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“Just Random Things” ’17-5-30

2017-05-30 07:55:22 | Megu's Sports

 Megu’s Reports.

 あっという間にすぎていった5月。今月は、これと言うトピックが見つからないので、Randomなことについて語ります。

 On my way to recovery: 2月にウィルス性A型肝炎になってから、10週間。血液検査も通常に戻って、禁酒も解禁。5週間前から、トレーニングもトレーニングからの回復も、普通に戻ってきた感じ。6月4日に、Ironaman70.3 Victoriaに出ることになっているので、こなせてなかった量を、この5週間、詰めて見ました。普段なら、12週間ぐらい、みっちりトレーニングしているのだけど。今回は、Train Enough”と言うよりも、”Train Smart”を、心がけて。レース、どうなることでしょうか…。

 SJSU Graduate Athletic Training Program Visit: 今年で、3回目。Tsuruike PhDの率いるSJSU Graduate Athletic Training Programの生徒が、私の仕事先のEvolution Trainersを訪問。だんだん、生徒の前で、興味を持たせる様なプレゼンテーションをすることに、慣れてきた。おかげさまで。クラスルームの授業というよりは、現場の見学と実際のExercise Programingの実践をしてもらうという感じ。いつも、実際にいる私のクライアントのシナリオを基にして、ケーススタディーの方式で授業を進める。ATCは、アスリートのAcute Injuries, 手術後のリハビリなどには、実践力はあるんだけど、一般人・Recreational Athletes・持久系のスポーツ・Overuse injuriesといったコンビネーションのためのコンディショニングには、経験が薄く、どうしていいかわからないという生徒が多い。その一方で、この人口が、増えつつあり、需要の大きいマーケット。なので、この授業の一番の目的は、“考える”こと。エクササイズには、良い悪いではなく、その人にとって適切・不適切であるかを理解して処方することが大切。常に、エクササイズの選択、レペテーション、順番の理由を考えて処方する様に心がける。そして、個人的にCustomizeされていること。この授業で、何か学んでくれていたら良いんだけど。

 Aging Athletes: うちの親父の質問。私の答えは、いつも同じなのに、それでも同じ質問を繰り返して聞いてくる。何回聞いても、答えは変わらないんだって。自分が聞きたい答えが出てくるまで、聞き続けるんだろうから、もうこの会話はしないことにした。どうせ、私が答えても聞きやしないんだから。愚痴は、これぐらいにして。年を取れば取るほど、身体機能には個人差が出てくる。84歳のアイアンマンアスリートから、同年代でも寝たきりの人。何歳だから、何をしなければいけない・何をしてはいけないという決まりはない。昨日も、バイクのトレーニング中に、知り合いのBritish Gentlemanにあった。彼は、70後半かな、今。最近、100万円ほどのハイエンドロードバイクを買って、乗り回している。そして、かなり速い。もう一人、道であったおっちゃん。彼も、70代だろう。Stravaを見たら、50kmほどのローリングのルートを平均時速29kmぐらいで、軽く走っていた。日本でも、この様なAging-Athletesが増えてきていますね。そんなにSuper Athleteでなくても、生涯楽しめる“趣味”を持つことって、大切。自分の好きなことをしていると、心身ともに若くいられるでしょ。

 P,S 

SJUS= SanJose State University.    PhD=博士号を持っている人.

 


“Letter To Y,Sanada”     ‘17-5-23

2017-05-23 08:18:52 | Massy's Opinion

 ★Massy’s Opinion

・真田幸光先生

愛知淑徳大学 教授 「草の根の辻説法師を目指す」

慶応大学昭和56年卒 野球部 東京銀行に入行 後 現職に転じる。

・勿論、僕は一緒に在部した訳ではない。僕の成蹊中学時代の同級生山本君がが東京銀行の人事に居たらしい。余り親しい友人ではないが、向こうは僕の事を良く知っていた。井の頭線で通っていたし、ある時、彼が僕に「君、慶応で野球部だったんだろう。真田幸光如何している?」と尋ねられた。僕は知らないから若い仲間に色々聞いたら、「今大学の教授ですよ」と言われた。山本君には、「中々優秀だよ国際経済を問う南アジア中心に取組んでいるみたい」と話した事がある。その後、「21世紀の会」で講演をして貰ったりした。

