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advice for consumer

“講演 原稿...” ’22-11-15

2022-11-14 21:15:54 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*東京都 日野市  講演依頼  「第147回 モーニング・フォーラム」  いきいき・ふれあい塾主催 

日野市  日野市教育委員会 日野ニュース社 後援

タイトル  「自動車業界...? その真実は?...」 

*自分のプロフイル 自動車部品商の生まれ

*自動車を取り巻く主な法律

自動車六法 昔の運輸省  船員局があった

日野の新型申請の不正について

*blog サブTitleの意味

*カリフォルニア規制

自動車の将来

*レモン法

*国家財政の建て直し  国会含め政治体制の改革

 
   

 

 

 

 

   

         

 

 

 

 

 

 

 

 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 
   

 

 


                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
   

 

             

 

 

 

 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


”読後感 井上貴博君 & 沓掛祥和君“ ‘22-11-8

2022-11-07 22:37:30 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*伝わるチカラ 井上貴博著

著者は、TBSの人気上昇中のアナウンサー。僕の家ではワイフがTBSチャンネルを離さない。毎朝、NHKの朝ドラを見るとテレ朝に切り替える。午後は15時49分から、TBSの「Nスタ」に切り替える。解り易い話し方、ミスが殆ど無い。初めの内は冷、冷して見て居たが、最近では安心して見て居られる。初出版の本書は、非常に読み易く、貴博君らしく良く考えられている。1984年生まれ、僕は1934年生まれで88歳、貴博君とは50歳違う。と言う事は、彼は88-50=38歳、1972年の僕は何をやって居たかな?労働組合から復職して、業務課長の5年目。業界団体の自販連の広報部から依頼されて、随分、ゴースト・ライターを遣ったり、懇談会を遣ったり、自動車販売問題点を書いたりしていて文章を書くように成った頃だ。その時、濁音を使い過ぎると「耳障り」が良くないとか色んな事を考えた。貴博君は商売だから一層深く考えただろう。良く書けている本だ。改めて、彼の成長ぶりと真面目さを理解させられた。暮らし方、生き方のガイド・ブックだと思う。タイトルはもっと「素直に伝える努力...」とかの方が良かったのでは...と感じた。

*マン振り思考 沓掛祥和著

サブタイトル  生意気小僧の僕が野球で本気になれたワケ

沓掛君 塾高時代からよく見ている。彼がこんなに筆力があるとは思わなかった。社会人野球はそんなに見ていないので、トヨタを退社した事は、「早いな...」と思って居たが、彼の強い目的意識があった事は知らなかった。人生の暮らし方色々あるが短いスパンで一区切りずつ着けて行くのもこの高齢化時代には一つの考え方だと思う。「目標と愛着」は大事な事。今迄の良い部分は残しつつ、新たの目標に向かって欲しい。何よりもサブタイトルが気に入ったよ...

 

P,S

何よりも嬉しい事は、塾高野球部の後輩達が、相次いで単行本を発行したのには、驚いた。

貴博君は商売柄「何時かは...」と思って居たが、沓掛君の書は、「へえー...」と言う感じで驚いた。一番良いのは、「何故、日誌を書いたか?」の部分である。僕自身、中学生の時から日記を書いて居る。年齢を重ねる毎に字が下手になって行くそれでも1日10行位は日記を書いて居る。「アフリカ野球」の友成君は矢張り「世界をキャッチボールで平和に」と言うタイトルに魅かれて本を買ったが、偶然、彼が僕と同じ杉並区の浜田山に住み、高井戸中学~慶応高校~大学と野球部だったので、驚くと同時に「素晴らしい後輩が居るなと嬉しくなった」ものだ。元野球部長の丸山名誉教授に紹介と援助をお願いしたり、故前田監督にも援助をお願いしたり、杉並三田会に入会させて、当時野球応援会の最上世話人に応援をお願した物だ。兎に角、「文武両道」を実行して呉れる風土がある高校野球部は誇らしい限りである。春、選抜の吉報が待ち遠しい...


“Diary 190” ’22-11-1

2022-10-31 23:07:54 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・10,6  ニュハート検診

6月末の手術から、約100日目医師に言われた日の検診。 血圧、自分で測る。レントゲン、心電図、医師の診断の前に以上の検査。データは全部医師の診察室の画面に送られる。  それを見て医師の触診となる。術後約100日、日常の生活では異常を感じないので、大丈夫とは思って居たが、矢張り診断を受けるまで、多少の不安はある。最近は何処でも画像を患者に見せながら説明をする。推定通りに「良好」との判断を頂き、ホッとする。次回は来年の1月6日。

・10,18 ゴロちゃんを囲む会 新橋亭

僕の高校3年の時のクラスメートに吾郎さんと言う「番長」がいた。新橋の梱包会社の次男、レスリング部、此の親分が僕の隣の席だった。この人が6ケ月に一度位20人位の体育会の同級生を呼んで、昔話に花を咲かせたひと時を持たせてくれる。何しろ高校を6年やって居るのだから、...コロナのお陰で久しぶりの呼び出し...世話役が14人に声を掛けて、出席12名、その中に銀座の「泰明小学校卒」が4人もいる。今、銀座周辺に住んで居る人は一人位しかいない。兎に角、銀座が好きな連中の集まり、年内の再会をゴロちゃんにおねだりしてお互いの健康を期する。

・東京6大学野球 リーグ戦

初戦は東大に惨敗して、リーグ戦が始まる。僕は、東大戦が好きである。中学の時、旧制7年制高校のリーグ戦があり、東京高校の同級生が東大でフアースト、4番に成った。僕は、神宮の通称三角席の上の方で見学。「ああ俺も東大へ行けば良かったな...」なんて思ったことも有る。成蹊の先輩も一時期3人位レギュラーに成っていた時期もあった。そんな近親感で東大が好きなのである。しかし、今シーズン初めてのゲームで負けるなんて思いもしなかった。

其の後の対明治戦も激闘の末、勝ち点を取る。兎に角、良く打つし、選手が皆集中力を切らさない。早稲田は監督が頭にくるような貧打ぶり、早慶戦が楽しみだ。応援団はリーダー部の男子が何処の学校も集まらないらしい。それに反してブラバンも女子が多いし、特に、チア―リーダーは段々増えて来て見応えがある。

VS 法政以外に組み易かった。

VS 明治面白く、手強かった。2回戦本当に良く勝った。3回戦明治2回戦のダメージが大きかったのか?

VS立教 苦戦したが、塾は頑張った。

・高校野球 関東大会

これまた本当に良く頑張った。専大松戸は、数年前から強く成り良い戦いをしていた。昔の東都の勇者何か強化策を取っているのかと注目して居たが、慶応が負けたのだからいいチームと言うこと。慶応の森林監督、赤松部長本当にご苦労様でした。幸運を待とう...

・小林整形 レントゲン撮影

6日頃から右足首が痛くて、着けなく成ってしまった。昔、70年前高校2年の秋、トスバッティングで練習中、後ろから帰って来たボールを踏み捻挫、凄い痛かったが監督から「守備の練習はしなくていい。バッティングだけやれ」と言う特別待遇。我慢してやって居てシーズンオフに医者へ行ったら、折れた所が、固まっていると言われた。大学一年の時にも、同じ処を滑り込みで折って居る。高齢になりその後遺症が出たのでは?近所の整形さんに行きレントゲンを撮って診察を受ける。矢張り、石灰化して居る箇所があり、その他、いわば「老化」日頃気を付けている右足だが全治3週間、未だにシップしている。70年も前の後遺症に関係がありそうだ。

・国会中継 雑感

まあ野党の質問も予想した通り、総理の答弁も安倍さん時代と同じ調子...参議院の予算委員会で自動車労連の浜口誠議員が自動車の話を質問して居たが、総理は自信なさそうな答弁。自動車の事、「解って居ないな」と感じた。

・みずほB/K  来宅

今年に入って、大分、大きな組織替えをした様だ。支店長の居ない支店もあるとの事だ。今度、「新任の課長がご挨拶に...」と言う事で、従来の担当者、その下に今度配属された女子営業部員、この人が、中国人の留学生で慶応卒業の子、新任の課長は此れも慶応卒の人。皆、若い人バカリ、留学生の子は、日本語も上手い。屹度一生懸命勉強したんだと思う。サンノゼのアドビ本社に行って居る趙君に次いで二人目のご縁だ。課長は文学部でと言うから。銀行と言うのも珍しい。まあ、兎に角、外国人に縁のある事...

