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‘24-11-12“世情雑感“

2024-11-11 21:35:03 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*政治 感じる儘に...
自民党の総裁選前の「裏金問題」党員支部に2000万円の選挙活動資金の支給。なんであんな事をするんだろう?誰が本当に決定したのか?自民党の幹部本当に知らなかったのか?石破総理きちんと説明するべきだろう。選挙の結果では、国民民主が一番儲けたな。
「萩生田さん、良く入ったな。」と言うのが実感。世界中、選挙は何処も同じ様に選挙カーに乗って叫びまくらないと駄目らしい。昔、高橋栄一郎君と言うプロ野球の投手が居た。僕の2年下。新庄北高校のエース、慶応~サッポロビール~巨人~南海~自営~新庄市長と言う男、市長を死ぬまで遣っていたが、「マッサン、選挙は大変だよ...」「君なんか親父の後を継いでいるんだから、楽勝だろう...」「違いますよ、1点勝っていて、2死満塁、カウント2~3のマウンドにいる様な状態で、最後の時間一杯迄、握手のしまくりですよ...」と言って居た。本当にそうらしい。それにしても、自民党のあの2000萬円は石破さんの神経も解らない。でも、あの総裁選びは、「皺」が残るよね。兎に角、今の自民党の体質ではうまく行く訳はない。マスコミも将来の方向性を示す処は居ない。僕は議員を削減することを本当に考えないと日本はどうにもならないと思う。区議会議員の中から都会議員を選び都議会議員の中から国会議員を選ぶ、何て言う風にしたら、如何なんだろう。兎に角、第二次大戦後の日本の遣り方をダイナミックに再考する時期だと思う。
さて、今日は、国民民主の玉木さんの不倫騒動のニュウースが飛び込んで来た。何か総理大臣を決める日に併せてニュースが出た様な気がする。玉木さん、記者会見ごちゃごちゃ言わないで正解。如何したって、当人同志士しか解らない事、マスコミも少しレベルを上げて欲しい。
*アメリカの大統領選
アメリカの実態と国民の考え方、僕は、テレビや新聞等で見たり、聞いたりしている。恵はサンノゼに住んでいるけれど、アメリカのほんの一部しか解らない。「なんで訴追されている人を選ぶんだろう?」しかし、トランプも馬鹿ではない、きっと「手」を打って居るのだろう。矢張り、世界の平和は十分に考えて居ると思う。プーチンだって同じ筈だ。
兎に角、戦争を止めて欲しい。弱小国の内部にある戦争も辞めて欲しい。共和党だって平和を願っているだろう。世界は世紀に一度の大変革の時代に成りそうな気がする。
*野球
僕には、一番身近なスポーツ。東京六大学の秋季リーグ戦も早慶戦が慶応の連勝で終わった。明日,早明戦で優勝決定戦が行われる。面白いリーグ戦だった。然し、我が母校慶応は、春以降相当厳しい練習をして来た様に聞いていたが、チーム全体の打撃が強烈なスランプにはまり込んでしまった。早慶戦には立ち直るかな?と思って居たが、主将の本間君は打率が厘台だった。真面目な学生なので、本当に可哀そうで見て居られなかった。何とか早慶戦でヒットが出たし2連勝は本当に良かった。清原、水鳥の二人がプロ入りを目指していたが、ドラフトされず、この二人が1回戦でホームランを打って活躍したのだから、何かスカウト連中への面当ての様だった。兎に角、今年の野球はMLB,NPB,六大学と面白いゲームが多かった。慶応、堀井監督もホットしたでしょう。お疲れさまでした。


‘24-11-5“Diary 214”