山本君は「内に残っていてほしい人材だったよ」と言っていた、真田君の学年は青島健太君、塾高の監督を25年務められた上田元監督とか優秀な人材が多かった学年である。

真田先生は六文銭の真田信幸から数えて、14代目の当たるそうだ。何時も送ってくれるレポートの中に僕の私見に合致する部分もあり、Megumi を含めて10人ばかりに転送させて貰っている。

 〈真田先生〉
何時も タフなレポート 有難う御座います。

やっと 「一帯一路」が表面に 出てきましたね。僕は持論の「通行区分の世界統一」中でこの道路は中国主導の右側通行になり、車は左ハンドルになるでしょう。慶応の唐木名誉教授(中国専門家)に僕の持論についてご意見を聞いた時、 唐木先生から「気が付きませんでした」と言われました。

日本国内の自動車生産は激減していますが、未だ一部の車種は国内生産で輸出されています。この部分は左右ハンドル車を作ることで、完全にコスト高になるでしょう。又、国際競争力も落ちてくるでしょう。

国会での自動車関連質疑を聞いていても、質問者も回答する大臣も 余り自動車関連の法律は詳しくないように感じます。自動車生産は日本の経済、産業の主導的地位の維持が難しいでしょう。何の産業をを中心にして行くのか? 付加価値の高い裾野の広い産業は何なのだろうか?是非、若い方に考えて頂きたいですね。今度、「21世紀の会」会長が浅野さんに変わり山下大輔君(元BAYSTARS)なんかも入会し野球以外の勉強もしようと真面目に参加されています。そこで、最年長、健康組みの僕に「人生経験」を話してくれと 頼まれました。

「京大のセミナー」でも一度話をしましたが、中古車輸出は、耳新しい分野かも知れませんが非常に難しい分野です。聞いている人は僕の子供くらい。従って、自動社会の歴史から話さないと通じません。先生の今週のレポートに述べられている通りです。余談ですが、日本の法律は、「憲法」を含め古過ぎますね。慶応高校の野球部も高校野球部出身の教諭が近藤名誉教諭(高校6回生)以外にも生まれました。幼稚舎の先生が今、監督ですがやっと自前の指導者が生まれました。前上田監督の最大の成果だと思います。さて、野球部出身者も昔とは変わって指導者が増えてきました。嬉しいことです。

先生もお元気で、頑張って下さい。

増田 弘


“スコア・ブックの無い野球Ⅲ”    ‘17-5-16

2017-05-16 07:57:51 | Massy's Opinion

 

★  Massy’s Opinion

・前回に引き続き野球のことを書いてみよう。

・高校野球 法政二高に敗れて夏も終わった。正直な所、圧倒的な強さの法政二高が相手だったので、適わないだろうなと言う思いもあったし、善戦したと言う思いが強く、開放された感じで気楽に学生生活を楽しんでいた。だが、矢張り体を動かしたいと言う気分になり、同級生の秋山君に誘われて、アメリカン・フットボールの練習に参加させて貰った。結構面白かった。防具を付けて走ったら如何も股がすれていたい。アメラグのヒップの防具は3っに分かれている。何にも知らないから、野球のキャッチャーのプロテクターと同じように「金隠し」を前にして付けた。「おい!秋山、痛くて走れないよ」「お前どうつけているんだ?」「こうだよ」脱いで見せると「馬鹿、それじゃ走れるわけ無いよ。逆さまだよ...」要するにヒップにつける防具を反対に着けていた訳だ。野球のプロテクターとは真逆全くのお笑い話だった。でもアメラグは面白かった。今、秋山君は、「慶応読書会」代表世話人 月に一度はお会いしている。「お前、なにしているの?学生時代からは考えられないな?」「馬鹿やロー、俺だって社会人になってから、真面目になったんだ...」と大役を果たされている。

