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“Gender Equality” (’21-03-30)

2021-03-29 21:34:25 | Megu's Sports

   ★Megu’s Sports                                                              (’21-03-30)

“Gender Equality”    

先月、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の会長で元首相の森喜朗氏の発言が問題になり、辞任することになったニュース。BBCの記事を英語と日本語で読んでみた。森さんの発言のニュアンスが、英語と日本語では違う。日本語の記事の方が、自分が森さんに同意するかどうかは別として、どのような意図で彼が発言したかがわかる。英語だと、シンプルで皮肉的にコミカルにも受け取れる。まあ、どちらにしても彼の発言はミステイク。彼の奥さん、娘・孫娘から非難を受けたのも当然。

近年、“差別”問題が世界中で人々の注目されている。多くの人が人種問題、性差別問題において、センシティブになっている。性差別別問題について。これは、単に男女だけの問題ではない。男、女、ホモセクシュアル、トランスジェンダー等にとっての平等の権利。単民族社会で、ホモセクシュアル、他のセクシュアルオリエンテーションが欧米に比べて、まだオープンでない日本社会。日本人のこれらの差別に対する認識は、低いのではないか。

以前もブログに書いたとこがあると思う。まず、社会・文化の性別エクスペクティションが、森さんのような発言のもとになる。女は、“こうでなきゃいけない” っていうような。母ちゃんが、たまに私に言うこと。“外に出かけるときは、リップぐらいつけていきなさいよ”。中国人のファミリーフレンドが言ったこと。“恵は、女の子だから、そんなに一生懸命働かなくてもいいよ”。私にとっては、これらの発言の方が、森さんの発言よりも倍以上に腹立たしい。“何で、化粧したくないのに・しなくても問題ないのに、しなくちゃいけないの?”、“働くのが好きだったらどうなの、誰が家のローン払うの?”ってこと。国によっては、宗教がもとになって性差別的な法律が作られている所も多い。でも、日本はそうじゃないよね。日本人は、“個人”の前に、”一般的な定義“を使った性別エクスペクティションを置きすぎ。もう、今は1920年じゃないんだから、ちょっと物の見方進歩させようよ。

国を変えて。NCAAのバスケットボールトーナメントが、先週始まった。トーナメントは、女子と男子と両方。女子のトーナメントは、ケンタッキーで、男子はインディアナで行われている。オレゴンの女子選手が、女子と男子のウェイトルームの違いをTweetしたのが、ニュースで取り上げられた。(https://www.bbc.com/news/world-us-canada-56464331)食事にしても、女子は男子と対等なトリートメントを受けていない。世界的にも、他のスポーツを見ても、女子の方が、賞金、サラリー、国からの援助、スポンサーシップ、トレーニングの環境・器具に恵まれていないケースが多く見られる。男子のスポーツの方が、財政的にプロフィットが多いと言うのは確かだけど、女子スポーツにも、男子と同じぐらい、選手たちの能力と可能性を発展できる機会を設けてほしい。

 


'21-3-23"日産・ルノーアライアンス オーラルヒストリー”読後感

2021-03-22 14:00:50 | Massy's Opinion

★Massy's Opinion  

                                                                                                                            2021年3月12日

慶應義塾大学 商学部

八代充史 教授 殿                                                                                    増田 弘

・「日産・ルノー アライアンス オーラルヒストリー」 読後感

拝啓 大分春めいて来ました今日この頃、ですが、この度は私にとって非常に興味あるタイトルの本を3月号の「三田評論」で見まして、直ぐアマゾンで購入いたしました。

一番、興味のあった事は、誰が、どんな処に着眼し書かれたのかが興味がありました。

私は1934年の生まれですから、もう86歳に成りますが、東京日産自動車に入社し、履歴、職歴は何時も職場の中心に居りましたし、生まれ育った処が自動車の部品商で入社後の仕事が業務課と言うディ―ラーの中心部門で、仕入れから、配車迄やる部門を長くやりました。

労働組合の専従も3年間やり、丁度、その時の上司(後に東日、日産特販の社長)が日産自動車販売当時、日産のストライキがあった時代で、毎晩夕方になると日産労組の活動家たち飲みに集まって来て、僕はお供をさせられました。そして、当時の組合問題等を耳にタコができるほど聞かされてきました。川又さんと宮家さんの労使相互信頼に基づく「近代的労働運動」その後の石原さんと塩路さんの英国を取り巻く対立とか本当に色々な場面を近い所で見聞きして来ました。私は、日本の自動車界の歴史はは輸入車の販売から始まっていると思って居ります。其処で貴著を読んで、「ああそうだな、志賀さん以降で括らないとこういう纏めは出来ないかな?」と感じ、それだけ時代が過ぎ去ったのだなと思いました。実はこのレビユウを書く気に成ったのは、「こんな事実もあったのですよ」と言う事を先生の記憶の隅に置いて欲しいと思ったからです。

