☆Massy’s Opinion
☆イントロ
僕の会社時代の仲間にOn The Rock君という男が居る。彼は定年後、早稲田の応援団の監督を4年やった。其の任期中の早稲田のリーグ戦は全試合応援に行ったと言う「熱い男」。昨年の今頃、「Massy、この間面白い会が在りましたよ。DVDを貸しますから見てくださいよ。必ず返して下さいね」と言われた。家でDVDを見ると驚いた、知った顔が多い事。
元経済学部長の塩沢教授まで写って居た。勿論、On The Rock 君も真ん中の上席に座っていた。「何此れ、応援団の会?バンさんが居るじゃない...」「いや誰でもいいようですよとにかく面白い。来年一緒に行きましょうよ...」秋の神宮のネット裏でバンさんに会った。「バンさん面白い事やっているね。来年は、案内頂戴よ」「マッサン来てくれる?...」と言う事で、案内を貰って直ぐ出席の返事を出した。残念ながらOn The Rock 君体調を崩して同行は出来なかった。会場に入ると僕の同級生はボート部メルボルン・オリンピック、エイトで出場時のキャプテン須永君、ブラバン、OBの知久君の席と同じ席、手厚い配慮を頂いた。偶々、3人は高2の時は同クラス。
代表 バンさん photo by Chikyu
☆ブレイク
定刻13時司会のN君の発声でスタート。先ずは会代表のバンさんの挨拶、3回目まで非常に好評で、今日の4回に至った事。「楽しくやりましょう!」乾杯は、今年の早慶レガッタに勝ったボート部の超OB須永君の勝利の報告、実態は早稲田エイトのコースアウトで慶応が勝ったとの事。彼らがメルボルン代表になった時の隠されたエピソードは、「艇差一尺」と言う単行本に成っているので其の話をするかと思っていたが、其の話はしなかった。席に帰ってきて彼に、「艇差一尺、如何したの?...」と聞いたら、「本は持ってきたけれど忘れちゃった」と言っていた。乾杯が終わるといよいよ本番...予め歌詞カードが作られており、明治37年に作られた「旧塾歌」が載っている。司会者の解説が付いて始めて聞いた歌だった。それでも何人かの人は歌っていた。兎に角、歴代のリーダーが代わるがわるに壇上に上りリードをする。古い先輩は33年卒位、一番若いリーダーは塾高からズーッと応援団長を勤めてくれた人気者の小山太輝君迄お爺さんと孫の年代に亙るメンバーだ。普段は余り感じないが、リードの仕方もそれぞれに特徴があるものだ。兎に角、色んな歌があり、「何曲位あるのか?」バンさんに聞いて見た。以下に頂いた返事をコピー&ペーストしよう。
・塾歌や丘の上、慶應讃歌などは応援歌というよりむしろカレッジソングであり、若き血などの選手を鼓舞する歌を応援歌と分類すると以下のようになります。
<応援歌>約20曲:若き血、躍る太陽、三色旗の下に、我ぞ覇者、オール慶應の歌、Vvictory March,ダッシュケイオー、おお わが 慶應、王者ぞ我ら、ファイトケイオー、かとうけいおう、 天は晴れたり、慶應行進曲他(天は晴れたりは明治39年作 作詞の桜井弥一郎さんは慶応野球部のエースで大先輩、僕が学生の頃には確か2度、合宿所に来られた記憶がある)
<カレッジソング>丘の上、慶應讃歌、日本の誇り他
<塾歌・一貫教育校(小、中、高)の歌> 割愛。
兎に角、慶応が歌を作ると、それに対抗して早稲田が作る。と言うような対抗意識で数多くの歌が作られたようだ。古関裕而先生などは両校の歌に関係されて居る。
・1時間半程歌い継いだ後、コーヒー・ブレイク約10分。其の後は此れが驚いた。「最後の早慶戦」と言う講談で始まった。まあ、慶応には色んな人材が居るものだ。最後の早慶戦は第二次大戦の学徒出陣を前にして学徒動員になる学生のために「野球の早慶戦をやろう」と言う有名な話。野球部OBの松尾先輩(昭和28年卒当日の試合に参加していた人。元毎日新聞のスポーツ記者)の著書にもある題材だ。「最後の早慶戦」に参加した松尾さんの話が定番になっているが、講談は少し、小泉先生、飛田穂州先生のやり取りにウエイトが掛かっていたように感じたが、初めて聞いた新鮮な「最後の早慶戦」でした。凄い人がいるもんで驚きました。演者は若林鶴雲と言う師匠:昭和47年商学部卒 体育会弓術部出身 現在 慶應義塾女子高等学校弓術部監督 本名 若林 誠二
