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<Font size=3 ><strong>“トレーナー業:地味な仕事” ‘11-7-26 </strong>   </strong></Font>

2011-07-26 07:48:42 | Megu's Sports
Megu's Report

”Congratulation, Nadeshiko Japan!! What a great game! ”
女子サッカーのワールドカップで盛り上がった先週末。ゲームの真っ最中、私はワインカントリーの道を、もくもくと走っていた...



レースから帰ってきて録画していた日本vsアメリカの決勝を見た。結果は、知っていたので、ゴールの場面まで早送り。オーバータイムに入る前に、日本の選手は、フィールドでマッサージ/ストレッチをしてもらっている場面が映された。元アメリカナショナル-チームの選手だったコメンテーターが、“見て下さい、この違い。アメリカの選手はフィールドに立っている一方、日本の選手達はマッサージ、ストレッチをしてもらっています”と、言っていた。日本人の効率的、計画的な行動と、我ながら感心。



日本には、アメリカで教育を受けたAthletic Trainer、Strength Conditioning Specialist, カイロプラクターなど、“トレーナー業”で活躍している方々が多くいる。この道で、日本で成功していくのは厳しいんじゃないかなと、ふと思う。
まあ、成功の定義は、トレーナーとして有名になるって事,有名な選手やセレブ(特にこのBayareaでは)をトレーニングするって事じゃなくて、自分の好きな仕事ができて、仕事を通して良い経験ができて、生活面、精神面,経済面で満足できるってことだと思う。



一度は 、アスリートと携わる仕事をすることが夢と思っていたトレーナーが多いと思う。その夢がかなった人、追い続けている人とまちまち。また、トレーナーとして違った道を見つけた人、全くトレーナー業とは違った道に進んだ人もいる。私自身、大学で水泳部だった時に、トレーナーとして、Conditioning, トリートメントをしてくれる人がいないだけでなく、コーチも練習に出てこなかった。トレーニングは、先輩の指導、自分の経験、他の大学の人から教えてもらったトレーニング理論に基づいたもの。ケガをしたら、同僚から聞いて治療をしてくれる人を探して、自費(または親のお金)で治療を受けに行っていた。こんなことが理由だったのと、もともと運動生理学に興味があったのと、アメリカでのAthletic Trainerの資格があることをみつけだしたのとで、トレーナー業を志して15年前に渡米したのだ。



もう、10年程前になるけど、アメリカで勉強しているうちに、日本ではあまり仕事の機会がないのに気がついた。日本人のNATA 公認のAthletic Trainerが急激に増加していたにもかかわらず、アメリカに比べて日本では,プロスポーツのチームの数も少なければ、大学体育会で、部としてトレーナーがいるところがあっても、大学としてトレーナーは必要とされない。また、組織の中でAthletic Trainerとしての権限がアメリカのトレーナーほど尊重されないようである。その上、病院以外での理学療法のクリニックも数少ないし、パーソナルトレーニングでもあまり需要がない 。



と、いうことでアメリカ生活にすっかり浸ってしまったのと、仕事機会があるということで,この国に居座ってしまったのだ。今は、フリーランスでパーソナルトレーニングだけでなく、トライアスロン、スイム、ランのコーチングもしている。自分がコーチしているクライアントが良い結果を出すと、自分が良いレースをしたのとは、違った満足感が得られて、結構楽しい。その一方で、責任を深く感じるんだよね。いつも、心に留めておくようにしていることは、どんなに選手、クライアントが成功、目標達成しても、それはトレーナーのお蔭なんじゃなくて、その人の努力によるもの。トレーナーは、そのサーポーターに過ぎないのだ...




<Font size=3 ><strong><東京電力 如何したの?...>    ‘11-7-19</strong></Font>

2011-07-19 07:53:19 | Massy's Opinion

Opinion!
☆東電への営業

僕は1957年に社会人に成り、東京日産と言う自動車ディーラーに入社した。前身が第二次大戦中の自動車配給会社であり、本社の販売部と5つの営業所から成り立っていた。
本社の中に、官庁会社課と言う部署があり、国以外の地方官庁、や大口法人を担当していた。その課にはベテランのセールスが配属をされており、大型トラックを中心に消防車、救急車、やがて時代の流れでテレビ電源車、等のいわゆる特装車と言う商談が多かった。
僕の配属になった部署は、業務部と言うところでそう言う特装車の架装メーカーに発注する仕事が多かった。当時、東京電力の社長が木川田さんと言う方(のちの経団連会長)に成られて「サービスの機動化」と言う方針を出された。そして、東電傘下の各営業所に当時人気のあった「ダットサントラック」にアンプを搭載して「地域巡回サービス」をすることに成った。延べで1年間2000台位の台数を納車したと思う。



