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advice for consumer

‘24-8-27“アメリカのヘルスケア” 

2024-08-26 21:23:03 | Massy's Opinion
★Megu’s Sports
以前にも、ブログで書いたことがあったかもしれないけど。アメリカは、健康保険と医療費が高いので知られている。また、健康保険を持つことが、2010年のオバマケア以来、義務づけられている。雇用の場合は、会社・組織が、健康保険を福利厚生のベネフィットのひとつとして、半額または全額負担してくれる。その健康保険の適応範囲も、悪くはない。私の場合、個人営業なので、個人の健康保険を購入しなければならない。唯一のプラスは、税金控除となること。2008年から、個人で仕事を始めた時に購入した健康保険。保険料が月370ドルぐらいだったかな。で、控除額が年1000ドル。16年経った、今は、月1100ドル。パンデミックの2年間以外は、毎年、50−100ドルぐらい値上げがあって、また、歳のブラケットが変わる度に、さらに保険料が上がっていくわけです。私の保険のプランは、オバマケア以前のプランで、オバマケア以前に買った人は、使い続けられれるけど、同じようなプランは、現在オファーされてません。で、かなり保険料が高いので、他のプランを探してみると、同じぐらいの保険料で見てみると、控除額が5−6倍高かったり、同じぐらいの控除額だと、保険料が、3倍ほどしたりするわけです。と言うことで、今のプランを持続させた方がいいと。

今月、一月にした乳がん検診の放射線映像診断の請求書が来た。1108ドル。1)マンモグラム187ドル、2)ウルトラサウンド右胸458ドル、3)ウルトラサウンド左胸458ドルだって。マンモグラムは、“予防”なので、保険でカバーされているはず。年一度の検診は、無料。ウルトラサウンドは、“診断”なので、保険でカバーされない。保険を使うと、控除額に到達するまで、自己負担。保険を使わないと、控除額に含まれないが、かなり安い。毎年、これはギャンブルだ。いつも乳がん検診を一月にしているので、その年、どれだけ医療機関を使うかによって、保険を使った方がいいか、使わないほうがいいかと。健康でいれば、保険無しの方が年間を通して合計の医療費用が低くなる。医療機関を使うことが多ければ、控除額に到達にしていた方が、保険が効くので、それは、助かるでしょ。このような、ギャンブルをしなくてはいけないこと自体、システムがおかしいと思う。

で、放射線映像診断の請求書を送ってきた会社に電話した。“マンモグラムは、無料なはず。ウルトラサウンドは、保険を使わないから、この金額、高すぎるんじゃない?昨年、こんなに払わなかったよ”って。初めに電話に出た、カストマーサービスの人、30分電話をした挙句、金額を想定する部署にメールをして金額を確かめてくれと。諦めずに、数時間後、また電話した。2度目のカストマーサービスの人、10分以内の会話で、マンモグラムを請求書から取り外し、“ウルトラサウンドは、保険を使わないと、50%オフ”だって。“じゃあ、なんで初めからその金額で請求書をださないの?”って。話をしているうちに、まだ、“これ安くなるの?“って聞いたら、”ちょっと待って“って。”65%オフにできる”と言ってきた。請求書は、1108ドルから320ドルに。なんで、医療費のディスカウントの交渉をしなくてはならないの、この国?請求書に、疑問を持たないで、そのまま、支払いをする人って多いんじゃないかな。特に、支払いのできる人は。ヘルスケア、こんなに保険会社や、医療機関と費用のことで、戦う必要ないでしょ。国民健康保険のある日本では、あり得ないことが、通常に起こってる。親父のブログのタイトル、“advice for consumer”が、まさに今日のブログ。賢い消費者になりましょう。



’24-8-20 “東京日産野球部の想い出...“

2024-08-19 22:20:04 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
先週、渡辺文学君に 手紙を書きながら昔の事を思い出したら、昔の連中も殆ど居なくなった。監督の苦労も知らずに皆、結構、野球を楽しんだろうな...