話は、グルッと変わりますが、僕らの卒業は1957年3月です。僕は、経済学部N組、塾高時代から野球部で大学も野球部でした。当時、九州で甲子園出場連続9回と言う小倉高校がありました。その小倉から上野君と言う人間が入学して、同期に成りました。此の男は卒業後、八幡製鉄に入りその後、タバカレラ貿易と言う会社に移りました。この会社は、当時、ルノーの輸入をして居ました。ディ―ラーの販売網を作り上げるのは非常に難しい仕事です。タバカレラの後三井物産が販売権を取りました。当時、日野はルノーとの提携を止めて大型車一本にしたのです。或る日、赤坂溜池でその上野君にバッタリ会いました。「おお、久しぶりだな...何やって居るんだい?」「こういう事だよ」と貰った名刺には「ルノー公団東京事務所副代表」とありました。「マッサン車の事、教えて呉れよ。俺は何にも解らないから...」以降、色々情報交換をするように成りました。当時は、三井物産がルノーの販売権を引き継ぎ、東京日野から乗用車をあっかって居た連中を20名位引き取り、ルノーの販売を始めました。この時東京日野の乗用車を扱っていた連中は残り半分位が、東京日産に来たのです。当時、三井物産は、欧州の事業拡大の為、ルノーは公団ですから、「Representative of Renault」と言うタイトルも欲しがった様です。

その頃、日産は、British Motors のオースチンと技術導入の為、ノックダウンでA-50モデルの国内生産を始めたのです。それまでオースチンの輸入ディーラーは、日新モータースと言うディーラ―だったのですが、オースチンの国内生産により、販売する車が無くなり、オースチン・ミニを日英自動車のサブで販売する事で、雇用の維持を図ったのです。日新モータースは後に東京日産の子会社としてキャピタルモータースを設立し再出発したのです。三井物産のルノー部隊も販売ははかばかしく無く、公団の代表のデュプレと言う人に随分、日本の自動車事情を説明しました。「How many percent of share  do you want?」「10%」「今、0.1%もないのに。」と言ったら、デュプレが「大きく考えて、小さくスタート」と言ったのが印象的でした。その後、キャピタルがルノーの輸入総代理店に成りました。フランスの大統領が表敬訪問に来ると言う事に成り、一応、日産自動車にも経緯の報告をしましたが、日産自動車から「東日の本社訪問は困る」と言うチェックが入り、帝国ホテルに東日の社長が挨拶に行くと言う形に成りました。これ程、メーカーとディーラーの関係は「士農工商」的でした。ヤナセの二代目次郎社長が、「轍」と言う5冊に亙る本を書かれて居ますが,梁瀬さんは塾ですし多分図書館に寄贈されて居ると思ます。昔は新橋駅から赤坂弁慶橋までの両側は自動車輸入業者のショールームが立ち並んでおり、日本のデトロイトと言われた時代もありました。そこで働いているセールスマンは、殆どがコミッションセールス(出来高制、業務委託契約)でした。然し、これには問題が多く(日産系他社の扱い車を売る、下取り中古車を転売する等の行為)トヨタは殆どがハウスセールス(給料制、雇用契約、)でした。

今や世界的に自動車界は,かって無い変革の時代を迎えて居ります。自動車の基本的な動力の問題から、作り方、部品メーカーとの関係、下取り中古車の問題、特にカーボンニュウトラルの問題、自動運転の問題等若い人びとには仕事の仕甲斐のある大きな職場だと思います。然し、歴史を知らないと本当の問題解決は進歩が遅れてしまいます。私はルノーと日産の1999年でしょうか?提携が生まれたのも、日産の英国進出も何かその時に職に当たった人の脳裏にオースチンの技術提携、ルノーとの提携もキャピタルモタース(三井物産との経約後)との契約も担当した人々の空気の中に繋がりがあった様な気がしてなりません。もう殆ど、その頃の事を知っている人は、居なく成ってしまいました。今回の貴著の聞き取り調査は、本当に日産の皆さんが「良く答えているな」と感じました。

私は、実務をやって来ながら、ディ―ラーの人間としては業務の機械化、中古車の価格表示、オークション、中国へのLPGガスの講習、下取り車の海外輸出、等様々な分野の仕事をして来ました。現役引退後は京都大学大学院東アジア経済研究センターの産廃物問題と中古車流通、現鹿児島短期大学学長塩地洋先生(学長が講師の時代からのお付き合い)のセミナーの外部研究員としてやって来ました。その為に、ブログを書き溜めて居ります。メインテーマは、「通行区分の世界的統一」です。

’01・1.10のブログは、ジャンル別にインデクスを書いてあります。スクロールして見て下さい。何か、ご参考になる物が、あるかも知れません。又、慶応大学経済学部の慶応読書会に参加しており、丸山名誉教授のお世話に成って居りす。長文をお許しください。一度お目にかかりたいと思って居ります。                                                         敬具


< 私のゴルフ 履歴書 >  (‘01,7,1) '21-3-16

2021-03-15 14:25:34 | Massy's Opinion

★Massy's Opinion  

< 私のゴルフ 履歴書 >  (‘01,7,1)               '21-3-16

                                                                 増田   弘 (1934年9月10日生)

