★Massy‘sOpinion
*成蹊中学の野球部時代
勿論、ボールは軟式、唯部員も少なく、旧制高校の延長のような感じで、高校の硬球を使ったり,中学だけの練習に成ると軟球を使う様な練習だった.中学も部員は少なく、外野はレフトⅯ、T君、センターⅯ、Y君、ライト僕の3人でとても仲が良かった。僕が、慶応へ転向した時に二人が怒った事、そして我が家までチーム9人で怒って押しかけて来た。僕が慶応に転校してから、Ⅿ、Y君とⅯ、T君がハワイアンバンドを結成した。当時は、「wvtr」と言う進駐軍向けの放送があり、金曜日には、[one night stand]と言ってジャズを流している放送があり、英語の勉強にもなるので、よく聞いて居た。
*初めてBenny Goodmanを聞いた時...
中学3年の時、五反田のⅯ、Y君の家へ遊びに行った時、彼のお姉さんが「ダンスを教えてあげる」と言う事で、応接間で初めて女の人の手を握った、そして、その時のレコードがbenny goodmanの「on the sunny side of the street 」でB面が「where or when」だった。あの時の「こんな歌が有るんだ...」と言うショックは凄く大きかった。(学校では、童謡,クラシック系、)
*我が家の近所
我が家のある浜田山は、大きく見れば善福寺川、神田上水の間にある丘の上で一面畑の中に住宅の開発が始まった様な場所で、我が家の南側に4軒の共同住宅長屋があった。そこに中島さんと云う家が有り長男次男長女の3人が住んで居た。長女が僕より1歳上、長男は僕より5歳位上だろう、法政の予科にかよって居た。そして、長男の広さんが、アルバイトにバンドでドラムを叩いて居た。そのバンドが後に大人気バンドに成るSix Jose バンドマスターはかの有名なナベプロ社長、渡辺晋さんである。僕の家には、Benny Goodman以外にも数枚のレコードがあり、長男の広さんは良く我が家へきてドラムの練習をしていた。雑巾を濡らしてそれを叩いて居た。家の前の家には、明治の夜間に通っていたが、アルバイトにハワイアンバンドのバンドボーイをやって居た。彼は或る時、一人のバンドマンが休んだので、、エキストラとしてギターを弾いた。その後、楽器をビブラホーンに変えて北村英二のバンドで長く勤め、其の後、自分のカルテットを組み世界的にも有名なびぶらほーン奏者に成った。増田一郎さんだ。非常にリリカルで奇麗な音にこだわるバイブを弾いていた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます