居て妹のマナブちゃんは、ハワイアンの「クイン―・シスターズ」で唄っていた。僕が八王子所長時,町田の方へ出掛けてお昼にウドン屋に入つたら。「あら、弘ちゃんじゃないの?」と声を掛けられた。「あら、学ちゃん如何してこんな処に居るの...久し振りだね」「私、結婚して、子供二人、お店は高輪なのよ...」その後店の側に引っ越して、彼女のカラオケグループと3度位付き合わされた。その中の一人の娘さんがジャズピアノを居ていてcdも出して居てコンサートがあると誘われた。30年位前の話だな。銀座に「マキシム」と言う米軍将校専用のクラブがあつた。そこはSix Joesが長い間専属だった。あそこへも2度呼んで貰ったが。まるでアメリカ来ているみたいだったな。
*今でも一番記憶に残って居るコンサート。
僕は成蹊中学、慶応高校、大学と野球部に居た。練習をサボった事が一日ある。それは、ノーマン・グランツが率いたJATPと言うコンサートが日劇であり、どうしても生で聞きたくて、同じ野球部のジャズ好きと二人で、練習をサボって日劇へ行った。チャーリ・ベンチュラ―と言うテナー・サックスが演奏した「帰れ、ソレントへ」と言う曲が在った、確か、ドラムスはジーン・クルーパだった。帰りに裏口で「出待ち」をしてクルーパのサインを貰って来た。野球生活の中で一度だけ練習をサボった事が在った。
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