・さて、高校2年の秋、野球部長の長尾先生から「教員室に来い...」と呼び出された。

先生は英語を教えていたが、僕のクラスの担任ではない。「何を叱られるのかな?」「そんな悪いことはしていないし...」と恐る恐る教員室に行くと先生方が一斉に見る。そこに女の人が座っていて、ニコニコしている。と、先生が「此方 三田倶楽部会長の山岡さんの奥様だ。これが、増田君です」と紹介された。「今度、山岡さんの息子さんが野球部に入られるんだ。そこで、君が友達になって上げてくれ...」と言われた。お母様からは「よろしくお願いします。内気な子なんでね...」「はい 解りました...」と言う話であった。それ以来、山岡君とは大学野球部を経て、今でもいい付き合いをしている。ポジションは外野僕のライバルが出来た訳だ。後に聞いた話だが、早慶戦には余りの人気で警視庁から中止の指示があり、18年間の中断があったそうだ。その時の復活早慶戦の時のキャプテンが名センターの山岡さんだったそうだ。慶応商工の時から、大学の試合に出ていたそうだ。

その後、よく大学の合宿に来られて、「Practice & Practice」「ファインプレーをファインプレーでなくするプレーをしろ」とお説教をされた物である。前段の「Practice & Practice」は、小泉先生の「練習は不可能を可能にする」に通ずる言葉。後段の言葉は、なぞなぞみたいで意味が解らず、通称「鎌さん」に質問したら、「いつでもボールの下へ早く行け...ファインプレーに見られるようじゃ駄目だ」と言うことだと言われて、「成る程な...」と感心した物である。よく「四の橋のお宅へレギュラーの選手を呼んで、すき焼きをもてなしてくれた。4年生の中に山岡君と僕とを入れて呉れたのである。この頃から野球部とすき焼きの繋がりが出来たのかも知れない。リーグ戦中のゲーム前日の夕食はすき焼きだった。今はどうなぅて居るのか知らないが...

・この時代は正に東京六大学野球の全盛期。後に今日の日本プロ野球界の礎を築いた時期と言へよう。砂押監督を迎えた立教が長島を初めとする大強化作戦を繰り広げ、早稲田、慶応に向かって来た。明治、も島岡監督になり明治高校のメンバーに秋山、土井のバッテリー、法政は二校の田丸監督が二高のメンバーを中心にチームを作り、慶応は30年卒組みには大型打者が沢山いて、投手は31年卒の藤田(元巨人監督)がエースと言う時代だった。9シーズン優勝を逃している。阪井監督(最後の早慶戦時の主将)から稲葉監督に我々が3年の時に交代された。僕は、3年から本格的にブルペンキャッチャーをやらされたが、その時、阪井監督から「立教、明治、早稲田の練習を見て来い」と言われた。監督は、「顔を知られていない奴が良い」と思ったのかも知れないが、当時は神宮の切符切りは対戦相手校の入り口の切符切りを遣るので、顔見知りが出来る。立教の東長崎のグランドに行ったら、吉野君と言うマネージャーに「おい!増田 何しに来たの?スパイかよ...」と言われた。驚いたのは慶応と同じ2箇所でフリーバッティングを遣っていたが、3塁側のゲージでは初めから終わりまで、長島一人で打っていた。当時は、マシンも無く手投げのバッテイング。ピッチャーが大体一人で100球位投げ、バッターは一人4本5回とか言うフリーバッティングである。当然、打てない選手が沢山出来る。守備になるとサードは長島一人で猛烈なノックを受ける。ブルペンに行くとエースの小島左腕は左手に毛糸の手袋をはめ、マッサラなボールでピッチィングをさせられていた。指先にシッカリと力が入るようにである。余りにもスパルタな指導には驚くと同時に「問題が起きないかなあ?」と思った。後に大沢親分中心とした「千徳寮集団脱出事件」が起きた下地に成ったと思う。当時の砂押監督は、後に日本鉱業の監督、プロでヤクルトの監督をされたが、日本鉱業のレストランで親友内藤治夫君(時習館、経済学部は僕と二人だけ)の紹介で良くお会いした。この練習を見に行った時の事を話すと「俺も若かったよな...あの時は27歳だったよ」と言われた。(今で言へば、先乗りスコアーラー、4年で監督が稲葉さんに替わっても同じ様に、視察に行かされた)