  • 僕がクラブを初めて、握った時

僕は成蹊中学2年の時に野球部に入った。その頃は、旧制高校の人達と一緒で硬式の練習も手伝わされていた。一年上級生に二神さんと言う人がいた。この人は幼時に小児麻痺をやっていたので、走るのにハンデがあった。当時「隻脚の投手ストラットン物語」と言うジェームス・スチュアートとジュン・アリスンの映画が感動を呼んでいたが、二神さんは此れにとても良く似ていた。何時もピッチングの相手をしてあげていた。彼の父上は大正13年頃の立教の名外野手だった。僕が高校で慶応に移ってから、二神さんが親父さんの使っていた、ルイスビルのバットとマクレガーのドライバーとゴルフボール一個を持って、「慶応へ行ったら頑張れよ」とわざわざ僕の家へ激励に来て呉れた。そして、三井のグラウンドへ行き二人でゴルフの練習をしたのである。この時のドライバーはヒッコリーシャフトで、もう少しヒナッていた年代物だった。バットはトスバッティングをしていたら、折れてしまった。「ヤバイ!親父に叱られちゃう...」20年も経っているバット、いくらルイスビル製でも折れてしまう。このバットは僕の家で「セメダインC」で折れた処をくっつけて二神さんは持って帰った。ゴルフのクラブはそれからも暫く我が家の玄関に置いてあった。この時、ゴルフクラブを握ったのが始めてで、今から50年前の事である。さて、話しは横道にそれるが、この頃の成蹊中学のチームには早大の名捕手伊丹安広さん(大正15年頃)の息子さんと、中川君、と僕の3人の右投げ左打ちがいた。伊丹君は父上の教えで幼い時から左打ちを教わっていたのではないかと思う。僕はサンフランシスコシールズのスタインハウワーと言う一塁手の真似をしている内に左で打つようになってしまった。当時一チームに3人の右投げ左打ちが居るチームはかなりキザなチームだった。同地区に武蔵野一中と言うかなり強いチームがあつた。ここに今度のホール・イン・ワンのコンペティター山内さんがいたそうである。僕が日産特販に移る時の送別会で(‘91年)その昔のスコアーブックが出て来て、「増ッサンまちがいなく二番か、6番で出ていたよ」と言ってくれたので、驚いてしまった。慶応高校野球部では、当時、三田倶楽部理事長だった山岡鎌太郎さんの息子さん(右投左打ち外野手)と一緒で、よく山岡さんに慶応野球部の話しを聞かされた。二神さん、山岡さん、伊丹さん等東京6大学野球の歴史的名選手3人の息子さん(伊丹、山岡君共に、右投、左打ち、今では少しも珍しくないが、この頃は珍しく、慶大の阪井監督は嫌いだった)と一緒と言うのも珍しい。大学時代には良く神宮球場のネット裏で二神さんや、法政二高の田丸監督にも声を掛けられたが他校の偉い人達から声を掛けられるのはとても面映かった。

  •  別当さんとの出合い

確か‘57年僕が東京日産に入社した年の秋頃だったと思う。ショールームで車を磨いていたら、別当さんご夫妻が偶然車を見に来られた。僕は勿論直ぐ「いらっしゃいませ!」と挨拶をして、「別当さんですね、僕、野球部の後輩です」と挨拶をした。別当さんも驚いた様子だった。別当さんは当時大毎オリオンズの監督、奥さんはミス神戸の超有名な人気者だった。‘56年、僕達の慶応野球部にはプロ候補がたくさんいたが、特に衆樹君は圧倒的な人気があつた。秋の日吉には慶応出身のプロ野球の大先輩、巨人軍水原、国鉄宇野、大毎別当さんなどが、大勢スカウティングに来て、我々は間近に見るスター監督に胸を弾ませていた。特に50数年過ぎた今でも鮮明に覚えているのは、実際にバッテイングの見本を見せてくれた、別当さんのインコース打ちである。yシャツ、ネクタイ、普通の靴の儘レフト95メーター位でネットが張ってある上段にボンボンぶつけてしまう。インコースに投げさせて、その球を右ひじを締めて、ライトセンター間にライナーで打つ様は本当に凄かった。この打ち方はその後山内、葛城、土井、落合等に引き継がれているが、巨人の清原が一番弱い打ち方である。こんな印象があつたので、僕のショールームでの出合いも気が入って居たのかも知れない。別当さんも当時の車は高い買い物(オースチンデラックスで確か120万位、横浜の会員権が60万位 )だったので、相談相手が必要だったのだろう、車を決めるまでに3回位家へ呼ばれた。ちょうど、別当さんもゴルフを始めた頃だったので、車を納めてから、度々「おい、増公、 ゴルフに行こう」と呼び出され、高輪の練習場、二子玉川の打ち放し、都民ゴルフ、等、運転手代わりに色々なゴルフ場にお供させられた。当時、大毎のホームグラウンドの東京スタジアムは千住にあり、折からの自動車ブームでプロ野球選手も自動車免許を取る練習を始めたが、大毎の選手は、確か荒川博さんが一番初めで、小森、広岡、王、衆樹、田宮、榎本、別当さんの奥さんとか皆、塩地さんの尾久自動車学校で練習をお世話になっている。この塩地社長はゴルフと野球が大好きで、尾久自動車学校は野球チームも強かったし、塩地社長は名門霞ヶ関カントリークラブの選手から競技委員長迄、務められている。別当さんとよく行った、高輪の練習場は確かキャリーで180ヤード位あり、その上に5段位ネットが立っていた。木の箱に2ダースのボールが入っていたが、別当さんが打つと15個位はネットの3段目にあたる。黒松君も良く練習に来ていたが、彼は10個位だったかなァ、僕は3、4個位であった。この時代、別当さんには本当に可愛がってもらった。雨で試合が流れた時など、一人でブラリと会社へ来る。「増田君いますか?」と受付で呼び出し、「おい、もう会社終わりだろう?付き合えよ」大先輩で、お客様、もう、会社の中では有名になっている。「ハイ、直ぐ片付けてきます」とニつ返事。上司には「別当さんが来ましたので、少し早いですが、お先に...」と出掛けてしまう。行く先は赤坂山王下の宝塚出身のママがやっていた「さくらんぼ」か、ステーキの「Hama」、食事をした後は、銀座の「お染め」か「久松」へ良く行った。早い時間で女の子が「お早よう御座います」と出てくる頃には、もう「おい増公、帰ろう」とお開きになってしまう。今、考えると、監督は孤独な商売で、チームの中に派閥を作る事を好まなかった様であり、さりとて一人では、詰まらないので僕を連れて行ってくれたのだろう。同期の衆樹君が大毎に入団していたが、一度も一緒になった事は無かった。(但し、衆樹君の事故の時は「新聞沙汰になる前に事故車を片付けてくれ」と明け方の4時頃電話を貰った)野球のスイングをさせられたり、ゴルフも随分ご一緒させて頂いたが、余りコーチをされた記憶は無い。そう言うレベルではなかったのかなァ...

