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<strong><ゴルフ・クラブ探し>         ‘06-3-28</strong>

2006-03-28 19:58:22 | Massy's Opinion
最近ご多分にもれず、ゴルフの飛距離が落ちてきた。特に65歳過ぎると急速に落ちるようだ。

僕もゴルフを始めて50年、一番初めに買ったクラブはスポルデイグのトップ・フライト通称アカトップ(ゴルフの名器の系譜に出ている)。ウッドはマクレガーターニィーの1番3番を別当さん(プロ野球)にもらって始めた。当時、クラブは輸入品が殆どで、関税が高く駐留軍の兵士が持ってくる一度使ったもの(新古車と同じ)がアメ横で売られていた。初任給12800円の時代にアイアンだけで70000円もした。その後、色んなクラブを使っていたが、この30年はプロギアばかりで、黒チタン、銀チタンを愛用して来た。何かデカヘッドに抵抗があり、流行に流されまいとしていた。
しかし、仲間が皆「デカヘッド、いいですよ」と言うので、「つるや」に飛び込んでバーゲン品を見ていると1本ナイキのドライバーが19800円でボール1ダース付きで売っていた。「安いのとスペック」があったので、「衝動買い」をしてしまった。2年、前のことである。使ってみたら確かに打ちやすい。以前は、240ヤード位は飛んでいたが、最近は200ヤード、このデカヘッドは210ヤード位(ランを入れて)飛んでミスが少ない。

今年は規制が変るとかクラブ業界は凄い宣伝である。ついつられてゴルフ・ショップを覗いてみた。

メーカーのアンテナショップ。 当然、自社製品しか見られない。試打出来る所と出来ない所がある。値段は当然負けない。

つるや、有賀園等、旧モデルのバーゲン品が多い。よく選ぶと偶にお買い得がある。僕のナイキは正にそれだと思っている。

ゴルフパートナー等中古専門店は、自分の欲しいスペックを探すのに時間が掛かる。まあ、それも楽しみだけれど。

ゴルフコースで試打用の貸し出しをしている事がある。一銘柄だし、どうも遠慮がちで十分に打てない。

デパートは小物を買うには良いが、クラブはどうも...充分に比較が出来ない。

そんな事で、環八沿いにあるビクトリアゴルフの世田谷店に行った。大きな郊外ショップ風の店である。此処では、新品ばかり、広い店内に豊富な在庫で目移りがする。
兎に角、プロギア、ナイキ、マックテックの打ち比べをしたかった。店員に話すと直ぐ試打場へ連れていってくれた。そこには2百本位の色んなクラブが置いてある。飛距離や弾道が測定できるカメラがある。早速、マックテックNV2で打ってみたが、170ヤード位しか飛ばない。「ダメだね。打ち方が悪いの?」「キャリーですから...ボールが高く上がるか?ですよ」とカメラに移る放物線を見せられる。期待した230ヤードなんて程遠いい。「お客さん、僕は何時もご自分の使用中のクラブを持ってきてください。と言っているのですよ。それでないとお客様が納得されないでしょう。クラブは高い買い物ですから...」「えっそんな事させてくれるの?」「構いませんよ」僕は考えた。「凄いセールストークだな」「お客の今、使っているクラブと、どの位飛びが違うのかな?」と言う迷いを十分に解決してくれる説明だった。今迄、随分お店を回ったがそんな事言ってくれた人は居なかった。

3日後、自分の銀チタンのドライバーとクリーク、ナイキのドライバーを持って打たせて貰いに行った。

*結果 (測定器上)
・銀チタン160ヤード ボールが上がらない 元々僕の打球は低め
・ナイキ175ヤード 現在使用中
・プロギア(新型新品)185ヤード 価格高め
・マックテック(新型新品)185ヤード ボールが上がりやすい 価格安め
・テイラーメード(新型新品)180ヤード

結論的に新型は大体10ヤード位は飛ぶようだ。後はボールが揚がりやすいか?だ。
今の迷いは「どうせ落ちている飛距離だ。高いクラブ買ってもな。高すぎるもの...」
「それよりもゴルフのやり方をかえるかな?」でも、今度買うときには「ビクトリアへ行って気の済むまで打って、悩んで...」と考えている。



<strong><“ Personal Trainer” のこぼれ話>          ‘06-3-21</strong>

2006-03-21 09:47:21 | Megu's Sports
Megu’s Report
聞こえは良いかもしれないが、一言でいって、パーソナルトレーナーは肉体労働。週32~36時間のセッション、One After Another。4時間から6時間、立ちっぱなし,喋りっぱなし、朝6時からスマイル。修士号と3つのmajorの資格を取得し、自信と誇りを持って働いているが、どうも、もどかしく 思えてきた今日この頃。

*仕事のスケジュール:
月曜日・金曜日:6am-12:30pm
火曜日・木曜日:6am-11:30am, 3:30pm-7:30pm
水曜日:6am-3pm
土曜日: 7am-10am
殆どの日、朝5時起き。大学時代から、朝練で早く起きるのは慣れているが、この仕事について、4年半。いくら慣れていても、一向に楽にはならない。
そして、 仕事の合間や後に 自分のトレーニング。一年半前までは、もっと”flexible” で、結構時間帯には満足していたが、もちろん収入は少なかった。

*給料:カリフォルニアのパーソナルトレーナーの平均年収は、約55000㌦(600万円)らしい。アメリカ奥地にいくと、平均年収30000㌦位のとこもある。私のレベル(経験/教育過程/セッション数)で、会社の社員として働いていると、大体、カリフォルニア平均あたり。個人契約でパーソナトレーナーとして働いていて、週30時間平均のセッションがあるとすると、年収8万4千㌦位になるという。勿論、個人契約だと、有給、健康保険、liability保険、資格維持のための教育費など、自分持ちになる。また、セッション数によって収入も社員でいるよりは不安定かもしれない。どっちもどっちで、プラスとマイナスがあるが、個人契約の傾向が強まっているようである。

*クライアント:個人的に、私は、良いクライアントに恵まれている。数人は、仕事を始めた時からのクライアントで、そのほか2年以上来てくれている人も多くいる。
週2回セッションに来る人が殆ど。長い間、週2回も会ってっていると、かなり親しくなり、私のトレーニングスケジュールから友人関係まで把握している人もいるのだ。また、クライアントから、経済、世界情勢、人生観、芸能情報などいろいろと学ぶことも多い。一方、いくら良いクライアントに恵まれていても、一対一で30時間以上も人に接していると、精神的にかなり “demanding”。なかには、旦那や仕事の文句をいう人もいれば、エクササイズのインストラクションを聞いていなかったり、体を指示通りに動かせなかったり、“この人カウンセリングに行った方がいいんじゃない”って人もいるし。大体、30時間のセッション数が心身共々良いところである。それを超えると、肉体的にも精神的にも疲れてきて、セッションの質が落ちる。クライアントは気づかないかもしれないが、時としてunacceptableだ。そのうちクライアントの維持にも影響するだろうし、自分自身“Burnout”してしまう。かといって、今の仕事だと、30セッションだと収入は、“ok” で、 “good enough”ではない。ジレンマ...

*文句言い過ぎ? 今、会社に感謝しつつ,仕事があるだけ幸せだと思い、仕事を維持できる事を願い、もうしばらく笑顔で仕事に通おうと...

たまたま、このブログを見つけた“パーソナルトレーナーの皆さん!仕事どうですか? 満足してますか?”





<strong><我が師の恩...>           ‘06-3-14</strong>

2006-03-14 13:41:20 | Massy's Opinion
昨日30~40年前の仲間達20人ばかりと会食をした。まあ、僕が兄貴分となる連中である。僕が昔、話したことや、やったことに文句を言われたり、賑やかな会だった。
帰宅しながら考えたが、兄貴分とか、上司とか、少しでも上に立つ者の言葉は本当に大事だなと反省したり、自分も色んな先輩に教わった事が多い事を思い出した。この春の時期は随所でこう言う出会いが多いと思う。そこで、僕が先生や先輩から言われた事で代表的な事を書いてみよう。

*「有言実行」 僕の出た成蹊中学は「不言実行」が校是である。畠山先生と言う体育の先生が居たが、よく「僕は不言実行より有言実行だ」と言われていた。この言葉を聞いた当時はよく意味が解らなかった。社会に出てからもよく憶えていていつも意味を考えていたが、僕なりの解釈をする事にした。
「不言実行」 自分で目標を持ってシッカリとやり遂げる事。此れは「意志の強い人」に成る事だと思う。
「有言実行」 人前で自分のやりたい事を発表して,「ああ、言っちゃったので、何とかやり遂げよう」と自分に鞭打つ事。とかく大きな目標を立てると「法螺吹き」と言われる。
・この二つの言葉は言うなれば,「コミットメント」と「目標を立てる」事だと思っている。

「不明」
 入社2年目頃のある時、お客様の所に納期遅れで謝りに行った。である。学校の先輩だったが、「済みません。不徳の致すところで、部下にミスがありお約束の日に納められません」「馬鹿!なんて言う事を言うのだ。君なんか不徳と言える年か!徳なんか年を取ってもできる物ではないぞ。不明と言え!」「ハイ」その時「その通りだ60歳に成るまで、絶対に不徳とは言うまい」と決めた。以来、今日に至るまで,「不徳」と言う言葉は一度も使っていない。文章にうるさい人だったが、可愛がって頂いた。

*「歴史的現実」 僕の入社した会社は「自動車の販売会社」ディーラーとして上場している珍しい会社。メーカーとの契約は一年毎である。契約が合意しない時には売るものが無くなってしまう。そんな会社の株が40年前で確か1,000円台だった。あるメーカーの人が「如何して一年毎の契約の会社がこんな高い株価を付けているの?長い歴史があってこのメーカーの物を売らなくなる事はない。と言う歴史的現実で株価を維持しているのだ」と話をされた。結構、僕の好きな言葉だ。今年、商法が変ったり、ライブドアー問題で証券市場が色々変って来る。投資の際にはよく会社の実態を調べる事が必要だ。

*「若さこそ命なり」 ある先輩から、暑中見舞いを頂いた。生憎、雨で葉書が濡れてインクが滲んで添え書きが読めなかった。後日、恐る恐る「Fさん、なんて書いて頂いたのですか?」と尋ねた。
「若さこそ命なり」だよ。「僕が若いからですか?」「いや、体の若さではないよ。いつも前向きにやる、心の若さだよ」と言われた。この先輩は定年後、油絵を描いているが80歳超えて、年々見事なプロ級の絵を描かれている。

*「組織を動かすことを勉強しなさい」 僕の一番長い付き合いの上司に入社3年目位の頃、言われた。何処の職場でも実力者がいる。そう言う人に的を絞り交渉ごとを進める事かと始めは思っていた。しかし、年を経て、組合、監督、部門長、社長を経験したが、満足な回答は未だに得られない。しかし、予算(=計画)と人事がポイントだと感じている。




<strong><仰げば尊し...>       ‘06</strong>-3-7

2006-03-07 20:42:01 | Massy's Opinion
五寒 二温の異常気象の此の頃、それでも桜の蕾は膨らんでいる。3月は卒業式、4月は入学式、入社式と華やぐ季節になる。今迄の自分を振り返ると色々な先生方に教わった事を想い出した。僕自身の中には、第二次大戦後の混乱期に迎えた小学生時代に出会った先生の言葉が未だに記憶に新しい。

<先生の言葉>                    1946年10月30日  (WR’05-8-13)
先生 佐藤 良夫 1946年 当時 杉並区立高井戸小学校 5年~6年担当
推測: 新潟師範出身 以降 青山学院大学文学部に学び、慶応大学文学部で児童心理学を学び再び教壇にたつ 文学青年 中学時に家庭教師をして貰った

先生が、黒板に書いて教えてくれた物を一冊の小文集にしていた 多感な時代に話されたことでその考え方は、現在に至るまで「座右の銘」となっている。
この一冊のノートは「我が最良の年」 愉快に過ごして来た小学校時代の教訓を書き綴ったものである。

学問だ。学問だ。何よりも学問だ。すぐれた学問のないところに、すぐれた個人は、生まれない。すぐれた学問を持つ人は、必ずすぐれた人間である筈だ。すぐれた学問とすぐれた人間とは、同じものであるとことを、先生は信ずる。
みんなよ、若き少年よ、すぐれた学問をもって生き抜いてくれ。学問を忘れるな。
死んでも死んでも決して学問を忘れるな。学問は魂だ。学問は魂だ。若き少年達よ生涯学問への執着をもて。
 「真実の学問だ」「真実の学問を忘れるな」      1946年10月21日

みんながみんなの力でみんなの仕事をしているのを
先生は今見た。
先生はみんなの力を信じている。
そうしていつもその日のくるのだけを待っていた。
若き少年よ 若き少年達よ 自分の力を信じてくれ 自分の力を信じてくれ。
そしてこの自分を この自分を自らの手で丁度芸術家がすぐれた彫刻を生み出すよう   
に自分自身をそのまま、すぐれた芸術作品として生み出してくれ。 先生はその日だけをまっているのだ。
「真実」「真実」 “花のような社会を作れ”   1946年10月日時不明
  
人間は真実の上に築いた学問でなければ決して力とはならないと先生はいつも思う。
    「誠実」「誠実」                1946年11月日時不明

白露の ごとくあれ!                  1947年(昭和22年春)

真実は 必ず人の胸をうつものである 常に感謝の気持ちをなくさぬよう。

人生行旅の如しと個人も言へり。正に教師の如きも行旅の如く人渡場の渡守の如し。
君ら教え子達を学校と言う舟に乗せ卒業と言う向う岸に渡し終ると共に旅人の渡守を忘るる如く、教師も又君らより忘れらるるとせば寂しさ譬もなし。
されど我が限りをつくせる魂が教え子達君らの心の一隅に宿され永久に生きて温かきうるおいと共に燃ゆる温かさを持つとせば師の喜び限りなきものあるべし。
いつかは別るるべき宿命持つ我と教え子達よ 清らけく美しく豊かにあの大空にます巨木のそれの如くに生き抜くべし。 
秋来たらば公孫樹の一時に落葉すれど春と共に限りなき命の伸張を若葉のみどりに見せるであろう。
我が愛する教え子達よ、君達も又、永久にかの大樹の大空に屹立する姿たるべし。
5年を送るにあたり、春の暖かき光を浴びつつ此処に一葉の写真を取りぬ。
幾年か後、君たち教え子が大人となり老人となり、又、白髪の老翁となりたる時、これを見てその昔高井戸なる小学校に就学云々せし生徒たりしを思い、その懐かしく愉快なるは譬えるものなきを信ず。
教え子達よ、我が愛する少年達よ、幸あれ永久に 我が教え子達よ初五を了るの日に春の日を浴びつつ。