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<Font size=2><アフリカ野球友の会 今年の練習終わる> ‘06-11-28</Font>

2006-11-28 23:21:56 | Megu's Sports
☆ 「キャッチ・ボールで世界を平和に」の「アフ友」は大分ご存知の方も増えたと思う。このNPOのユニークさは友成代表以下、スタッフの皆さんの熱い情熱に支えられている事は言うまでもない。他のグループとの違いは「在日アフリカ人による草野球チーム」を作ろうという事と、「野球の楽しさを知って貰おう」「その為には自分達が野球の面白さを覚えたように原点に戻って、“三角ベース”を拡げよう」と言う活動にある。

さて、この「在日アフリカ人による草野球チーム」であるが、何しろ野球をよく知らないアフリカ人に「先ず呼びかけて集まってもらう」事から始めなくては成らない。
そして、練習のグラウンド確保が大変だ。今年は明治神宮軟式野球場の事務所にお願いして月一回の年間予定を決めて頂いたので、去年に続く静岡遠征を含めて、約10数回の試合や練習が出来た。

23日は好天にも恵まれて、友成代表も名古屋から参加され、いつも通りのウオームアップから練習が始まった。そして、後半の1時間は紅白戦をやって1年の締め括りが出来た。

最後に約25人位の参加者が円陣を組みに一言ずつ感想を述べたが、アフリカンオールスターズのキャプテンを務めるポップさん(この間のサッカーの対日本戦でガーナ国歌を歌った)が「野球の面白さが段々解ってきた。来年も頑張りたい」と言っていた。この練習は、男女、ビギナー国籍を問わず、親子参加ウエルカムである。女性の参加も常連を含めて7~8人来ているが、ネットでこの会の活動を知り、九州から参加した人も居たので驚いたが、彼女の感想も「想像していた以上に、とても楽しかった」と言っていた。

☆紅白戦と言っても両軍の投手はバッターの顔を見ながら打たせる訳でこれもかなりの技術がいる。僕は何時もアンパイアーをやっているが草野球のアンパイアーは結構大変である。この間はホームベースをまたいでしまう事があったので、「アッピールプレー」の「アウト」にした。この辺を厳しくするのも、「ベースはキチンとタッチする事」「通り越せばいいのではない」と教えるわけである。

練習をサポートしてくれるのは如何しても学生さんが中心になる。慶応、中央、青山国際武道大等の諸君が参加してくれているが、皆、英語を結構話しているので驚いてしまう。

☆「組織造り」は先ず「集まる事」その為には、「集まる場所日取りの事前告知」が絶対条件である。使用料は多少掛かるが、今年は神宮をホームグランドにして順調な練習ができた事は大きな成果だったと思う。来年は「ユニホーム造りと対外試合を5試合位」が出来るといいな。「大きく考えて、小さなスタート」「石の上にも3年」来年が楽しみである。

P,S 練習の詳細は http://afab.seesaa.net/


<Font size=2><Letter to Katchan,Toshisan & Zakkuri>‘06-11-20</Font>

2006-11-21 22:53:22 | Massy's Opinion
☆To Katchan   
ブログ コメント欄をお借りして、結構面白い話に成りました。コメントへのお礼や話し足りない事を書いてみます。
先ず、毎日の800字大変ですね。ゴルフがお上手らしいですが、「目標の立て方」「考え方」が身に付いているのですね。僕はブログを始めて兎に角「1年間、週一回の更新」を目標にしました。こんなにITの世界に入り込み、学生、先生、昔の仲間、野球の超後輩の父兄等、色んな人との巡り合いに感謝しています。
元より浅学非才、深味のある物には成りませんが、実務体験から若い人達が何か感じてくれればと思っています。http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfdvk008/index.html