僕が東京日産に入った当時は、本当に時代が良かった。野球は東京六大学野球が全盛時代未だ神宮の外野席は芝生の時代、公称、6万人位の入場者、まあ、今のプロ野球のスーパーレジェンド達が鎬を削って居た時代。街の草野球も盛んで赤坂溜池近辺でも野球チームが4つ位あった。東京日産の中にもチームは出来ていた。
僕が入社した時代は卒業部員全員の就職先は4年生全員の記事が、小さい記事でも一般紙含めて名前が出て居た時代である。特に慶応は、衆樹、中田、日野の3人がプロ入りしたから4年生は、随分大きく扱われたものだ。

と言う様な時代で、僕の入社式の後、女子社員が集まって来て、僕の顔を見に来る。全く驚いたものだった。野球部は在ったが、好きな者が集まって来るようなチーム、唯、ピッチャ―は左で割合と良いピッチャーでキャッチャーは日大三高出の強肩でよいバッテリーだった。僕は、ショートをやらせて貰った、打順は期待されての4番、処が、軟球は軟球の打ち方があり、ヒットが打てない。皆、内野フライに成ってしまう。軟球慣れしてる連中の方がチョコン、チョコンとヒットを打つ。会社の野球が嫌に成り、大学の先輩たちが作って居たチームのトラ(エキストラ)で、日曜日は、中央区や港区で野球をやり、東京温泉に行き、夜は、キャバレーと言う草野球ばかりやって居た。このころ、明治生命、大和証券等が野球部を作り、出来立てのチームの練習試合をやったり、硬式でも軟式でも何でも野球なら2年上の遠藤さん、塾高初甲子園組の薄君の3人で草野球を楽しんでいた。そんな処へ、’59年、早稲田から遠間君が入社して来た。会社の野球に出ない訳に行かない。処が、遠間君も軟球は打てない。要するに、スイングが速くポップフライに成ってしまうのだ。会社は車が売れに売れて毎月新記録。新車の在庫場所に困り、20000坪の土地を買い、半分を車置き場に、半分をグラウンドにして硬式野球部を作ろうと言う役員の意見が出て来て選手集めを始めた。遠間君は、早稲田から、4人集めて来た。一軍の選手は殆どノンプロに引っ張られて、残って居た2軍の部員である。もうその時のメンバーは殆ど亡くなってしまった。何とか部員の体制は決まったが、肝心のチームを硬式にするか?軟式にするかが決まらない。「メーカーが硬式野球部を作るから、ディーラーは軟式にしろ」と言う流れに成って来た。ディーラーにも名古屋日産モーターとか、サニー札幌南とか硬式のチームがあり、プロ野球選手も2名輩出して居た。トヨタはこの辺もハッキリしていて、ディーラーは軟式とハッキリ決めて、東京トヨペットは専務が立教野球部のマネージヤーだった方が居て、殆ど立教出で固めた、強いチームを作って居た。慶応は、殆ど1次産業の野球部を希望して、数人勧誘をしたが、皆断られた。‘60年にはW4人、Ⅿ2人、R2人、トヨペットは東京大会に出ることを初めから決めていて、豊島区の連盟に加入していた。我々は、港区に加盟したのだが、ノンプロの強い会社があり、どうしてもÇクラスからやってくれと言われ致し方なく、Çクラスから始めることにした。さて、硬式野球と言う事で勧誘して来た連中に、軟式でやる事に成ったので,皆、ぶうぶう言う。兎に角野球をやらせる事だ。グラウンドの話も進まない...神宮外苑の軟式野球場を借りようと決めて、あすこのトップ外苑長は早稲田野球部の大先輩伊丹さんだったので、早稲田の元副応援団長だったマネージャーの坂本君(後、組合専従に成り、全労済の専務理事を務めた)に交渉に行かせた。それで、週3回朝7時から9時までと夕方4時から6時までを組み合わせて軟式で始めたのである。1年目はÇクラスから始めたが、その他の大会を探して大会に参加し練習試合も含めて、77勝4敗の成績で、連盟の方も、認めてくれてAクラスの参加を認めてくれた。会社の方も土地の取得は数年遅れたが、僕らの事情も理解して、当時、年間1000万円程度の予算を呉れたので、バットはルイスビル、夕食は高級料理店で1食一人1000円、風呂も使わせて貰って兎に角チームの形造りをした。随分、面倒を見たものだ。
自動車産業の準硬式の大会でも良く東京トヨペットと当たった。対戦成績は僕が監督をしていた‘63年位までで4勝6敗だったかな...何かの大会で、その年の初戦が東京トヨペットで、いつも監督批判の多い内山君が「今年はベンチ批判は止めようぜ...」と言いだして、「やっとチームは纏まって来たな...」と思った。’63年には、港区代表で都大会に出て安田生命と決勝に成り延長戦で3対2のサヨナラ勝ちをして、東京代表に成った。そして、東日本大会に出場したが、全国レベルは良いチームが多く、長野代表の三協精機に2回戦で敗れた。試合は新潟の新発田球場で行われたが、選手が普段見たこともないような夜寝る前に自発的に素振りをして居たので「おお。本当に皆やる気だな」と感じたのは今でも覚えている。
P,S当時のスターテイングメンバー
w遠間 4 内山7 平野3 小宮9 渡辺5 内山は3年位我が家に2食付きの月4500円で下宿していた。おふくろに「おばさん。これ洗っておいてください」と言って、パンツの洗濯を出したので、おふくろが「私は合宿のおばさんではないわよ.弘さん良く言っておいてよ」とカンカンに怒ってしまった。平野は湘南で衆樹の後の投手、当時は神奈川県では3年生の大会が秋に在ったが、塾高と当たり僕は平野と対戦した事が有る。遠間は桐生高校の投手で新田恭一さんに引っ張られて松竹ロビンスの2軍に半年位居た事が有る。その後富岡高校に移り、早稲田に入った男。グラブが下から出る非常に巧い選手だったが、打撃はゴルフスイングで当時の早稲田向きではなかった。
M木村8 植木6 植木は明高からの兄弟選手死ぬ前に突然我が家へ電話があって、「今警察で縛られているんだ。マスさん助けてよ」と電話が在った。驚いて奥さんに電話したら頭が狂っていたらしい。木村は意識不明の儘、入院して、15年位生きていた。島岡監督は二人の採用のお礼に会社に来たが、その時、入社3年目の僕の職場にわざわざ挨拶に来られた。非常に義理堅い部員想いの名物監督だった。
℞ 石川1 黒沢2 石川は浅野高校時代、慶応高校を相手にパーフェクトにした事が有る。非常にコントロールの良いっピッチャーで、関東学院出の黒沢とのバッテリーは当時の神奈川高校選抜のバッテリーだった。黒沢は馬鹿肩のキャッチャーだったがバッテイングが弱かった。六球会の幹事を昨年位までやって居た。未だ肩はシッカリして居た。石川の口癖は「後ろは全部敵だ...」と言う冗談。

