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“Travel Logistics” (8-19-2019)

2019-08-26 11:51:11 | Megu's Sports

★Megu‘s Sports 

・2週間前に、USA Triathlon Age-Group National Championshipがあった。大抵National Championship は、2年続けて、同じ場所で行われる。ので、昨年に引き続きCleveland, Ohio。Clevelandは、五大湖のひとつ、エリー湖の南にある都市。ひと昔は、鉄鋼産業で栄えていた。今は、ちょっと寂れている感じもするけど、古い建物が再利用されて、予想外にチャーミングな街。歴史が浅く、地震が多いカリフォルニアに比べて、古いレンガの建物が多い。レストランも、コーヒーショップも意外にsofisticated。

 ・今回の遠征、いつもホテルをシェアする友達が行かなかったので、Airbnbで、Downtownのアパートメントを予約した。Airbnbは、過去に数回使っている。The first one was the best one。初めて使ったところが、一番よかった。で、そのあとは、Mix-Match。キャンセルされたことが、2回。今回、予定日の2日前にホストに鍵のピックアップの時間・場所の件で、コンタクトを取った。なので、予約に変更はないものと思うでしょ。ところが、出発の前日にキャンセルされる。パニック。運がいいことに、と言うか、もうちょっと高いんだけど、他のアパートメントをBooking.comで見つけた。このアパートは、個人がマネージメントしてるのではなく、管理会社がマネージしているアパート。Airbnbの良いところは、良い場所を見つけられて、キャンセルされなければ良いんだけど、今回みたいに、ドタキャンされると困る。借り手が、キャンセルすると、ペナルティを取られるのに、ホストがキャンセルした場合の賠償がない。もちろん、前払いした分は、全額返ってくるけど。Airbnb、他の場所を見つけるのに、suggestionをくれるけど、あまり助けにならない。このような、Short Noticeでホストにキャンセルされた場合、借り手に代わりの場所を見つけて、その額が元の予約より高かったら、その差額を払うとか、借り手だけでなく、ホストに対するペナルティをつけてもらいたい。

 ・そして、クレジットカード。新しいのが送られてきたらしいんだけど、届いていない。私は、Citi Bankを使っている。Citi PriorityのCustomer Serviceに電話をすると、以前は長くても3分待ちぐらいだったのに、最近、30分以上待つことがある。どこが”Priority”なのか、疑問に思う。ので、直接、支店に行って来た。外貨も注文しなくてはいけないので。銀行のおばさん、社員用のラインに電話して、新しいクレジットカードを送るように注文している。そして、私に了解を取らずに、現在まだ有効なカードをキャンセルさせた。Clevelandに行く前日に!レンタルカーの会社によっては、Debit Cardを受け入れないところがある。クレジットカードなし、今のところ。Debit Cardで、車借りれるのかなと不安になる。運良く、借りれたけど、これも、実際に借りれるまで、心配。

・とりあえず、宿泊先もレンタルカーも、なんとかなり、無事にClevelandにSettled in。水質が悪いため、スイムが半分の距離になり、私に取っては、不利なコースになったけど、ギリギリで、来年のITU Age-Group World ChampionshipにQualified。大学院時代の友人にあったり、一緒に行った友達と街を歩き回ったりと、3日を楽しみ、Bay Areaに戻る。 と、初めて、荷物がつかなかった! 結局、到着の5時間後に荷物がついて、空港まで車まで5分なので、取りに行った。航空会社の人は、99%荷物は見つかるというものの、この5時間、荷物がなくなってしまったかと不安でしょうがない。

・At the end, everything was ok….ながら、Travel Logisticがチャレンジな旅だった。来週から、ヨーロッパ遠征。Everything goes smoothlyでありますように…!

 

 


”香港のタクシー事情“   ‘19-8-20

2019-08-19 15:26:04 | Massy's Opinion

Massy’sOpinion

・FaceBookのお友達と最近のやり取りから...(‘19-8-7)

 To Mr.C,H

★     A Happy Birthday! (Birthday Mail)

最近の香港のタクシー事情教えて?

1.燃料はLPG?

2.トヨタ車が多い? 中国車も走っている?

3.ウーバーとかは流行っている?

4.ハンドルは全部右ハンドル? 未だ日産車走っているの?