・東日杉並支店長 呼び出し

自動車業界、大変な時代に成って来た。僕は、本当に色んな経験をして来ている。英国がサッチャーさんの時代、大変な時期で、日産の英国誘致で大変な時期だった。あの時、英国から有名な2階建てバスの売り込みに来た人が居た。1台1千万円と言って居た。丁度、東日リースを設立したばかり、どうせイギリスでは、減価償却終わっている車だろう。あの時、セールスに「部品はあるの?」と聞いたら、「30年間は必ず供給できます」と言って居た。

結局、日本の保安基準に合わない処、車高、転倒角、ハンドルに位置、等難しい問題があり,手を引いた。その後、2台確か上野から、銀座かな?路線を決めて都バスか何処かが短い期間だけ運航した。これは、超法規的措置で許可したと思う。これからのディーラーは全く発想を変えなくては駄目。勉強のことも有り支店長に家へ来て貰った。

 

 

 


'22-10-18 "最近考えること”

2022-10-17 22:07:29 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*政治

・統一教会と自民党

政治の事、本当に酷い。僕は岸田さんに期待をしていた、矢張り。国葬問題と統一教会問題が無ければ、もう少し岸田体制を築けたかなと思う。これから、身内を入れて本当の岸田体制を時間掛けて作る方向だろう。萩生田さんなんかは岸田さんにすり寄り、様子見かな。

立憲民主も野党大合併を目指すべきだ。小沢一郎さんこの間何かに「いい意見」を言って居た。自民党の派閥は割れた方が良い...岸田さんも早く「この指止まれ」とソックリ返った方がいい。統一教会の名称変更、恐らく安倍さんは、深く考えもせず下村さんに「やってやれ...」と言ったのでは無いだろうか?政府も本腰を入れて調査するようだが、本当に腰を入れて欲しい。

・オリンピックと再開発

神宮の再開発問題がようやく騒がれる様に成って来た。オリンピックの汚職問題は何かスピードが落ちて来たような感じがする。小池都知事がこの問題に関してはやけに静かだ。

兎に角、コロナでこの高度成長で積み上げた生活様式、産業構造は変化を余儀なくされて居る。もう21世紀日本ではオリンピック開催を再開もしない事、既存の物の補修が必要だ。費用が掛かる。多くのマンションが大規模修繕の問題で困って居る筈だ。大きな建造物を作ると補修費用と言う大きな負担を次の世代に残すことに成る。マンションに住んで居る人は、隣り同志の人間関係も悪くなってしまう。

・国の財政立て直し。 マイナス金利の是正。

・選挙の仕組みを変えなくては...。選挙をしてもどうせ投票率は上がらない。それならば議員の数を減らす事だ。地方議員の中から国会議員を選ぶ。

・委員会、有識者会議、とかを減らす。会社でも、組合でも分科会とか、委員会の多い組織は時間と費用が掛かる。

・対策と言えばばら撒き対策、政府が対策を打ったって、所詮、原資は税金だ。それなら消費税減税の方が経理処理も簡単。

・ポイント、ポイントと政府迄使う。ポイントの会計処理は如何なるんだろう?値引きか、ポイントを支払った時点で営業費か?ネットで調べてみたが良く解らない。チョット聞く友人の経理士も、もういなくなった。複雑な事を遣ればそれだけコストは上がる。

・インフレだ。物価が上がる。確かに物価は上がっているが、皆、物価を挙げに勤めて居るんだろう人間は一人の人間が生産者であり、消費者なのだ。二つの役割を持って居るのだ。

*経済

・世界的競争力

今、日本の製品は海外で人気が無くなっている様だ。後進国と言われていた国々の製品品質が上がり、凄い成長である。日本が安い労働力を求め、投資をしていた間に、日本の予測していた需要を上回る生産になり、競争が激化して振り返れば自国内は空洞化して仕舞ったのが今の状況だろう。何か、日本はやって居ることがおかしい。休日は増えるし、生産性を挙げろと言っても休日が増えたのでは、年間の生産性は上がる訳がない。

・自動車

此の頃、日産の実情を見ていると、新聞紙上に発表される経営状況と実態はかけ離れている様に感じる。矢張り、ゴーンが来た時から可笑しくなったと思う。とすれば、あの時代の政府の将来への見通しは如何だったんだろう。トヨタが肥大化しすぎ、将来の自動車の形が見通せていないように思う。日産が苦しくなったので、外資との資本参加を求めた訳で、トヨタの傘下に入れてしまえば良かったのではないか?僕は、日本の自動車に関する法律は、良く出来ていると思う。特にタクシーは、免許制、地域性、料金等、世界の中で一番安心して乗れると思って居る。その一つが新型自動車の申請方式だ。車の規格、検査等大幅に権限を民間に移譲している。そこで、官と民間の慣れ過ぎが日野の様な問題を起こすのだ。僕が20年前自動車販売の現職だった頃、既に日産の2トントラックはいすゞのエンジンを載せていた。エンジンには「いすゞ」の名前の儘、エンジンカバーが付いて居た。それでもお客さんは日産のブランドを信用して車を買って呉れた。日野の今回の問題で、トヨタは日野とは縁が無いような発表をして居たが、実態は違うだろう。自動車だけではなく、化粧品や家庭用品もブランドだけ残して、資本が変わっている商品は凄く多い。消費者は利口に成らなければいけない。


“Jazz の事“      ‘22-10-11

2022-10-10 22:38:33 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・浜田山の家の通り

僕の家側は5軒、前側は矢張り5軒 子供は12~3人居たかな?一番南側にNさんと言う家があり男二人、女一人の三人兄弟がいた。長男がハンサムな背の高い男で、法政の予科に通っていた。バンドを始めてドラムをやって居た。後にシックス・ジョウズのドラムを叩いていた。最盛期のコンボバンドである。このバンドはリーダーが渡辺晋オンベースである。ピアノ中村八大、バイブ安藤八郎、ギター宮川キョウゾウ、テナー松本英彦後に皆独立してそれぞれ名を成している。渡辺晋はかのナベプロの社長である。南広は後に東映の俳優に成りテレビにもよく出て居たが、60位で死んだ。

・中学2年生の時 成蹊中学野球部

全部で部員は13人位 高校生は硬式ボール15人位中学のチームはレフトがM,T君センターがM,Y君、ライトが僕。3人は猛烈に仲良しだった。或る時、五反田池田山のM、Y君の家へ遊びに行った。2階の応接間でお姉さんがダンスを教えて呉れた。ボックスとシャッセである。その時のレコードがBenny Goodmanの“On the sunny side of the street”だった。猛烈なカルチャー・ショックを受けた。何しろ女の人の手を握るのが初めて...その後、高校に成ると僕は慶応へ転校した。M、Y君たちはハワイアンバンドを組んだ。M、T君がリード・ボーカル彼は当時はやり出したカントリーバンド、チャックワゴンボーイズに移り、その付き人に、平尾昌晃さんが慶応高校在学中から入って来た。1年位付き人を遣って歌を遣りだした。あんなに有名になるとは思わなかった。僕は直ぐ、Goodmanのレコードを買い、それからジャズが好きになって行った。当時、10枚位あるレコードが珍しく、南広さんが良く家へ来てドラムの練習をして行った。濡れた雑巾をプレーヤーの前に敷いて、音が出ないように練習をするのである。当時、ドラムにブラッシュを使うのが流行り出し、何時もやって居た。

ドラムは左手で三角を描き、右手で丸を書く...とか教わった物だ...

南さんの本名は中島と言うが、弟さんも妹さんもバンドをやって居た。30年位経って或る時、町田に近い山の中の「うどん屋」さんで、席の空くのを待って居たら、女性の3人組が居て、暫く僕の顔を見ていて、「あらヒロちゃんじゃない...私、学よ...」と言って声を掛けて来た。全くの奇遇で本当に驚いた。その後、彼女は高輪に越してきて、ハワイアンの会などに誘われた。

或る日比谷公会堂でジャズコンサートがあつた。メインはシックス・ジョウズ、その演奏の中で”Lover”と言う原曲は、ワルツの曲だが、4拍子に編曲した演奏。その中で広さんが長いドラムソロを遣ったが、ワルツの部分があった。その日、帰りの電車で広さんと一緒になり、「今日良かったっですよ...あの”Lover”のドラムソロの中にワルツを入れたでしょう。原曲がワルツだからですか?」「ヒロちゃん、良く解るね...そうなんだよ...」と云われてミュジッシャンは「お客さんが、いい音だったね。と覚えて呉れるのが一番嬉しいんだよ」と言われたことがとても印象的だった。これが、僕のジャズ好きの原点に成っている。録音機も何にもない時代...音は直ぐ消えて行った時代である。

・高校2年生の時 三保敬太郎君との出会い

慶応高校はアルハベット順に席が決る。2年の時、増田、松木、三保と言う順番だけれど三保君は近眼が酷く、少しでも前の席にと言う事で、三保、増田、松木と言う席の交代をした。当時、詳しくは知らなかったが幼稚舎から来たので、頭が良い奴だとは思って居た。当時、既にプロのジャズバンドに引っ張られる位...夜の仕事だから朝遅い...僕は野球の練習午後の3時からだったが、少しでも早くグランドに行って練習をしたかった。そこで,三保君と代返をしようと言うことに成った。処が、彼はサボって学校に来ない。代返が見っ嘗て英語の女の先生に怒られた事がある。学期末に成ると、その三保君が優等生に成っている。驚いたのと、「頭にきてよし負けるまい」と勉強する気にさせられた。学校時代はダンスパーテイ、ナイトクラブよく行ったものだ。其の頃George Shearingがクールジャズと言ってビーバッブ黒人系のジャズから白人系のジャズに移りだした時代だろう。Shearing のバンドのドラムがブラッシュを使う、デンジル・べストだった。

敬太郎君は自動車にのめり込みフォード、赤いMGAと乗り継ぎ日本グランプリFair LadyZで出るまでに成った。日産の秘書室長のJ,Yさんが「僕は三保君のお父さん面接を受け、日本コロンビアに入って、日産に来たんだよ...君は敬太郎君と仲良しなんだろう」と言われて、初めて彼の父親が43歳で社長に成った人だと言う家の事を知ったのである。彼の家へ遊びに行った時、ダンベルが置いてあったので、「ああ、ピアノ弾く為かな...」「隠れた努力して居るんだな」と思った事がある。#&bのピアノを弾いていた西真樹さんと言う人が居るが、僕に「三保さんは、凄い天才ですよ...僕は彼の直筆の譜面を持って居ます...」と言う話を聞いて「へー」と思った。

それやこれやで色んな出会いがあったが、家の前の増田一郎(親戚でも何でもない偶然)さんは凝り性だから素晴らしいバイブを弾いた。よく色んな有名なジャズマンが来たが、ト・クソンも来た一郎さんとバイブの競演をして居たが、これも南広さんの影響だろう。平尾昌晃さんが作曲3000曲と聞いて、驚いて居たら、加山雄三は9000曲だと聞いた事がある。兎に角、皆さんメジャーな人は凄い努力家である事は確かだ...