東京代表になるまでに、サードと投手を補強した。wの森、と黒田。℞からセカンド門田、左腕の井戸崎、高校は大宮商業、関東一高、巣鴨高校を中心に部員40人位の野球部だった。東京代表に成った時には、立正佼成会とも対戦したが、投手は後にプロ野球中日に入り、背面投げで鳴らした小川、ショウートは後に巨人軍に入った黒江が居た。

まだまだ、面白い話がある、伊東合宿では1週間雨に降られて、毎日、バット振りとマージャン会社の仕事も心配...毎日大室山を眺めて居た。大室山のテッペンが見えると雨が上がるのである。遠征も、須磨、浜松、とか随分出掛けた。兎に角、1年間で126試合した年があった。専務に呼び出されて、「増田君、野球やり過ぎだぞ。プロでも年間120試合だ。」と𠮟られた事が有る。いい時代、楽しかった。遠間君とはずいぶんサボって神宮へ行った、ある早慶戦の時、専務が来ていて、「遠間拙いな。見っかったかな...」「マッサン向こうもサボって見に来ているのだから、構わないでしょう。神宮へ砂を運ぶトラックを売りに来た...と言いましょうよ」「それじゃ先に、挨拶に行こうよ」挨拶に行くと専務は、「君たち、ご苦労様...」