 Mr.C.Hからのメッセージ

★有難う御座います。

1.香港タクシーは、全部LPGです。

2.タクシーはトヨタ車の他に古い形の日産車も走っています。中国車は殆ど見掛けません。

3.ウーバーは、法律上認められませんが、走っています。

4.未だ日産車 走っています。香港のタクシーはオーナーが来た時(1997)の儘ですね。

燃料がLPGに変わっただけです。

5.ハンドルは全部右ハンドルです。

*さて、僕は1991年6月から日産特販(株)(英文名Nissan Fleet Sales Co.Ltd)の社長を命じられた。資本は全額日産自動車、扱い車種は日産製品全車種、地域主に東京、神奈川。

今、トヨタは販売店の系列を無くす方向に動いているが、販売店が抱えている扱い車種の限定によるストレスは無くなって行くだろう。反面、ディ―ラーは、本当の顧客をどれだけ維持できているかが、問われるように成る。自動車ディーラーはメーカーからの補償金と褒賞金が最終利益を左右する様になっている。本当に力のあるディ―ラーは整備、中古車で固定費の75%~80%が賄えるような体制に成らなければいけない。これは僕の長年の持論である。中古車の価格の問題と小売りを伸ばして行くための体制造りが必要だ。飽和する国内市場の次に何処に「マーケットを探すのか?」と言う事で1980年位から色々考えた。東京日産の中古車部長の時代、2名の選任者を置いて、大使館や商社に「輸出担当者設置のご案内」というDMを打った、反響は予想以上に多かった。これが1984年の事である。Fleetを含め、トヨタの攻勢は強く日産はこの時代から可成りシェアー競争に劣勢を感じ始めて居た。特販では、社長だから或る意味、何でもできる。毎日の営業活動で色んな情報が飛び込んでくる。メーカーも言う事を聞いてくれる。そこへ岩谷産業を通じて、中国の北京で「Gas China」と言う博覧会があるが、「LPG車を出品しないか?」と呼び掛けがあった。当時は、中国は安い車で左ハンドルしか買えない。そこで、タクシーの中古車を左ハンドルにリニューアルして出品する事にした。日産特販はサービスの技術社員の技術水準は非常に高く、僕自身も東京日産の中古車時代にブルーバードを一台左ハンドルに改造した経験があるので、的確な指示とメーカーの協力を取り付けられた。日産車体、オーテック、メーカーのサービス等からも参加してもらい、大きなプロジェクトを組んだ。この時のもう一つの目的は香港政庁から「排ガス対策でLPG車30台のテスト車を作りたい」と言う依頼があり、この内、「15台は日産で取ろう」と目標を決めた。新車5台、3年物中古車5台、5年物5台の使用過程車を用意する事で、15台は受注することが出来た。「トヨタは中古車の対応が出来ない」と断って新車だけ収めた。この時、現地でプロジェクトメンバーのガイド役を務めて呉れたのが、学生時代僕の家に2年間ホームステイをしていたMr.H,Cである。政庁への納入は勿論、現地ディ―ラーを通じて行ったが、現地ディーラーには凄く喜ばれた。このプロジェクトでは、北京、上海、広州、福州、深圳、香港と回って来て、延べ3週間位に成った。香港のタクシー車の保有は、当時約20000台で50年前は日産車が95%のシェア―を持っていた。それが、このプロジェクトを組んだ約30年前には15%位のシェアーに成っていた。敗色濃厚になる対トヨタ戦に何か最後の戦いだった様な気がする。

さて、この改造タクシー車であるが、北京のタクシーは約100000台だった。今の保有台数は解らないが相当増えているだろう。先ず、公害問題を無くそうと言うのが、此の「GasChina」だった。博覧会では、勿論、展示した車について、いろんな項目のアンケートを取った。価格については、200萬円と言う値段がついて居た。もう可なり昔の話だが冒頭のメールの様に厳しいけれど無くならないタクシー業では、古い車も十分に使えるのである。日本でも3~4年350000キロ位で代替されていた車が、今では、700000キロ越える位まで、使われている。今、街中で見かける、トヨタのJapanTaxiは素晴らしい車だと思うが、価格も相当高いようだ。「自動運転」論議と此の「経済性」一体何年後に結論がでるのだろう?22世紀の世界を考える事が必要だろう。


