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<Font size=3 >“南カリフォルニア”      ‘10-8-31</Font>

2010-08-31 07:14:23 | Megu's Sports
 Megu’s Enjoy Now!


今年の夏、日本にいるうちの親や、友達から“ほんとに暑いよ~”って悲鳴を何度も聞いた。カリフォルニア以外の州でも猛暑が続いているらしい。サンフランシスコ近辺では、涼しい夏が続いており、とは言っても26-28度の湿気のない晴天の日々が続いているので、特に文句はない。多くのカリフォルニア人が“カリフォルニアは一番いいね~”と言っている。



3週間まえに、ConferenceがありLong Beachに言って来た。 Long Beachは、Los Anglesから車で40分程南にいったところ。滞在したのは、さらに20マイル南に行ったNewport Beach。大学4年の時に、Athletic Trainingのプログラムのある大学を探しにカリフォルニアを3週間程訪ねた。親父の友人が、 Newport Beachに住んでいたので、そこにお世話になったのだ。今月の南カリフォルニアでの滞在先が、親父の友人が住んでいた家の近所。15年前に訪れた時、走った道,その道沿いにあるストアー、アパート、空き地などを覚えていたので、懐かしくなった。



Beach: お世話になりながらも、 Newport Beachにいたのに、どうも“Beach”に行った覚えがない。だから、今回は “Beachに行くぞ” と言うのが大きな目的(Conference以外に...)。と,言う事で,人気のない朝に、1日は、Corona Del Marまで走りに行き、次の日は Corona Del Marで泳いで来た。 湘南の海水浴場のように、 昼間は人でびっちり混んでいるけど、水もビーチも超きれいなのだ。とりあえず、目標達成!



運転:Conferenceの一日目。Newport からLong Beachまで、Freewayを使わずに海岸道路を通って行く事にした。出だしは順調。ビーチを見ながら、“Complete Southern California Experience!!” なんてウキウキしながら運転していたが、会場の近くまできて道に迷い、Long Beachの港に来てしまった。iPhoneのナビで、15分後にどうにか会場までたどり着く。帰りは帰りで、海岸道路まで出るのに、四苦八苦。慣れない道を運転するのはチャレンジだ。おまけに、L.A.近郊の人々の運転は荒い。もたもたしている、よそ者に容赦なし。ようやく、海岸道路にたどり着いたと思ったらサーフィンのコンテストで渋滞...。25分で1キロ程動いただけ。Conference出来たんで、ドライブが目的じゃないはずなんだけど。精神的にげっそり疲れてしまった。車とめて、ビーチで昼寝しようかと思った程。



英語:Newportの滞在先の近くにFashion Islandと言う大きなショッピングセンターがある。15年前に来た時に、すべてが目新しくて、かなり、そこで買い物をした。
その中で、日本ではあまり見かけない(当時)チョコレート・ラズベリーフレーバーのコーヒーを買おうとした。家にグラインダーがないので、コーヒーの豆を挽いてもらいたかったんだけど、”Ground Coffee” (挽いたコーヒー)という言葉を知らなかった。片言の英語と手仕草でどうにか、豆を挽いてもらおうとしたんだけど、どうも相手に伝わらない。そこで、紙とペンをもらい、コーヒーポットと、フィルター、やかんの絵を描いて説明をしたら、ようやく伝わった。苦労したかいがあり ”Ground Coffee” を手にいれることができたのだ!この時の満足感は忘れられない。この経験から学んだ事:“欲しいものは、何としてでも手に入れる”。振り返ってみると、自分の英語もこの15年で、かなり進歩したものだ...。






<Font size=3 ><後継者選び...>      ‘10-8-24</Font>

2010-08-24 01:08:44 | Massy's Opinion

Thinking!


