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“Perfectな医療システム” (08-22-2022)

2022-08-29 22:07:07 | Megu's Sports

★Megu's Sports

“Perfectな医療システム” (08-22-2022)

Perfectな医療システムとは… アメリカ、日本、EUの先進国の各国。どこの国でも医療の格差はあって、良い点と弱点がある(改めて、アメリカの医療費の高さは、ここで、また言いませんが)。以前から、うちの母ちゃんの股関節、膝などの手術、その後のリハビリと日本の医療のあり方について、何度かブログに書いてますが。医療のシステムって、大きく分けて、3つの段階からなっているでしょ。。

・1)診断、  2)治療、  3)リハビリ

今日は、良い例を使って、意見を言わせてもらいます。親父の脈拍が、5月ごろから1分間40回を下回っていた。彼は、9月で88歳になる。いくら、高齢が理由だからって、これは低すぎ。近所の医者に1年半前から、心臓の専門病院が近所にあるから行けと言われていても、9月の検診まで待つと言い張る。私の友達や、共通の知人に親父に心臓の専門病院に行くように説得してもらった。それでも効かないから、近所の医者に直接電話。ついに、自分でも、心拍数が元に戻らないので、近所の医者に行く。で、直接、うちの近所にある、ニューハート・ワタナベ国際病院に行かされる。同日、検査した後、翌々日にペースメーカーを入れることになった。ペースメーカーは、今、スタンダードなプロセス。とは言っても、心臓なんだから、やはり心配。コロナウイルスのため、母ちゃんは、自宅待機。手術は、予定通りに、無事終了。

1.母ちゃんのコミュニケーションの取り方が、足りないのか、病院のコロナ対策のシステムが整ってないのか。私が、心配だから手術が終わる予定の時間に母ちゃんに無事に終わったかどうかと連絡した。母ちゃんは、親父が終わったら電話すると言っていたという。いくら、局部麻酔だからって、手術が終わった直後に、患者が電話できるのか?病院から、連絡してくれないのかって聞いたら、受付の人には、それはわからないって言われたって。大体、手術の前に、連絡の方法を話しておく必要がある。コロナ対策で、家族が病院で待てないのなら、病院から、家族に連絡するのが当たり前じゃない?それが無理だったら、最低限でも、前もって、どのような連絡の取り方ができるのか、手術の一環として、話し合っておく必要があるでしょ。

2.結局、親父が、手術後に、私のところに電話をしてきた。私が、担当医と直接話ができるのかと聞いたら、夜に、担当医が回ってきた時に、話せるか聞いてみるという。

・現地時間、深夜過ぎになるけど、担当医が話せるようだったら、電話してくれと。そしてこっちの午前1時半ごろ、電話があり、担当医が直接電話に出てくれた。手術は、うまく行ったと。直接、鼻が高い日本の医者が多い中で、電話に出てくれたとこは、良い印象。事前に、頭の良さそうな質問を書いておかなかったのは、私のミス。深い眠りから起きたばかりで、詳しい質問ができなかっ。

3.親父は、いつものように、担当医のImpressiveなキャリアチェンジと経歴にご満足。私は、それには、同意。そして、電話で、話した時の人の良さにも、良い印象を持った。だけど…手術後のフォローアップ。ペースメーカーにおいての注意事項は、教えられたようだけど、リハビリの情報がゼロ。どのように、日常生活に復帰、健康維持のための運動~やって良いことと・避けること;どこまで脈拍を上げて良いのか;どのようにプログレスすれば良いのかなどの患者に対する教育が、全く無い。

ニューハート・ワタナベ国際病院、ウェブサイトを見てみると:

・ビジョン | Vision NHW を世界一の価値ある心臓病院にする

・ミッション | Mission

  1. 超低侵襲治療を行い、人類の健康と幸福に貢献することが私どもの理念です。
  2. プロフェッショナルチームとして責任と誇りを持って、患者様おひとりおひとりにオーダーメイドしたハイエンドな治療を提供します