“追悼.加藤政克君”      ‘19-8-13

2019-08-12 15:14:15 | Massy's Opinion

★     Massy’sOpinion

・出会い

僕の家は、芝 田村町から半分 疎開的な意味を含めて親父が浜田山に決めた相だ。

当時は杉並区上高井戸4丁目と言う地番だった。殆ど周りは畑で浜田山の駅の回りに平出八百屋さん、熊倉不動産、坂本炭店、藤掛理髪店、鈴屋酒店、今井医院、これら殆ど所謂,三公社5現業のお店ばかり...その中に今の家の一角に住宅が開発されていた。のどかな郊外地区だった。我が家の向かい側に政克ちゃんの家があった。我が家は。1945年3月の東京大空襲の日に芝から引っ越してきたので、家財道具は半分焼けたと母親から聞いている。僕は、桐生の伯母さんの家に疎開していたので、3月終わって、国民学校4年を桐生の昭和国民学校で終えて浜田山に移って来て、5年、6年を高井戸小学校で過ごした。当時、ご近所と言ってもかなり広い範囲で子供たちが集まり柏の宮公園で野球をやって居た。その中心が政克ちゃんと僕だった。学校も一緒、帰校すれば鞄を置いて直ぐ柏の宮へ野球、やらないときは神田上水へ行って魚とりと言う毎日だった。当時、外では早慶戦が始まって居て、早慶戦の応援合戦は大々的に報道され嫌が上にも早慶戦は野球少年には、憧れの的だった。小学校の成績は二人とも一、二番、男女共学だから女の子にも出来る子がいた。そんなこんなの内に中学進学の時期が来る。僕は、親父が慶応普通部を受けろと言う。「政克ちゃん、慶応で野球やろうよ」と呼び掛けて「それではそうしよう」と言う事に成った。小学校の先生に話すと、先生は驚くと同時に内申書をどう描くか?大変に困ったらしい。兎に角、高井戸小学校から慶応普通部に受ける子は、初めてだったとの事。近所に幼稚舎へ行って居る子が3人位いたが皆大地主の子供さんだった。小学校の担任の佐藤先生は、僕と政克ちゃんの家に内申書の封をせずに持って来て、「二人とも全く同じにしてあります」からと説明に来られた。さて、受験番号は続けて出したが、合否の発表の時、僕は落ちて、政克ちゃんは合格したのである。まあ、家の母親はご近所さんに顔を出せないと機嫌が悪かったことを良く覚えて居る。 

・慶応受験

当時は、学制が変わって、僕は行くとこが無いから高井戸中学へ入った。1回生である。

瞬くうちに1年が過ぎ、親父が成蹊の編入試験の願書を持って来た。成蹊なんて言う学校も知らないし吉祥寺に行ったら、校舎は素敵な学校で、旧制の東大入学率が一番高い学校だった。勿論、野球部に入り、そこでも色んな先輩との出会いがあり、勉強も良くした。高校1年終わったある日、政克ちゃんが「ヒロちゃん、高校の編入試験があるから受けないか」と願書を持って来てくれた。親夫婦がどんな話をしたか解らないが、今度は、母親が日吉へ行って、「内申書は成績表でいいですか?」「いいですよ」と聞いてきてくれた。成績表は成蹊では、父母会の日に渡される。その日は慶応の願書締切日、母親が午後用事がありますのでと言って午前中に成績表を受け取り、日吉へ行った。3時締切なのに2時45分受付についた。本当に滑り込み、受け取ってくれたのは事務局の池田さん、後に野球部でお世話になった人よく覚えて居る。帰って来て君に報告したよね。合格したら、一番喜んでくれたのは君だった。「帽子は、ポマードを塗れ、金ボタンは墨を塗れ...ピカピカだと直ぐ新入生だと馬鹿にされる...」そこで2年H組に入れられたが、みんな落第生だとおもった様だった。良く普通部は三井のグラウンドで野球をやりに来ていたから、そのたびに君は声を掛けて呉れたね。或る時は人が足りなくてチームに入れられて野球をやったが、お陰様で日吉に行ってからも顔見知りが結構いて違和感はなかった。クラスは違ったけれど無事二人とも経済学部に進めた。当時、成城学園中学から来た中川君と言う奴が居たが、これも、僕は顔馴染み。二人とも野球部に入ったんだけれど、余りにも部員が多いので、直ぐ辞めてしまい、ハンドボール部に移ってしまった。そんな経過で、一緒に慶応で野球をやる事は無かった。