*  僕のクラブ

この頃、自分のクラブは持っていなかったが、別当さんがマクレガー・ターニーのドライバーとトミー・アーマーのブラッシーとジュリアス・ボロスのL字型パターを呉れた。いずれもお古である。その他に、ベンホーガンの名著「モダーン・ゴルフ」 ハーバート・ウォレン・ウィンド編「Golfベスト・テクニック」 攝津茂和の「ゴルフの習い方」の3冊の本を貸してくれた。前者には別当さんが野球と比較したゴルフスイングの研究の跡が書き込まれている。結局この本は、今も僕の処にあり、貴重な形見になってしまった。その後アイアンセットを買いたくなり、二子玉川の練習場のプロをしていた、森田吉平さんに相談した。‘58年の夏のボーナス7万円を待って買う事にした。森田さんが御徒町のアメ横まで一緒に行って呉れた。そして、選んで呉れたのが、「スポルデイング・トップフライト」の通称赤トップ2~9番の新古品で、当時は輸入規制で新品は無かったのである。リストプライス7万円を2千円引いて貰った。森田さんに「一生物だよ」と言われたが、30年位経って「名器の系譜」と言うゴルフクラブの本に載っていた。確かに良いクラブだった。此れで貰い物のウッドと一応のセットが出来たのである。この「トップフライト」は数年前まで家に置いて在ったが未だ錆びも出ず買値は30~40万円と言われているが、売ると言えば2足3文にしかならず、人にあげてしまった。その後ベンホーガン、フアーストフライト、ミズノプロ、等を使ってこの15年位はPRGRを5セット買い換えた。今は、銀チタンW1,3,5アイアンDATA701と黒チタンW1,3,5 アイアンDATA601の打球感の柔らかい軟鉄製の2セットを使っている。

  • ‘60年頃まで

当時、慶大野球部卒で野球部の無い会社へ就職した仲間は少なかった。S、30年卒の遠藤さん位で、33年に成ると薄君が仲間に入ってきた。この頃、毎週日曜日は東洋バルブを中心に、硬式軟式を問わず、何処かのチームで、3人組みで草野球のトラ(extra手伝い)をやっていた。或る時は1番から9番までオール慶応出でチームを組み中央区の準決勝まで進み最後の試合は一人人数が足らず不戦敗と成ってしまったこともあった。とにかく、東洋バルブの北沢(常務?)さんはキャバレーが好きで野球の後は東京温泉で風呂に入り、神田の「ウルワシ」が開く迄マージャンをやって時間をつぶしキャバレーへ繰り込んだ。野球のない日はゴルフで主に河川敷のコース多摩川とか浮間、都民等に行っていた。初めてコースに出たのは浮間で確か東洋バルブの北沢常務さんと遠藤さんと一緒だったが、ハーフ56で廻った。その後、道具を揃えてから、別当さんが色々な所へ連れて行ってくれた。川奈3回、大箱根3回、日高、狭山、横浜等である。とにかく当時のスター監督のお供だから何処へ行ってもチヤホヤされて大変だった。(多分、プロの卵か、お弟子さんに見えただろう)印象に残るのは、川奈である。当時、川奈にいた杉本英世プロが別当さんが行くと、駆け寄って来て、「アメリカから帰って来ました。ビデオを後で見て下さいよ」と言っていた。そして、二人のお供をして2度ラウンドした事がある。二人とも飛ぶよネ...川奈の一番の打ち下ろしでは右側の林の出っ張っている辺まで飛ぶ。僕は力んでしまい右の林の中へO,B...とにかくメンバーと言い、場所と言い、若僧には中々出来る経験ではなかった。当時大映の永田社長は毎年年末に関係者を集めて川奈ホテルでペアーマッチをやっていたのである。別当さんはこれに備えて前日、練習する為に僕を連れて行った訳である。ママではゴルフの相手にはならないので杉本プロと3人でプレーしたのである。杉本プロと別当さんの関係は、その頃、大毎オリオンズが伊豆大島でキャンプをやっていて、杉本プロがキャンプにアルバイト学生で来ていたのが切っ掛けだった。体は大きいし,素質の有りそうな、若い杉本プロを別当さんが可愛がったようである。別当さんは杉本プロに「ノックバットのグリップを細く削りそれで素振りをしろ」と教えたと言っていた。川奈出身のプロには別当ファンが多かった。僕がクラブを買う時に、一緒に行ってくれた森田吉平プロも川奈出である。横浜C/Cにも何回か連れて行ってもらったが、或る横浜へ行った時の夜、友人の金箱君と渋谷の「キャバレー・チャイナタウン」に行ったらその日のプレーに付いたキャディーが席に付いたのには驚いた。当時、会社でも部課長を中心にゴルフが流行りだし「暁会」と言う会が出来、朝、砧のゴルフ場でハーフ廻ってから会社に行く...と言うようなことも出来た時代である。大原課長と言う慶応の先輩がいたが、始めて一緒にラウンドした時に「君は良いゴルファーになるよ」と褒められたことがある。「巧くなる」とは言われなかった。この頃は朝5時頃、砧の一番ティーに行き、竹筒のボール入れがあり、そこに自分のボールを入れて、順番にスタートした。昔流のやり方だが、やがて叉、あヽ言うやり方で、セルフでスタート順を決めるコースが出て来るかもしれない。ゴルフは、豪打、別当さんが打っても400ヤードは飛ばない。体が小さくても300ヤード飛ばす人も居る。ピッチャーの球も幾らデカイ人でも160キロは中々出ない。公平な比較は「体重1キロ当り」、「身長1センチ当り」とか「原単位」で比較しないと「大きい人と小さい人と本当に誰が飛ばすのか?」よく解らない。ボール競技の面白さと不思議さをつくづく感じさせられた。