・明治の島岡監督はノックが余り巧くない。ノックをしているうちに、どんどん前へ出て行って、マウンドの傍に行ってしまう。関口,浮貝の左腕が当時では珍しいナックルボールを練習していた。・早稲田は昔の戸塚のグラウンドでセンターの後方に安部磯雄先生の銅像があったが、岩本尭さんがぼんぼん打ち込んでいたのが眼に残っている。広岡、小森の鉄壁の三遊間は余り仲が良くなかった様に覚えている。さて、敵情視察から帰って、坂井監督に報告、ブルペンでの練習にどう生かそうかと考えた。当時のエース団は33年卒組の林薫、広野、34年卒組の高橋栄一郎(サッポロビール、巨人、南海、山形県新庄市長)巽(国鉄スワローズ)。一緒にブルペンキャッチャーを遣っていた廣澤君と話をして、一日27アウト=3x9回、一人2ストライク~3ボールの5球として、135球を目標に投げ込みをすることにした。一球一球サインを出しての練習である。この他にアップ、カーブ、等の練習をしたので、約200球位の投球である。一番スピードの無かった林君はこれで、大きいカーブ、小さいカーブの投げ分け、特に立教長島には、インコース高めのシュートと同じコースへのナックルをマスターし、これが効果的だった。2003年慶応高校が甲子園に行く前の春、中林君にこのカーブの投げ分けを教える為に林君に泊りがけでコーチに付き合って貰った。

・想い出す侭に長文に成ってしまったが、一年入部した時、2軍の練習時間になり、バッテイングしようと思ったら、阪井監督に「慶応高校、打たんでいい」と言われて、頭に来て「監督さん、増田打たんでいいと言うなら構いませんが、学校名指しは困ります」と文句を言ったことがある。山岡会長が「増田君、どんな練習をしているんだ?」と聞かれた時にその話をしたら、山岡さんがすぐ阪井監督に文句を言ったらしい。練習がえりに監督室へ呼ばれて、「俺はみんなチャンと見ている慶応高校蔑視しているわけではない」と懇々と1時間半に亙ってお説教をされた。5月の1日暗くなってからスライデイングの練習で監督にほめられた。それで、「もう一度遣って置こう」と思って挑戦したらベースに足を引っ掛けて足首を折ってしまった。それから、2ヶ月入院したが、この期間に又いろんな出会いと講義のモデルに使われたので、骨折には詳しくなり、又マッサージを良く覚えた。8月1日からの練習時には5人入った塾高出の仲間が二人やめてしまった。それでも何とか4年間大学野球部で楽しく過ごせて、最後に優勝である。山食でのて天皇杯での回し飲みは忘れられない。本当に仲間と野球に感謝である。33年卒のの日吉5回生がラッキーにも甲子園へ出て、1チーム全員が大学野球部に入って来たのが、今の塾高出身者が活躍している基礎である。石丸先生、長尾先生、山岡会長が喜んでおられると思う。後2000年頃に知ったのだが、長尾先生は成蹊中学の出身である。僕が高校に入った時からキットご存知だッたように思う。兎に角、眼を掛けて頂いた。

P,S”スコア・ブックの無い野球”と言うタイトルで想い出す侭に書いているうちに纏まりが無い長文に成ってしまった。最後にもう一つ追加。僕の親しい仲間に山内君と言う男が居る。彼は武蔵野一中~西高~早稲田で武蔵野の時は野球部。今から25年前。僕の送別会の時、「マッサンが野球部に居たのは、確か。僕の家に成蹊の時の対戦したスコア・ブックがあり、マッサンが6番、ファストで出ているよ」と言ってくれた。こんなことも在ったのである。足を折ったときは、マッサージを覚え、後に大学の時は、藤田さん他投手陣のピッチングを受けた後、必ずマッサージを遣らされた。