・卒業後

僕は家業の自動車販売、君は超大手不動産会社に入ったが、その後、不動産開発の会社に移った。良く銀座の事務所に立ち寄ったが、そこで、又古い友達に会う事もしばしば在った。或る時、立ち寄った時、「今度、ドイツの方へ社員旅行で行くんだ...」と言って居た。僕も、会社でその予定はあったのだが、そんな詳しい話はしなかった。1990年の事である。僕らの方はドイツに入りフランス、パリ、イタリー、ベニスを回る旅だったが、ドイツからライン川下りのコースだった。町は忘れたが、ライン下りの乗船場で舟を待っている時「おい―ヒロちゃん...」と大きい声で呼ばれた。何と、政克ちゃんが呼んだのである。まあ、驚いた。日本語の大きい声、周りの人も驚く...「増田君、君は本当に顔が広いね...ライン川で友達に会うなんて...」「僕の親友なんですよ」二人ともヨーロッパは始めて、本当に驚いた偶然だった。あの乗船場の出会いは、今でもハッキリ覚えて居る。

 ・犬

此れも又凄い思い出。政克ちゃんのお父さんは犬のブリーディングをやって居た。当時は珍しかった「エァーデル・テリア」雌名前は「花」その次は、大型秋田犬僕は雑種の「タロー」ある時、政克ちゃんのお父さんが、「どうせ犬を飼うなら血統書付きを飼った方が良いよ。エサは同じなんだから...」と言われて、タローが死んだあと三越の畜犬売り場で柴犬を3000円で買って貰った。この犬が、耳が立たない。まあ、余りいい犬では無かったと言う事。僕の親父も動物は好きで、次にはエァデール・テリアを飼った。この後、コリーも繁殖をしたり展覧会にも出すようになった。最後に「ゴールデンレトリーバー」にたどり付いたが、政克ちゃんもゴールデンを飼いたいと言い、家の系統と同じ英国系のペール・ゴールドのメスを飼って、繁殖を始めた。「東京南ゴールデン倶楽部」と言う、訓練手さん達に力を借りて会を作った、最盛期は650人位の会員が居た。浜田さん、坂本さん、政克ちゃん、僕らがコアーメンバーである。イギリスのブリーダー巡りをしたり、クラフト展に行ったり可成りな熱の入れようだった。或る時、政克ちゃんがパグの子供を持って来て、「ヒロちゃん、お宅で飼って呉れよ。誰か貰い手があれば上げてもいいよ。血統書は無いけれどいい血統の犬だよ」と言って来た。仕様が無いから家で暫く飼ったが、この犬は「帯紐」を見つけると凄く喜んではしゃぐ、面白い性癖を持っていた。屹度、自宅では飼えない訳があったんだろう。詳しい話は聞かなかったが、ご近所さんで飼ってくれる人を見つけて、飼って貰った。政克ちゃんの父上が一番可愛がっていた、エアデールは「花」と言う名である。面白い事に彼が飼った初めのゴールデンは「花」と言う名前を付けた。「呼び易いからなァ」と言って居たが、何か父上からの拘りがあるのだろう。彼の父上は確か大学1年の時かな、早逝されたが、兄弟4人一時期は大変だったろうと思う。然し、長男として、弟一人、妹二人きちんと暮らせるようにしたと思う。勿論、弟、妹さんの自立するまで...

・最後に

この4~5年は、電話で話す位だったが、何時も、リアルタイムで話が出来る。ついこの間も1時間半位、話したばかり何時も「ヒロちゃん転ぶなよ...」と言ってくれた。奥さんが亡くなってから、やはり寂しかっただろうなと思う。僕は兎に角、僕の全てを知って居る政克ちゃんが亡くなって本当に寂しい...僕の今迄で一番の親友は、加藤政克代返しっこして、優等生に成った三保敬太郎、大学で野球部に入りたいと言ってきて、「絶対に4年間、辞めない」と言って、毎日、バッテイングピッチャーにボールを渡す事だけを4年間やって居た嵐康一郎この3人は皆、居なくなってしまった。