“NHW を世界一の価値ある心臓病院にする“ためには、冒頭で言った、医療システムの3段階のうちの 3)リハビリが、欠けている。リハビリは、診断と治療と同じ価値がある。これが、欠けていては、世界一にはなれない。親父は、医者からリハビリの詳細を言われてないので、日常生活復帰はしていても、”大事にしすぎ“で、体が、鈍ってきている。娘の私が言っても、毎回最低3分の言い合いをしないと、エクササイズをしようとしない。娘ではなく、医者から聞かないとやる気が出ないのだ。So annoying…I have to say…いくら、最新の技術を使って、問題を治しても、その後の、メインテナンスのプランがなかったら、” 人類の健康と幸福に貢献“することにならないのだ。また、リハビリは、チームワーク。一人ではできない。リハビリの専門家、医者、家族がチームとなって、患者をサポートする。ので、家族とリハビリの専門家が、医者と情報をシェアできる場を設けてもらいたい。

 

また、患者は、客である。医者は、神様ではない。客も、医者の言うことを、鵜呑みにするのではなく、疑問に思うこと、質問することが大切。賢い客になること、習慣にすることを心がけましょう。

 


“転業のプロセス 1”     ‘22-8-23

2022-08-22 23:05:24 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

1.部品商の廃業

親父の没後僕の父親は金太郎祖父さんの長男、姉1人、弟が二人の4人兄弟だった。祖父さんは「株や」と聞いて居る。住まいは四谷1丁目、女中さんが5人位居たと言う事。親父が小学生の頃、祖父さんが投機に失敗して、どん底の生活に成り、親父はパンを買いに行くのもお金の価値もパンの値段も解らず戸惑ったと云う話を聞いた事がある。親父はそれでも中学には進めた様だ。金太郎祖父さんの親父は増上寺の僧兵の親玉だったとか、それで我が家の菩提寺は芝公園の安蓮社と言う、増上寺の偉いお坊さんのお墓が沢山ある小さなお寺で、もう170年位経っている。親父の弟二人は高等小学校卒業後、直ぐ学徒動員で兵隊に成り、支那に派遣され、終戦を迎え、戦後引き上げて来た。親父は中学を出ると、日加商会と言う自動車部品商に入り3年位して、21歳で結婚して部品商を開業したのである。太平洋戦争中は、多くの企業が合併させられて修理屋2件と部品屋の3軒が合併させられて、日之出自動車と言う会社に成ったのである。当時、三井物産が田村町に在り、ヤナセ自動車の創業社長は三井物産の自動車部から独立したそうだ。当時、大倉男爵邸は今のホテルオオクラの所にあり大倉男爵は自動車が好きで、愛宕下に東京自動車商会と言う自動車屋を開かせるほどだったと言う。戦後、輸入車の販売が盛んになり、新橋から赤坂見附までの両側には色んな自動車会社が軒を連ね、東京のデトロイトと言われた時代が在る。僕は5~6歳の物心ついた頃からあの辺は良く知っている、もう本当に数少ない人間に成ってしまった。また自動車の移り変わりも良く解っている。太平洋戦争末期には、人間魚雷のエンジンは自動車のエンジンを使った物もあり、日之出自動車は、整備技術を買われてその仕事もして居たので、親父は純軍属扱いで、徴兵を免れたらしい。

・商売の状況

僕が大学1年の時、社会の夏の宿題で、「industry &community」地域と産業例えば南部の鉄瓶とか...のレポートを出せと言われた。僕は野球の練習があり地方には行けないので、「何で、芝、港区には自動車屋が多いのか?」と言う事にしようと思い、整備工場の組合や部品商の組合を尋ねてレポートを書いた。その事が後年役にたった。当時、港区には約500軒位の大小取り交ぜた自動車屋があった。当時は、東京都は清掃事業も清掃局で自動車を持ちと全体でも車を保有し、整備工場も持っていた。都庁の指名願いを取って居たのは3軒の部品屋しかなかった。部品商も整備工場が買いに来て呉れた時代から、配達をする時代に変わって来た。採算は厳しくなるばかり、「良く配達手数料を貰わなくてはやっていけない」と言う話をしたものだ。親父は良く「在庫は儲けのカスじゃなくてはいけない」と言って居た。細かいビス1本、ワッシャ―1枚何んてとても棚卸なんて出来やしない。

