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<Font size=2><Diary V 沖縄周遊>     ‘06-10-31 </Font>

2006-10-31 22:28:52 | Massy's Opinion
10月25日~27日まで沖縄へ行って来た。ザット20年前の1984年~86年に掛けて沖縄へ3度行った事がある。それ以来のことであるが、沖縄の激変に驚いた。専門の自動車を中心にレポートして見よう。

今度の旅は中学時代の野球部の妙に気の合うY君と麻布十番のコージーサークルへライブ(exp,Diary Ⅳ)を聞きに行った帰りに、急遽決まったツアーである。Y君の兄貴も野球部の2年先輩で3人とも3w(=weed,wine,womenの文学の3要素)が好きで、加えてmusicとbaseball。そして、今日までこの兄弟とは仕事上でも縁があり、50年も親しくしている。兄貴は今、現地バス会社の社長をしているが、「一度在任中に來沖しろよ」と言う誘いも有りY君が全部ブッキングしてくれた。

沖縄の自動車市場は専門語で言うと「流入市場」で昔は駐留軍人が帰国する時に置いて行った自動車が主たる商品であり、(本土でも米軍キャンプが在るところの周辺には「外車」を扱う自動車屋が多く、立川、福生周辺もその名残である)その他は殆どが本土から中古車業者が仕入れて売っていた。新車を買うだけの購買力が無く、下取り中古車の発生が少ないので、中古車は「流入市場」になっていた。80年代関東各地は「流出市場」だった訳である。丁度、本土では中古車オークションが盛んに成り出した時期で、この展開準備に沖縄へ行ったのである。確か、当時でも人口110万人くらいで、自動車の保有が100万台位あり、つきに4000台位の中古車登録があったと思う。

昔は宜野湾近くにオークションが出来る広い会場があったが、その近辺はすっかり開発されホテルやマンションが蜜集していた。大体、自動車屋は文化の発展度合いが進むと、街の中心部から離れて行く。地代が上がると経営が苦しくなるから、安い地代の所へ移る訳である。然し、今の沖縄は中古車屋と整備工場は東京に比べれば遥かに多いようだ。

往きの飛行機も修学旅行が多かった。海洋博や多くのイベントの跡地をテーマパークにして、観光客の誘致を図っているので、観光バスが皆新しく綺麗なこと、タクシーも本土並みの綺麗さであった。昔は塩害によるサビなどで床に穴が開いている様な車も在ったが、車の防錆性も良くなったのだろう。タクシー、バスの公共輸送機関は20年前と様変わりだったし、モノレールも出来ていた。

2日目は観光バスの定期観光コースで琉球村、万座毛等を回り名護から高速で那覇に戻って来た。改めて、米軍基地を良く見てきたが、P3Cが離陸している所が見えたり、一部返還されている広大な跡地の利用等を考えると、「何故、こんな事になってしまったのか?」沖縄問題の複雑さ身近に考えさせられた。

20年前の沖縄は田舎然とした基地の町で、昔は建物や風土がマカオに似ているなと思った。今度は、斜面に立つマンションは香港的だったり、リゾートや人口海浜はハワイ的だったり、街かどには台湾的な商店があったり、交通渋滞はサンフランシスコのブリッジ周辺のような感じがして、何か複雑な感じの旅だった。唯、間違いないことにはこの20年間に莫大な投資が行われた事は間違いない。沖縄オークションについては次の機会に裏話をしよう。



<Font size=2><公園での出来事...誰が教えるんだろう?>     ’06-10-24</Font>

2006-10-24 20:53:48 | Massy's Opinion
教育の空間50年
安部総理の「美しい日本」の方針の中に教育問題が大きく取上げられているが、総理はこの問題を本当に根源から理解して居られるのかな?

僕の住んでいる杉並の浜田山に「柏の宮」と言う公園がある。真ん中に広場がある良い公園である。近隣にマンションが増えた為か、晴れた日の午後は小さい子供や犬連れのヤンママや高齢者がたくさん来ている。