‘23-8-13 “Letteer to Mr,Bungaku Watanabe “

2024-08-12 21:24:17 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion 
(渡辺文学禁煙ジャーナル編集長、早稲田稲門倶楽部、東京日産野球部時代のメンバー)
前略
文学さん 何時も資料お送り頂き有難う御座います。相変わらずの「禁煙活動 散歩とモク拾い」本当に頭が下がります。この間、何処だったか忘れましたが、昼間、貴兄と同じ様に袋を下げて「モク拾い」をしているオジサンを見かけ貴兄の事を思い出しました。
兎に角、「タクシー業界の禁煙化」には大きな敬意を表します。
野球の話、大谷君を見るたびに「優れた素質」を羨み、僕も素質が在ったら大谷君並みの努力をしたかな?と考えますが、多分出来なかったでしょうね。練習方法も野球も変わって来ましたが、難しい事ですが、継続は一番大切な事でしょう。そう言う意味では貴兄の活動本当に頭が下がります。僕は、30年位前から禁煙して居ますから、家も奇麗で助かって居ます。慶応高校の今年は桐蔭に負けてもう終わってしまいました。学制改革で新制高校に成って以来、慶応高校に成り、75周年を迎え、立派な「部史」が出来ました。販売課価格は約12000円ですから、お察しがつくでしょう。大学の部史は100週年の時に出来ています。大学の方は、飛田穂州先生始め野球部OBに記者の方が多かったので立派な「部史」が出来ています。皆、野球をやって居た人は、高校生時代の部活が一番良い思い出になるのでしょう。そう言う意味では、書いて記録に残す事は大事ですね。
僕は、昔から「高校野球部の指導者は先生が遣るべきだ」と言う持論でしたが、今、慶応高校の指導層は高校野球部卒業生が何人も先生に成って居ります。勿論、大学出では、出身地の学校に戻り野球部の指導者になって居る人も大勢います。今、大学の野球部長は藤沢環境学部の教授で、現役当時、野球部主将だった加藤教授が部長です。恐らく、東京六大学では、野球部出身者の野球部長は、初めてではないでしょうか...千歳高校学校名が変わったのですか?僕の2年上に榎並さんと言う千歳出身の左腕が居ました、良い人で、あの学年は花井(西鉄)多胡(鐘紡)野村(日石)と二刀流が多く、榎並さんは確か東レに行かれたと思います。真面目な良い人でした。
僕も、六球会でも、早稲田の連中とは顔見知りが多く、神奈川の連中も顔見知りが随分いました。僕らの時代は、早稲田は学院が強く、特に3番大久保、4番森徹は大学まで同じ打順でしたね。大久保君も野球が好きで、六球会の僕の最後の試合の時は、大久保君は酸素ボンベを持ってフアーストをやって居るのには驚きました。僕は、代打で最後に出たのですが3遊間に奇麗なヒットを打ちました。フアーストベースで、大久保君が「お前良く振れるな...」同じ、右投げ、左打ちレフトに打つのが難しいのは解って居るのでしょう。78歳の時でした。日産特販の時、新任で大泉練習所の加藤社長さんの処に、ご挨拶に行ったら、塾高時代の学院との早慶戦写真を机の上に出して迎えて呉れました。嬉しかったな...よく神宮で切符切りをした仲間でしたね。
貴兄には、東京日産で、僕が組合長の時、「生産性向上が僕らの組合の考え方」です。と言って、電話の問題を取り上げた時、宣伝課に居た貴兄に5種類のポスターを作って貰いましたね。あのポスターは奇麗なポスターで、役員さんにも大変好評で、組合活動の基本的労使関係(労使相互信頼)の基礎的考え方の宣伝に成ったものでした。この前、遠間君(僕が監督で東京代表に成った時の主将、早稲田OB)の奧さんに電話しました。奇麗な奧さんなので再婚したかな?と迷いながら思い切って電話したら奧さん一人で暮らしているとの事、全然、知らなかったですが、その日は、偶然、遠間君の命日だったとか、奥様に凄く喜ばれました。アフリカ野球は、「キャッチボールで世界を平和に」と言うスローガンで友成君と言う塾高、JAICA勤めの男が始めましたが,その男は、偶然、浜田山在住、高井戸中、慶応高校、大学野球部、出身の男が中心で始めました。練習は、浜田山の三井グランド、その後神宮外苑グランドに事情を話して月1回定期的に借りて、練習を20年位やりました。東日の野球部と同じで、あすこは早稲田閥ですからその辺を含んで交渉して「アフリカ野球友の会」の練習の定例化をしました。今、「アフリカで甲子園を」と言うのは大きすぎるのでガーナに絞って野球を広めようと言う事で友成君が頑張って居ます。慶応大学野球部と指導員派遣の3年位の期間で契約を結んでいます。自動車界も様変わりに成ってきました、我々は良い時代に恵まれて良い仲間が沢山出来てこれも野球のお陰の様な気がします。思い出すままに長文に成りましたが、貴兄の「禁煙運動」を活動陰ながら応援して居ります。ご活躍を祈りつつ...思い出す儘に、長文失礼...
                 早々