“Diary 189” '22-10-4

2022-10-03 22:03:46 | Massy's Opinion

“Diary 189”

★Massy’s Opinion

・9/1 Jazz Bird  Shimaco Live

何時もと同じペースでの3ステージ。僕のリクエストの「September in the rain」からスタート。僕は矢張りGeorge Shearing が大好き。中でも此の曲が...CD、tubeで聞く事があるが、生が一番良い。何時も、昔の若い頃の雰囲気が想い出される。熱狂の日比谷公会堂のジャズコンサート、シックス・ジョウズの演奏、若い頃に良い思い出を持って居る人は年を取らないんだって...Shearing のオークラでのライブも良かったなー。ジャズバードは、お客さんも顔馴染みばかり...おすすめのライブだ。

・9/3アトリエ新派朗読劇 三越劇場 「夢の女」永井荷風原作

From 瀬戸麻純さん

おはようございます 昨日はお忙しい中わざわざお越し頂きましてありがとうございました 退屈されませんでしたでしょうか? 今回はお目にかかれず残念でしたが…又お目にかかれます日を楽しみにしております。 ありがとうございました

返信

To 麻純さん

ご丁寧に有難う御座います。今、所感を書こうと思って居た所です。久しぶりのライブで面白かったですよ。摩純さん貫録がつきましたね。若い人が出たからでしょうか

田口さん頭白くなりましたね...このコロナは本当に人々の生活 リズムを変えてしまいましたね。ジャズの連中も皆、仕事場が少なくて大変、ボツボツイベントも増えてきました。もう70過ぎですが、学生時代プロで、鈴木章治のバンドでピアノを弾ていて、卒業後は大手保険会社に就職し、定年まで勤め、その後、プロピアニストでライブに出て居る男が居ます。新派を見てみたいと言って居るので、今度、貴方の出る時に誘う積りです。頑張って...このコロナは本当に人々の生活 リズムを変えてしまいましたね。ボツボツイベントも増えてきましたがね。

僕の携帯の待ち受け音は、“Take Five”です。もう一人、僕の昔の野球仲間で、全然、ジャズに興味のなさそうな男が矢張り、”Take Five”を使って居ます。麻純さんジャズお好きですか?貴女の携帯の待ち受けも“Take Five”ですよね。師匠が水谷八重子さん(昔の良恵さんジャズ歌手)ですものね...

・9/3 六大学野球 対東大 慶應敗戦

僕は東大が昔から大好き...特にこの10年位、選手の体も大きく成り、良く練習している。

投手だけは他校比べると大国柱が細い。しかし、慶応に勝たなくても良いではないか...慶応も打てなかったが...今シーズンは早稲田が弱そうだが、面白いリーグ戦に成りそう...それと「プロ志望」が多いのに驚く。東大からも二人出て居るのだから...明らかに若い人の考え方が変わって来ているのだろう。

・9/10 誕生日 米寿

暦では、今年1934年生まれは89歳と成っている、誕生日を迎えて改めて、米寿を実感すると共に何か一抹の寂しさを感じる。特に今年は6月にペースメーカーを入れたし格別だ。

このご時世外部での集まりもないし、メールやF/Bでは、50人位の人からお祝いを頂いたが何か本当に感謝と一抹の寂しさだ。古い友達に「いいじゃないの...奥さんと二人で美味しい物を食べれば...」と言われて、「うな重」を取って食べた。この所、ブログも昔の思い出話が多くなる。考えて見れば、「良く無事に生きて来たな」と考えて出会った人々に改めて「感謝」である。  

・9/25 塾高対日大藤沢戦勝利

秋の県大会、今年のチームは、打撃は良いと聞いて居たが、籤運は余り良くない、強豪の東海大相模と当たるし...PGに首ったけで神宮と保土ヶ谷と様子伺いに忙しかった.良く勝ち進んだものだ。20年位前の甲子園出場時を想い出す。関東大会出場が決まって、先ずは「おめでとう」組み合わせが決まらないと何とも云へないが、「悔いのない」ゲームをして欲しい。兎に角、関東大会出場は嬉しい。

・9/27 国葬

英国の女王の国葬、安倍元総理の国葬儀と世界で一ヶ月の間に二つの国の国葬があったのも、歴史的に珍しい事だったろう。もう世の中で凄まじい報道量だから、論議をするつもりはないが、矢張り時代の「大きな変わり目」に来ているのだろう。世界の指導力がアメリカ一強に成りそうだ。日本は外国に投資ばかりして、国内は第二次世界大戦から復興した時の様な活力は無くなってしまった。英国だって「日産に工場を作って呉れ」って首相が頼みに来たことがあったじゃないか?日産がルノーと合弁してゴーンが来て日産をガタガタにしてしまった。あの時、政府は産業政策、海外政策について如何言う考えを持って居たんだろう。二つの葬儀を見ていて国の頑丈さを嫌と言う程考えさせられた。安倍国葬儀で前総理菅さんの弔辞の評判が良かったが、何か文章は矢張り先人のコピーで、長年官房長官を遣って来たのだから...原稿の朗読はお手の物だろう。國民よ利口になろう。

               


“Exercises are Supplements” (09-22-2022)

2022-09-26 21:45:23 | Massy's Opinion

★Megu's Sports

何で、運動することが大切なのか?ほとんどの答えは、“健康のため”でしょう。そうなんだけど、“健康のため”って、かなり漠然とした答え。多分、多くの人は、“健康のため” =“病気の予防”って考えているんだと思う。

先日、アメリカに留学するにあたって、お世話になった方から、クライアントを紹介してもらった。彼は、今、東京でパーソナルトレナーのジムを経営している。彼のクライアントが、サンフランシスコに引っ越してくると言うことで、クライアントが、引き続きトレーニングをできるようにと。と言うことで、彼のクライアントとFacetimeで、ミーティングをした。彼女は、サンフランシスコ市内に住むことになっているので、Mountain Viewでセッションをしている私のところまでくるのが、難しい。なので、セッションはVirtualでということに。彼女の、エクササイズのルーティンは、週1度;たまにウエイトトレーニング、呼吸法を使ったエクササイズ、コア、等、トレーナーによって、フォーカスが、まちまちなセッションをしていたよう。それ以外は、何もしないと。とりあえず、週一でも、時間をつくろうという考えは、良いこと。でも、週一は、Better than Nothingだけど、何を維持しようとしても、週一では足りないし、効果があるかは、疑問。仕事が忙しすぎて、時間が作れないとのこと。彼女は、まだ若くて、特に医療的にPre-existing Conditionがないので、現在のライフスタイルでも、後5−10年は、精神的にも肉体的にも問題ないかもしれない。アスリートのように運動しろというのではなく、若いうちから、体のケアをしないと、後々、何かしら問題が出てくることがあると。

そして、うちの母ちゃん。今年、84歳になる。右股関節リプレイスメントを2回;2度目の手術の後、病院のベッドに座った時に、大腿骨骨折。で手術。左膝半月板の手術と、4回も手術をしている。その後、私が言っても、日常生活の自転車での買い物、通勤、家事などが運動。確かに、これも、Better than Nothing。だけど、時間を決めてリハビリや、そのほかのエクササイズをしていなかった。そして、2年半前に、台所で転んで、大腿骨の首を骨折・手術。で、ようやく、5回の手術・30年経って、毎日決まったエクササイズをするようになったNever too Late, I suppose。これは、リハビリだけでなく、また転ばないように;転んでも耐えられる体を作るための予防。

ここで、私が言いたいのは、運動は、ビタミンのようなサプリメントと一緒。私のクライアントとのセッションのモットーでもある。毎日、10分でも、自分の“健康”のための時間を作る。そして、それを継続するっていうことが大切。1時間時間が避けないからしないというのでなく、毎日、少しでも、自分のための時間を見つける。みんながみんな、運動が好きなわけじゃないから、継続できるようにするためには、10分歩く、15分のヨガなど、ニンテンドーの体を動かすようなゲームでも何でも良いから、自分に合ったものを見つけること。“健康”っていうのは、病気にならないというだけでなく、病気になっても、怪我をしても、それに耐えられる・回復が早くできる体づくり、自分の好きなこと- それが、仕事かもしれないし、マラソン、MMA, 釣り、フォトグラフィー、子供・孫の世話・遊ぶことなど-が、楽しめるような体の基盤をつくること。また、自分の時間を作ることは、ストレス解消にもなり、体が痛みやだるさがなく動くことができるようになると、気分も良くなると。今、何も“健康”のためにしていない方々、このサプリメントをSmall Stepsで試してみてください。

 


“転業のプロセス Ⅲ”   ‘22-9-20

2022-09-19 22:18:06 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*銀座 ママの経営感覚

・僕の大好きな昔の銀座

ご存知の通り、銀座にはバーが沢山あった。‘60~80年代が一番華やかで匂いのする銀座だった。面白い話は、山ほどある。しかし、此処では、印象的なママさんの話を書いて置こう。

・ル・ピノのSママ

銀座のママには、店を出すまでに色んなプロセスがある。例えば、「歌が大好き...」「経済的、家庭的事情、父親が亡くなって、兄弟の面倒を見るとか...」である。この店は僕が大学4年の時に、一度誰か先輩確か、ラグビー部だったかな?連れて行って貰った事があった店で、新橋の銀座寄りの角の2階で12~3人のスタンドバーである。会社に入った時に日産の経理部の人に連れて行って貰った。