“スコアー・ブックの無い野球 Ⅱ”    ‘17-5-9

2017-05-09 07:20:07 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

前〃回と同じタイトルで僕の野球について思い出を含めて、書いてみよう。前〃回の向井先生、「どうぞ、どうぞ...」とご了承のメールを頂いた。

僕の野球の歴史:多くの野球少年と同じに生まれた芝区田村町6丁目の歩道で近所の兄貴分から誘われて、三角ベースを始めたのが最初である。後は愛宕小学校で屋上のコンクリイーの上で遊んだテニスの軟球でのゴロベースだ。4年生で縁故疎開で伯母の嫁ぎ先群馬県桐生市へ疎開。桐生は野球が盛んな土地だった。小学校へ入るとお昼休みに校庭で野球。それが、空中ベースなので目を丸くして驚いた。細い板切れをバットにして打つのである。  よく打った子は大柄なボス的な塚越君。今でも名前を覚えている。仲間に入れて貰うと打順が回ってくる。恐る恐る打席に立つて、こわごわ打ってみたが、それが以外に当たったんだな。それからは毎日昼休みが待ち遠しかつたのは、今でもよく覚えている。桐生には一年しか居なかったが、親父が浜田山へ家を買ったので、当時は未だ田舎だった浜田山へ帰ってきて高井戸小学校に入った。丁度、家の傍に柏の宮公園があり、近所の子供たちが野球をやっていて、早速、仲間に入れてもらった。当時は軟球、グローブなんて無くて布で作って呉れたグローブ。「Oaks」というチームだった。

・成蹊中学に入りすぐ野球部に入った。当時は学制改革の始まったばかり、旧制7年制高校の成蹊は野球部は高校も中学も少ない部員で硬球と軟球と両方やっていた。部員も少なく15人位だったかな。旧制の人は東大に行き、レギュラーになった人が数人居た。中学では武蔵野地区では強い方で、早稲田OBの監督も勤めた、伊丹さんの子息や立教の名センター二神さんの子息と一緒で、右投げ左打ちが3人も居たチームだった。二神さんには、これまた凄い思い出がある。彼は幼少のとき小児麻痺を患い少しびっこを引いていた丁度その頃、「モンテイーストラットン物語」と言う片足具合いの悪いピッチャーだったが、メジャーの投手になる奥さんのサポートの愛情物語ジェームススチュアートとジューンアリソンの映画で二神さんは「ストラットン」と皆に呼ばれていた。そんな具合で練習相手がいないので僕が随分キャッチャーをやってあげて妙に気が合った。それでよく家へ連れて行かれて父上からバッテイングを教わった。印象的だったのは、「テークバックは45度の角度でバットのヘッドを真っ直ぐに引け」と言われた。僕が慶応に入ったときに二神さんが親父さんの六大学でリーディングヒッターになった時のルイスビルのバットと硬球を持って来てくれた。三井のグランドで練習しようと言って、トスバッティングをしていたら、バットが折れてしまった。「マス、やばいよ親父に怒鳴られる...」大正時代のバットだもの仕様が無いよね。すぐ家に帰ってセメダインを塗りこんで二度と打たなかった。この時代ファーストをやることになってミットが欲しくなった。親父に買ってくれと頼んだら、神田のミナミスポーツで店の奥から出してきて、「硬式のミットだよ」と言われて、1300円だと言う。グローブは店の店頭には2つ位しか飾られて居なかった時代である。このミットは、買ってから4ヵ月くらいで陸上競技場に置き忘れて、すぐ戻ったが誰かに持って行かれてしまった。忘れられない出来事だった。当時、お小遣いが月3千円練習の帰りに「闇市」の特一番と言うラーメン屋でラーメンが一杯35円3杯食べると105円で5円足りない。2杯食べて3杯目は誰かと半分ずつ...とか。美味かったな...これ以来35x3=105と言うのは頭に残っている。 成蹊では、旧制高校流の扇形キャッチボール(サードとフアースト、ピッチャーマウンドを結ぶ線上に皆が並び、一人だけホームベースの上でサード側からフアースト側までの人間が全力投球のボールを投げて、取るとすぐ次の人に投げ返す、毎日練習の最後にこの練習をやった。慶応に入ってからはこのような練習はやらなかった。キット野球のルーツ校「一高」辺りの練習方法の一つだろう。高校生が中学生相手にやるのだから、球は速く、怖かった。)中学のチームは右投げ左打ちが3人居た。武蔵野市の大会では、結構強く好敵手は武蔵野一中、早実に進んだのが3人居た。僕が、慶応に変わった時、仲間には内緒にしていたら、3月末に10人位が我が家に文句を言いに来た。「水臭い...」と。でも、その連中は9人のうち7人が同級生で5人が亡くなっているが、最後まで良く付き合って呉れた。