  • ‘65年頃まで

‘60年、東京日産で将来は硬式にすると云う事で、野球部を作り6大学の二軍を中心に選手を集めて、準硬式でスタートした。始めは色々な大会に出るので、毎日曜日、野球の試合になる。多い時は1日4試合2チームに分かれて色々な大会に出た事もある。こんな事でゴルフは止めに成ってしまった。この間ゴルフは年に2、3回だったろう。‘63年から労働組合の専従に成り、「組合幹部がゴルフなんてしてはいけない」と思い、辞めることにした。ちょうど、‘64年に結婚をする事にしていたが父が亡くなり、結婚式の前に親戚一同と顔を合わせているので、結婚式はやらない積もりでいた。周りの人達が、「式だけは挙げろ」と言うので急遽式を挙げ、新婚旅行に行くことにした。当時労働組合は昇給、夏、冬一時金と年3回の経済闘争をやっていたが、「もう親父も死んだし、ゴルフなんか出来ないし...」という事で、「一度川奈で別当さんみたいにやりたいね」と川奈と天城日活に行くことにした。川奈には黒瀬君(山陽ヤナセ)と金箱君に付き合ってもらった。次の日天城日活の一番ティーに立つと、場内放送で呼び出された。急いで電話に出ると,「明日冬の一時金交渉をするので、帰って来い」と言うこと、止むを得ずゴルフを中断して帰京した。此れからは3、4年ゴルフとお別れをした。この時期に色々な仲間は猛烈にゴルフが上達した様である。当時会社の中では,ゴルフが大流行していたが、私の上司の松岡さんは此れが大嫌い「皆ゴルフの話しばかりしている」と言って怒っては酒ばかり飲んでいた。次長の小林さんは「親父、体を壊すからゴルフをやらせようよ」と言う、僕は「絶対にやりませんよ、若し、やったら銀座中、逆立ちをして歩きますよ」と賭けをした事がある。ある棚卸の日、日曜出勤になり昼休みに小林さんが松岡さんと食事に行き、帰りに、隣の練習場(当時溜池の角に小さな練習場があった)に松岡さんを連れこんだ。松岡さんも日曜日で気が緩んでいたのだろう。短いインドアーの練習場で松岡さんは力があるからキャンバスにバシバシ当ったらしく、それ以来、ゴルフの虜になってしまった。会社関係で会があっても、僕は留守番ばかり、仕事が忙しくゴルフとは縁遠くなり ‘60年頃のゴルフ仲間とも会えなくなってしまった。小林さんにこの賭けの負けは借りた侭である。

  • ‘83年頃

八王子の所長時代には八王子教習所の佐藤社長に良くゴルフのお供をさせられた。初めて久迩C/Cでご一緒した時、前任の中島さんから色々と佐藤社長のゴルフのやり方を聞いていたが、「とにかくスポーツだから一生懸命やろう」と思ってプレーした。確かハーフ43くらいで廻ったら、昼休みに「おい、もう車は買わないぞ...話しが違う」と言われた。「困ったナー」と思ったが、「初めてですし一生懸命やりました。今日は出来すぎです」と答えた。「一生懸命やって、買って呉れないのなら仕方ないや。所長を代えて貰おう」周りから聞いていた様々な情報と違ったのだろう。その後も同じ様に一生懸命プレーをしたが、此れ以来本当にご贔屓にあずかり、翌年、250台の一括代替えをして頂いた。恐らく一度の商談では過去最大だったろう。良くご夫婦のゴルフのお付き合いをさせられたが、別当さんの訓練を受けているので全然違和感は無かった。その後、リース部に移りリース協会の事務局もやっていたのでゴルフの機会も増えてきた。伊豆大仁C/Cで協会のコンペがあり、出場者の写真を6組取っていた。自分の番になり、ティーグランドにのぼり、素振りをして、打ったら見事空振り、2度目は大ダフリ、3度目はクラブの先に当り、右へO,B周りは「シーン」として来る。頭の中は真っ白、ヤット4打目が前に飛んだ。生まれて初めてのティーグランドでの空振りである。後で考えて見たが、49才忍び寄る老眼のため、写真を写していて直ぐに打ったので目の焦点が狂っていた様である。この時以来、ティーは絶対に高くしない様にしている。60は打たないことと、空振りをしない事が、密かなプライドだったが、この時の恥ずかしさは鮮明に記憶している。中古車部時代は、やはり専業者の皆さんはとても巧かった。中でも印象に残るゴルファーは戸田商会の戸田社長である。片足が戦傷の為、義足をつけているのが、お風呂で解った。栃木のアップダウンのきついコースでワンハーフ回られ、確か90位で上がられている。良く飛ぶしマナーも良く精神力の強さ共に印象に残るゴルファーであつた。