・ プロフイル:昭和24年(1949年)東京都台東区生まれ。
サラリーマン生活の傍ら、平成5年(1993年)から始った故・田辺一鶴師主宰の講談大学(講談教室)に通い講談を学ぶ。平成7年(1995年)に講談親睦会(こうだんむつみかい)という講談の勉強会兼親睦団体(現在会員数35名)を設立、代表幹事として現在まで様々な発表会をプロデュースしている。演じるネタは多岐にわたるが、中でも忠臣蔵ものを最も得意としている。平成21年(2009年)に財団法人中央義士会(創設104年目の元禄赤穂事件研究団体)の忠臣蔵博士検定に合格、パフォーマンスとしての忠臣蔵を語るとともに、会社を定年退職(38年間勤務)した後は、史実としての忠臣蔵研究にも力を注いでいる。現在は都内を中心に社会福祉施設や地元の敬老会などで講談を披露している。また、毎年2月4日には熊本県山鹿市の日輪寺(注)で開催される「義士まつり」で忠臣蔵の講談を披露している。
長島昭久君 photo by Chikyu
☆ エンデイング (Mail to Ban)
昨日は、充実した楽しい会合有難う御座いました。
大分同級生が居なくなり、特に今年は荻野、奥田両君は残念でした。荻野君のお嬢さんは、日産の秘書室に居るし、知久、荻野は同じクラス、荻野は西永福に住んでいて浜田山とは隣り合わせ、通学もよく一緒にでした。一年春の早慶戦で、僕が球拾いで始めて神宮球場に学生服でグランドに出た時、荻野君の「増田!」と言う応援で上がってしまいました。31年秋の優勝の時、納会が山食で開かれ、天皇杯で乾杯の回し飲みがありました。僕の順番が来たとき、「思いっきり一杯呑もう」としていたら又荻野君が僕の名前を叫んでくれて、余り呑めませんでした。まあ、本当に良い想い出です。
さて、応援団の皆さんよく声も出るし、バンさんの長島昭久さんの紹介もさすが心得たものでしたね。講談が又良かったです。野球部では当時阪井さんのサブで、「最後の早慶戦」に参加した松尾さんの話が定番になっていますが、今日の話は少し、小泉先生、飛田穂州先生のやり取りにウエイトが掛かっていたように感じ、新鮮な「最後の早慶戦」でした。凄い人がいるもので驚きました。須永、荻野、知久高2の時、三保敬も同じ組、須永は「艇差一尺」の話もう、し飽きたのかな... 配られたコピー「偕行」の「慶応義塾戦没塾員追悼会」の記事も戦争を知っている僕らには歴史を継いでいる皆様に敬意を表します。
早稲田の岩上元監督は、一緒に来る予定でしたが体調不良で欠席しましたが、楽しみにしていましたのに...彼は元僕の部下、監督に成ったとき、阿知波君に紹介したり、ゴルフも仲間なんです。野口公二君夫妻のお母さんは僕達の追いかけグループ、もう其の娘さんが野口夫人で、もう51歳だってね、驚きました。
駄文になりましたが、帰宅して色々考えました。リーダーの方達がお爺さんの代から孫の代まで一緒にプレーする事は他のスポーツでは殆ど出来ません。如何しても、年代別になってしまいます。「応援指導部」だけが一緒の舞台で演じられるのです。本当に「光陰矢の如き時代」に「歴史の大事さを継ぐ」にはとてもいい取り組みだと感じました。
来年も楽しみにしております。
P,S このブログも先日アクセス数が10万回を超えました。余り色々なことを書いているのでIndexを
“Blog Massy-Academy” Ⅳ Index ’15-4-14 に書いてあり、中でも「野球」について物が多くあります。お暇な時に見てください。
URL: http://blog.goo.ne.jp/massy-academy