陽気も良いので散歩に出掛けてみた。そこでの出来事と考えたこと。

1歳~2歳位の子供をつれたお母さんがいた。可愛い子供なので、暫く眺めていた。

その内に、子供がタンポポの実を見つけて取り出した。綿毛のタンポポの実は綿菓子のようで手折ると実が散って行く。未だ、黙って見ていたが、確か、あれは小さい時、「耳に入ったらツンボになるよ」と母親か先生か誰かに言われた記憶が読み帰って来た。子供は段々顔の側へ実を近づけ、口を尖らせて、息を吹きかける。実は「ふわふわ」と飛び回る。つい余計な事と思いながらお母さんに「危ないよ、耳や目に入ると大変だよ」「はい、知っています」と少し目を吊り上げて応えた。「本当は知らなかったんじゃないかな」と感じるようだった。暫くして子供に「僕、もっとお顔を離して...もういいでしょ!」と言っていた。

お母さんの年は精々26歳前後、若し、浜田山に住んでいたら、6~7才のその頃、此処は「興銀のグランドで中に入れなかった」「僕たちの10歳くらいの時は、今みたいに広っぱで毎日遊びに来ていた。きっとこのお母さんは幼少時代、余り自然に触れることなくすごしたのかな。キットそうだろう。遊ぶ場も無いし、お受験で追われっぱなし」ウン...この50年、高度成長まっしぐら...自然と遊び、愛情を受け、そして、引き継ぐ...この50年、得て物も大きいし、失くした物も多い。「教育法の問題も大事だが、矢張り、リーダーたるべき人自身が本当に大きな人格を磨くべきだろう。ごちゃごちゃにした小泉さんの言葉、教育には積み重ねが大事。教育の中で失われた50年取り返すのは容易ではないだろう。今、福沢諭吉の「経営思想」を読み返すと、この時代に必要なリーダー論が出ていて新鮮である。


<Font size=2><strong><新会社法 初対応>       ‘06-10-17</strong></Font>

2006-10-17 17:03:58 | Massy's Opinion
☆株式会社増田商会は7月31日が72期の決算である。従って、決算役員会、新商法に適合する定款の改定、役員体制をきめ、株主総会に報告、賛意を得て、税務申告と諸事項の登記と言う作業が続いた。

前回‘06-4-18のブログで「新会社法の時代」と言うことで記載をしたが、いよいよその実践段階だ。我が社の税理士先生も既に35年のお付き合い、T岡司法書士事務所はさらに古く父の代から50年位のお付き合いだ。

前記のブログを見て貰ったが、「まあ間違っていないでしょう。本当に長いお付き合いですね」「今度、役員の任期なんかが長くなると、司法書士さんも仕事が減ってしまうよね」 来客を見ると矢張りこの際「会社をなくしちゃおうかな...」「新規に資本金1円で会社を作ったら...」とか相談に来る人が多い。現実には会社を作るには資本金の制限がなくなっただけで、登記料とか、諸々の費用で、40万くらいは掛かってしまうようだ。

未だ、法律改正が施行されたばかりで、運用、解釈については司法書士さんでも解らない所があると言う。前回のブログのように「会社の価値」「信用」がどのように評価されるのか?暫く世の中の反応を見ていかなくては...

これから所謂「代書屋」さんは当分の間、コンサルタント業務が増えるだろう。

我が社は役員3名任期4年、監査役1名の体制にする事にした。零細企業には2年ごとの改選による登記の手間が減るのは良いことだが、「区切り」が無くならない様にシッカリ経営して行かなくては...暫く振りで登記所に行ったが、一頃ほどの人の動きは感じられなかった。(自動車が売れていないのだろう。自動車は登録の為書類が多いから...)景気は余り良くないのだろう。





<Font size =2><激動の予感>     ‘06-10-10</Font>

2006-10-10 10:45:13 | Massy's Opinion
☆これからの世界は何処に行くのだろう?
北朝鮮の核実験ニュースが駆け巡り、世界は大きな不安がうねりとなり、改めて危機感を現実のものとして感じるだろう。幾つかの報道に出ていたが此れだけは明確な事実である。

*日本は唯一つの被爆国である。(福竜丸を含めて)

*アメリカは唯一つの原子爆弾を使った国である。
と言うことだ。その割には、日本の悲惨な広島の事実は平和な復興の影で風化しつつある。アメリカは核保有国とは絶対に正面切った戦争はしないだろう。戦勝国も敗戦国も反省の上に「異質だけど対等」で平和を考えた筈だ。