・売り上げ 月500万、 仕入れ 月150万 粗利率目標25% 在庫簿価 600万

人件費120万

部品の販売以外にクラッチディスク、ブレーキシユウのライニングの張替えをやって居たがこれは工賃仕事で、暇な時には店員みんなでこの仕事に掛かっていた。僕自身も休みの時にはアルバイトでホンダのシユウを80枚リベットを打った事がある。懐かしい思い出だ。確か一枚5円だったかな。親父が死んだ後、或る時、店の売り上げ利益率が18%に落ちた月があり(維持目標22%)、「もうこれではやっていけないな」部品屋を辞めて僕は会社勤め、「店は女で出来る喫茶店にしよう」と決心した。この時は、生まれて初めて、銀座の日動画廊の前の占い師に占って貰った。占い師は、「あなたは大衆に関係した仕事が向いている」と言われた。勿論、ワイフ同行で見て貰った。

転業する決心をしたけれど、従業員に話をするのは、一番辛かった。或る時、夜皆と言ってももう5人しか居なかったが、集まって貰い話をした。皆、苦しい事情は分かって居たので、整理の方法を話、理解して協力を頼んだ。

・在庫整理

商売で1番大事なものは在庫管理である。当時の商売の規模は、覚えて居る範囲で記してみよう。大体、色んな大学の自動車部は当時、自動車ブームの走りで人気が高く、持って居る車は35年製位のフオードが多かった。そういう古い車のエンジン回りの部品なんか結構在庫があった。各校の自動車部の学生には、「あの部品屋へ行って見ろ、部品有るかも知れないぞ...」と結構知名度はあった。古い車の部品在庫は、親父の趣味の部分も多かったと思う。いよいよ、転業の準備に入った。とても在庫部品の帳簿価格とは見合わない。換金できる在庫の価格は、160万と踏んだ。仕入れたばかりの物は仕入れ先に事情を話し、引き取ってもらう事にした。大体当時部品業界の仕入れは、120日の手形払いが60%位あった。利が薄いからどうしても資金が不足する。親父の代からこういう状態だった。従って資金の準備は、在庫の簿価との差が一番多く約400万と予算を建てた。

*売掛金2ヶ月分 約1000万

*手形落札分 仕入れ月400万x4ヶ月1600万x60%=960万幸い都庁が多かったので、未収には成らず、但し、入金時期は確定できなかった。

*買掛金については、「手形は全部必ず落とします。当月の仕入れ分は半額にして下さい」

と交渉させた。

その他にガソリンスタンドをやって居た僕の親友の所にお願いして、毛羽たきやプラグは随分、買って貰った。彼のスタンドは、事業用のユーザーが多く、Yシャツやサングラス迄置いてあった。皆、運転手さんが買って行って、ガソリン代と一緒に成るそうだ。と言う話も以前聞いて居たので、事情話して協力して貰った。

・資金繰りと調達

資金は金融機関から借り入れをしなくては遣っていけない。廃業資金何て名目で調達出来はしない。新規事業の計画とそれに伴う利益からの返済計画が必要だ。これは、至極当たり前の事。一つ問題は、都庁に対する売掛だった。予算が決らないと納入部品に対する支払いが行われない。そこで、考えた挙句、部品商を閉鎖せざるを得ない状況を、内容証明の用紙に書いて、清掃局の事業所長あてに出した。これは、効果が有って3月末までに一度に振り込まれた。屹度、「内容証明でも出されたら困る」と思われたのだろう。後は、店舗の改築資金とその後の事業計画組んで富士銀行から保証協会の保証付き条件で約3000万円を調達した。勿論、祖母のへそ繰り預金を除いて、自分たちの僅かな貯金も全部廃業資金に充当した。充当資金を準備して、振り出してある手形を、「現金で払うからか戻させてほしい」