 P,S

Blog '15-8-18 "機銃掃射の体験” 

 

 


“Diary151”      ’19-8-6

2019-08-05 22:10:57 | Massy's Opinion

★     Massy’s Opinion

・7・1豊川稲荷

例月通り ワイフのお供 一応本殿だけは無心のお参り ワイフは小さい神様にもお参り、そして、菊家でいつも通り「冷やしタヌキうどんにとろろをトッピング」正直な処、あそこのそば、うどんは美味いのだ。最近は、ダイエットの為、好きなお餅を避けている。

 ・7・⒒ 21世紀の会 昼食会 於 新橋亭

もう此の会も20年近くなる。初代会長は、ボクシング部の相川君。最近夜の会には、殆んど来ない。現会長の呼びかけに、「昼間なら参加するよ」と言う事で、講演無しの昼食会に成った。同級生が3人 昼間だとみんな元気。久しぶりの顔ぶれで肩の張らない2時間だった。

 ・7・12 葵めぐみ 音楽会 於 内幸町ホール

葵めぐみさん フルートを吹くミュジッシャン。もう顔見知りに成ってから、5年は過ぎたかな?赤坂のライブハウスで野原さんに連れた行って貰った時、フルートだけのソロ・ライブだったが、合間に小さな物語の朗読を入れたステージだった。仕切りやの下田さんから声を掛けられて、付き合った。初めに新橋の路地裏の飲み屋で下地造り、中々いい店で適当に歓談。第一ホテル前の会場、「内幸町ホール」へ行く。初めての会場で、こんなところに手頃な会場があるなんて知らなかった。バックバンド、ピアノ、ベース、ドラム、サックスが付く。サックスは初めてだが、ソプラノ、アルト、テナー、バリトンと4本持っている人が付いていた。恵さんのフルートから始まり、朗読、衣装替え2度?曲目に合わせた舞台背景の照明。約2時間彼女のコンセプトが良く解る舞台だった。250人位ほぼ満席。女性客が多かった。僕には、なかなか面白い創造性のある音楽会だった。

・7・13 安蓮社 住職 来宅

お盆で住職がお経を上げに来てくれた。家では迎え火を焚いて、恒例の仏の迎え入れ、ワイフは非常に熱心。ご近所ではもうこう言う儀式はしなくなった。今の時代、仏事が一番形が変わって来ているかも知れない。

・ 7・14 野球部を囲む会 於 BRB

応援指導部OBの有志が主宰。岡部長を始め、現役のベンチ入りメンバー他、約30人が参加。OBはネット裏の常連が中心。まあ。恒例の秋頑張ると言う決意表明、岡部長と懇談が出来たのが成果。

・ 7・17 明石元継 個展 青山サロンドクルール

例年通りの個展 場所柄も昔は住宅街だった表参道の裏側。すっかりと周辺が開発されて、日本離れした雰囲気のエリア。あまり大きくなく30点位の明石トーンの絵が飾られていた。どなたか知り合いの方がビルを新築されて、全館に、この個展の作品を飾る為、全部買い上げてくれたとの事。明石さんの娘さん夫婦が来られただけで、一時間半位二人で話をして来た。明石さんのビユウポイントは、ハワイのラハイナもベニスのゴンドラも僕のカメラで撮った写真同じで、チョット一味違うんだ。

・7・18 Gary’s Family 焼き鳥デイナー 於 ニューオオタニ 伊勢広

まあ、これも恒例のMr.Garyの来日。Familyで来るのは、4年振りとか…H/Kを回って神戸、東京と奥さんの実家仙台と言うツアー。子供長女のサーシャと長男のコーリンが大きくなって驚いた。久しぶりの伊勢広もいいセッティングで子供達もとても喜んで呉れた。