2024-11-04 21:44:07 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*本当に早く1年が過ぎる。もう、11月の“Diary”だ。大体このスタイルは「前月の振り返りと出来事を記して置こう」と言う事で“Diary”と言う事にしたのだが、9月から殆ど外出をしなくなった。従って最近は従来のパターンから変わって来てしまった。原因は、今年の異常気象、コロナ流行の影響、殆どの参加していた集会が、延期ムード。経年数劣化による友人の減少、それに加えて我が家ではワイフの骨折による生活の変化がある。これらを埋めて呉れたのが、大谷君のドジャースと選挙だった。MlBのテレビ放送が、大体午後2時頃まで続く。やっぱりMlBの野球はスピードが違う。特に肩が強い。
素手でボールを取りに行くのは凄い。それらの中に入っての大谷君は凄い。野球をやっている若い青少年には凄いインパクトがあるだろう。僕にはよく解るが、練習方法が、特にトレーニングが変わって来ている。そして努力を惜しまない青少年が増えて来ている。
慶大からドラフトで巨人入りした萩尾選手なんか「大学入試で一浪してドラフト...」されたのは慶応では初めてでは無いだろうか?脱線気味の話に成ってきたが、兎に角、90歳になると色々変化が出来て来る。
*惜しまれる友人
振り返ると僕は本当に友人に恵まれていた。最近、特に感じるのは、大学時代の同級生で脱サラした後、税理士に成った石井明生君である。僕の日産特販時代の会社の顧問税理士をして貰った。会社の経営で一番大事なのは経理と社印の管理だ。普通、日産投資会社の税理士は、日産から脱サラした税計理士とかOBがやるが、もう一人は野球部で一緒にブルペン・キャッチャ―をやっていた、廣澤君である。彼も灘高野球部のキャプテンをしていた男だがある上場会社の経理部長をして居た男である。二人とも良く仕事の話をしたものだ。今は皆亡くなって相談相手が居なくなってしまった。他にも友人は沢山いるが、それぞれ深みのある話は随分とあるが、矢張り、同期の仲間が一番惜しまれる。今、相談しようにも相手が遠慮して距離を置いてくる。どうしても、他人行儀に成ってしまう。

*選挙と政治
もう何回かブログにもアップして居るが、想像していた以上に自民党は票が落ちたと言うが、僕はもっと落ちるのではと思って居た。立憲民主は野田代表が本当に頑張って居て一皮人間が大きくなった様に感じた。石破さんこれで本当に一皮むけるか?女性の台頭が目覚ましい。僕の推している吉田はるみさんが10万を超える票を集めるなんて驚きだ。やっぱり人柄、潜在能力は表れて来るものだ。石破さんも本当に何を考えて居るのかよく解らない。人生を掛けた勝負に成るだろう。僕は40%位強い石破さんの可能性を感じているが、柔軟に強く頑張れるか?国民民主の玉木さん思いの他、良いポジションに着いた。今の彼の考え方で丁度いいだろう。参議院選挙で如何いう風に民意は動くのだろうか?...国民民主は、増えると思う。立憲民主が困るだろうな。アメリカの選挙もよく解らない。世界中が不安定だ。

'24-10-29 “Racecation- WTC Final: Torremolinos, Spain” 

2024-10-28 22:06:25 | Megu's Sports
★Megu's Sports
*今年のWorld Triathlon Championship Series Final (Age-Grourp Standard Distance)は、スペインのTorremolinos。8回目の出場。Age-Group 69人中11位。10位までは、あと7秒。知ってたら、トランジションをもっとアグレッシブにしたのにななんて思ったり。9月の連戦から、Bay AreaのHeat Wave (夏の後の暑い日を、Indian Summerって言うんですよ)で、連日の暑い日が続いたり、バイクの修理やスズメバチに刺されたりなどで、思ったようにトレーニングができていなかったから、レースがどうなるか、ちょっと予想が建てれなかったんだけど、思ったよりも良いレースができた。

*スイムは、感覚は良かったんだけど、なんでかタイムが遅い。ちょっと、流れ・うねりがあったかな。それでも、4-6位で上がったみたい。バイクは、テクニカルな部分と長めの登り・下りが入っている3周の周回コース。Garminが、パワーメーターをピックアップしなかったのと、心拍のストラップを付けてなかったので(手首の心拍数は、正確じゃないことが多い)、走っている時にデータがなくて、どの程度、プッシュしているのか、よくわからなかったわけです。登りは、調子いいんだけど、下りになると“怠け過ぎ?”って思ったり。日頃、トレーニングもレースもデバイスに頼っていると、こう言うこともあるんですよ。ランは、初めの1マイル、足の感覚も結構良くて、思っていたより速く入ってたので、ペースを上げすぎないように、落ち着いて走るようにした。最後の2マイルは、少しずつペースを上げるように。綺麗なデータのレースができた時って、満足感がある。