「当月の仕入れ分は現金で払うから、半額にして欲しい」と交渉をさせたが、星野商会と言う店は、「手形の期日は伸ばしてもいい...額面通り払って呉れ...」と言われた。色々、考えたが、「増田商会に信用が在るんだな...」と考えてて、そこだけは額面通りに手形を落した。

大洋商会と言う会社の営業マンは、東京日産の僕の勤めている居る所まで、「如何して呉れるんだ」と言って来た。「君良い営業マンだね。他所の会社は僕の所へ来たくても、来ないよ...部品屋は給料安いだろ...君ならもっといい所、世話してあげるよ。」と云って帰してしまった。

・手形の事と引っ掛かり

親父が急逝して、僕とワイフが、手形の事など、知識がある訳はなかった。当時は、金融のシステムも今日とは全然違うし、学校でも習ったことは無い。経理士はついて居たが、全て経理士先生の言う通り...或る時、ワイフが「経理士の先生が手形を貸してくれ...印鑑は何でもいいから...と云うので実印は押さなくて貸したわ」 「馬鹿、お前何して居るんだ。手形は何の印鑑でも有効に成るよ。経理士は変えよう...」と云って経理士を首にした。手形全盛の時代で、それ位、我々も無知だった。融通手形は親父の代の人たちが、増田商会から独立した連中の店も殆どが使っていた。まあ、増田の信用があったと言へば格好は良いが、相手がキチンと手形を落してくれればいいが、危険である。そこで、手形の期日を増田の手形の3日前にして貰う様にした。一度、月70万位買ってくれるお客さまがあり、その会社が倒産する情報が先方の専務から入った。売掛は100万位に成る。夜、お店の番頭さんと葛飾まで行った。先方の社長一家は誰もいない、専務だけが居た。「お宅が潰れると、家も潰れます家の番頭さんも子供は小さいし生活できません.幾らかでも払って下さい」と頭を畳に擦り付けてお願いした。未だ金庫に20万位の現金と70万位の手形が5枚位あった。最後は、相手の専務に「貴方も大変でしょう。後で5万円バックしますよ。」と云って金庫の中の手形と銀行に残っている現金相当の小切手を切って貰った。家の店から独立した中で、一番しっかりして居る人の所へ行き、「こういう手を売って来たけれど...」「ヒロちゃん 駄目だよ 手形に裏判がないよ...」それから、すっ飛んで葛飾へ戻り、先方の専務に裏判を貰って来た。翌朝、朝8時に葛飾の銀行の門が開くのを待って居て、無事大口の引っ掛かりを防ぐことが出来た。僕が、今迄、約束をして払わなかったのは、この5万円だけである。車も随分売って来たけれど一度も引っ掛かったことは無い。親父の葬式の時は、安蓮社に400人位の人が来て呉れたが。同業者、お客様皆最後の僕の挨拶を待って居るなと言う事は感じ取れた。僕が東京日産に行って居る事は知って居るし、店を如何するのか?が一番の関心事だったと思う。僕は「増田商会は続けて行きます」とだけ挨拶をした。資本金も50万から1000万にしてあるし、株式会社にしてから約75年に成る。最近、友人と良く話をする。不思議と同じ様に自営業者の子供が多く親父の話をする。親父が死んだ時,東京日産の先輩が「店は如何するんだ?株主は良いけれど、役員に成っては駄目だよ」と忠告された。親父の先輩が近所に住んで居て、朝店の前にオートバイが出て居ないと、会社へ「弘、オートバイが出て居ないぞ...」と電話が掛かって来た。本当に色んな人にお世話になった。 

2.新規事業の計画

色々市場調査をしたが、当時、銀座三越にマクドナルドがオープンして、大変な人気だった。藤田伝商事の開発部に電話して、「こういう店を使いませんか?」と尋ねたら、女子社員がスラスラと答えた。

店舗は30坪以上・ 土日が50%以上聞く処・が最低条件。

直ぐ傍に、森ビルが20000㎡のビルを建てた。そのビルの収容人員は?