ママの出自を聞いたら、日産の経理部に居て、後の社長石原さんの下に居たそうだ。その後、銀座7丁目に移り、石原社長が偶に一人で来たことがあり、僕は3度位社長にお会いした事がある。女の子も初めは二人位で、後に6丁目、5丁目と店は引っ越して、業容を広げて行った。最後は、僕の慶応野球部の先輩のビルに偶然入った。そのビルは、その先輩の店もあり、僕の御客さんが、保証した店もあり一度足を踏み入れたら良く掴まってしまう店だった。段々、女の子も増えて、当然、給料も歩合制を取り入れる様に成って、一番古い子を日産担当にした。その子が、晩年、独立をすることに成り、ママはまさかそんなことは無いだろうと思って居たのだろう。相当ショックを受けて、彼女の担当のお客の売掛を保障しろと言うことに成った。その彼女は、僕の所へ泣きついて来た。話と売掛の内容を聞き、困ったが保証人に成ることにした。「何でSママは僕が保証人に成ったら、きっと驚くだろうな...」と思ったが、300万位なので色んな飲み仲間に頼めば大丈夫だろう...と思って保証人になった。此のママは、器量は良くない。いつか、「ママどうしてお宅は女の子が皆、長く務めるの...」と聞いたら、「私はこんなご面相でしょう...だから、将棋の王様には成らないのよ。何時も指し手に成る様にしているの...」この言葉は凄く印象的だった。40年位続いたかな。今でもビルは在るが、オーナーは先輩から他の人へ変わっている。あの先輩も色んな商売をして居たが長続きはしなかったな。

眉のママ

ミス、M、Nと言う、ある有名画家のモデル。当時、銀座には「久松」だの「お染」だのと言う店があった、客筋は一流の有名人ばかり、紀伊国屋の田辺社長なんかが毎晩来ていた。価格は安くはなかったが、そんなに高くはなかった。お店は、女の子は美人ばかり、全員着物、11時までは女の子にはタバコを吸わせない。キチンと品格を保った店であった。ところが、独立する子が多かった。ママは嫌な顔一つしない、必ず、新規開店お店には、「眉」M,Nと大きな花輪を出す。店を出した女の子は、大喜び...或る時、ママに「ママ、又お宅の...子お店を出したね、ママ偉いね...何時も開店祝いを出して...」「どうせ、銀座の商売はお客様のキャッチボールよ...」「そうだよね、あのこの店は、小料理屋だものね、帰りに「眉」へ来るよね...」此れも、印象的な話だった。商売はお客様より、「同業者の信用」が大事と親父に教わった事があった。

・平田のMママ

「眉」出身のママで美人。「眉」で3年位居たのか?その後、独立して「クラブ平田」と言う店をオープンした。女の子は、若い子で奇麗な子を集めて20年位やって居たかな。初めの頃の女の子の中にMちゃんが居た。テレビタレント希望でアルバイトで「平田」に来ていた。良くメーカーの仲良しと行き、開店の時には「絵」を送ったりした。当時、自動車業界は、トヨタの追い込みが凄く、月末の登録業務は、貸布団を借りて来て、会議室に泊る様な仕事をしていた。

「平田」がオープンした頃、月末に成ると、平田のママがお寿司の差し入れを飯台2つ位持って会社へ差し入れに来て呉れた。僕は守衛さんに一つ「いいだけ食べて...」と分けて上げた。こんな所為か、僕は、守衛さん、電話交換台には凄く人気があった。「平田」では、お店が終わってからママとMちゃんを誘って「ナイトクラブ」行ったものだ。すると、あくる日。Mちゃんのお母さんが、会社へ「昨晩は、Mがお世話に成りました」と電話が在る。此れには、正直な処、マイッてしまった。彼女が結婚するまで、彼女の従妹二人、日産の関係会社に就職の世話をしたり、住宅ローンの借り方、銀行の紹介等、随分、面倒を見た。この話が、本題ではない。「平田」のママは25年位で店を止めた。勿論、車は日産車、教習所は品川自動車を紹介した。ママは、「眉」の教えを守って、彼女は、お世話になった眉のママの所には、コロナ前まで、30年位、毎年年末に挨拶に行って居た。それと、従業員が店を出すと、必ず、お祝いの顔出しに行った。僕も、3軒位お相手に付き合わされた。彼女の実情は、父親はインパール作戦で戦死。晩年その地迄お参りに行って居る。兄弟の面倒を見る事が、大切な必然性だったのだろう。店を閉めたあとは、住宅を藤沢に作り、「増田さん、銀座で20年働いたら、家の一軒位建てられなくては...」と言って居た。兎に角、元従業員を大事にする人だ。80過ぎても、ゴルフをやって居る。

・瀬良美のOママ

僕の家の周りには、ジャズマンが多い。一番走りは、「シックスジョウズ」のドラム当時法政の予科に通っていた、南広だろう。「シックスジョウズ」は、今は、大事務所に成ったナベプロの渡辺晋がバンドマスターの人気バンドだ。家の真ん前には、名バイブマン増田一郎の家があった。よくジャズコンサートの切符を呉れた。或る時、「真夏の夜の女性ボーカル」と言うコンサートの券を貰い、親友のN君と聞きに行った。隣の席には、女性二人、休憩時間に廊下へ出たら、隣の席の女性と顔が会った。彼女がコーヒーを呉れた。如何も「素人ではないなあ...」と言う感じ。色々話をしていると、青山で店をやって居ると...それから、数か月後高校野球部の同期会が青山で在り、二次会に行く事に...「おいNよ、この前のコンサートで会った女の子の店へ行って見ようよ...」と言って、数人で行って見た。「こんな処にこんな店が在るの?」って言う様な、青山の裏通りに1階は小料理屋、二階は会員性のクラブがあつた。入ってみるとイや...驚いた。賑やかでお客も女の子も歌のオンパレード...僕はその頃、リース部長をして居たが、何しろ、メーカーの褒賞金を当てにしないで、食えるディラーにしよう思い、個人リースを考えて居た。特に、高い車で人気のある「フェアーレデイー」の個人リースを考えて居た。丁度、瀬良美のママが「Z」を欲しいと言うので個人リースの一号にしたのである。或る時、少し早めに家へ帰ったら、前の家にリース1号車の「Z」が止まって居る。「えーっ」驚いた。前の一朗さんの所へ「歌」を習いにOママが来ていたのである。その後、銀座へ店を出したが、此処も客筋が良かった。青山の時には、尾上梅幸さんと二人っきりになり、「さのさ」を唄ってくださいよ。と言ったら歌って呉れた。テープにでも取って置いたら宝物だ。僕のワイフの店が仮店舗でオープンした時、Oママがお祝いに来てくれた。僕がお礼の電話をしたら、「マサッさん、あのお店、伝票100枚位でしょう...」と言った。ワイフには売り上げ予算として「1日、伝票100枚」と言って居たので、彼女の経営感覚の鋭さには驚いた。兎に角、客扱いは素晴らしい。でも自分がエースのお店。希望は、「銀座にお店を出す事。白いベンツに乗る事。ジャズが上手く成る事」銀座に進出して、不幸にも体調を崩して、一度閉店した。その後、病気の具合が少し良く成り、小さい店を再開したが、矢張り無理だったのか、閉店してしまった。どんな難しいお客を連れて行っても、絶対にお客様の印象を悪くすることは無かった。赤坂プリンスで原信夫さんと#&bで30周年祝いパーテイーを遣り、CDも1枚出したので、想いは遂げたと思うが、青山、当時にはライブもやって居たので、三保敬太郎君を紹介したり、女の子のオーデイッションに付き合ったり長い付き合いだった。青山時代から「ビュッフェ」の絵が1枚あったが、未だ持って居るだろう。接客センスは兎に角、抜群のママだった。

*長々と昔話を書いたが、小さな店は経営者の人柄や考え方がすぐ出る。大きな組織に成るとトップの意向は中々表面に出て来ない。組織運営の難しさだ...。


”転業のプロセス ⅱ" '22-9-13

2022-09-12 21:18:37 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*前々回 同名のタイトルで、自動車部品商からコーヒーショップに転業した時の事を書いた。文章や言葉にすれば、簡単の様だが今考えると「良く出来たな」とつくづく考える。

そして、一つずつ判断を間違えずに勧められて来られたなと思う。今の時代、100年に一度の大変革の時代だ。本の広告、ネット上のキャッチフレーヅにこの種の「how to …」物がいかに多いか?でも書いて居る人は若い人、当然、経験も少ない筈。その辺では、僕は引けを取らない何しろ今週の土曜日には「有難い事に、米寿を無事に迎えられた」からである。

*経営に絶対必要な事。数字に強く成る事だ。そして、数字の意味を部下に伝えられる事。

此れには、最小単位1グラム、一人当たり、等を意味する。僕は、幸いに商人の家に生まれて、苦労した親父に育てられて、中学生に成ると月、3円のお小遣いを貰い、小遣い帳を付けさせられた。月末には、小遣い帳と余ったお金を揃えて見せて、翌月のお小遣いを貰った。

此の記帳で、使途不明金を記帳する事も覚えたが、直ぐ親父に見破られた。そして、発生主義で「本当に落としたなら落したと書け」と怒られた。こんな事をお祖父さんが、親父に教えたとは思えない。屹度、親父が起業して、店員を使う内に身に着けた事だと思う。僕は、この事は「損益計算書」(一定の期間の売り上げ―費用=利益)と利益に通ずる一番大事な事だと思って居る。

*「貸借対照表」(ある時点の財産の状態)は、まあ、正直な話、15人の取締役が居たとしよう。経理担当の役員以外は60%位しか理解して居ないだろう。僕の入社した会社は、当時,入社時月販600台位の日産車を売って、世界一の販売会社(1957年当時)だった。役員は13人位いた。

僕は、労働組合の委員長をして居たが、「経理担当の専務位会社の経理を解らないと労働組合の言い分は通らないな」と経理部の組合員を重用して、「貸借対照表」の勉強をした。