*レースの後は、いつもの3人で、Explore。隣町のMalagaのアパートメントに移って、そこを拠点に、Rhonda, Granada, Sevilleを訪ねた。ハイライトは、Rhondaに行く前に立ち寄った、Caminto Del Rayでのハイク。レールウェイ、水源、電気の源として開拓された場所。風や雨にさらされてできた絶壁の亀裂の間にウォークウェイを作って、一般の人が歩けるようにした。風や雨で削られた岩のフォーメーションとその規模がに圧倒される(check out my Instagram: guswims)。スペインのこの地域は、北アフリカからのイスラム教とその後を伸ばしてきたキリスト教の力の移行の歴史が見られる。AD1200-1700の頃の話。その歴史の流れに沿って、歴史的に有名な建築物がある。GranadaのAlhambra, SevilleのReal Alcarazなど。Sevilleのヨーロッパで一番大きな教会には、アメリカ大陸を発見したコロンバスの遺体の一部が保存されている。

*昨年、スペインのPontevedraに行った。Torremolinosは、ビーチタウンで、カリフォルニアのSan Diegoみたい。Torremolinos の隣町のMalagaは、もっと都市化している。同じ国の中でも、歴史、文化の違いを経験できると面白い。それにしても、観光客の多さには、驚いた。京都以上じゃない、きっと?観光スポットを尋ねるのもいいけど、次は、もっとアクティブな、Racecationをしてみよう。来年は、Wollongong, Australia!







‘24-10-22 ”平田会 ランチ・ミーテイング“

2024-10-21 20:32:11 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*9月は、都心への外出は一度もしなかった。不順な気候と用事も会合も無かった。社会人に成って初めてである。18日の日には、本当に久しぶりに銀座三越の前の待ち合わせと言う事で外出をした。面倒でも上着を着て、時計をして...時計はセイコウのラサールと言うモデル。お気に入りの時計だ。いざして見たら動いていない。2年半位前に和光でオーバーホールをして貰ったのに...待ち合わせの時間に15分位余裕があったので和光へ飛び込んだ。修理売り場に駆け込んで「多分電池が無くなったのか、調べて...」と言ったら、「お客様の時計は、2年半前にオーバーホールしていますね...電池はなくなりますよ」と言う返事。まあ、「素晴らしい顧客管理」ですぐ電池交換を頼んだ。眼鏡の「イワキ」の顧客管理について以前にブログに書いた事が有るが、老舗の顧客管理はいたずらに機械化している訳ではない。高いけれどお客を満足させる何かがある。

*さて、本論の平田会ランチ・ミ―テイング平田会と言うのはゴルフの会で,コロナ禍以降一度も開いていない。と言う事で皆、8年ぶり位の顔合わせである。発起人は、S工業の常務Mさんが当時、横浜カントリーのメンバーだったので横浜でスタートしたのが、2000年頃。月1回のペースで2~3組で初めた会である。そこへ僕が銀座のクラブ平田のママを連れて行った。それがスタートで、その後、平田さんのコース、沼津C,Cへ移して平田さんのゴルフ友達も加わり、男女混合のコンペに成ったのである。本当にゴルフ好きばかりの異業種交流会で、帰り三島駅の下の寿司屋で宴会をやって解散と言う会で,女性も手の掛からない人達ばかりであった。昔は、皆、定年まじかの年代だったが、18日のミーテイングは僕が最年長、最若年が70歳、女性3人男性6人合計9名で、未だにゴルフをやって居る人は、平田さんともう一人の女性が月に3回位やっている様だ。皆、飛距離はドライバーで150ヤード位の飛距離で、アプローチが楽しいと言って居た。僕の中学同級生の未亡人は、矢張り湘南の住人で月に3回はやっていてゴルフパートナーは93歳でもう今年は止めたと言って居た。平均的に女性の方が強い様だ。年を取るとすることが無くなるが、コロナ禍は、本当に貴重な時間を使えなくして呉れて、世の中を大きく変えてしまった。然し久しぶりの顔合わせで皆さん元気だったので楽しかった。さすがに2次会は2人位で行った人たちが居た様だが、3時半ごろ解散となった。次回は、三島の寿司屋でゴルフをやりたい人は遣って、打ち上げは寿司屋で... どれだけ集まる事やら...