・官庁会社課のR大陸上競技部OBのR,M課長に「特殊な大口商談だから増田君同行しろ」と言われて内幸町の東電本社に出入りすることに成った。相手の部署は「資材部配給課」「おかしな部署で車の購入をするんだなあ?」と思ったが、そのサービスカーを関東一円の各営業支店に配るのでそう言う名前が付いていたのである。「課長なんて偉すぎて会えやしない、担当の人もどの人が権限を持っているのか?解らない」担当者から出てくる質問は凄く専門的。「すごいなー、うちの課長は運転免許も持っていないのに...(のちにとったけれど)」驚いたことに東電の車購入部署の皆さんは全員が「国家の3級整備士資格」を持っているのである。免許を持っていないセールスが揉み手をして、「飯を食べに行きましょう」「野球の切符をあげましょう」なんて言う営業では全然追いつかない。僕は此の時に、「よしー、お客様に負けないように、必ず3級整備士を取ってやろう」それでないと「これからのフリートセールスは出来ない」「教育しかないな」と思った。



・東電の人に「どうして3級整備士を皆さん持っているのですか?」と聞いたら、「社長の方針で配給課の人は皆、講習に行かされる」と言う話を聞いた。「すごい会社だな...さすが東電は...」実は手前味噌な話で恐縮だがその後、僕はその後、6か月の正規な講習を受けに行き昭和46年7月に事務社員の中では一番初めに3級整備士を取ったのである。始め上司には黙っていたが週1回の講習が6か月続き、出席率が80%なので、残業があっても講習を終わってから会社に戻った事もあった。当時の役員部長には、すごく褒められたと同時に陸運局の人々にも知られそれから随分長いお付き合いをして頂いた方が沢山いた。その後,僕のいた会社では、営業部員は全員3級整備士を取らされた。
木川田さん時代の東電は本当に素晴らしい会社だったと思う。原子力は、木川田さんのいらした頃が、スタートだと思う。其れが、何故今回の様な事故が自然災害であれ、対応が遅すぎるし、「昔の輝いていた東電がこんなに成ってしまったのか?」「矢張り肥大化と独占が原因かな?」


・僕の自動車屋人生の中で、本当に東電さんには教わった事が多く、今度の対応は、肥大化とサラリーマン化、が原因なのか?深刻に考えさせられる。兎に角、組織は出来るだけ簡素な組織が良い。一時代「全員の参画、参加」と言う事が盛んに言われて、「委員会方式」が労使双方で多く作られた時代がある。今でも「菅内閣」は同じだ。原子力事故への対応準備が「原子力は安全なんだ」或いは、「安全で有るべき」と言う議論の中に埋没してしまったのだろう。



☆木川田会長の車
さて、余談だが、日産のフラグシップカーは「プレジデント」である。今は製造打ち切り寂しい限りだ。木川田社長はお体の具合が悪く、車の中では「足を延ばして横に成れる」
物が良いと言う事で、「左ハンドル」のプレジデントの注文を頂いた。さあこれが大変、当時の川又社長の耳に入れ、一台だけ左ハンドルのプレジデントをお納めすることが出来た。
本当にいろいろ勉強させられた東京電力である。今回の災害の様な「予備電源」の問題等、もっと安全対策について検討されていて然るべきだろう。世の中の変化と共にリーダーシップの在り方が考えられなくなったのか? 今回の災害から見た東電の組織、肥大化した組織、 サラリーマン体質の集合体、労働組合の在り方論、等新しい物が生まれるように願うばかりである。





<Font size=3 ><strong><東北震災地方はレモンが豊作?>   ‘11-7-12</strong></Font>

2011-07-12 07:05:34 | Massy's Opinion
Opinion!