僕が、長く使えたM社長は、日産メーカーで部長代理をして居た人で、後に東京日産で社長に成った人だが、全然経理の事は解らない人だった。随分、個別に二人っきりで御進講した物だ。そんなレベルで事は済んだ時代である。今は、科目が多くなり過ぎて、何処の会社でも財務諸表は非常に難解。特に、銀行のこの財務諸表は難解で、株主総会時に壇上に並んでいる多数の役員も多分、自分のパートしか解らないだろう。

近年は、「キャッシュフロー計算書」も追加され「財務三表」と言われて居るが、詳細は別にして損益、貸借の概要は、解るように自分なりの理解はして来た。

何時でも従業員に売り上げ目標だけは、徹底的に叩き込んだ。喫茶店でも、自動車販売でも、同じである。僕は、東日リースと言う会社造りを命じられた事がある。その時、資本金1億円、銀行保証10億お願いしますと社長にお願いした。「君、何考えて居るの?10億何て...」「社長、リース会社はお金が商品ですよ...」と言うやり取りをした事がある。2年間で3人の仲間と自動車以外のリースのパターンは作った。御多分に漏れづ関係会社を売り払う時代が来たが、東日リースは一番、最後まで残った。僕の後任は、「マスさん,僕はリースの事は解らないから、金融をやろうと思って居るんだけど、如何かな?教えて呉れよ...」「いいんじゃないの、リースは金融だもの」と云った事がある。

*さて、最後に日産特販の社長を命じられた時には、僕の考えて居た、理想的なディーラーにしようと思った。全車種扱い、地域は全国、中心は大口需要(業務用)である。日産自動車の国内販売のスタッフと話し合いをした結果生まれた会社である。実務的に会社を運営する事に大事なのは、銀行と印鑑である。メーカーには管理部と言う部署があり、ディ―ラーの損益を管理する部署である。幸い、そこの部長が親しかったので、「よそのディーラー社長印は如何して居るの?」とか教えて貰った。経営で大事な事は「資金繰り」である。これに失敗すると、黒字でも倒産する。特販の時は、設立時の地理的な関係から、銀行の支店が遠かった。月末時なんかは手形を運んだり、大変であるそこで支店の変更をしなくてはならない。銀行も組織であり、計画、予算が在る。大口が突然「支店変更する」と云ったら困る筈だ。そこで、1年位の見込みを建てて、当時、富士銀行の四谷支店の支店長に要旨を話に行った。次の支店は、浜松町か神谷町にしよう。僕としては、「神谷町の方が良いな」と思って、ワイフに話したら、ワイフは、「公私混同に成るから神谷町は止めて...」と言う。

それで、同業が多いので比較されると嫌だなと考えて居たが、浜松町支店に窓口を変えた。

自動車販売は金額が張るので、支店としては結構大きな問題の筈だった。少し、脱線気味の話に成ってしまったが、この時期、今から35年位前の話であるが、僕の経験の中で、転業と会社設立と自立できるディーラー造り、タクシー中古車350台のミヤンマーへの輸出、香港への30台の輸出、北京のLPG博覧会へ中古車の左ハンドル改造車の出品等、会社トップの経験は、貴重な宝である。


“Diary 188” '22-9-6

2022-09-05 21:53:40 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*8・6 山田壮晃 Bigband コンサート 於 Jz―BLat

何年振りだろう。コロナ以来だから、3年振りかな...Yokoさんから遠慮深く、お誘いを頂いた。久しぶりのフルバンド・ライブ中々聞く場所もないし、機会もない。山田バンドはコロナ前は毎年、行って居たのだが、Yokoさんも出ようか?出まいか迷って居た見たい。

何か時節柄、客数は減らしたようだが、ほぼ、満席の状態。山田さんは、もともと、ブロー、ブロー系のスタイル、ペット4、ボーン4、テナー2、アルト2、バリトン1、ピアノ、ベース、ギター、ドラム各1の17人編成。ゲストに五十嵐明要さん歌手は山田さんの奥さん有佳さんはじめ、Yokoさん、最高齢は多分沢村まみさんを含み6人、一人3曲ずつ。2時間半位。山田バンド、何か少し、大人しくなった様な気がした。お客さんは、皆、出演者の知り合いか何か...よく知っている人が多い感じ。もう原さんの「#&b」もないし、貴重なフルバンドになってきた。歌手も6人も出ると、それぞれ個性を出すので面白かった。

*高校野球

コロナ騒ぎの中、日程調整とか、裏方は大変だったろうと思う。しかし、無事に仙台育英の優勝で無事に全日程をさしたるトラブルもなく今年の全国大会も終了した、お陰様で、われわれ、野球好きは、大谷君と高校野球で、酷暑の8月をstay homeで過ごす事が出来た。

感じることは、野球が変わって来たこと。各校の指導者が若返えった事もあるかも知れない。

それと、高校生の体が大きく成った事。大胆に大リーグ風な戦術取り入れて、1-2番に最強打者を並べる事、各校、投手一人ではなく、継投が当たりまへ、背番号が大きい子でも五分の出番を待って居る顔付が違う。体造りは何処の学校でもやって居るが、ウエイトリフテンィング系から、ストレッチ系にこの10年位に変わって来ているので、いい体の子が本当に多くなった。相変わらずの県外選手も多いが、どこかで、横浜高校の元監督渡辺さんが「県外選手の出場は駄目だな」と言って居るとか...大谷選手の影響か、関西から東北の学校に行く子がいるらしい。準決に残ったチームから12人位ドラフトされるのではないか?

*ウクライナ問題

予想外に長引いているこの戦争。ウクライナも絶対にロシアの領域には攻め込統一協問題はまない。米國やNATOがついて居る事ロシアも知っているくせにそれ以上の攻勢を取らない、要するに旧ソ連邦の国内戦争の一線は守って居る。経済制裁も決めつけ迄は行かない。本当にウクライナの国民は気の毒だ。何処まで?いつまで遣るんだろう?世界はそれまで相互依存をしているのだからもう決着をつけた欲しい。矢張り、米ソ戦争か?プーチンの暗殺か?

*経済情勢

安倍ノミックス、長期政権の弊害か?日銀の政策の過ちか?統一教問題で日本は肝心な事の考えが無くなっている。20世紀は、自動車の様に経済を牽引して、世界に存在感を示せる物があった。今、誰がそんなことを考えて居るのだろう。マスコミの低調さも酷いもの。

*世の中で感じる事。

宣伝、広告が過激になって来た。企業は内情大変だ。今度,「神戸屋」が一部山崎パンに事業を売った様だ。それでも、製品は神戸屋ブランドで売るらしい。サプリメントの広告も兎に角、過剰だ一度過剰広告を取り締まる必要が出て来ているのではないだろうか?僕はサプリメントを広告につられては買って居たが、此の処で全部止めにした。健康は、自己管理と神様の仰る通り(いつもワイフの言って居る言葉)インターネットの広告も酷い。これは取り締まりが難しいだろう。兎に角、大変な世の中に成って来た。

 


“転業のプロセス 1”     ‘22-8-23

2022-08-22 23:05:24 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

1.部品商の廃業

親父の没後僕の父親は金太郎祖父さんの長男、姉1人、弟が二人の4人兄弟だった。祖父さんは「株や」と聞いて居る。住まいは四谷1丁目、女中さんが5人位居たと言う事。親父が小学生の頃、祖父さんが投機に失敗して、どん底の生活に成り、親父はパンを買いに行くのもお金の価値もパンの値段も解らず戸惑ったと云う話を聞いた事がある。親父はそれでも中学には進めた様だ。金太郎祖父さんの親父は増上寺の僧兵の親玉だったとか、それで我が家の菩提寺は芝公園の安蓮社と言う、増上寺の偉いお坊さんのお墓が沢山ある小さなお寺で、もう170年位経っている。親父の弟二人は高等小学校卒業後、直ぐ学徒動員で兵隊に成り、支那に派遣され、終戦を迎え、戦後引き上げて来た。親父は中学を出ると、日加商会と言う自動車部品商に入り3年位して、21歳で結婚して部品商を開業したのである。太平洋戦争中は、多くの企業が合併させられて修理屋2件と部品屋の3軒が合併させられて、日之出自動車と言う会社に成ったのである。当時、三井物産が田村町に在り、ヤナセ自動車の創業社長は三井物産の自動車部から独立したそうだ。当時、大倉男爵邸は今のホテルオオクラの所にあり大倉男爵は自動車が好きで、愛宕下に東京自動車商会と言う自動車屋を開かせるほどだったと言う。戦後、輸入車の販売が盛んになり、新橋から赤坂見附までの両側には色んな自動車会社が軒を連ね、東京のデトロイトと言われた時代が在る。僕は5~6歳の物心ついた頃からあの辺は良く知っている、もう本当に数少ない人間に成ってしまった。また自動車の移り変わりも良く解っている。太平洋戦争末期には、人間魚雷のエンジンは自動車のエンジンを使った物もあり、日之出自動車は、整備技術を買われてその仕事もして居たので、親父は純軍属扱いで、徴兵を免れたらしい。

・商売の状況

僕が大学1年の時、社会の夏の宿題で、「industry &community」地域と産業例えば南部の鉄瓶とか...のレポートを出せと言われた。僕は野球の練習があり地方には行けないので、「何で、芝、港区には自動車屋が多いのか?」と言う事にしようと思い、整備工場の組合や部品商の組合を尋ねてレポートを書いた。その事が後年役にたった。当時、港区には約500軒位の大小取り交ぜた自動車屋があった。当時は、東京都は清掃事業も清掃局で自動車を持ちと全体でも車を保有し、整備工場も持っていた。都庁の指名願いを取って居たのは3軒の部品屋しかなかった。部品商も整備工場が買いに来て呉れた時代から、配達をする時代に変わって来た。採算は厳しくなるばかり、「良く配達手数料を貰わなくてはやっていけない」と言う話をしたものだ。親父は良く「在庫は儲けのカスじゃなくてはいけない」と言って居た。細かいビス1本、ワッシャ―1枚何んてとても棚卸なんて出来やしない。