                                                                        甲斐芙蓉C/C   NO,1 

  • ‘90年以降

‘91年日産特販に移ってから、仕事の関係でゴルフの機会が増えてきた。先ず、法人会員で鶴ヶ島C/Cのメンバーになった。当時、クラブは日産秘書室時代から本当にお世話になっている安藤先輩が支配人で鎌田先輩(日産専務、日デ販社長)がハンディキャップ委員長だった。僕もお客様を連れて行く事もあるし、つい、甘えて「お客様も見るので、20以下のハンディにして下さいよ」「君そんな事は出来ないよ。ハンディは厳正にやっているんだよ。先ず、カードを早く5枚出しなさい。そこでハンディを決めるから、後はクラブ競技でコースレート・アンダーを出すのが一番早いよ。それでないと一年一回のハンディキャップ委員会まで修正は出来ないよ」「そんな固い事言わないで、お願いしますよ」

「ダメダメ実力で上げなさい」と冷たく言われた。カード5枚の初めてのハンディが24、此れから少しがんばろうと18を目標にして、何回コースレート・アンダーを出せば18のハンディに成るか?自分成りに目標を立てたのである。安藤さんからは「クラブ競技を隆盛にしたいから、競技には協力して必ず出てくれよ」と言われた。こんな事で鶴ヶ島通いが始まった。ちょうど、昔からの知り合いのデイーゼル系の清水、萩原、両社長、東日系日東建設の片岡さん、日産出入りの橋本フォーミング三神さん、天賞堂菅原さん、学友でもあるD,M,Sの山本さん等の古い顔なじみが多く、鎌田さんと良くご一緒にプレーをさせて頂いた。その後ハンディーも16までになったが、それ以上は上がらなかった。月例優勝、理事長杯クォリハイ、等度重なる入賞をさせて頂いた。‘95年からハンディキャツプ委員、’98~‘99年はハンディキャップ委員長を仰せつかったが、前鎌田委員長の教えの通り、クラブ競技の公平な運営を考え、競技の中でクレームのないようにクラブ員のハンディキャップについてはいつも氣を付けていた。この期間は、ゴルフについてルールの勉強を仕直したり、とても充実していた期間だったと思う。ゴルフは年を取るごとに未知の事が起こってくる。本当に予想しない、全く自信を失わせる事が起こる。‘98年12月月例のスタートOUT一番で右へ4個、左へ1個、セカンドで右へ1個の6個のO,Bを出し、一ホールで21打った事がある。ティーグランドでは3個連続O,Bをしたら、「周りのシーンとした静けさ」は氷の中に閉ざされた様であった。もう、何にも解らなくなり、体は動かなくなる。60を叩く事がない事を、密かなプライドにしていた物がもうめちゃめちゃになってしまう。これから凄いスランプが8ヶ月位続いた。ひどい状態であつた。いつもフォームのチェックは野球仲間に、一言,二言アドバイスして貰い自分で考えるのだが、この時期ばかりは初野プロに見て貰ったり、少し練習せざるを得なかった。原因は、筋肉の老化、飛距離低下の自覚、力み、手打ち、テークバックが浅くなる、等悪い事が全部出てしまったのだろう。あれだけ練習をした野球も巧くならないのだから、ましてや年数だけ長くやっていても、殆ど練習をしないゴルフでは崩れ出したら如何しようもなくガタガタになってしまった。ヤット平常に戻ったと思ったら、全く思いもかけない今回の「ホール・イン・ワン」である。この日産特販の時代はゴルフ好きの強いお客様に囲まれて、海外の有名コースも色々経験することが出来た。回数が多く少し雑になっていたかも知れない。振り返って見ると、初めてクラブを手にした時から、素晴らしく恵まれたビギナー時の2~3年間、(良くプロにならなかったネ)殆どブランクの10年間、マァマァ楽しむ程度の15年間、充実の10年間、等50年近くを経て、「ホール・イン・ワン」と言う大きなラッキーに巡り会った。今までの色々な方々との幸せな出合いに、ゴルフの面白さを噛み締めながら、感謝している。此れからも「僕でも一発で入れる事が出来るんだ」と自信をもつて体の動く限り、“ホール・イン・ワン アゲイン“ 自分なりのBestPlayを心掛けようと思っている。

P,S

別当さんからゴルフの本を3冊 頂いた。当時は貴重な本だった。

・モダーン・ゴルフ  ベン・フォーガン   (別当さんが自分のゴルフの為に1番読んだ本書き込み野球と比較した...山下大輔君に贈呈。)

・golf ベストテクニック   ハーバート・ウオーレン ゴルフ・レッスン52題

・ゴルフ   摂津 茂和

 

 


”Hole in Oneの想いで...“       ‘21-3-9   

2021-03-07 21:34:03 | Massy's Opinion

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*2001年6月14日 鶴ヶ島カントリークラブ。天候は雨、メンバーはその頃よくやって居たほゞ同年代のメンバーS,Y君、R,H君、A,K君、と僕の4人。HDCPも14x2 16、22の4人、アウトコース、No,2 ホール。140ヤードテイーはバックテイー。何時もは8番アイアンを使っていたが、当日は雨だったし雨具も着ているので、7番アイアンにした。まあ、いいスイングが出来たと思う。ボールは真っすぐに飛び、グリーンのエッジに落ちて、カップへ向かって真っすぐに転がり、ピンに真っすぐに当たりカップインした。