☆僕の処へ自動車関係のニュースが色々入ってくる。東北の震災地地域は自動車がないと本当に困るらしい。日本の自動車需要を支えて居たのもこう言う需要があったからに他なるまい。20数万台とか言う車が一瞬にして失われたのだから大変だ。



☆自動車の商品特徴は
・「耐用年数が長いこと」
・「高額商品で有ること」
・商売としては「下取り」が有ること
・中古車は外観だけでは、車の「良し、悪し」が解らない

(今では下取りと言う言葉は、日常茶飯事 至る所で見受けられるが、60年前には今日ほど一般的には使われていなかった)



☆レモンの話
‘99年から?03に掛けて、自動車販売店協会連合会の機関紙「自動車販売」に「21世紀の自動車販売」と言うタイトルで33回の連載を書いたことがある。その途中で?02年に有る大学の父兄に対する講演会で「中古車市場はレモンの市場」と言う話にぶち当たった。自動車業界に50年働いていて、初めての言葉。早速持ち前の好奇心で色々と調べてみた。今から考えると浅学を恥じ入るのみ...しかし、アメリカで暮らしている恵や彼女の友人に聞いても要領を得ない。「マクロ経済」「ミクロ経済」の入門書を読みまくった。
要点を解りやすく纏めてみよう。今から10年前、記事にした時にはかなり反響が多かった。
全農から講演を頼まれた時には困ってしまった。当然、レモン農家も居られるし...



・先ず、アメリカでは「レモン」のイメージが日本とは異なり、余り爽やかなイメージがないのである。辞書を引くと、末尾の方に「欠陥品」と出ている。色んな人に「レモンの意味知っているかい?」と尋ねまくった。ある大手企業の副社長で海外プラント造りに300回位のフライト経験のある男が、「マッサン、レモンは知らないけれど、ピーチは知っているよ」「なんて言う意味?それは...」「隠語でいい女だよ」「へえ...初めて聞いたよ」
「ピーチは皮が薄くて中味の見当がつく...」 「うん、レモンは皮が厚くて中味が解りにくい」 「成程な...」



・1970年代初めに、ジョージ・アカロフと言う学者がミクロ経済の「情報の非対称性」の論文を書いて、ノーベル賞を取って居るのだ。要するに、売り手の持っている情報と買い手の持っている情報に大きなギャップがあると言う例題が「中古車の市場」であると言う事である。(レモンの市場=財やサービスの内容や情報が買い手側に解りにくく、悪い商品が集まってしまう市場)



・1970年代サンデイエゴであった、「欠陥車」問題から「消費者保護のため同じ個所が3回不具合に成ったらメーカーは車を変えなければいけない」と言う「俗にレモン法」と言う「消費者保護法」が作られたのである。アメリカでは排気ガス規制もカリホルニア規制が一番厳しい筈だ。今ではこれらの消費者保護法も各州レべリングは出来ている様だ。



☆適正な流通
さて、昨今の自動車関連のニュースを見て居ると、ロシアへ輸出された中古車が被爆車であったとか、いろんなニュースが目につく。車がないため日々の暮らしに困る人とか大変だ。一方、自動車を売る側は、「この際儲けよう」と思うだろう。被災者は経済的にも「「新車を買う余力はないだろう。現代は中古車のオークションとITが進化しているので、昔とは違うスピードで取引はされて言うと思うが、車の経歴の「情報の非対称性」は凄く大きくなっていると思う。もっとぶっちゃけた言い方をすれば、走る車なら何でも商品に成って居るに違いない。兎に角、耐用年数が来て、新車に代替されて行く、バランスの取れた需給関係が壊れたのだから、他の地区から大量の中古車が流れ込んでいくだろう。兎に角、売り手側も商品車の正確な情報を提供して、商売をしてほしい。此の為には僕は「車体番号のマイクロチップ化」により、車歴が一辺に解るようにすべきだと思う。兎に角、「大きな需給ギャップ」はレモンを育てやすくする。



☆自動車に代わる売上高を維持の出来る商品はない。
自動車は高額商品である。此の生産減、他国への工場移転は日本経済の」大きな痛手である。震災復興にも大きなウエイトを占めている。早く、震災以前の状態に戻ることを願っている。






<Font size=3 ><strong><Diary 54> ’11-7-5<strong></Font>

2011-07-05 07:20:34 | Massy's Opinion


☆六大学野球新人戦と大学選手権
両大会とも残念ながら、優勝は出来なかった。しかし、どちらも好ゲームを展開し兎に角、部員一同気を抜いていないのがよく解った。慶応の「陸の王者」振りはもう形、フレームが出来たと思う。大学、塾高のAO制度の導入、一部の私立校とは異なる高い成績の水準、それにも拘らず中学の野球少年たちが、「慶応で野球をやりたい」と言って「勉強を自ら進んでやる」と言う流れが出来てきている様だ。六大学の他校もそれぞれ頑張って居るし、学生野球は面白いぞ!