・売り上げ 月500万、 仕入れ 月150万 粗利率目標25% 在庫簿価 600万

人件費120万

部品の販売以外にクラッチディスク、ブレーキシユウのライニングの張替えをやって居たがこれは工賃仕事で、暇な時には店員みんなでこの仕事に掛かっていた。僕自身も休みの時にはアルバイトでホンダのシユウを80枚リベットを打った事がある。懐かしい思い出だ。確か一枚5円だったかな。親父が死んだ後、或る時、店の売り上げ利益率が18%に落ちた月があり(維持目標22%)、「もうこれではやっていけないな」部品屋を辞めて僕は会社勤め、「店は女で出来る喫茶店にしよう」と決心した。この時は、生まれて初めて、銀座の日動画廊の前の占い師に占って貰った。占い師は、「あなたは大衆に関係した仕事が向いている」と言われた。勿論、ワイフ同行で見て貰った。

転業する決心をしたけれど、従業員に話をするのは、一番辛かった。或る時、夜皆と言ってももう5人しか居なかったが、集まって貰い話をした。皆、苦しい事情は分かって居たので、整理の方法を話、理解して協力を頼んだ。

・在庫整理

商売で1番大事なものは在庫管理である。当時の商売の規模は、覚えて居る範囲で記してみよう。大体、色んな大学の自動車部は当時、自動車ブームの走りで人気が高く、持って居る車は35年製位のフオードが多かった。そういう古い車のエンジン回りの部品なんか結構在庫があった。各校の自動車部の学生には、「あの部品屋へ行って見ろ、部品有るかも知れないぞ...」と結構知名度はあった。古い車の部品在庫は、親父の趣味の部分も多かったと思う。いよいよ、転業の準備に入った。とても在庫部品の帳簿価格とは見合わない。換金できる在庫の価格は、160万と踏んだ。仕入れたばかりの物は仕入れ先に事情を話し、引き取ってもらう事にした。大体当時部品業界の仕入れは、120日の手形払いが60%位あった。利が薄いからどうしても資金が不足する。親父の代からこういう状態だった。従って資金の準備は、在庫の簿価との差が一番多く約400万と予算を建てた。

*売掛金2ヶ月分 約1000万

*手形落札分 仕入れ月400万x4ヶ月1600万x60%=960万幸い都庁が多かったので、未収には成らず、但し、入金時期は確定できなかった。

*買掛金については、「手形は全部必ず落とします。当月の仕入れ分は半額にして下さい」

と交渉させた。

その他にガソリンスタンドをやって居た僕の親友の所にお願いして、毛羽たきやプラグは随分、買って貰った。彼のスタンドは、事業用のユーザーが多く、Yシャツやサングラス迄置いてあった。皆、運転手さんが買って行って、ガソリン代と一緒に成るそうだ。と言う話も以前聞いて居たので、事情話して協力して貰った。

・資金繰りと調達

資金は金融機関から借り入れをしなくては遣っていけない。廃業資金何て名目で調達出来はしない。新規事業の計画とそれに伴う利益からの返済計画が必要だ。これは、至極当たり前の事。一つ問題は、都庁に対する売掛だった。予算が決らないと納入部品に対する支払いが行われない。そこで、考えた挙句、部品商を閉鎖せざるを得ない状況を、内容証明の用紙に書いて、清掃局の事業所長あてに出した。これは、効果が有って3月末までに一度に振り込まれた。屹度、「内容証明でも出されたら困る」と思われたのだろう。後は、店舗の改築資金とその後の事業計画組んで富士銀行から保証協会の保証付き条件で約3000万円を調達した。勿論、祖母のへそ繰り預金を除いて、自分たちの僅かな貯金も全部廃業資金に充当した。充当資金を準備して、振り出してある手形を、「現金で払うからか戻させてほしい」

「当月の仕入れ分は現金で払うから、半額にして欲しい」と交渉をさせたが、星野商会と言う店は、「手形の期日は伸ばしてもいい...額面通り払って呉れ...」と言われた。色々、考えたが、「増田商会に信用が在るんだな...」と考えてて、そこだけは額面通りに手形を落した。

大洋商会と言う会社の営業マンは、東京日産の僕の勤めている居る所まで、「如何して呉れるんだ」と言って来た。「君良い営業マンだね。他所の会社は僕の所へ来たくても、来ないよ...部品屋は給料安いだろ...君ならもっといい所、世話してあげるよ。」と云って帰してしまった。

・手形の事と引っ掛かり

親父が急逝して、僕とワイフが、手形の事など、知識がある訳はなかった。当時は、金融のシステムも今日とは全然違うし、学校でも習ったことは無い。経理士はついて居たが、全て経理士先生の言う通り...或る時、ワイフが「経理士の先生が手形を貸してくれ...印鑑は何でもいいから...と云うので実印は押さなくて貸したわ」 「馬鹿、お前何して居るんだ。手形は何の印鑑でも有効に成るよ。経理士は変えよう...」と云って経理士を首にした。手形全盛の時代で、それ位、我々も無知だった。融通手形は親父の代の人たちが、増田商会から独立した連中の店も殆どが使っていた。まあ、増田の信用があったと言へば格好は良いが、相手がキチンと手形を落してくれればいいが、危険である。そこで、手形の期日を増田の手形の3日前にして貰う様にした。一度、月70万位買ってくれるお客さまがあり、その会社が倒産する情報が先方の専務から入った。売掛は100万位に成る。夜、お店の番頭さんと葛飾まで行った。先方の社長一家は誰もいない、専務だけが居た。「お宅が潰れると、家も潰れます家の番頭さんも子供は小さいし生活できません.幾らかでも払って下さい」と頭を畳に擦り付けてお願いした。未だ金庫に20万位の現金と70万位の手形が5枚位あった。最後は、相手の専務に「貴方も大変でしょう。後で5万円バックしますよ。」と云って金庫の中の手形と銀行に残っている現金相当の小切手を切って貰った。家の店から独立した中で、一番しっかりして居る人の所へ行き、「こういう手を売って来たけれど...」「ヒロちゃん 駄目だよ 手形に裏判がないよ...」それから、すっ飛んで葛飾へ戻り、先方の専務に裏判を貰って来た。翌朝、朝8時に葛飾の銀行の門が開くのを待って居て、無事大口の引っ掛かりを防ぐことが出来た。僕が、今迄、約束をして払わなかったのは、この5万円だけである。車も随分売って来たけれど一度も引っ掛かったことは無い。親父の葬式の時は、安蓮社に400人位の人が来て呉れたが。同業者、お客様皆最後の僕の挨拶を待って居るなと言う事は感じ取れた。僕が東京日産に行って居る事は知って居るし、店を如何するのか?が一番の関心事だったと思う。僕は「増田商会は続けて行きます」とだけ挨拶をした。資本金も50万から1000万にしてあるし、株式会社にしてから約75年に成る。最近、友人と良く話をする。不思議と同じ様に自営業者の子供が多く親父の話をする。親父が死んだ時,東京日産の先輩が「店は如何するんだ?株主は良いけれど、役員に成っては駄目だよ」と忠告された。親父の先輩が近所に住んで居て、朝店の前にオートバイが出て居ないと、会社へ「弘、オートバイが出て居ないぞ...」と電話が掛かって来た。本当に色んな人にお世話になった。 

2.新規事業の計画

色々市場調査をしたが、当時、銀座三越にマクドナルドがオープンして、大変な人気だった。藤田伝商事の開発部に電話して、「こういう店を使いませんか?」と尋ねたら、女子社員がスラスラと答えた。

店舗は30坪以上・ 土日が50%以上聞く処・が最低条件。

直ぐ傍に、森ビルが20000㎡のビルを建てた。そのビルの収容人員は?

5㎡の一人...収容人員は4000人 (往復8000人の通行量)通行量は10000人と仮定

1%が当店の両客=100人 コーヒー1杯 120円X100人=12000円(1日の売り上げ) 粗利率85%

月間売上 12000円X25日 粗利率85%   粗利255000円

と云う予算を組んだ。コーヒーは何処から仕入れしようかと考えたが、大手の焙煎業者でなく、自分の所で店も出している処と言う事で、中央珈琲と言う処にした、今度は実働する人間である。ワイフに1週間中央珈琲に勉強に行って貰った。

何であれ月600万規模の売り上げから30万規模の売り上げに成るのだから、大変だ。3年間は無給で遣ろう。営業時間は8時から20迄として店舗のコストも出来るだけ落して改造に掛かった。テーマは「コーヒーを売れ」「清潔さを第一に」「女を売るな」と決めた。

毎週土曜日の午後は「大掃除」と決めて、僕も会社が半日だったので、毎週店に行き、先ずトイレの掃除を必ずっやった。近所の修理屋さんからは「弘君、何年出来るかな?」と言われたが必死にやって、平日は閉店後、姉貴とワイフと3人で食事に行き9時半には東京駅へ姉貴を送り届け帰宅した。店の名前は女ばかりだから、花の名前にしようと思って居たが、中々適当なものが想いつかなかった。高校野球部からの親友が「マッサン、マス兄だからマッシ―で良いじゃないの?」と言われて「そうだ!」と決めてしまった。当時、MLBに行った法政の村上投手がマッシ―と呼ばれて居たが、後日会った時に了解は取った。ゴルフの倉本がマッシ―という会社を後に作って居るが、確か、銀座に1軒小さなバーがあったが、以来、“Massy”をコールネームとしている。