☆ 民主党の代表選がマスコミ紙上を賑わせている。何だか皆が小澤さんに振り回されているような感じ...来週一杯全てが様子見で、なんら手を打つこと無く、円高、株安で推移しそうだ。この酷暑の中、一般社会は先行き不安と「寄らば大樹」的な考えの人が多く、停滞感は強まるばかり...


☆ さて、そんな情勢の中、ショッキングなニュースが飛び込んで来た。一部上場会社「ユーシン」の「社長公募」である。記事を見たとき「エッ、この社長暑さに当たったの?」と言う感じがした。増して、自動車関連の会社である。余り、知名度の高い会社ではないが...早速、色々情報を集めてみた。「うん、ヤッパリ外資導入を巡って色々在ったようだ。マア、例え、野球にチームであれ、労働組合であれ、中小零細企業であれ、どんな組織でも、トップと「副」では対立するものである。対立を超えるものは上下の「信頼」と沖縄興南高校野球部のような「日本一」「連覇」と言う目標だろう。あの会社も「年功序列」「高度成長」の中で推移して来たに違いない。社長より下の人は話を聞いていたのか?社内の「信頼関係」はズタズタに成っていると思う。

☆ 僕は職歴の中で、何時も後任を考えていた、しかし、どんな信頼をしていた後任も100%僕の考えて居た様には成らない。それはそれで良いが、応募してきた人は1770人位という。如何いう選抜の仕方をするのか?この問題が如何終結をするのか?興味津々である。 

  
☆ さて、コンビ二業界も大手3社に絞られて来たが、店の数ばかり増やして、売上高競争をしているが、数多くの拠点責任者の教育が大変だろう。大きな数の拠点と経営管理のための費用が経営を圧迫するだろう。最近では人材教育が大きく叫ばれているが、そんなに簡単なものではない。僕は’80年代から「拠点別責任体制」論者である。自動車ディーラーに居た時、新中併せて65箇所位の営業所があった。

 
当時、良く、「拠点長教育」について、上司に提案したものである。
1、100人の拠点長希望者を社内で募集する。
2、その中から「社内で望まれる上司」65人を社員の投票で選ぶ。
3、35人は次期拠点長候補として、ホテルのフロント、デパート、飲食業等に出向させる。
4、現拠点長は成績達成度合いの下のほうから交代させる。

 
こんな、拠点長教育を考えた。しかし、当時の上司は「会社にそんな余裕はない」取上げて呉れなかった。自分が社長をした会社では、拠点の数も会社の役割も違ったので、こんな考え方を「雑学を持て...」「Keep Your Eyes Open!」「次のPlayをかんがえろ」をテーマにで幹部教育をして、人事を行った。何処でも人材難、此れは長期的視野、自分の後の会社を如何するか?の考え方の欠如につきる。この会社は上場会社で有るし、公募した社長候補も株主総会に掛けなくては成らない。社長一人では応募者に対する対応も大変だろう。社長の悩みは解るが、余りにも突飛な感じがするし、裸の王様の社長が気の毒だ。




<Font size=3 ><酷 残暑 雑感...>   ’10-8-17</Font>

2010-08-17 07:43:50 | Massy's Opinion

☆カレンダーの上では「立秋」を迎えたと言うのに、この狂ったような暑さ...
毎年終戦記念日には「玉音放送」をぼんやりと思い出す。僕がこの浜田山に住んだのは終戦の年の4月から...



☆疎開は群馬県桐生市の伯母の家にお世話に成った。桐生の繁華街の真ん中。当時の浜田山は家の通りに6軒くらいの家しかなく、周りは全部畑だった。神田上水を中心に田んぼが広がり、駅の近所の炭屋さんの伯父さんが鉄砲をやり、神田川の南側の雑木林にウサギ狩りに一度連れて行ってもらった。まるで、疎開から帰って来たら街中から離れた田舎に来たようだった。神田上水の水は井の頭を水源に綺麗な冷たい流れで江戸城のお茶の水に成ったとか...川幅は大きくないが今は護岸工事が施され当時の自然の形態は見る影もないが、鯉が沢山元気に住んでいる。