5㎡の一人...収容人員は4000人 (往復8000人の通行量)通行量は10000人と仮定

1%が当店の両客=100人 コーヒー1杯 120円X100人=12000円(1日の売り上げ) 粗利率85%

月間売上 12000円X25日 粗利率85%   粗利255000円

と云う予算を組んだ。コーヒーは何処から仕入れしようかと考えたが、大手の焙煎業者でなく、自分の所で店も出している処と言う事で、中央珈琲と言う処にした、今度は実働する人間である。ワイフに1週間中央珈琲に勉強に行って貰った。

何であれ月600万規模の売り上げから30万規模の売り上げに成るのだから、大変だ。3年間は無給で遣ろう。営業時間は8時から20迄として店舗のコストも出来るだけ落して改造に掛かった。テーマは「コーヒーを売れ」「清潔さを第一に」「女を売るな」と決めた。

毎週土曜日の午後は「大掃除」と決めて、僕も会社が半日だったので、毎週店に行き、先ずトイレの掃除を必ずっやった。近所の修理屋さんからは「弘君、何年出来るかな?」と言われたが必死にやって、平日は閉店後、姉貴とワイフと3人で食事に行き9時半には東京駅へ姉貴を送り届け帰宅した。店の名前は女ばかりだから、花の名前にしようと思って居たが、中々適当なものが想いつかなかった。高校野球部からの親友が「マッサン、マス兄だからマッシ―で良いじゃないの?」と言われて「そうだ!」と決めてしまった。当時、MLBに行った法政の村上投手がマッシ―と呼ばれて居たが、後日会った時に了解は取った。ゴルフの倉本がマッシ―という会社を後に作って居るが、確か、銀座に1軒小さなバーがあったが、以来、“Massy”をコールネームとしている。

・再開発の交渉

時を経て、森ビルの開発が進んで来た。予測はして居たが、交渉に来た担当者に話し合いに入る前に会社ではなく、「貴方個人としてっ僕を不当な扱いにしないように一筆書いてくれ」

僕は、基本的には賛成だから...と言って交渉に入った。矢張り取得床の提案が1階なら14坪、地下なら25坪と言う提案だった。色々考えたが、判断がつきにくい。しかし、駅の「改札の前なら地価も一階も余り変わらないだろう。広い方がいいな」1階に義弟の為に「15坪位の喫茶店が出来る所を借りてやろう」案の定、最終で各権利者の取り分を見ると僕の分が5坪位少ない。最後に成って初めに取った「一筆」が有効になり、30坪の権利が取れた。その後、ワイフの健康問題も出て、貸店舗にしてしまったが、部品商だった会社は、テナントに恵まれて賃貸業として、健全に生きつづけている。これらの経験から、色んな人の相談を受けてきたが、もう年数を経て、止める人、病に成る人、が出て来て寂しい。親を養う、兄弟を養うという必然性がない人の相談には乗らない、全くのボランティアーのコンサルである。この間、或る人のブログに僕の第一号店の人の店の事が出て居た。部品屋から喫茶店への転業が本当に良い経験に成った。振り返れば、従業員を始め、良い人々の出会いに感謝であった。

*ジジ(銀座) バンベール(恵比寿) 凡々(銀座) ポケット(赤坂) カルム(白金)

えん(日鉱)野々山(大橋)

                