*久しぶりの銀座、僕の好きな「安藤七宝店」が、何処か引っ越したらしい...外国ブランドの店になって居た。人通りは、外国人が非常に多かったのが目立った。「三愛」も工事中。随分と様子が変わって来た。僕には柳並木の在った銀座が懐かしい...



‘24-10-15 ゛吉田はるみ タウンミーテイング“

2024-10-14 21:27:12 | Massy's Opinion
  • Massy’s Opinion”
*第56回吉田はるみ前衆議員の国政報告会が浜田山会館で11日に開かれた。勿論我が家の近く、衆議院解散のタイミングでもあるし出掛けてみた。会館の大ホールは150人位の収容力である。僕は、はるみさんの集会にはこれで5回目か6回目である。前回の選挙で石原伸晃さんを負かしてから余りの票数の差に彼女をマークした。集会に初めて参加した時、話を聞参加者とのやり取りを聞いて、これは「いい球だな」と感じた。それ以来応援をしている。先ずは、「企業献金は受け取らない」「パーテイ―はやらない」とこれは一年生には言える事だが中々難しい。僕は、自動車労連、販労、東京第一地区の委員長を3年やったが、組合費は自動車労連へ納め、其処から還付を受ける仕組みだった。とても十分な活動費ではない。そこで、まず地区の財政確立をしようと思い、女子を一人専門に雇い、斡旋物資の販売を始めた。「女子のストッキング」「蜂蜜」「オンワードのセミオーダー・スーツ」である、この中で一番売れたのは「ストッキング」だった。3年間の任期中、月1回の支部委員会では、夕食に「かつ弁当」を取り給食をした。これで、地区の金を15万位積み立て次の世代に繰り越した。はるみさんが初志を貫徹できるか?此れから知名度も上がり活動範囲も広がった時、が大事である。今度の代表選に立候補したのには驚いたが、大きな道は開けたと思う。国政報告会もビデオも使い1時間半隙間なくいい運営だと思った。彼女の色んなキャリアーが実るのだろう。いま彼女が提起している問題の先の世界を知り...考える事が真のリーダーになるには必要だと思う。いい国政報告会だった。
*今日10月14日吉田はるみさんのルーテインワークの浜田山駅頭での街宣活動があった。15時半から約1時間半、 今日はこの間の国政報告会の後でもあり、選挙も決まった後なので、「街の雰囲気は如何だろう?」と15時に駅頭に行き、バス停の待合椅子に陣取りじっと行き交う人を眺めて居た。浜田山も変わったもの...知って居る人に一人しか会わなかった。3連休の最終日、子供連れの家族が多かった。予定時間の30分前に成っても選対の人らしき影は見えない。10分前位に成ったら。拡声器や幟を持った人が集まって来た。浜田山の人は一人もいない。その内にチラシ配りが始まった。定刻10分前に成るとはるみさんが現れた。僕を見つけて「あら、増田さん先日は有難う御座いました」「良い、報告会だったね...」「教育問題倫理観を教える修身を教える様にしたい」と言う事20%位入れて置けばいいのに...今の自民党に欠けているのは倫理観だよ...」「うん...そうですね...」「自民党批判に成るよ...」「読み、書き、ソロバンだよ」「山形、新庄市長の高橋さん知って居る?彼が選挙は何時も最終回、一点勝っていて、2死満塁、2ストライク3ボールの心境ですよ」と言って居たよ。最後まで握手しまくりだって...」ボランティアの数も増えたし。応援演説の人も知名人ではなく、普通の人がやっていたり、はるみ体制は出来上がって来たと感じた。選挙は水物結果が出るまで解らない...それにしても、今日通り掛かりで、多かった若い家族ずれの人達、君たちの事を「暮らしやすくしようとしているのに、もう少し関心を見せたら...」もう皆、下らない自民党政治に飽き飽きして居るのかも知れない。
結局、企業頼み、組織頼みになって仕舞うのかも知れない。