☆不思議な事があるもので、昔は鮒を始め、タナゴ、なまず、時にはうなぎも釣れた。そして、昔の釣りのポイントがあった部分に今でも、時折、小魚の魚影を見ることがある。
今では神田上水の側まで家が建ちところどころに昔のかすかな面影を感じるだけである。終戦の年は東京大空襲があり、この川端で艦載機の機銃掃射にあった事もある。グラマン艦載機のパイロットの白いマフラーが見えたのを良く覚えている。



☆でも、あの頃は今日この頃みたいに暑くなかったと思う。矢張り、畑がなくなり、マンションが立ち並び、コンクリートジャングルになった、反射熱の影響が大きいように思う。
☆今年は特に気に成るのはセミが少なくなり立秋を迎えると一段と盛り上がる蝉時雨が余り聞かれない。又、最近は雀を初め野鳥がめっきり少なくなった。夜、風呂に入るとコオロギ、カネタタキ、等の虫の音が煩いくらいだったが、今年は如何なのだろう?
兎に角、自然が少なくなっている事を今年ほど感じる夏はない。あの終戦の日も暑かったが、モット爽やかな暑い日だったように思い出される。



☆街中を歩いていても働く人が、不景気と、先行きの見えない社会の中で、疲れきった顔をしている。家具や備品が傷んでくるので、部品の買い方や修理方法を問い合わせるが、入社間もない女子社員では、知識が無く応対が悪い。高齢者のベテランを消費者窓口に配置したら如何なんだろう。兎に角、早く社会の空気を立て直して欲しい。上場会社で社長の「公募」を始めた会社が出てきたが、社長と社員のギャップが相当大きくなったのだろう。色々、考えされる「酷 残暑だ」




<Font size=3 ><東京6大學野球の裏方>    ‘10-8-10</Font>

2010-08-10 08:44:08 | Massy's Opinion

Memory!

☆想い出すこと
先週のブログで立大砂押監督逝去の報に接し、少し文章を書いたが、その後もあの当時、六大学野球全盛期のことが思い出され、ポイントだけでも書き残したく成った。
☆僕の大学入部は1953年、当時の六大学の監督は早稲田 森茂雄、立教 砂押、明治 島岡、法政 田丸、慶応 阪井、 東大 坪井?と言うような顔ぶれだった。
☆島岡さんは元応援団で明治高校の監督から明高のメンバーを沢山連れて、大學に乗り込んで来た熱血監督。田丸さんも法政二高の監督から殆どのメンバーを連れて大學の監督になった。それぞれ黄金時代を築き上げている。


R: さて、当時の各校の練習は、2箇所のケージで先ずフリーバッテイング、5本X4回、試合形式のレギュラーバッテイングと言う流れで、今のようにマシーンは無かった時代である。慶応は阪井監督、河合、山本、藤田の好投手を擁し、野手は山下新造キャプテン以下、花の30年組みが居たが、優勝には縁が遠かった時代である。30年の連中のスイングには驚いたが、バッテイングキャッチャーをやっていると「プーン」と焦げ臭い匂いがして来る。此れは後で解った事だが、ファールをして、バットとボールの擦れる時に出た匂いだった、その位スイングが早かったのである。
☆丁度、今頃の時期、夏練が始まった頃、阪井監督に呼び出され、「立教、明治、早稲田法政の練習を見て来い」と言われた。多分、選手ではないし顔を知られていないから...と思われたのではないかなァ。一番、初めに当時東長崎の立教のグラウンドへ行った。勿論、長島は2年生、大きかったし、新人戦でも見ていたので直ぐ解った。いや、驚いた事に3塁側のケージで一人でバッテイングをしていて、他の選手は1塁側だけ...「良くあれだけ、一人の選手を特別扱いに出きるなァ」と驚いた。1塁側のブルペン砂押さんが行くので其方に付いていって見ると,小島投手が練習をしていたが、砂押さんは小島投手(左腕)に毛糸の手袋を左手に嵌めさせてニューボールでピッチイングを始めさせた。此れも又、驚き... 指先にボールが掛かるように練習させたのである。中々、コントロールは付かない。こんな練習方法は見たことがなかった。激しい練習の仕方が後に砂押監督排斥事件の底流になったかも知れない。晩年、日鉱のレストランで2~3回ご一緒して、昔話をしたことが有るが、「俺も、若かったよなァ」と言う言葉が耳に残る。「長島は年末、車のトランクに一杯肉を持ってきたが、最近は来なくなったな」とも言っていた。今から17年くらい前の話である。 