‘24-8-6“Diary211”

2024-08-05 21:58:41 | Massy's Opinion
★Massy‘s Opinion
・7/5 New Heart 検診
この処、左の足首がむくみ勝ち、高齢者には結構多いらしい足のむくみ、時たま足が付けない位に痛くなる。ご近所の掛かり付け医にペースメーカーを入れたNew Heart渡辺病院で「血液の検査をして貰え」と言われた。指示通り、予約して嫌だけれど行ってきた。・血圧・心電図・胸部レントゲン・下半身のエコー、診断はすべて異常なし...ほっとしたが足首の痛いのは治らない。どうも、運動不足が原因と老化によるものの様。運動は、可なりセルフコントロールをしているが年齢相応の適量が解らない。トレイナーのMeguや海星君に聞いても、「個人差がるから、一概には言えない」と言う、「だから、一般的には、これ位...」と言うのが知りたいんだよ。と水掛け論...  

・7/8 I-Pad 講習
我が家では、恵はApple padもスマホもAppleである。僕は、Windows ビデオ通話が出来て、テレビ画面を使ってリハビリをした方が、解りやすいとAppleのi-padをワイフに買って来た。ワイフはスマホでも、やっと使える位。それで、ご近所のPCの教室の先生に訪問教育をお願いしている。大体,週一回位。僕もワード位しか解らないので、一緒に聞いている。最近は、聞いた処から忘れていく。ボケ防止の授業...

・7/19 Good Bye!  My Lovely “Figaro”
遂に運転を止めることにした。大学4年の10月以降、長い間お世話に成った車も運転を諦めた。愛車、”Figaro”元の会社の部下に買い取って貰った。この3ッ月位、殆ど乗らなかった。週1エンジンは掛けて、少し、動かし、オイル漏れのチェックはしていた。なんせ近所の4ッ角は停止線があるのに、ママチャリが多く前後に子供を乗せ、一時停止は先ず止まらない電動自転車が多いのでスピードも出るし本当に怖い。免許証は返納する事にした。
Figaro は日産が最後の挑戦か初めてマーチをベースに4車種のパイクカーを作った、その内の一つでセミ・オ-プン・カーである。20000台の限定車である。イギリスには、。”Figaro Owners Club”といサイトがあり、約8000人の会員が居る。イギリスでは生産していない筈で、多分、日本から中古車で輸出されたのではないかと思う。丁度、右ハンドル国なので、通関も手間は掛かるまい。My Figaroの調子は最高のコンディションで、寂しい反面、ㇹッとしている。良く30年も乗ったものだ。

・7/Rehabilitation
火曜、木曜 村本海星(理学療法士) 介護保険のお世話になって居る。週2回来宅して貰い僕とワイフと二人マッサージとトレーニング。家の中でやったり、外に出て散歩。キャッチボール等
・水曜、土曜 Megumi  (MS,ATC,CSCS NATA= NatinalAthleticTrainer’s Asociation) On Skype
二人とも同業なのでメニュウはだぶらない様に打ち合わせして貰っている。幸い我が家にはMegumiが、 色んなトレーニング用の機材を買って来てあるので環境的には海星君曰く相当アカデミックな環境である。