★Massy’s Opinion
*先週、渡辺文学君に 手紙を書きながら昔の事を思い出したら、昔の連中も殆ど居なくなった。監督の苦労も知らずに皆、結構、野球を楽しんだろうな...
*僕が東京日産に入った当時は、本当に時代が良かった。野球は東京六大学野球が全盛時代未だ神宮の外野席は芝生の時代、公称、6万人位の入場者、まあ、今のプロ野球のスーパーレジェンド達が鎬を削って居た時代。街の草野球も盛んで赤坂溜池近辺でも野球チームが4つ位あった。東京日産の中にもチームは出来ていた。
僕が入社した時代は卒業部員全員の就職先は4年生全員の記事が、小さい記事でも一般紙含めて名前が出て居た時代である。特に慶応は、衆樹、中田、日野の3人がプロ入りしたから4年生は、随分大きく扱われたものだ。
*と言う様な時代で、僕の入社式の後、女子社員が集まって来て、僕の顔を見に来る。全く驚いたものだった。野球部は在ったが、好きな者が集まって来るようなチーム、唯、ピッチャ―は左で割合と良いピッチャーでキャッチャーは日大三高出の強肩でよいバッテリーだった。僕は、ショートをやらせて貰った、打順は期待されての4番、処が、軟球は軟球の打ち方があり、ヒットが打てない。皆、内野フライに成ってしまう。軟球慣れしてる連中の方がチョコン、チョコンとヒットを打つ。会社の野球が嫌に成り、大学の先輩たちが作って居たチームのトラ(エキストラ)で、日曜日は、中央区や港区で野球をやり、東京温泉に行き、夜は、キャバレーと言う草野球ばかりやって居た。このころ、明治生命、大和証券等が野球部を作り、出来立てのチームの練習試合をやったり、硬式でも軟式でも何でも野球なら2年上の遠藤さん、塾高初甲子園組の薄君の3人で草野球を楽しんでいた。そんな処へ、’59年、早稲田から遠間君が入社して来た。会社の野球に出ない訳に行かない。処が、遠間君も軟球は打てない。要するに、スイングが速くポップフライに成ってしまうのだ。会社は車が売れに売れて毎月新記録。新車の在庫場所に困り、20000坪の土地を買い、半分を車置き場に、半分をグラウンドにして硬式野球部を作ろうと言う役員の意見が出て来て選手集めを始めた。遠間君は、早稲田から、4人集めて来た。一軍の選手は殆どノンプロに引っ張られて、残って居た2軍の部員である。もうその時のメンバーは殆ど亡くなってしまった。何とか部員の体制は決まったが、肝心のチームを硬式にするか?軟式にするかが決まらない。「メーカーが硬式野球部を作るから、ディーラーは軟式にしろ」と言う流れに成って来た。ディーラーにも名古屋日産モーターとか、サニー札幌南とか硬式のチームがあり、プロ野球選手も2名輩出して居た。トヨタはこの辺もハッキリしていて、ディーラーは軟式とハッキリ決めて、東京トヨペットは専務が立教野球部のマネージヤーだった方が居て、殆ど立教出で固めた、強いチームを作って居た。慶応は、殆ど1次産業の野球部を希望して、数人勧誘をしたが、皆断られた。‘60年にはW4人、Ⅿ2人、R2人、トヨペットは東京大会に出ることを初めから決めていて、豊島区の連盟に加入していた。我々は、港区に加盟したのだが、ノンプロの強い会社があり、どうしてもÇクラスからやってくれと言われ致し方なく、Çクラスから始めることにした。さて、硬式野球と言う事で勧誘して来た連中に、軟式でやる事に成ったので,皆、ぶうぶう言う。兎に角野球をやらせる事だ。グラウンドの話も進まない...神宮外苑の軟式野球場を借りようと決めて、あすこのトップ外苑長は早稲田野球部の大先輩伊丹さんだったので、早稲田の元副応援団長だったマネージャーの坂本君(後、組合専従に成り、全労済の専務理事を務めた)に交渉に行かせた。それで、週3回朝7時から9時までと夕方4時から6時までを組み合わせて軟式で始めたのである。1年目はÇクラスから始めたが、その他の大会を探して大会に参加し練習試合も含めて、77勝4敗の成績で、連盟の方も、認めてくれてAクラスの参加を認めてくれた。会社の方も土地の取得は数年遅れたが、僕らの事情も理解して、当時、年間1000万円程度の予算を呉れたので、バットはルイスビル、夕食は高級料理店で1食一人1000円、風呂も使わせて貰って兎に角チームの形造りをした。随分、面倒を見たものだ。