慶応高校に入ったら部員が多いので驚いた。一学年25人くらいで1~2年生は外野の土手の上で玉拾い。振り返ってみるとあの頃は完全な「年功序列型だったな」2年の新チームが出来る頃、「必ずチャンスは来る。バッティングも遣らせてもらえるだろう」と、自主練習をする事に決めて、7月の1日から、30日まで、毎日永福町まで往復5キロのランニングとバットに鎹を4本打ってスイングバットを作り、片手振りを右左100本づつ、コースを決めてインコース。真ん中。アウトコースと100本ずつ素振りをして、7月一杯自分で練習をした。これには命を救われた想いでもある。小学校の友人から「同じクラスの女の子を3人誘って山中湖へヨットを乗りに行こう」と言う誘いである。随分迷ったが「俺は野球をやるんだ...」と決め、その誘いを断った。処が、山中湖でそのヨットが強風に煽られて転覆し、女の子が二人死んでしまったのである。新聞にも大きく出て大変だった。もし、僕も行っていたらどうなっていたか、解らなかった。

その頃、運動具は、渋谷道玄坂上の「小口スポーツ」で買っていた。ある時ルイスビルスラッガー(二神さんの親父さんのバットと同じ)ベーブルースモデルのバットが一本店に出ていた。但し、長さが33,5インチ。当時は普通バットの長さは34インチだった。子供用かも知れなかったがどうしても欲しくなって、親父にねだった。普通のバットが250円位、そのバットは1350円したのだ。8月1日からの練習に持って行ったら、案の定バッティングを遣らせてくれた。一ヶ月の自主練の甲斐が在り、バットも音が違う「カーン」と言う澄んだ音がする。秋のシーズンは秋大会の途中まで4番を打たされた。10月位に練習前のトスバッティングの時、後ろから帰ってきたボールの上に載ってしまい右足首を捻ってしまった。痛くて今でもその時の痛さは覚えている。監督には、「守備はしなくて良いから、バッティングだけ」と言う特別待遇をうけた。シーズンが終わって12月になり痛みが取れないので、医者に行ったら、くるぶしにヒビが入って、固まってしまっていると言われた。バットは丘の上で玉拾いをしていた仲間に貸したら、インコースに詰まって折ってしまった。先日同期会があった時に昔話になり、バットの話をしたら、「全然覚えていない」と言うのでガッカリしてしまった。翌年夏の大会は当時飛ぶ鳥を落とす勢いの田丸監督率いる法政二高に準々決勝位で負けてしまった。大学野球部に入るのは随分迷ったが色んな先輩に言われて入る事にしたが、凄く面白い経験をした。これは、次回にしよう。


“Diary 124” ’17-5-2

2017-05-02 07:50:09 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

4.2 豊川詣り

今月も、日取りが合わず2日のお参り。全く例月通りお蕎麦を食べて、銀座へ回り「うおがし銘茶」を買ってくる。浜田山のスーパーでもこの頃置いているが、価格は100円位、高い。

4.14 八丁堀理事会

早い物で、5月の総会の議題を論議する時期になってしまった。まあ、兎に角色んな問題が出てくるが、何処のマンションでも、同じだと思うが、大規模修繕と積立金不足の問題は難問である。日本は本当にどうなるんだろう?今月は売却で引越しをする人が理事会に出てきて挨拶があった。もともと、地権者の多いマンションなので始めてのケースだった。

