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”サヨウナラ保田忠昭君”

2023-01-25 14:50:11 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*三田倶楽部からのメールで保田君の訃報が届いた。半月位前に仲間の薄君から保田君の亡くなった事は連絡が在った。塾高の時は1年下の5回生。新制高校時代に成り、塾高が初めて夏の大会で、神奈川県代表に成り、甲子園に行った時の3塁手だった。
*真面目な男で、正義感の塊の様な男だった。通称 「ヤスコウ」 あだ名は「熊公」。
考え方は、極右的 と言ってもそれをひけらかす訳ではない。頭が良く、気力が物凄い。礼儀正しい男である。この2~3年体調が良くないと言う事はきいて居たが、何でもリアルタイムで話し合える仲間が一人減ったと言う事は限りなく寂しい...
*昔の事が、走馬灯のように思い出される。何と言っても、1番は高校1年の時の所謂千本ノックだ。2番は大学1年の時、野球の練習を休まずに済むように、僕の取った学科を教えて、僕の家へノートを取りに来たこと。夜、10時ごろ家へ真っ暗な処、ランニングしながら来たこと。3番は2003年だったかな、当時高校は館山で、春期合宿をしていた。何とか強いチームにしたいな...当時、中林君と言う左の好投手が居た。其の合宿に我々4人でチームを組んで押しかけコーチに行った事である。 少し、詳しく記憶の範囲で項目ごとに綴って見よう。
*千本ノック
当時、大学野球部と高校野球部の関係は、今ほどスムースではなかった。普通部と商工の野球部があり、商工の方が強かった。或る時は、東京代表に普通部と商工の2校が東京代表に成った事もあったそうだ。
新制高校に成り学校が日吉に移り、神奈川の学校が東京代表に成るのはおかしいと当時明治高校の監督だった島岡さんがクレームつけ、慶応は神奈川に行き、明治高校が東京代表に成ったとか...その頃、夏の試験休みの時期、大学の野球部員はそれぞれの出身校にコーチに行く事に成っていた。慶応高校には後の5回生の監督をされた加藤さんと普通部でバッテリーを組んでいた小野さん由来は解らないが「饅頭さん」というあだ名の先輩がコーチに来た。当時のグラウンドは、今の工学部のある処に在った、通称「嵐が丘」と言われたグラウンドで,小石混じりのグラウンドだった、練習前のある時間小石取りを遣らされたようなグラウンドであった。慶応高校は何となくショートには巧い選手が多いが、3塁手にはいい選手がいなかった。そこへ出て来たのが1年生の「ヤスコウ」だった。4時ごろだったかな、個人ノックが始まりその対象はヤスコウ...当時、読売巨人軍の茂林寺の猛練習とか、いろんなチームの凄い練習の話を聞いてはいたが、僕の長い野球生活の中でも初めての千本ノックだった。ヤスコウは厚い胸板でボールを止める。ノックをする「饅頭さん」の手から血が滲む。本当に凄い個人ノックだった。決して華麗なプレーではなかったが、兎に角、ボールに向かって行くヤスコウの気力は凄かった。あれから一皮むけた様な兎に角、「体で止める」彼のプレーは、監督以下チームの信頼を得て立派に甲子園で頑張って来た。ノックが終わったのは、日が暮れてボールが見えなく成った頃だった。
*ノート取り
大学の野球部に当時、三田倶楽部の山岡会長、高校野球部長の長尾先生に大学野球部に入れと言われて6人、入部したが、予想外に外部から著名な選手が入って来た.皆、デカく今の大谷君みたいに2刀流が衆樹、中田、日野3人はプロ入り、内藤、石黒、石原、土河、等甲子園出が多く、慶応高校は肩身の狭い事、2軍の打撃練習を楽しみにして居たら、阪井監督に「慶応高校は打たんでいい...」と言われた。「監督、学校で打たんでいいなんて言わないでくださいよ。せめて増田打たんでいい...と言ってください」、頭にきて山岡さんに言ったら山岡さんが直ぐ阪井監督に怒ったらしい。阪井さんに呼ばれて凄いお説教をされた。そんな事があって甲子園へ出て居ないと大学では駄目だなと思った。5回生は甲子園に出て居るのでまとまりも良く、黒松主将を中心に一チームが入って来た。何とかレギュラーに成って欲しいなと思ったが、黒松君と保田君は経済学部に進めた、しかも、N組である。当時、高校からの内部進学には経済は70点くらいの成績が必要だった。そして、ドイツ語とフランス語で80点以上の組がG組とN組と二クラスあったが二人ともN組だったのだ。
僕も、N組だったので、練習を休まないように試験は本の持ち込みが許可される科目ばかり取った。しかも、午前中の授業を重点にした。保田君の家は偶然にも西永福我が家と近い。それで、学科の取り方やノートを二人に教えたのである。保田君は家へ来た時、汗をかいて来た「如何したの...」聞いたら「練習の為、走って来たんですよ」その位熱中する男だった。あの晩のヤスコウの姿は鮮明に覚えて居る。
*押し掛けコーチ
僕らが会社を辞めてから、高校の野球を見に行く機会が増えた。僕は、色んな事があって「高校の監督も専任で先生がいい」と言う考えだった、やっと上田監督が来て体制が出来上がった。選手も特に、左腕中林君が入って、上田監督も気を入れて色んな取り組みをして、館山で春合宿を組んでいた。日吉倶楽部との接点をタイトのしようと思い、ショートをやって居た薄君に声を掛け合宿に泊りがけで行く事にした。一つは中林君に「スローカーブ」を覚えて貰いたかった事がある。それには、長島に8号ホームランを打たれた林薫(神戸高校)に来て貰おうと誘った。彼のブルペンキャッチャーは殆ど僕がやって居た。当時、林、広野、高橋栄一郎、巽の4人が主戦投手陣だった林君はスピードはそれ程ではなかったが、コントロールは良く、特にカーブの速い球、スローカーブが絶妙だったのだ。合宿では、一泊したが、翌朝七條部長先生が我々の部屋に来て、「昨日は、とてもいい日でした。部員全員が感激して居ました」と丁重に正座してご挨拶を頂いた。帰京してから3人に気が付いた点をレポートして呉れと言ったら、ヤスコウは曽田香料、林君は鐘化でそれぞれ責任ある立場で仕事をして居たので、素晴らしいレポートをPCで書いてくれた。薄君は手書きだったが、僕が全部まとめて上田監督と七條部長に渡した。次の世代の勝本君達に同じような事をやって呉れと云ったのだがキャンプには行ったもののゴルフ会に成ってしまった。今年も多分選抜に行けると思うが、あの押し掛けコーチは「ヤスコウ」にもいい思い出だったろう...
*ヤスコウ... 大学の23年度キャプテンは,広瀬君だよ。僕の記憶では、幼稚舎出のキャプテンは、黒松君以来だと思うよ。ヤッパリ君達の甲子園行きは、慶応野球の中で大きなエポックだったな。黒松キャプテン、保田新人監督の1958年以来だ...
P,S
当時、浜田山には、8回生鶴岡、(後、塾高監督、甲子園)会社福岡日野でも、いいチームを作っていた。12回 宮川、36回 友成(アフリカ野球)等が近所に居た。
                                  *   早慶戦 100週年 神宮球場にて
                                 2003・11・26
                  左から 保田君、徳丸大先輩、僕                 

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