M: 明治の練習は島岡御大の一番熱かった時期かな。応援団出身でノックは余り上手くなかった。内野ノックをしていると、強いゴロが打てない。段々、前に出て内野の真ん中に行ってしまう。それで、選手がミスをするとバットで太ももの後ろを殴る。勿論,しょっちゅうではない。新人投手がレギュラーバッテイングを投げるが、関口、浮貝等のサウスポーが素晴らしいナックル(当時は少なかった)を投げていたのが、印象に残っている。’60年明治からセンターのK君とショートU君会社で採用したが。島岡御大は当時入社3年目の僕の所まで「二人を宜しく御願いします」と挨拶に来られた。兎に角部員の就職などの面倒見は抜群に良かったので部員の信頼は厚かった。勿論、僕はその二人とは今でも付き合っている。OB戦六球会の時の明治ベンチは、今でも御大の口癖「何とかせい!何とかせい!」と言うか掛け声が飛んでいる。


W: 早稲田は岩本尭、広岡、小森の時代、センター後方に安倍先生の銅像がある戸塚球場で岩本さんが打ち込む打球には驚いた。当時の森監督はプロの監督も経験されていたし余り変わった事の印象は無いが、広岡、小森の守備は抜群に上手かった。森監督はプロの阪神タイガースの監督をされたり、と当時の帝国大学をコーチされたり、マネージメント能力は優れていた監督である。練習は当時のメンバーが揃っていたことも有るが、どっしりとした、正攻法な練習をしていた。


H; 法政は田丸監督、法政二高と塾高時代に良く試合をしているので、「何だお前スパイに来たのか?」って言われた。「えーそうです」「誰に言われたんだ阪井か?」「法政強いですから...」


☆当時は入場券の切符切りは1年生の仕事。対戦相手校の入り口が持ち場。同級生や女学生が入れてくれと言われると、相手校に頼みに行く。早稲田学院、法政二高と言うように良く試合をした連中が居て結構顔見知りが出来る。あの時代、先乗りスコアラーみたいな仕事は他所の学校はやって居なかった。勿論、帰ってきて、監督に一部始終を報告したのは言うまでも無い。ヤッパリ砂押さんの話には渋い顔をしていた様だった。
☆僕が日産のデイーラーの社長に成ったときある自動車学校に表敬訪問に行った。其処のオーナー社長は早稲田学院出の人だった。部屋に入ると机の上に「嵐が岡球場」(昔の塾高野球部野グラウンド)で学院とやったオープン戦の集合写真が置いてあった。要するに、昔の写真を出して待っていてくれたのである。此れは本当に嬉しかったね。今年は学院が強くなって西東京では早稲田対決が見られた。彼は、学院野球部の監督も暫くやっていたはずで、喜びもひとしをだろう。裏方には裏方の色んな思い出がある。