・再開発の交渉

時を経て、森ビルの開発が進んで来た。予測はして居たが、交渉に来た担当者に話し合いに入る前に会社ではなく、「貴方個人としてっ僕を不当な扱いにしないように一筆書いてくれ」

僕は、基本的には賛成だから...と言って交渉に入った。矢張り取得床の提案が1階なら14坪、地下なら25坪と言う提案だった。色々考えたが、判断がつきにくい。しかし、駅の「改札の前なら地価も一階も余り変わらないだろう。広い方がいいな」1階に義弟の為に「15坪位の喫茶店が出来る所を借りてやろう」案の定、最終で各権利者の取り分を見ると僕の分が5坪位少ない。最後に成って初めに取った「一筆」が有効になり、30坪の権利が取れた。その後、ワイフの健康問題も出て、貸店舗にしてしまったが、部品商だった会社は、テナントに恵まれて賃貸業として、健全に生きつづけている。これらの経験から、色んな人の相談を受けてきたが、もう年数を経て、止める人、病に成る人、が出て来て寂しい。親を養う、兄弟を養うという必然性がない人の相談には乗らない、全くのボランティアーのコンサルである。この間、或る人のブログに僕の第一号店の人の店の事が出て居た。部品屋から喫茶店への転業が本当に良い経験に成った。振り返れば、従業員を始め、良い人々の出会いに感謝であった。

*ジジ(銀座) バンベール(恵比寿) 凡々(銀座) ポケット(赤坂) カルム(白金)

えん(日鉱)野々山(大橋)

                


”英語のメニュー“  ‘22-8-16

2022-08-15 22:25:44 | Massy's Opinion

★Massy’sOpinion

・今から50年位前か?僕は‘57年に大学卒業して、社会人に成った。僕の職番は、57041職番と言うのは、今使われているのか如何か解らないが、今はメールアドレスか携帯の番号が人事管理に使われているのではないかな?当時、僕はバーや何かボトルキープのナンバーは此れを使っていた。親父が死んだのは昭和39年=1964年だ。部品商を喫茶店に変えたのが1971年10坪の店で、2階は麻雀屋6卓の狭い店。其の頃、同じ方向から通勤してた、S君、Y君と1台の車に同乗して出勤していた。二人は僕の家の暮らしぶり生家は部品屋だと良く解って居る。或る日の朝、車の中で、「おい、今度家の店の2階を麻雀屋にしようと思うのだけれど、誰かやりたい人は居ないかね?と云ったら二人が、「俺たちで借りてやろうか?」と言い出した。「えっ、ホント?商売は大変だよ...君たちが遣るんだったら権利金も取れないな...」結局S君の家はお父様が警察出、「そんな事いけない」と言われたらしい。Y君の家は栃木の大地主、当時、二人目の子供が生まれていた。そんな経緯で、結局、敷金も権利金も取れず2階を麻雀屋として貸すことに成った。当時、我が家と同じでY君の奥さんは乳飲み子を二人連れて麻雀屋さんをやる事に成った。それでも、開店時間に遅れる時が在ると、結局、下の喫茶店のワイフの所へお客さんは来る。Y君の奥さんも、Y君も、伯母さんを一人雇う事にした。儲かったか、どうかは知らないがそれでも7年位やって居ただろうか。勿論、我々は家賃を貰ったが、相場の50%位だった。今、所在は、解らないがY君の子供は男の子3人で皆、出来が良くて長男は、慶応を出て高島屋に勤めたと言う事までは、聞いて居る。

部品屋を辞めて、喫茶店にしたが、部品屋を辞める時は、大変だった。帳簿上600萬位の在庫が在ったって、「売れてなんぼで、売れなければ目方でしかない」店は帳簿上、立派に黒字だが、中身は真赤。在庫の処分が問題。方針を決めて、ワイフに言う。従業員にも当時、6人居たが皆いい人たちで、苦境は自分たちで肌身に感じている。退職金なんて社規通りには払えない。車と欲しいものを挙げて、お金は現金で、確か均一の30万位だったか?

・コーヒーショップ

約20人位の客席朝8時から、より8時まで。ワイフの姉さんに無給で手伝って貰った。その代わりブルーバードの新車を買ってあげた。3年間の約束だった。見事、店は当たって1日120人位の来場があった。近所のビルに外資系の会社が増えて来て、外人の来店もある。そこで英語のメニュウが必要に成り、近所の外資系の会社に勤める常連の女性にワープロで作って貰った。メグミが知人を日本に送り込んで来る。大体、東京を見物する時は、並木通りの「お多幸」のおでんか、「伊勢広」の焼き鳥に連れて行く。或る時、「お多幸」に行った時、まさか「無いだろう」と思いつつ、「英語のメニュウ在る?」と聞いたら、「はい、ありますよ...」と言う返事「ああヤッパリおでん屋で正解...」だったと思い、昔の喫茶店での英語のメニュウ造りの事が想い出された。ヤッパリお客様の動向に目が行き届く店は「流行る」と思った。次回は部品屋からコーヒーショップに切り替えた時の事を想い出して見よう。喫茶店に切り替える時も、市場の需要予測から資金繰り迄、大体、3年、5年の先までプランを組んだ。いい経験だった。


“銀座 和光” ‘22-8-9

2022-08-08 21:53:35 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・僕の趣味

非常に多趣味...凝り性、昔、5,6歳の頃から、「如何して...?」としっこく質問をするので、お祖父さんやお祖母さんに嫌がられた。特に、身に着ける物も拘りがあり、成蹊中学2年の時に、銀座ワシントン靴店でラバーソールの靴を買って居た。親友のY君とお揃いで買ったのである。その代わり、大事に履いた。高校生に成ると腕時計が欲しくなり親父にねだって舶来の2流品「エニカ」と言う時計を買って貰った。社会人に成った時、近所に原田さんと言うテイラーがあり、親父は基本的に地域密着型で、そこの洋服屋で、親父と同じ生地のツイードで背広と替えズボンをお揃いで作った。背広を着る様に成ってから、当然、ネクタイ、ワイシャツとこだわる物が多く成り、特にネクタイピンとカフスボタンはこだわりの中心になった。余り高価な物は買えないので、時計はセイコー、カフスは七宝が安くていい。御贔屓の店は、銀座の安藤七宝店、和光である。カフス、ネクタイピンは「犬」の物を特に集めた。処が、猫は沢山あるが、犬は少ないのである。「犬はどの犬種が売れるか?解らない」ので、作らないと言う事を、安藤七宝店で聞いた事がある。「LoveとGyu」を飼ってからゴールデンの飾り物を随分と集めた。今でも一つ買いたいリヤドロの人形が在る。高くて買えないのである。

・久しぶりの銀座

6月初め、銀座ㇾカンの本店でチョットした昼のパーテイがあり2年振りで銀座に出掛けた。こんなに銀座に行かなかったのは生まれて初めて...僕が生まれたのは、芝、御成門(今は西新橋)お祖父さんは神谷町に住んで居た。毎月10日は金毘羅様の縁日、大体、土曜日は銀座に祖父さん、祖母さんと我が家親子3人で銀座に行ってご飯がルーチンに成っていた。 当時、太平洋戦争の前の銀座は柳の並木があり、夕方に成ると露店が夜店を出していた。新橋から4丁目の交差点まで、ぶらぶらと散歩、「銀ブラ」である。天ぷらは「橋善」鮨は新橋の「大鮨」、洋食は「オリンピック」と云う様なところ、チョット高級な洋食は「フロリダキッチン」ここのニンジンは美味かったな。未だ鮮明に覚えて居る。そうそう、確か4歳頃かな、銀座4丁目「和光」(当時は服部時計店)の柳の下で交差点に向かって、僕が「立ち小便」をしちゃったのである。金太郎お祖父さんが慌てて僕を引っ張りに来た。行儀の悪い事をするんじゃない」と凄く怒られて、「小便は止まってしまった」こんな昔の80年前の事を鮮明に覚えて居る。お祖父さんの血相を変えた顔が目に浮かぶ。

さて、このレカンに行った日には、僕の持って居るセイコーのラサールと言う、当時、輸出向けと聞いて居たが、ブレスレット風のペアー時計を持って行った。最近は携帯、万歩計と時間は身に着けているので、時計は電池が無くなったまま止まって居る。此の電池交換とオーバーホールをして貰おうと「和光」に行く予定にして居た。修理代の高いのは予想して居たが、思い切って行って見た。

・時計の修理

店内は予想通り空いていた。修理の受付へ行き「もう此の時計古すぎて、このモデルは無いでしょう?」「そうですね、お客様申し訳ありませんが、部品の交換は出来ませんが、お時間を頂いてさび落としは致しますが...」「解りました、お見積もりは?」「電池交換を含めて約28000円位です」いやー高いのに驚いた。街の電池交換では1000円位である。「時計が一つ買えてしまうね...」でも機械物はメンテナンスが大事。良く解って居る。古くなると部品が無くなる、これも何処かでよく聞く話。僕の御客様でダットサンを未だ乗っている人が居て、いつもその相談で言われて居る話。もう値段の問題ではない。兎に角、オーバーホールして貰う事にした。