自動車産業の準硬式の大会でも良く東京トヨペットと当たった。対戦成績は僕が監督をしていた‘63年位までで4勝6敗だったかな...何かの大会で、その年の初戦が東京トヨペットで、いつも監督批判の多い内山君が「今年はベンチ批判は止めようぜ...」と言いだして、「やっとチームは纏まって来たな...」と思った。’63年には、港区代表で都大会に出て安田生命と決勝に成り延長戦で3対2のサヨナラ勝ちをして、東京代表に成った。そして、東日本大会に出場したが、全国レベルは良いチームが多く、長野代表の三協精機に2回戦で敗れた。試合は新潟の新発田球場で行われたが、選手が普段見たこともないような夜寝る前に自発的に素振りをして居たので「おお。本当に皆やる気だな」と感じたのは今でも覚えている。
P,S当時のスターテイングメンバー
w遠間 4 内山7 平野3 小宮9 渡辺5 内山は3年位我が家に2食付きの月4500円で下宿していた。おふくろに「おばさん。これ洗っておいてください」と言って、パンツの洗濯を出したので、おふくろが「私は合宿のおばさんではないわよ.弘さん良く言っておいてよ」とカンカンに怒ってしまった。平野は湘南で衆樹の後の投手、当時は神奈川県では3年生の大会が秋に在ったが、塾高と当たり僕は平野と対戦した事が有る。遠間は桐生高校の投手で新田恭一さんに引っ張られて松竹ロビンスの2軍に半年位居た事が有る。その後富岡高校に移り、早稲田に入った男。グラブが下から出る非常に巧い選手だったが、打撃はゴルフスイングで当時の早稲田向きではなかった。
M木村8 植木6 植木は明高からの兄弟選手死ぬ前に突然我が家へ電話があって、「今警察で縛られているんだ。マスさん助けてよ」と電話が在った。驚いて奥さんに電話したら頭が狂っていたらしい。木村は意識不明の儘、入院して、15年位生きていた。島岡監督は二人の採用のお礼に会社に来たが、その時、入社3年目の僕の職場にわざわざ挨拶に来られた。非常に義理堅い部員想いの名物監督だった。
℞ 石川1 黒沢2 石川は浅野高校時代、慶応高校を相手にパーフェクトにした事が有る。非常にコントロールの良いっピッチャーで、関東学院出の黒沢とのバッテリーは当時の神奈川高校選抜のバッテリーだった。黒沢は馬鹿肩のキャッチャーだったがバッテイングが弱かった。六球会の幹事を昨年位までやって居た。未だ肩はシッカリして居た。石川の口癖は「後ろは全部敵だ...」と言う冗談。
*東京代表になるまでに、サードと投手を補強した。wの森、と黒田。℞からセカンド門田、左腕の井戸崎、高校は大宮商業、関東一高、巣鴨高校を中心に部員40人位の野球部だった。東京代表に成った時には、立正佼成会とも対戦したが、投手は後にプロ野球中日に入り、背面投げで鳴らした小川、ショウートは後に巨人軍に入った黒江が居た。
*まだまだ、面白い話がある、伊東合宿では1週間雨に降られて、毎日、バット振りとマージャン会社の仕事も心配...毎日大室山を眺めて居た。大室山のテッペンが見えると雨が上がるのである。遠征も、須磨、浜松、とか随分出掛けた。兎に角、1年間で126試合した年があった。専務に呼び出されて、「増田君、野球やり過ぎだぞ。プロでも年間120試合だ。」と𠮟られた事が有る。いい時代、楽しかった。遠間君とはずいぶんサボって神宮へ行った、ある早慶戦の時、専務が来ていて、「遠間拙いな。見っかったかな...」「マッサン向こうもサボって見に来ているのだから、構わないでしょう。神宮へ砂を運ぶトラックを売りに来た...と言いましょうよ」「それじゃ先に、挨拶に行こうよ」挨拶に行くと専務は、「君たち、ご苦労様...」