 4.19 第60回無心会 於 新橋亭

昭和32年卒業の体育会員の会である。無心会と書いて裏無し会と言う。当時の高村塾長に相談してお名前を頂いたとか...幹事は体育会創部の順に勤めることになっている。今度は準硬式野球部と応援指導部が中心になって各部に招集が掛かった。総人員は230名位居たらしい。当日は、89名の出席だった。まあ、久しぶりで懐かしい顔も会うことが出来て。卒業50年以上の塾招待の会よりも出席率は良いかも知れない。

 4.25 銀行へ

4月も末になると、新入社員の配属時期になる。当然我が社の担当も替わる。時期恒例の挨拶にワイフと出向く。今までの担当者は、お婆さんが大学時代の熱心な僕らのフアンだった。もうそんな時代になってしまった。要するに小学校から青山でラグビーを遣っていた行員。僕の友人のお孫さんと友達と言う訳。今度は慶応ニューヨークから大学の帰国子女の総合職。支店開設以来随分担当者が変っ他が、塾の後輩は3人目。大体転勤先は知っているが子供を5人も持っている男も居る。兎に角、後輩は話が合うので楽しい。

4.27 地下鉄サービス 来宅

こちらも担当が替わり、ご挨拶に来てくれた。妹さんが、恵の同級生で浜田山の住人。家の前でボール投げをしていた坊やが、立派に1級建築士、不動産取引の資格を持って次長職。「縁とは異なもの」と言うが、長生きも良縁が持てる最大要件だと思った。若い人の成長が楽しみ。

4.28 J-鶴ヶ島 ラウンド・レッスン 趙と畑江両氏と 初野栄子プロ

16日に珍しくA型インフルエンザに感染してしまった。8度を超える高熱と足腰がガタガタ。いや、驚いた。早速ホームドクターの古河先生の診察を受け、A型と解ったので処置をして貰い、静かに「おかゆ」を食べていた。兎に角、28日の「鶴ヶ島」まで直さないと趙がガッカリするだろう。幸い2日で熱も下がり、医者のOKも出て初野女子プロのラウンドレッスンを受ける。7ヶ月振り位の「J-鶴ヶ島」フロントもキャディーさんたちも歓迎して呉れて、楽しかった。今倶楽部に来ている人最高齢は83歳、と84歳とか、スコアーを間違えるので最近仲間に嫌われているとか?人事ではない。レギュラー・ティイーからで119後半3ホールが疲れて凄い乱れ。でもとても楽しい幸せな一日だったな。

 ・六大学野球4.16~ 六大学野球 対東大、立教

対東大1,2回戦とも打棒が振るい、快勝出来た。岩見が体を絞り、守備も見られるようになった。浪人しても慶応野球部に来たのだから、本物だろう。郡司が下馬評とおり力を出してきている。投手陣は柱がもう一つだが、皆、一生懸命さが伝わってくる。勝ち点ゲームはトーナメントと一緒だと思っているが、連勝で10勝、勝ち点5は理想。しかし、勝ち点を落としても一勝2敗でないと最後の勝率に響いてくる。立教戦も連勝出来て少し明るい見通しだ。明治が強いかと思っていたら、今日法政に連敗した。混沌としたシーズンになりそう。それにしても、高校野球都大会、早実と日大三の試合は凄かったな...今まで本当に数え切れない位の野球を見て来たが、83歳にして、生まれて初めて見た試合だった。

 P,S “Letter to M,Mukai”

’17-4-11付けで、 向井先生宛てにブログを書いたが、先生からご返事を頂いた。ご参考までに...

「御質問の件。Hub がBoston という意味になった正確な理由は難しいのですが、私が調べた範囲内でのことを言っておきます。

:Hub の本来の意味のひとつとして“中心地”というものがあります(航空会社の中心となる空港をハブ空港と言ったりしますね)。ボストンはマサチューセッツ州の中心であるだけではなく、ニューイングランドの中心でもあります。そして、アメリカ建国の歴史を振り返っても中心的役割を果たしています。こうした地理的・歴史的意味合いからボストンを“中心地”と捉えてHub と表現するようになった。

 以上が私の調べた範囲内での考えですが、異論もあるかもしれません。」