★Massy’s Opinion
・一番初めの怪我
僕は、今日に至るまで、手術と言う大きな怪我等で病院にお世話に成ったことは無い。本当に丈夫に生んでくれた両親に感謝である。親父は、52歳と言う若さで亡くなったが、それだけ総領として戦争に行った弟二人と仕事で朝鮮に行って居た姉さんの引き上げ後の面倒等、苦労したのだろう。寝込んだ時には、「回復はチョット難しいかな?」と感じていた。
僕は、扁桃腺の手術はしたが、太平洋戦争末期に浜田山へ越してきてからは良く「腺病質」とは言われた。しかし、現在まで年1度の健康診断も取り合えず無事に過ごして来た。慶応高校に入り、野球部に入ったが、兎に角部員の数が多いのに驚き球拾いに明け暮れていたが、2年の新チームに成る夏休みには、「よーし、自主トレーニングをしよう」と7月の夏休みには、毎日永福町往復のランニングと400本の素振りをして過ごした。小学校の友人から同窓の女子学生と山中湖へ誘われたが断った、この話はまた別の機会にするとして...
新チームの練習は8月1日から始まったが、渋谷の小口スポーツでアメリカ製のルイスビルスラッガーのベーブルイスモデルのバットを買って貰った忘れもしない1350円(当時、日本のバットは250円位)した。練習に行ってバッテイングをすると、マア、音が良い。「キーン」と言う金属音がする。直ぐ、目立ってしまいレギュラーにピックアップされた。秋の大会が始まり4番を打たされたことも有った。大会の終わりごろ或る日練習でトスバッテイングをしていた時、後ろから帰ってきたボールの上に、ジャンプして降りる時に乗って右足首をひねってしまった。あの時の痛さは今でもよく覚えて居る。痛くて歩けない、それでも我慢してバッテイング練習をして、監督からは「守備はしなくていい」と言われた。
大会が終わって、暫くしても痛くて仕様がないので、12月に入り整形外科で診て貰ったら,「骨が折れて、固まってしまって居る」と言われた。くるぶしが二つある様に成って居る。
それだから、スキー、スケート、コートバンの靴は履けないのである。これが、一番初めの怪我である。ビッコを引くことも無いし、野球をやる時に不自由を感じることは無かった。ルイスビルのバットも同じ球拾いをしていたK君に貸したら、練習で詰まって折ってしまった。この間、「おい、覚えて居るか?」と聞いたら、「全然覚えて居いないよ」と言う事でがっかりした。
・2度目 大学1年時の骨折
当時、17名の1年生が居たが、阪井監督は優勝に遠ざかっていたもので、「チーム造りの構想を持っていた。衆樹を筆頭に、中田、日野が先ずレギュラー候補、練習も彼らが中心、後は2軍。バッテイングも一軍の練習が終わってからである。5月1日、暗くなってからベースランニングの練習があった。1塁から2塁への盗塁の練習である。珍しく阪井監督が見ていた。僕が滑ったら「Nice Sliding!」と褒められた。嬉しかったので、よせばいいのにもう一度やったら、ベースに近すぎて新しいスパイクが引っ掛かり、今度は本当に骨折をしてしまった。周りで上級生が「音がしたからおれたな」「指が動くから折れて居ないだろう、捻挫だ」とか言って居る声が聞こえた。今度は痛くて立てない。合宿所までの坂道を僕の親友N君が背負って呉れた。早速、慶應病院へ入院の手配をマネージャーがして呉れたが、病室が空いて居ないと言うので、親父の会社から車を出してもらい実家に帰った。6日の日に入院をした。病院では、直ぐ所定のレントゲン、診断ののち、骨に穴をあけて針金を通して錘を付けて牽引をするか、足首にテープで錘を巻き付けて牽引するか?と言う事に成り、結論的にはテープで錘を付けて牽引することに成った。折った方の右足は台の上に載せ、錘を付けて正常な位置に戻って骨が付く迄、寝たきりの状態だった。
・入院 6月一杯
幸運なことにこの入院の間、「野球による骨折の具体的な例」と言う事で、医学部生の講義のモデルに使われた。毎週金曜日の午前中、階段教室の真ん中に寝台に乗って運ばれて、レントゲン写真の拡大版で先生が講義をする。僕は、足が駄目なだけで講義が全部聞こえる。