<Font size=3 ><Diary 43>     ’10-8-3</Font>

2010-08-03 08:12:49 | Massy's Opinion

☆野球とゴルフ  高校野球、神奈川予選 慶大野球部優勝祝賀会、等。
・塾高 順調に5回戦まで勝ち上がって、宿敵 東海大相模に敗れる残念。何しろ神奈川の球場は遠いいので、ITの速報とテレビで応援。振り返ってみると、投手陣は弱体を予想されながら、4試合を完封。打線の残塁の多いのは最後まで修正できなかったな。東海大の一二三投手良く思い切ってフォームを変えたな。塾高はあのような投球には弱い。僕等の大学時代、全盛期の六大学、明治~大洋の秋山、立教~南海の杉浦。此れを打つために、猛練習をしたっけ...我が仲良しのH、N君、185cm90キロのオーバースロー投手まで、体が硬いので不様なフォームで一生懸命に下から投げていたのが、未だに目に浮かぶ。あの頃はマシーンが無いから、フリーバッティングも皆、下から投げさせられた。そういう意味では視点を変えた練習が要るのかな?でも、いい2年生が残ってもう練習に入っているので、次に期待しよう。しかし、何処の学校も強くなっている。

・三田倶楽部主催の慶大野球部優勝祝賀会が開催された。江藤監督のキャリアーから従来の三田倶楽部の行事とは色が変わるかな?と思っていたが、現役部員含めた約550名の大宴会。久し振りで逢う顔ぶれも多く、楽しかった。話題は、当たり障りの無いゴルフが飛ばなくなった話。林薫君ドライバープロギアーM-37のロフト11度、加藤雄司さんも12度だって...皆、考える事は同じ... まあ。来賓の御挨拶に巨人軍の滝鼻オーナーが立たれたが、在り来りの御挨拶。あの人が「塾員だ」何て知らなかった。

・砂押さんが亡くなった。H,N君が日鉱時代、砂押さんのマネージャーをしていた関係で車も買って貰ったり、立教時代の長島の話をしたりした事がある。兎に角、超スパルタだった。その時の話をすると「俺も若かったよな...27歳だったよ」と言われたのが鮮明に頭に残る。

・神奈川決勝戦 東海大相模32年振りとか...甲子園は本当に難しい。塾高が負けたチームが優勝で少しホッとしたり...横浜の1年生サウスポー凄いな!将来が楽しみ。

・イチローの7月の打率が猛烈に悪いだろう。バッテイングの中味が悪い。体の切れが無いようだ。アウトコースの空振り、見逃し、直感的に重症だと思うティームも酷いがトレードの失敗か? 頑張れイチロー!我が「電子的友人」が芦屋から応援に行くよ!
http://d.hatena.ne.jp/katchan/20100729 



☆政治、社会 菅内閣 大丈夫か?小澤問題の結論を急げ
まあ、何処までもけじめの付かない政界。菅さんも酷いもんだ。福島さんも辺野古ばかり、
安全保障問題、50年後の日本の在り方、如何いう社会主義国家を造りたいのか?創新党も酷い、山田、中田コンビも再起できないのでは?慎太郎も「たちあがれ」は都政にも響くだろう。小澤さんももう自身の身の処し方を明解にしないと駄目だ。労働組合も駄目本当に困ったものだ。最低賃金の合意や、在り方くらい明解なビジョンを持つべきだ。臨時国会が始まるが、如何しようも無い国会になるだろう。民主主義は時間が掛かるが歴史的に低次元な国会になるだろう。

☆経済 昔の刷り込み 増資の良し悪し 
小さい時の刷り込み、要するに親から教わったことや、会社に入った時、始めて聞いたことは忘れないものだ。僕の入った会社は、当時のモータリゼーションの恩恵をもろに受けた好景気の会社。確か、2年の内に3回位の倍額、無償増資をしている。だから当時の上役は相当増資の恩恵に浴している。僕もその後20年位は「増資はいい事」と信じていた。しかし、最近の増資は赤字補填の増資が多いように思う。先週のMeguの記事に「小さい時の刷り込み」の強さが良く書かれている。親や、或いは上司はこう言うことの責任を持つことが大事だなとつくづく感じている。