・7・21 訃報 3件

長く生きているとこんな事もあるのかな?と言う事を痛感した。あさ8時半頃小学校からの大の親友加藤政克君の妹さんから、「ヒロちゃん、昨日兄が死んだのよ。」「えっ如何したの?1週間くらい前に1時間位電話で話したのに...いい声で足は兎も角、元気そうで、毎日の暮らしぶりを話したのに...」「家の中で転んで、立てなくなり救急車を呼んでもらい病院へ行き、その儘、心臓が止まったらしい。もともと心臓に持病もあったしね...」彼は戦後高井戸小学校から始めて慶応普通部を受験して、僕は落ちて、彼は合格したのである。その後、高校の時願書を持って来てくれて、僕は高校受験したのである。別の機会に彼の思い出は記したい。後輩のS君のお母さま)96歳天寿を全うされた。東京日産野球部で明高~明大で島岡さんが明高監督の時代の兄弟選手。彼も近年病勝ちだった。10日位前に僕の自宅に電話があり、何か訳の判らない話をするので、ナースセンター聞いてみた。肺がんの末期で家に帰りたかったらしい。彼の入社の時には、島岡御大がわざわざ入社3年目の僕の職場へ挨拶に見えた。当然、人事に寄った帰りである。当時、絶好調の明治の監督がわざわざ、ぺいぺいの僕の所へ「よろしく」と挨拶に来られたのである。あの人の部員思いはそういう細かい気づかいにもあったのだろう。その後、随分面倒を見たが、寂しい限りだ。もう一人の木村君も長い病に伏している。

・7・23 桜井君 見舞い 浴風園

此れも僕の部下、余り仕事では一緒に成らなかった加藤勲君が「桜井さんがマッサンに会いたがっているから、近い浴風園に居るので、顔を見に行ってやって下さいよ」と連絡があった。本人の様子は風の便りに聞いていたのだが、久しぶりに高井戸駅から歩いて浴風園に行って来た。病室も解らないので、受付で聞け「ば...と思って行ったが、「個人情報でお部屋の番号は教えられない」と言われた。仕方ないので、加藤君に電話してもう一度居場所を確かめて探しに行った。「多分、集会所みたいなところに居るのだろう」と大体予測通り、集会所に居た。何か、「ぼーっ」としている。「よおっ、桜井君」反応がない。「マッサンだよ」思い切って手を握る。さっと顔が赤らんで目が輝いてくる。「本当に マッサン?」「そうだよ。元気そうじゃないか?」「足が不自由なんですよ。此の手押し車が無いと歩けないんですよ」その内、加藤君から「今すぐ娘さんが行くから...」久我山で近いと言っても小一時間は掛かるだろう。意を決めて桜井の顔を見ながら昔話をしたり...その内に娘さんが来ていろんな話に小一時間を費やす。もう、本当に色んなお見舞いに行ったけれどこんなに喜ばれた事は初めてだった。彼は、その昔、余り、営業向きでは無かったので、自動車登録に必要な司法書士の資格を取らせたのだ。その後、法律が変わって、デイ―ラーには、司法書士を置くことが義務ずけられた。これは、彼のサラリーマン人生では凄く大きな力に成ったのだ。足、何か挑戦する意欲、彼は、確か囲碁は段持ちの筈、それもやる気が無くなったらしい。あんなに喜んでくれたなら、少しでも意欲を戻して呉れたらなと思う… 

 ・ 7・26 シマコ大島、加藤勲 来宅

3時に大島君が遊びに来ると言う前からの約束。そこへ加藤勲君が桜井君の所へ行ってくれたとお礼に来ると言う。加藤には「12時に待っているよ」彼もとても喜んでいた。

大島君とは、会社時代の話、彼は大手の保険会社に勤めていたのだが、いすゞ、ホンダ、スバル等のデイ―ラーを担当していたので、共通のを裏話で話が踊る。何処もやって居た事は大同小異。ゴルフも年間最高70回位やったと...僕より少し、少ないな。

 ・ 7・29 植木 通夜 東十条 互助会ホール

明大出の連絡網を仕切っている柴田君とお通やに行って来た。屹度、寂しいお通やだろうなと思っていたが、さすがに野球関係の人は居なかった。息子さんの会社関係とか親戚関係含めて60人位の参列は有った。何よりもご家族も覚悟はされて居たのだろう。奥様に久しぶり40年振り位にお会いしたが、お元気だったので、ホッとした。マンションのご近所の人とお話をしたが、ご近所とは良いお付き合いをしていたらしい。           唯、植木君は島岡監督時代の明治高校の兄弟野球選手だったと言う話は全然知らなかったと言う事。良く酒を飲んだが一言も喋らなかったそうだ。植木の気持ちが解る様な気がする。