「骨は大体20日間で、付く」とか、「筋肉が落ちて痩せてしまうので、マッサージが大事」とか、色んなことを聞くことが出来た。当時のギブスは石膏で固めたもので、一日置き位に処置室に行きギブスを外して、マッサージを受けた。又、ここで色んな出会いがあった。当時、大映スターズの主力打者慶応OBの飯島滋弥さんが外野のフェンス際でぶっかって足を痛め、僕と同じ様な状態でマッサージを受けに来ていて、後輩だと言う事でとても親しくして頂いた。インターンでは、丘の上クラブのNさんのお兄さん、同級生のK,Y君のお兄さん達ともお会いした。特に、晩年ワイフの股関節の手術の時に、Nさんには、色々アドバイスを貰い「慈恵」で手術を受けることにした。僕は春の試験の時には、ギブスを付けて日吉に行った。6月の20日頃退院して、自分でマッサーージをして、8月1日の練習に出るようになったのである。塾高一年上の人は3人大学の野球部に入っていたが、もうIさん一人しかおらず、同級生は4人入ったが二人は止めてしまった。又、球拾い生活が始まった。今考えるとこの入院生活は、悪くなる心配はなく、特にリハビリ室でのマッサージは重いギブスが取れて、楽しかったし、夜の看護婦さんの見回りが楽しみだった。後にここで覚えたマッサージが、藤田さん(元巨人軍監督)を始め、ブルペンでピッチングの練習が終わると殆どが肘のマッサージで結構重宝がられた。
・人工股関節
結婚後、20年位して、会社の商売替えをした。可成りのハードワークの連続だった。其の頃から、ワイフは腰が痛いと言うようになった。僕は、一番信用できる人と思って、当時開業をしていた前記のNさんの所へ相談にいった。「今、人工関節については、慈恵の連中が進んでいるよ」と言われた。当時、巨人軍の槇原投手が膝の手術を慈恵で遣り順調にカンバックをしていた。整形外科部長の故藤井先生が膝関節では一番と言われていたので、外来で飛び込んだ。診断の結果、「人工関節にしなければ痛みは取れない」と言う診断で、本人も手術をすると言う事だった。幸いと言うか、藤井先生は、浜田山在住、飼っている犬が、ゴールデンレトリーバーと解り、一気に親近感が湧いた。色々、手術の手順をお聞きしたが、血液は自分の物を使い、輸血に依る余病の感染を防ぐとか、事前の検診を十分にやる事などを聞いて、「健康な体」でないと施術しない事が解った。人工関節は合金を使うので、如何しても経年数劣化が起る。左右の寸法が変わって来るので、内臓への障害も起こる。個人差はあるが20年たてば再手術が必要になって来る。ワイフは、それで再手術をしたが、その退院間じかで大腿骨の骨折が起きた。そこで、ステムを入れる手術をした。それから、15年で今回の骨折が起った。これは家の中での転倒である。僕の骨折、ワイフの人工関節の再度の置換これでは、整形外科の知識は増えて当然だろう。何人もの人にアドバイスを求められたりしてきたが、その時、一番頭に浮かぶのは、慈恵の創設者高木先生の言葉、「病気を診ずして、病人をみよ」である。
・リハビリティション
さて、最後に成ったが、此の僕の17歳から85歳に至る約70年の整形外科との付き合いで、リハビリティションの大切さを十分に知った。そして、骨と同じ位に大切な「筋肉と腱」である。僕の時は、ギブスを着けたまま20日位は歩いていた。今では、手術が終わると、直ぐ、リハビリと言う考え方に変わって来ている。昔は、病院の廊下を歩くことがリハビリだったが、今は大きな病院では、リハビリ専門病院が出来ている。megumiがアメリカ・サンノゼでパーソナルトレイナーをしているが、これはワイフの事で選んだ職業ではない。
むしろ、自分の意志でNATAと言う資格を取って自立をして居る。今回のコロナ騒ぎでアメリカのGYMも閉鎖されている。全部、テレワークでやって居るそうだ。そこで、我が家では「SKYPE」でmegumi がトレイナーでメニュウを組み、僕がアシスタントでSkype camera を動かし1時間のリハビリを週2回やって居る。(Skypeの無い日もメニュウをこなしている)僕も、megumiの先生の実演等に同伴して色んな大学を見ている。スタンフォード、サンノゼ大学、サンタクララ水泳場、神奈川大学、順天堂大学、早稲田大学、法政大学、呉竹学園等(勿論、慶応も)である。今回、初めてmegumiの本格的なトレイナーぶりを見ているが、正直な処、いいトレイナーだと思う。非常に細かい動き迄メニュウに組まれているが、全てが正しいフォームに結びつく様なメニュウである。紙面の事もあり、詳細は又の機会にするが、ワイフも頑張り屋だし僕のアシスタントでmegumiとのコンビは最高のコラボだと思う。