☆To Toshisan
塾内工学部野球部に在籍されたとか、ベーブ・ルースのサインとか野球博物館に寄贈されたとか、(今夜の鑑定団でルースのサインボールが350万円ついた...)父上もキット半端ではありませんね。当時、塾内の試合は「浜田山の三井グランド」や「明治生命グランド」を多く使っていたのでは...僕の家は浜田山で、僕の仲間のケーニッヒ、丘の上、の連中は良く風呂に入りに来ていました。
自動車も凄いですね。僕もダットサンクラブに入っていましたし、国内Bのライセンスを取り、ラリーも3年位オースチンA50でやっていました。今、レースの歴史物を書いている「高斎正」(慶応経36年)先生と交流しています。
なんと言っても、塾高時代、一番刺激を受けたのは「三保敬太郎」君です。当時、彼は「クールノーツ」のピアノで売れまくっていました。机が前後に並んでいたので、前の晩仕事で遅くなり、朝の遅刻が多い彼の代返をよくしました。僕は午後野球の練習に行くので、彼が僕の代返をしてくれる約束をしたのですが、彼はダラシガなく僕のをしてくれず、進級の時には彼は優等生に成っていました。
卒業後、彼はTBSに入り、免許を取り、僕の父の会社から1949年モデルのフラッシュサイドのフォードの中古車を買いました。それで始めて給料を貰った時にガールフレンドをつれて箱根へドライブに行きました。早雲山の天辺でエンジンから湯気が出てエンコ。湯本までエンジンを掛けずに、平らな所は二人で押して、たどり着きました。今では考えられない事ですが、当時は車も少なく誰も助けてくれませんでした。
その後、三保君は日本グランプリにフェアーレデイーで出たり、車の本を書いたり「遂にポルシェは飛んだ」なんて映画の監督をやったり、多彩優秀でした。何たって、Jazz、の敬太郎、映画の裕次郎、野球の衆樹、勉強はだれかな?実業人では郵政公社の生田総裁。本当に多彩な人材が居ましたね。

☆To Zakkuri
何時も書き込み有難う。中古車時代は本当に色んな事をやりましたね。
拠点別の教育
910のスーパーバージョン・輸出・オークションへのシフト、特に大崎会対策には主だった業者さんを一人ずつ、銀座へ二次会付きの接待をして、個別業販をやめて入札会方式にすることを説明して文句が出ないように事前に根回しをやりましたよね。
カーパレスの設置も精力的でした。何んでディーラーは専業者に負けるんでしょう?
マイカーレポートも担当した女子社員より社員のお母さん方から「娘が変わりました...」ってお礼を言われた事が何度かありました。まあ、本当に面白かったですね。たまにはブログを見て若い人に話をしてやって下さい。


<Font size=2>“Sponsorship for Amateur Athletes” '06-11-14</Font </Font>

2006-11-14 18:54:18 | Megu's Sports
・ 私の今年のトライアスロンシーズンは、終わりである。いつもシーズンも終わりに近づくと、なんとなく物寂しくなる一方、肉体的にも精神的にも“Break” が待てない。

・ さて、シーズン最後のレースが終ると、スポンサーに出すレースリポートを作成する。レースレポートと共に、お礼と“来シーズンもよろしくね”というコメントを添える。

・ この2年間、Local のランニングストアー“Runner’s Factory” とサングラスメーカー“Rudy Project” にスポンサーになってもらっている。今年は、バイクショップ“Montano Velo”スポンサーのトライアスロンチームに加わった。もちろん、アマチュアなので、金銭援助は出ないが、トレーニング/レースギアの支援、プロダクトデイスカウントは、かなり助かる。トライアスロンは、レースにしても、旅費にしても、バイクにしても、お金の掛るスポーツである。

・ 次に、来シーズンの新たなスポンサーを探す。多くの会社は、だいたい9月から11月ぐらいまで、翌年のスポンサーシップの申し込みの受付をしている。そこで、まだスポンサーのない分野からあたる。スポーツドリンク、エナジーバー,ジェル等の会社。時計、アパレル,等。まず、会社と製品のリサーチ。会社/製品について学ぶことが、結構面白い。そこで、自己紹介、個人のバックグラウンド、どのように会社/製品のプロモーションに貢献できるか、来シーズンの目標などを含めた“Cover Letter”を書く。いくつかの会社は、オンラインでのアプリケーション。質問に応じてエッセイのようなものを書く。で、レース経歴と個人のプロフィールをふくめた履歴書を添える。この国では、仕事でも、このようなスポンサーシップでも、いかに “自分は、こんなに素晴らしい人材だぞ”というのをアピールしなければならない。文化の違いか、育ちの違いか、このようなアピールの仕方は、今だに、こそばゆい。

・ そして、スポンサーからの返事をあまり期待しないで待つ。丁寧に返事をくれる会社、“Yes” か“No”の返事もない会社、まちまちである。かなり競争率が高いので、返事がなくても仕方ない。 多分,日本ではアマチュアアスリートのスポンサーは浸透してないと思うが、アメリカでは、多くの機会がある。アマチュアアスリートは、スポーツギア/食品関係の会社にとっては、大きな市場だ。選考基準は会社によって当然違い、レベルの高いアスリートというだけでなく、どのようにコミュニテイーに貢献しているか?とか、職種で選んだりする。いかに、製品を広められるかということがkeyなのだろう。

・ 今年は、欲張って6社にコンタクトした。いくつ返事が戻って来るだろうか...