*ホール・イン・ワンをして嬉しいやら、「今ごろやって遅いじゃないか...」と言われそうだとか、色々考えていた。或る先輩(当然、毎年海外ゴルフ・ツアーをやっているようなゴルフ好き)にソット話しをしたら、「おお!ついに追い抜かれたなあ...それはおめでとう」と言われた。「やはりホール・イン・ワンはとてもラッキーなのだ...」と思い、改めて僕のゴルフとの出合いを思い出して見た。

                                               

                                                  ⁂  祝い テレカ 自家繫殖 JKC Training CH .GYU                              

                                            

P,S (1) 「ホール・イン・ワン」達成てんやわんや記

印象に残る反響  「最高7回が一人(目下、生涯10回を目指している上記文中の塩地さん)3回が一人(いずれも霞ヶ関C/Cのクラチャン等)2回が4人、その内一人はアルバトロスを含む、一回が3人、知っている人が4回という話あり」 殆どが同年輩だが、経験者は10%位の感じである。

 T,T君  ゴルフ歴 35年 シングル(東京トヨペット、学友 準硬投手

「増公 おめでとう 処でボールがホールに入るの見えた?」

「見えたよ」 

「それは 凄いゃ 良い当りだったんだね...」

一瞬考えたが、「それ位 ホール・イン・ワンはフロックが多い」と言う事、奥の崖に当って戻ってきて入るとか...木の枝に当って、オンして入るとか...さすがホール・イン・ワン1度、アルバトロス1度の経験者、かなり厳しい質問。

* Y,U君  今ゴルフ止めている ゴルフ歴 40年 シングル(野球仲間)

「増兄イ ついにやったね 良いことばかり有る様だけど、精進落としをしないと駄目だよ

調子に乗っていると俺みたいに悪い事が起こるよ」

「忠告有り難う 夜遊びは御免だよ...」

 K,O君  ゴルフ歴 30年位 (神奈川のディーラー)

「おめでとう。僕もやりたくてテレカ作って発送準備出来ているのにチットモ入らない」

「急いで、ドンドンやらないともうゴルフ出来なくなるよ」

* K,H君  ゴルフ歴 30年 シングル(一年下の優勝投手、 長島に8号ホームランを打たれた)

「僕は2度やりました 後になって実感が沸いてきますよ。良い冥土の土産が出来ましたね

涼しくなったら、一杯やりましょう」 

自分だって年は違わないのに...変なところで、先輩を立てるなよ。

* M、Hさん  ゴルフ歴 ?(銀座のママ)

「増サン、見直したわ いつもお店でしか話ししていないのに、この前ゴルフした時、フォームが綺麗なので驚いたわ。腕の三角がキチントしているわ」

嬉しいけれど、モット若い内に言ってくれないと...  「ゴルフは道具と格好だよ キャディーさんに舐められないようにねェ」

 H、N君  ゴルフ歴 40年 長打こそ命 300ヤードヒッター(慶大野球仲間 185cm、90k の巨漢)

「馬鹿野郎!あんな物、腕ではないよ 運が良ければ誰だって出来るよ。悔しかったら俺より飛ばして見ろよ」 

「体重1キロ当りでは俺の方が飛ぶよ、悔しかったらホール・イン・ワンやってみろよ」 

「何言ってるんだィ ゴルフは上がってナンボだ 今度ゴルフやつて、俺の前でやってみろ」と喧嘩。 この人はきっと猛練習を始めるでしょう。

中には、「先輩の記憶力と文書力には驚きました 人には何か取り柄がある物ですね」

いずれにしても、思わぬラッキーが色々な交流をもたらして呉れましたので、そのご意見の中から代表的な物を記しました。皆さん「僕の前で、ホール・イン・ワンやってみて!...」

*恒例にしたがい、キャディーさんにお祝いのチップ、記念のテレカ(当時は此れが流行っていた)、パーティーは、六本木の大矢ママがやって居た「コージイ・L」約50人位かな、勿論、トリオの伴奏で大矢ママの歌付き...の精進落としをした。楽しかったな。

 

P, S(2)主な海外遠征先

アメリカ ハワイ    オアフ、カウアイ、モロカイ、ハワイ、マウイ

     メインランド ロスアンジェルス、ペプルビーチ、カーメル、フロリダ、       

            ドラール他

ヨーロッパ       イタリー ミラノ、ビラ・デステ、

            フランス モンテカルロ、カンヌ、パリ

シンガポール      セントーザ

台北          淡水他 

 

P,S(3)

今朝、散歩の途中、昔、二神さんの父上にバッティングフォオームを見てもらった時に、バックスイングの仕方を教わった事をフト思い出し、気が付いた。本当に遅いね...ゴルフと野球の違いは今まで「止まっているボールを打つ」のと、「動いているボールを打つ」事が違うと言って来たが、「いや ボールを打つ事は一緒だろう」と反論される。「野球をやって居たのならゴルフは巧いはずだ」 「確かに巧い奴は居るよだけど彼らは練習をしているよ」 「ボールを打って、遠くへ飛ばす事は同じだろう」とか、野球をやって居たが為に色々云われる。しかし、僕の頭の中に「俺は練習しないんだ。練習すれば巧くなるよ」と云う考えが強かった。ゴルフと野球のスイングの違いを説明するには次ぎの様に云えば良い。一番の違いは「ゴルフのスイングはアドレスから始まる」が「野球のスイングはゴルフのトップから始まる」だから根本的にスイングが異なるのだ。こんな事に今気が付くなんて....