つくづくと1950年以降の世界や日本、我々が働いてきた時代を振り返ると、もっと国民が政治に関心を持つべきだと反省が大きい。

この所、自動車を始め、バッテリー、湯沸かし器等、高度成長を支えてきた商品にリコールが多い。特に自分が関わってきた自動車流通については、台数至上主義と競争激化の中で架空登録とか架空売上とかトヨタ系デイーラーでも発覚し、40年前に「石刷り登録」を発案した僕としては責任も感じているが、僕は飽くまでも合法的にそれに対する対策も考えて提案もしてきた積もりだ。このブログもそんな事を含めて「正しい流通」を考え「幾らかでも消費者のお役に立てば...」と始めたが、こんな大きな世界問題が顕在化すると、「此れがどういう風に収拾されていくのか?」疑問、関心はそちらの方に行ってしまう。

経済問題ではライブドアー、村上ファンド問題、福井総裁問題等倫理的に大きな問題がある。これ等が風化されないようにしなくてはいけない。マスコミの力が本当に大切だと思う。

僕はこの住んでいる所で、東京大空襲も艦載機の機銃掃射も受けている。今日は澄み切った青空なのに、朝から飛行機の音がやけに多く、あの戦争時を鮮明に思い出す朝だ。



<Font size =2><Diary Ⅳ>      ’06-10-3</Font>

2006-10-03 11:30:26 | Massy's Opinion

☆Party 3つ☆ 10月ともなると大分秋も深まりを感じさせる。人恋しくなるのか、色んな会合もあちら、こちらから呼びかけが入る。何れも野球の関係、中学、高校、そして、「アフリカ野球友の会」である。楽しい余韻を残しながら、昔からどうも「野球」「音楽」はセット物で楽しい思い出を造ってくれた様だ。

☆ 9月11日(月)麻布十番 コージーサークル
始めての月曜日。始めてコーちゃん、ロクちゃん(country crops)以外の日に行きました。雰囲気も変わって結構楽しめました。(country express 上林さん K大 ラグビー部出身とか、「野球部は嫌い あいつらは何時も美味い飯を食っていた」 合宿所が隣り合わせ、野球部はシーズン中はオカヅが多かったから、事実)
僕の同伴者は成蹊中学時代の野球仲間、高校時代には皆野球とハワイアンやカントリーバンドをやっていました。(僕は高校から慶応に行きました)その内の一人はCheck Wagon BoysでHank SnowばかりやっていたT君ですが、現在、体調不順でも、この次呼び出そうか?と言う話に成りました。この日の話題は追っかけをしていたR女学院のその後や、同級生の若林君が大臣に成りそう(環境大臣)な話、悪い事を覚えたての頃の後日談久しぶりの午前様...皆さんお元気で...

☆ 9月28日(水)ホテルエドモント 昼食会
僕たちは塾高卒業4回生野球部の学年OB会は「慶4会」という。余り強くない学年で次の学年は神奈川代表で甲子園に行っているので、どうも存在感は薄い。総員21名故人2名不明1名当日14名の出席。遠く岡山から参加のK君、自営の仕事の合間を駆けつけてくれたU君。結構,皆Jazzが好きで、2~3人で練習をサボって日劇へ「J,A,T,P」を聞きにいった時、練習をサボる理由をバラバラに考えるのが大変だった事、ダンスパーティーへ行くのが楽しみでU君のジルバが巧かったことなど...でもあの頃のパーティーは考えてみれば学生服だったよね。時間オーバーの楽しいひととき。

☆ 9月30日(土)MIDAS
9月23日の「アフ友」練習の後、アフリカンのS,Popさん在日13年アフリカンのモデルとプロダクションをやっている。(190CM位身体能力抜群)「Partyが有るから来てよ」とチラシを呉れた。タイトルは「Aguroya’s 5th Live Dance Party」¥2000円 with flyer (1D) no flyer@door \2500円と書いてある。大体飲物一杯...は判るけれど「flyer?」 Popに聞いたら「このチラシね」(正しいスペルはflier)要するに「チラシ持参なら500円引き」と言うこと。安いし、面白そうだから...「偶には奥さんと」と夜の六本木に出掛ける。「いや町の変っているのに驚く...防衛庁の反対側は外国人ばかり海外旅行に行っている見たい...会場のMIDASはデイスコ、出し物はアメリカンとアフリカンの混合「International Flavor」?とか言うロック、レゲエ、ラップのバンドとZaion?ガーナでは有名なテナーを中心にしたバンド。最後はラップのソロ。面白かった。お客には若い日本人の女性だけのグループが多いのに驚いた。防衛庁跡地の開発が終われば又町は大きく変るだろう。