? P.S アメリカ生活10年。英語のエッセイは、いつになっても苦手。英語の手直しをしてくれた、Graemeに感謝 



<Font size=2><自動車オークションの舞台裏>   ‘06-11-7

2006-11-07 22:58:33 | Massy's Opinion
☆オークションの仕組み 

・スタート価格=大体この位ならお客様のコールが入るだろうと言う価格
・売り切り価格=売り手が「この価格なら売りますよ」と言う価格 売り手が「秘話マイク」を通じてコンダクターと話し合う
・落札=成約価格 会場の「せり」が止まった高値

☆売り手= メーカー系オークションでは系列ディーラー中古車部門と担当者
☆買い手= 業者  青果、魚、花、ペット、等市場と同じ。団体に保証金を払い、加入している業者
☆コンダクター= せり人 オークショニアー オークションを仕切る大事な人

・一般的に会場には買い手が集まり席に座っている。
・大体週のスケジュルは売り手の締め切りが水曜日、それまでに現車を搬入、金曜日開催となっていた。

☆沖縄オークションで取り組んだ仕組み (1986年当時)

・当時、沖縄の市場は低価格車しか売れず、「業界用語で『スソ物』」と言われる物を船積みして、現地に運びオークションを開催していた。処が、売れ残った車は本土まで持ち帰ると船賃が掛り、それを見越して現地の業者に買い叩かれたわけである。

・此れの防止策として考え出したのが「写真による現車展示(船賃節約)」のオークションである。

・偶々、ニッサン系では当時、「手ぜり」でやっていた。中央に演台が在り、せり人=(コンダクター、オークショニアー)に日本一と言われたIさんが居た。この仕事は先ず「声が大きく通ること」「相場観が強いこと」「その日の市場の雰囲気=買い気があるか?どうか」等が瞬時に判断できる人でないといけない。Iさんは「手ぜり」の時代には人気者だった。

・売り手の方は大体、顔が見えないように通称「ブラックボックス」(後に調整室)に入り、会場の買い気を見ながらコンダクターに「モット、値段を引っ張って下さい」「もうこの辺で売り切りにして...」とかの指示をする訳だ。従来は此れをメモ用紙で手渡すようにやっていたが、Iさんは売り手とコンダクターの間で無線を使い「秘話マイク」で会話が出来るよう(スピーディーでスマート)な方法を用いていた。

・沖縄対策として、この「秘話マイク」に電話回線を使い、沖縄の会場には現車を持ち込む事無く「車の写真」を展示して「売り手は東京」に詰め、沖縄には「コンダクター」「車両展示は写真」と言う仕組みを作った。売り手側ディーラーは現車の同じ様な写真が取れるように「外観」「内装」「エンジン」の三面と写真機まで「オリンパスOM-10 」に統一して、「価格維持」と「船賃の節約」に取り組んだのである。

・今の時代。IT技術の進化で中古車流通は大きく変わって来ている。然し、原型は僕らが展開した「沖縄オークション」に有ったと思って居る。

「中古車の市場はレモンの市場」と言われるように不透明な部分の多い市場である。然し、その戦術は非常に面白い。古い方はご記憶かもしれないが「ニッサン」の「Be-1」が発表早々オークションに出て、「新車価格」より高い値段で「流札」になり、一気に人気が沸騰した事がある。次の機会があればこの「価格操作」の裏話に触れてみよう。「大阪トヨタ」の架空登録が大きな話題を提供しているが、ディーラーの中古車部門は「業販」にのめり込んでしまうと命取りになる。今の世の中、何かすべての業界で膿が出ているようだ。

P,S Megu's Photo Gallary Photo from California を新設しました。