”英語のメニュー“  ‘22-8-16

2022-08-15 22:25:44 | Massy's Opinion

★Massy’sOpinion

・今から50年位前か?僕は‘57年に大学卒業して、社会人に成った。僕の職番は、57041職番と言うのは、今使われているのか如何か解らないが、今はメールアドレスか携帯の番号が人事管理に使われているのではないかな?当時、僕はバーや何かボトルキープのナンバーは此れを使っていた。親父が死んだのは昭和39年=1964年だ。部品商を喫茶店に変えたのが1971年10坪の店で、2階は麻雀屋6卓の狭い店。其の頃、同じ方向から通勤してた、S君、Y君と1台の車に同乗して出勤していた。二人は僕の家の暮らしぶり生家は部品屋だと良く解って居る。或る日の朝、車の中で、「おい、今度家の店の2階を麻雀屋にしようと思うのだけれど、誰かやりたい人は居ないかね?と云ったら二人が、「俺たちで借りてやろうか?」と言い出した。「えっ、ホント?商売は大変だよ...君たちが遣るんだったら権利金も取れないな...」結局S君の家はお父様が警察出、「そんな事いけない」と言われたらしい。Y君の家は栃木の大地主、当時、二人目の子供が生まれていた。そんな経緯で、結局、敷金も権利金も取れず2階を麻雀屋として貸すことに成った。当時、我が家と同じでY君の奥さんは乳飲み子を二人連れて麻雀屋さんをやる事に成った。それでも、開店時間に遅れる時が在ると、結局、下の喫茶店のワイフの所へお客さんは来る。Y君の奥さんも、Y君も、伯母さんを一人雇う事にした。儲かったか、どうかは知らないがそれでも7年位やって居ただろうか。勿論、我々は家賃を貰ったが、相場の50%位だった。今、所在は、解らないがY君の子供は男の子3人で皆、出来が良くて長男は、慶応を出て高島屋に勤めたと言う事までは、聞いて居る。

部品屋を辞めて、喫茶店にしたが、部品屋を辞める時は、大変だった。帳簿上600萬位の在庫が在ったって、「売れてなんぼで、売れなければ目方でしかない」店は帳簿上、立派に黒字だが、中身は真赤。在庫の処分が問題。方針を決めて、ワイフに言う。従業員にも当時、6人居たが皆いい人たちで、苦境は自分たちで肌身に感じている。退職金なんて社規通りには払えない。車と欲しいものを挙げて、お金は現金で、確か均一の30万位だったか?

・コーヒーショップ

約20人位の客席朝8時から、より8時まで。ワイフの姉さんに無給で手伝って貰った。その代わりブルーバードの新車を買ってあげた。3年間の約束だった。見事、店は当たって1日120人位の来場があった。近所のビルに外資系の会社が増えて来て、外人の来店もある。そこで英語のメニュウが必要に成り、近所の外資系の会社に勤める常連の女性にワープロで作って貰った。メグミが知人を日本に送り込んで来る。大体、東京を見物する時は、並木通りの「お多幸」のおでんか、「伊勢広」の焼き鳥に連れて行く。或る時、「お多幸」に行った時、まさか「無いだろう」と思いつつ、「英語のメニュウ在る?」と聞いたら、「はい、ありますよ...」と言う返事「ああヤッパリおでん屋で正解...」だったと思い、昔の喫茶店での英語のメニュウ造りの事が想い出された。ヤッパリお客様の動向に目が行き届く店は「流行る」と思った。次回は部品屋からコーヒーショップに切り替えた時の事を想い出して見よう。喫茶店に切り替える時も、市場の需要予測から資金繰り迄、大体、3年、5年の先までプランを組んだ。いい経験だった。


“銀座 和光” ‘22-8-9

2022-08-08 21:53:35 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・僕の趣味

非常に多趣味...凝り性、昔、5,6歳の頃から、「如何して...?」としっこく質問をするので、お祖父さんやお祖母さんに嫌がられた。特に、身に着ける物も拘りがあり、成蹊中学2年の時に、銀座ワシントン靴店でラバーソールの靴を買って居た。親友のY君とお揃いで買ったのである。その代わり、大事に履いた。高校生に成ると腕時計が欲しくなり親父にねだって舶来の2流品「エニカ」と言う時計を買って貰った。社会人に成った時、近所に原田さんと言うテイラーがあり、親父は基本的に地域密着型で、そこの洋服屋で、親父と同じ生地のツイードで背広と替えズボンをお揃いで作った。背広を着る様に成ってから、当然、ネクタイ、ワイシャツとこだわる物が多く成り、特にネクタイピンとカフスボタンはこだわりの中心になった。余り高価な物は買えないので、時計はセイコー、カフスは七宝が安くていい。御贔屓の店は、銀座の安藤七宝店、和光である。カフス、ネクタイピンは「犬」の物を特に集めた。処が、猫は沢山あるが、犬は少ないのである。「犬はどの犬種が売れるか?解らない」ので、作らないと言う事を、安藤七宝店で聞いた事がある。「LoveとGyu」を飼ってからゴールデンの飾り物を随分と集めた。今でも一つ買いたいリヤドロの人形が在る。高くて買えないのである。