・店員の応対

予定通り40日目に「明日お届け致します。恐れ入りますが代金は代引きで御願いいたします」と丁重な電話が在り、翌日予定取りキチンとした梱包で時計は届いた。いやー本当に奇麗に成っている。ブレスレット風の側も奇麗に光っている。実はこのラサールを僕はゴールド色のと二つ持って居る。ゴールドの方も同じオーバーホールをして貰おう。と決めて先日「和光」へ持ち込んだ。修理受付に行って、「先日白の方をお願いしたんだけれど、もう一つお願いしたいんですけれど、伝票見て呉れる?管理のキーは電話番号?」「はい、電話番号です」直ぐ解った。「さすが、和光さんね。奇麗に成っていたよ。それで、もう一つもお願いする事にしたよ」このお客さん凝り性の人だな。と受付の人も解ったろう。昨夜はワイフと気分転換にジャズのライブに行って来たが、アロハシャツにジーンズ、腕には白いブレスレット風の時計、ワイフが「パパ、時計してるのね...」「本当に、キレイに成っているわね。光っている...」暫くして居なかった時計を身に着けようと思わせる位に奇麗に成った。

「高い物を高いと思わせない様な仕事の流れ」、「店員の応対」、これは、Webでは出来ない「人と人」の接触だ。これからの時代、この「商売の原点回帰」にどれだけ時間が掛かるだろう。Meguが「Webで仕事すると疲れる」と言って居た。最近、タクシードライバーの質が大きく変わって来た。昔風の「雲助風情」は居なく成った。タクシーに乗ると何時もドライバーさんに「ドライバーはいい仕事だよ。定年も無いし...」と励ましている。

 


22-8-2 “Diary 187”

2022-08-01 22:41:05 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・‘7―8 安倍元総理 暗殺

凄いショッキングな事。何か、全てにタルミが在ったのだろう。選挙で回る方も警備する方もタルミが在ったとしか考えられない。ヤッパリ犯人の方が、意識と怨念が強かったのだろう。最近次々に明るみに出て来る統一教会との絡みも当時を想い出せば色々想い出される。僕も自動車労連販労の専従委員長をしていた時代。創価学会が懸命な組織造りをしていた時代だ。「自動車販売業界の地位の向上を労使上げて取組もう」

其の為には政界に人を送り込まなくては...と言う事で大阪日産出の田淵先生を政界に送り出す為に選挙活動を懸命にやった。戸別訪問も随分やった。当時、販売労働組合の組合長は京都日産の故村瀬さん。僕が専従を辞める時、村瀬さんが「増田君の組織を見ろ...生き生き動いているじゃないか...」と言って呉れた。あの年は親父が死んで、葬式を出し、100日過ぎて結婚式をして経済要求を定期昇給、夏の賞与、冬の賞与3回団体交渉をやり、そして選挙をやり、組合の幹部が選挙違反で捕まり、本当に大変だった。個別訪問もポスター張りも遣った。ポスター張りでは、若奥さんが「貼って良いですよ」と云っても、お祖母さんが出て来て、「駄目ですよ...」と言う、結局は貼れずじまい...よく覚えて居るので、選挙の大変さも良く解る。創価学会の組織の強さも良く解る。それだけに、自民党の応援場所の変更等、スケジュールの組み方もユルミガ有ったのだろう。肥大化した組織の中では誰も責任を取らないだろうし、「まず派閥を壊さないように...」と言う議論が先に立つのだろう。ウクライナとロシアの戦争も酷いものだが、世界中に小さい部族間闘争は沢山ある。しかし、一国の元トップが「暗殺」された国は近年には無いと思う。色々捜査が進むにつれて、問題が明るみに出て来るだろう。日本は酷い国に成ったものだ。国民ももっと利口に成らなくてはいけない。しかし、纏まらないだろうな...又、今日はオリンピックの問題が出て来た。体育会系の問題は色々知っているが、余りにもスポーツを美化しすぎて、材料に使うのは止めて欲しい。

・‘7-24 桜島 噴火

桜島の噴火が可成り大きかった様だ。異常な暑さ、日増しに増えるコロナ患者、毎日の様にこれ見よがしに煽り口調のコロナ患者数のテレビ報道。地震、雷、火事、親父...言い古された怖い物に、加えて、疫病、暗殺、噴火、酷いね...活火山の多い日本は富士山、の噴火が起こるかも知れない。日本人は第二次大戦の敗戦時を想い出さないといけないだろう。高度成長で伸び切った生活を改める。高層ビルによる再開発はもう十分。人口減少、家族の破壊、コンクリート・ジャングルはもう要らない。人間の在り方論をモット考える事が大事だ。「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」

・‘7-26 退院後 1ケ月

こんな酷い世の中が来るとは考えても居なかった。其処へ持って来て、不整脈で手術なんて本当に考えて居なかった。でも医学の進歩を身近に感じ、近所に素晴らしい病院が出来、ドクターが又慶応の後輩と言うめぐり合わせに本当に感謝だ。まあ、順調に回復している様だが、何とか一ヶ月を迎える事が出来ている。しかし、年齢は実感として大きく感じる。メンテナンス(体を動かす事)は、それなりに80%主義でやって居る積りだけど、気分的には余りリラックス出来ない。周囲の人々に感謝がおおきく成るだけだ。特に大谷翔平君に... 

 


”世情雑感“  ‘22-7-19

2022-07-18 22:57:20 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*ウクライナとロシア

毎日、毎日報道される両国の戦争問題。正直な処、もういい加減にやめて欲しい...と思う。僕自身、余りヨーロッパの方には眼が届いて居なかった、ロシアとウクライナの間に、こんな問題が在ったんだと?ソ連邦解体位は知っていたし、ウクライナの体操やスケートの選手は色白で美人が多い...位は知っていた。勿論、日露戦争位の話は、乃木将軍にまつわる話は良く知っていた。しかし、連邦解体の過程にこんな領土問題等が在ったなんて本当に知らなかった。唯、モスクワとウラジヲストックとは可成り体制は違うなとは思って居た。

僕は、ソ連は中古車の大事なマーケットだと思って居た。飯倉のソビエット大使館は相当昔からあるし、立派な国だと思って居た。1970年位、ボリショイサーカスの団員が中古車を買いに来た事がある。確か、70万位の410型の中古車を買って行った。その時、「領収書を安く書いてくれ」と言われた。何故?と聞いたら、「輸入した時の関税が安くなる」からだと言われた。中古車の輸出の知識を持ち始めたキッカケの出来事だった。晩年、僕が「世界通行区分の世界統一」の持論を考え出す一つの事だった。この問題に理解を示す人は少ないが、ワシーリイ・アフチェンコと言うロシア人が「右ハンドル」と言う本を書いて居り、2018年に日本でも出版されて居る。この中には、モスクワとウラジヲストックの断絶感と一つの国で左右のハンドルの車が走る問題が描かれて居る。僕は「一帯一路」に大きな期待を持って居たが今度のウクライナとロシアの戦争、中国の態度を見るとこれは相当長期化して仕舞うな...果たして、「一帯一路」は出来るのかな?と言う大きな疑問を持たざるを得なくなって仕舞った。今の所の情報では、プーチンが居なく成れば良いように思うが?...

安倍さんより、プーチンが居なく成った方が世界的には良かったと思う。

*安倍元総理 国葬問題

安倍さんの葬儀どんな形にするのかな?岸田さんの考えは...と思って居たら、早い時期に国葬と発表してしまった。参院選挙が終わり、その結果をどう受け止めるか?自民圧勝と受け止めるか?野党もどうしようもない協調体制で...僕の意見は、「自民党葬」が妥当と思って居たが、立憲民主党の小沢一郎さんがチョット意見を言ったら、泉代表が直ぐ打ち消してしまった。前回も少し書いたが、僕もお世話になった同学なので、体質は良く解る。そう言う意味で岸田開成出に期待を書いたが、?がついてしまった。安倍さん長く総理をやっただけで本当に良い事をしたのだろうか?余りにも桜問題、加計問題等基本的なリーダーとしてのマイナス点が多すぎる。外交はあれだけ海外に足を運べば海外諸国にも義理が出来るだろう。殺され方が暗殺なので余計に同情を買うだろう...岸田さんは自民党を割って、「新しい資本主義」「新しい組織の運営」を作り出さなくては...今更、総理が言った事を変更する事は政治生命をかける事に成るだろう。国葬にしても、岸田支持票は大幅に減るだろう。日本もアメリカの一州に成るのでは...

*コロナ問題

僕は一昨日、4回目のワクチンを打って来た。ワイフが猛烈なコロナ恐怖症。毎日TBSの午後4時45分のコロナ数の発表と井上君を楽しみにして居る。僕は確かに第7波的な新規患者の増え方に警戒感は持って居るが、一方でコロナはインフルエンザと同じだと言う感じも持って居る。マスコミの報道ももう少し何とか成らないののだろうか?医者にも色んな立場の人が居る。開業医のある人は「コロナはインフルエンザと一緒、僕はワクチンを打ちませんよ」と言う人も居る。確かにこの所の増え方は、大きいが、新規感染者の年齢層も20代が多いと解って来た様だ。「ワクチンの接種率も低い20代とか...」インフルエンザの年間罹災率とかと比較して告知するとか...第7波だと言いながら、行政の指導は緩めっ放し...何か如何とらえたら良いのか?解らない。

*日産自動車の今後

先日、旧知のある地方ディーラーの人から、「マッサン、メーカーは本当に変わりませんよね、プレジデントのお客に、代替にSUVを売れって言うんですよ。」とこぼされた。プレジデントが製造中止に成ったし,代替のお客様に売る車が無いのだ。まさかセンチュリーを乗って下さいよと言う訳にも行かないし...今、自動車界は本当に全部電気自動車に成るのか?将来の方向が解らないのだ。トヨタも先日の発表の様に全車種電気自動車が出来ますよと言うのは、世間の動きを探っているのだと思う。アメリカでも本当に全部電気自動車に成るのか?トラックはどうなるのか?テスラの台数は未だ未だ低い比率でしかない。日産のEVも三菱と同じ軽自動車分野だけだ。ディーラーは修理と中古車で経営が成り立つようにしなくてはイケないだろう。兎に角、今の世情では、本当に先行きが解らない。