☆現代の政治・と経済を考える「樫の会」
恒例の観桜会が震災の影響で、延期され今月予定された出し物、「劇団新派」による朗読劇が6月16日三田の三井倶楽部で催された。演物は新派の代表作川口松太郎原作の「鶴八鶴次郎」である。若い人には簡単な説明がいるだろう。歌舞伎に対して、新しい舞台演劇なので、「新派」と言う様だ。僕が初めて新派を見たのは、昭和31年秋、10シーズンぶりの優勝。それまで、自由な時間を銀座のバーにキャバレーに遊びまわって居た悪友たちを指をくわえて見て居たが、慶早戦も終わり、天皇杯で乾杯して練習がなくなり、遅ればせながら自由な時間が出来たので悪友に合流して遊びまくった。その時、ある女友達に誘われて新派なるものを初めて見に行ったのである。
明治座で主演は、水谷八重子(今の八重子の母親)と大矢市次郎の「鶴八鶴次郎」その時の一番目が「鶴八鶴次郎」だった。お互いに好きなのに好きと言えない新内芸人のラブストリー。恋愛物の人情噺であるがその時の印象はまだ鮮明に瞼の裏に残っている。今回は「朗読劇」と言う新しい試みで「狭い会場でどんな風にやるのだろう?」と同時に昔の思い出から、是非見たかったのである。主演は八重子の後を継ぐだろうと言われている「瀬戸摩純」和服の着方身のこなし、久しぶりでいい女優さんを見ることが出来た。ストリーのエッセンスを、朗読を主体として、三人で演ずる「約一時間」。久し振りにしっとりとした、ゆったりとした雰囲気に浸れ、とても良い一日だった。


☆慶応読書会
講師は池田真郎教授の「民法改正について」僕の興味のある「電子債権記録法」に伴う民法改正で僕は大事な事だと思う。
神田さやこ准教授「インド近現代史研究の現状」いま成長で話題のインドについて。これからも再度ご登場ねがう場が出てくるだろう。
慶大野球部関係では前田祐吉元監督、日吉倶楽部元幹事長柴田裕美君が毎回、熱心に受講されている。食事中、慶応野球の強さが、「何年続くだろう?」なんて言う話題で楽しかった。


☆株主総会
・6/21みずほフィナンシャル
様子はすでに多くのマスコミで取り上げられているので、敢えて取り上げないが、「システム障害」についての質問が多かった。むしろ、今後の組織再編成以降取り組みに質問が
出ればよかったと思う。壇上の経営陣は皆、低姿勢3時間半に及ぶ長丁場。新社長の「とにかく、株主の話をよく聞こう」と言う感じは受け取れた。新任役員の中に個人の持ち株が「23300株」「133000株」も持っている人が居る。社長が65000株程度なのに役員会の中で、どんな影響がでるのだろうか?相変わらず社外株主2名は欠席、報酬を取るのだから総会には出るべきだろう。形骸化された株主総会の一面だと思う。
・6/22みずほ信託
確か昨年からみずほフィナンシャルの総会とは日にちを一日ずらせて居る。場所も本社で300人程度。それでも例年より30%は多いだろう。女性株主が目立った。この会社の野中社長非常に人柄が良さそうだ。今度の組織変更でみずほ信託は上場取り下げに成り、株式はみずほFGに交換となる。株主にとっては寂しさと安心と入り混じった感情があるだろう。昨日の新任役員の持ち株について質問をしたが、社長は余り知らなかったような返事。
しかし、持ち株数から言っても、今後、「本当に指導体制が一本化できるのか?」注視しておく事が必要だろう。此方は2時間半で終わるが、割合に良い総会だった。僕みたいに本当に親父の代から65年も付き合っている者には、いろいろ時代の変化を感じさせられた一日。


☆慶大野球部32会
・6/25 結構、定例化されている同期会。プロに入った、衆樹、中田、日野はすでに亡くなり、ほかに亡くなった者も石黒、土河、内藤と3人いるが、今回は遠く四国から池之上(元土佐高校長)も出席11名が集まった。話題は、勿論、慶応が良い野球をしていること。皆、それなりに家族を含め健康の問題とゴルフの飛距離が大問題。年末の再会を期して散会。


☆ゴルフ、マージャン
6月は、日程が押せ押せに成り、ゴルフ3回、麻雀2回成績は何時もと一緒少しハードな月だった。