・久しぶりの銀座

6月初め、銀座ㇾカンの本店でチョットした昼のパーテイがあり2年振りで銀座に出掛けた。こんなに銀座に行かなかったのは生まれて初めて...僕が生まれたのは、芝、御成門(今は西新橋)お祖父さんは神谷町に住んで居た。毎月10日は金毘羅様の縁日、大体、土曜日は銀座に祖父さん、祖母さんと我が家親子3人で銀座に行ってご飯がルーチンに成っていた。 当時、太平洋戦争の前の銀座は柳の並木があり、夕方に成ると露店が夜店を出していた。新橋から4丁目の交差点まで、ぶらぶらと散歩、「銀ブラ」である。天ぷらは「橋善」鮨は新橋の「大鮨」、洋食は「オリンピック」と云う様なところ、チョット高級な洋食は「フロリダキッチン」ここのニンジンは美味かったな。未だ鮮明に覚えて居る。そうそう、確か4歳頃かな、銀座4丁目「和光」(当時は服部時計店)の柳の下で交差点に向かって、僕が「立ち小便」をしちゃったのである。金太郎お祖父さんが慌てて僕を引っ張りに来た。行儀の悪い事をするんじゃない」と凄く怒られて、「小便は止まってしまった」こんな昔の80年前の事を鮮明に覚えて居る。お祖父さんの血相を変えた顔が目に浮かぶ。

さて、このレカンに行った日には、僕の持って居るセイコーのラサールと言う、当時、輸出向けと聞いて居たが、ブレスレット風のペアー時計を持って行った。最近は携帯、万歩計と時間は身に着けているので、時計は電池が無くなったまま止まって居る。此の電池交換とオーバーホールをして貰おうと「和光」に行く予定にして居た。修理代の高いのは予想して居たが、思い切って行って見た。

・時計の修理

店内は予想通り空いていた。修理の受付へ行き「もう此の時計古すぎて、このモデルは無いでしょう?」「そうですね、お客様申し訳ありませんが、部品の交換は出来ませんが、お時間を頂いてさび落としは致しますが...」「解りました、お見積もりは?」「電池交換を含めて約28000円位です」いやー高いのに驚いた。街の電池交換では1000円位である。「時計が一つ買えてしまうね...」でも機械物はメンテナンスが大事。良く解って居る。古くなると部品が無くなる、これも何処かでよく聞く話。僕の御客様でダットサンを未だ乗っている人が居て、いつもその相談で言われて居る話。もう値段の問題ではない。兎に角、オーバーホールして貰う事にした。

・店員の応対

予定通り40日目に「明日お届け致します。恐れ入りますが代金は代引きで御願いいたします」と丁重な電話が在り、翌日予定取りキチンとした梱包で時計は届いた。いやー本当に奇麗に成っている。ブレスレット風の側も奇麗に光っている。実はこのラサールを僕はゴールド色のと二つ持って居る。ゴールドの方も同じオーバーホールをして貰おう。と決めて先日「和光」へ持ち込んだ。修理受付に行って、「先日白の方をお願いしたんだけれど、もう一つお願いしたいんですけれど、伝票見て呉れる?管理のキーは電話番号?」「はい、電話番号です」直ぐ解った。「さすが、和光さんね。奇麗に成っていたよ。それで、もう一つもお願いする事にしたよ」このお客さん凝り性の人だな。と受付の人も解ったろう。昨夜はワイフと気分転換にジャズのライブに行って来たが、アロハシャツにジーンズ、腕には白いブレスレット風の時計、ワイフが「パパ、時計してるのね...」「本当に、キレイに成っているわね。光っている...」暫くして居なかった時計を身に着けようと思わせる位に奇麗に成った。