 


“Diary 170 “ ‘21-3-2

2021-03-01 21:47:26 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・立春

依然として、コロナに振り回された2月だったが、春はコロナに関係なく巡って来る。例年だと「東京日産神宮ネット裏懇親会」の案内状造りをK君と始める時期だけれど、‘19年で幹事を若手に交代したので、その心配は無くなった。約20年位続いたかな?案内状は何時も僕が書いていたが、起句には「沈丁花」の言葉を使っていた。仲間からは、「マス、沈丁花如何したの?やるんだろう?」と問い合わせも良く貰ったものだ。結局、昨年もコロナで中止、今年も駄目だ。若手の幹事も気が抜けてしまうだろう。立春の声を聴くと、我が家の一本の沈丁花も一房の花芽を付けている。まあ、昨年よりコロナ情勢は好転して来ている様だし、三田倶楽部から招待証の案内も来たので、六大学野球も最低昨年の形では行われるだろう。

・田中マーちゃん 楽天入り

野球界のニュースも何かもう一つ盛り上がりに欠けるが、田中マーちゃんの楽天入りは良いニュースだと思う。まあ、MLBから帰ってきた選手は、何人もいるが、野茂以来、現役パリパリの状態で帰って来たのは本当に良かった。まあ、年を経れば、変化球投手になって行くのはやむを得ないが、それを補う分、コントロールが良く成って居る筈だ。然し、日ハムとのオープン戦で中田がホームランを打ったのには、複雑な感じだ。マーちゃん人間的にも素直だし、立派に成長していると思う、石井監督も意外にシッカリして居るので、見直した。

・予算委員会

まあ、政界は本当にどうしようもない。我々はテレビで見るのが唯一のニュースソースだが、菅総理の顔を見ていると、コロナと同じ位恐ろしくなる。周りに良いスタッフが居ないのだろう。総理に成る前の一連の自己紹介本とか行動を見ていると、「総理の器ではないな」と感じる。此の処、河合夫妻を始め西川さんと大臣級が違反だの夜の活躍だの酷い話が多すぎて全く嫌になる。菅さん、あれだけの人物なのか?とすれば安倍内閣の時の森、加計、問題、桜問題、何にもしないで、周りの忖度の儘に流していたのか?野心が有るのか?先ず外交は巧く行かないだろうな。

・池のポンプ 故障他 各社のクレーム対応

池のポンプのフイルター掃除をしようと思ったら、ポンプのヘッド部分を池に落としてしまった。一度は動いたけれども止まってしまった。もう5年位使って居るので、早速、代替えの発注をした。5年前より、価格が上がって居て、ほぼ、5万円痛い緊急支出だ。コロナ以来色んな物の耐用年数が来て、代替えをせざる得なくなった。チョットまとめて見よう。

愛車フィガロのステレオ もう、30年乗っている。少し前からCDの音が飛ぶように成って居たが、クラリオン製なので、一人くらい直せる人は居るのでは?とクラリオンの社長に手紙を書いた。残念ながら直せないと...ディ―ラー東日に聞いても直せないと...結局、日産特販の定年になってる男に修理するところを探して貰った。青森に居るとか、その会社へメールを打つ。そうしたら自分はこの手の物はやった事がないが、可なり難しいと...大阪に直せる男がいると丁寧に教えて呉れた。早速その村岡と言う会社にメール。しっかりしたメールの文章で人柄が解る、15万はするだろうな。と考えたが、ステレオだけ取り外しヤマト便で豊岡まで送った。大体、こういう所謂、職人肌の人間は昔は沢山居たが今でも探せば居る筈だ。この15万は高いけれどフィガロをいずれ手放す時にステレオの状態で、その評価は出て来る筈だ。

芝刈り機 以前の物は 手動、刃渡り18センチ 此れも20年位使って居る植木屋さんにも「電動の方が良いですよ」と言われてアイリス大山か、リョウビか迷ったがネームバリュウで刃渡り20cmのリョウビにした。22,000円、そのほかにナイロン刃の縁刈り用13000円、高所用の枝刈り18000円、雨戸の修理 65000円。

ステレオ  150000円  売却時には、評価される。

池のポンプ 50000円  消耗品

雨戸    65000円  消耗品

芝刈り   22000円  消耗品

縁刈り   13000円  消耗品

枝刈り   18000円  消耗品

合計    318000円  昨年、一昨年とコロナが始まってStayHome で致し方無し、外へ出ないのだから、遊びにも飲みにも行かないのだから

・園芸 バラの挿し木

僕は匂いの良い木が大好き、我が家の庭は雑木ばかり、それでも浜田山に住んで70年その時からの柿の木がある。樫の宮公園の紅葉の可愛い双葉の芽を取って来て植えた木もある。 つつじもあるが挿し木をしてワイフのお友達に上げたのもある。今年は古い薔薇の挿し木にトライした。時期も良くなかったし、15本位挿し木をして一本だけ着いた。冬の間も順調に伸びているので、楽しみだ。沈丁花は昔の家の時は、素晴らしかったがこの10年位何回も買ったが、育たない。今年も買おうかな..