「高い物を高いと思わせない様な仕事の流れ」、「店員の応対」、これは、Webでは出来ない「人と人」の接触だ。これからの時代、この「商売の原点回帰」にどれだけ時間が掛かるだろう。Meguが「Webで仕事すると疲れる」と言って居た。最近、タクシードライバーの質が大きく変わって来た。昔風の「雲助風情」は居なく成った。タクシーに乗ると何時もドライバーさんに「ドライバーはいい仕事だよ。定年も無いし...」と励ましている。

 


22-8-2 “Diary 187”

2022-08-01 22:41:05 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・‘7―8 安倍元総理 暗殺

凄いショッキングな事。何か、全てにタルミが在ったのだろう。選挙で回る方も警備する方もタルミが在ったとしか考えられない。ヤッパリ犯人の方が、意識と怨念が強かったのだろう。最近次々に明るみに出て来る統一教会との絡みも当時を想い出せば色々想い出される。僕も自動車労連販労の専従委員長をしていた時代。創価学会が懸命な組織造りをしていた時代だ。「自動車販売業界の地位の向上を労使上げて取組もう」

其の為には政界に人を送り込まなくては...と言う事で大阪日産出の田淵先生を政界に送り出す為に選挙活動を懸命にやった。戸別訪問も随分やった。当時、販売労働組合の組合長は京都日産の故村瀬さん。僕が専従を辞める時、村瀬さんが「増田君の組織を見ろ...生き生き動いているじゃないか...」と言って呉れた。あの年は親父が死んで、葬式を出し、100日過ぎて結婚式をして経済要求を定期昇給、夏の賞与、冬の賞与3回団体交渉をやり、そして選挙をやり、組合の幹部が選挙違反で捕まり、本当に大変だった。個別訪問もポスター張りも遣った。ポスター張りでは、若奥さんが「貼って良いですよ」と云っても、お祖母さんが出て来て、「駄目ですよ...」と言う、結局は貼れずじまい...よく覚えて居るので、選挙の大変さも良く解る。創価学会の組織の強さも良く解る。それだけに、自民党の応援場所の変更等、スケジュールの組み方もユルミガ有ったのだろう。肥大化した組織の中では誰も責任を取らないだろうし、「まず派閥を壊さないように...」と言う議論が先に立つのだろう。ウクライナとロシアの戦争も酷いものだが、世界中に小さい部族間闘争は沢山ある。しかし、一国の元トップが「暗殺」された国は近年には無いと思う。色々捜査が進むにつれて、問題が明るみに出て来るだろう。日本は酷い国に成ったものだ。国民ももっと利口に成らなくてはいけない。しかし、纏まらないだろうな...又、今日はオリンピックの問題が出て来た。体育会系の問題は色々知っているが、余りにもスポーツを美化しすぎて、材料に使うのは止めて欲しい。

・‘7-24 桜島 噴火

桜島の噴火が可成り大きかった様だ。異常な暑さ、日増しに増えるコロナ患者、毎日の様にこれ見よがしに煽り口調のコロナ患者数のテレビ報道。地震、雷、火事、親父...言い古された怖い物に、加えて、疫病、暗殺、噴火、酷いね...活火山の多い日本は富士山、の噴火が起こるかも知れない。日本人は第二次大戦の敗戦時を想い出さないといけないだろう。高度成長で伸び切った生活を改める。高層ビルによる再開発はもう十分。人口減少、家族の破壊、コンクリート・ジャングルはもう要らない。人間の在り方論をモット考える事が大事だ。「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」

・‘7-26 退院後 1ケ月

こんな酷い世の中が来るとは考えても居なかった。其処へ持って来て、不整脈で手術なんて本当に考えて居なかった。でも医学の進歩を身近に感じ、近所に素晴らしい病院が出来、ドクターが又慶応の後輩と言うめぐり合わせに本当に感謝だ。まあ、順調に回復している様だが、何とか一ヶ月を迎える事が出来ている。しかし、年齢は実感として大きく感じる。メンテナンス(体を動かす事)は、それなりに80%主義でやって居る積りだけど、気分的には余りリラックス出来ない。周囲の人々に感謝がおおきく成るだけだ。特に大谷翔平君に...