‘24-10-8 「一帯一路の今後]

2024-10-07 21:22:50 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*如何なるカリフォルニア規制
此の100年位の間、カリフォルニア規制はどれだけの産業の進歩を促して来たのだろう。僕の90年の及ぶ自動車業界での印象的な事は幾らでもあるが,排ガス規制でマフラーの中に白金を入れないと排気ガスが規制値内に収まらないと言う騒ぎだった。昔の話で詳しくは覚えていないが、確かにプラチナ入りのマフラーを付けた時から、解体車の値段が上がった事は覚えている。カリフォルニア同じ個所が3回壊れたら、メーカーが責任をもって新品と交換しなくてはいけない。「レモン法」と言う消費者保護の法律もある。T製の我が家の洗濯機の基盤が3回壊れたので、サービスの上席者に「「レモン法」と言う法律知って居る?」と聞いたら知らなくて教えたら直ぐ新品と交換してくれた。今回の「ゼロミッション」は2050年位時間があるが、いち早く新会社「テスラ」が立ち上げられ、早くもお手上げ状態になってしまった。韓国の「BYD」は日本に電気自動車で参入してきたが、Hyundaiと 違ってバスから参入してくる様だ。矢張り、ユーザーが動かなければだめだが、メーカーが如何いう製品を作るかに掛かっているだろう。カリフォルニア州当局は規制が効果を上げるのに万全の自信を持っている様だ。
*最近の自動車業界
先日、YouTubeで豊田章男会長の「イズム」を拝見した。久しぶりで自動車業界の話とトヨタの今日の隆昌ぶりがよく解っつた。ガソリン、ハイブリッド、電気と幅を広げながらこの変化の時代に対処しているトヨタの考え方、僕は正解だと思う。残念ながら日産はもうトヨタと肩を並べる事は35年も前に終わってしまった。ビックモーター事件も引き受け手は在った様だが、社名も変えて再建に取り組むらしいが容易ではあるまい。BYD辺りに拠点の切り売りをするのでは無いだろうか?今、街の修理工場も整備士不足や後継者問題で廃業する所が多い様だ。整備士も従来の様な考えでは役に立たない。ガソリン、ハイブリッド、電気に対応できる整備士でないと役に立たない。ガソリンスタンドもどう変えて行ったら良いのか?経営者は考えあぐねて居るだろう。
*一帯一路
ロシアとウクライナの戦争、イスラエルの内戦と一気に世界情勢は危険な状況に成って来た。同時に景気もおかしくなって来た。インドは隆々として来たようだが、残すところはアフリカ大陸だ。地の状況現在は53ヶ国ある様だ。これから中古車の需要はますます伸びて行くだろう。日本車は評判がいいが、今の処は船便の方が多い様だ。「一帯一路」が出来上がれば日本からのアフリカ向け中古車は陸路を使うように成るだろう。そんな考えから一帯一路」に凄い期待をしていたが、主導する中国も景気が悪くなり、一路計画は延期の雰囲気だ。高速自動車道路が出来れば、「通行区分の世界統一」は必然性が出て来るだろう、と考えて居た。そんな事から考えていくと、「通行区分の統一」は「世界平和の証」に成るのでは...と考えだした。
*将来の日本
人口減少の局面を迎えて、過っての自動車の様に輸出を牽引していく産業は見当たらないだろう。地味な産業の中に輸出を支えている産業を手厚く国が支援する様にしないと中々以前の様な高度成長は出来ないだろう。多くの反論を受ける事は承知の上だが、如何しても日本海を活用するべきだと思う。日本海を中心に貿易を活発にする事、その為には中国、韓国、ロシアと積極的貿易体制が必要だ。30万トン級の船が3艘停泊できる様な港を3ヶ所位作り、日本海貿易を活発にして行くことが、必要だろう。第二段の列島改造論を作るような日本の将来の方向にするべきだ。熊本大学外川教授、北海学園浅妻教授、方の研究が参考に成るだろう。

‘24-10-1“Diary 213”

2024-09-30 22:21:48 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
・9-10 誕生日
満90歳の誕生日を無事に迎えることが出来た。正直な所、昔は、90歳迄生きられるとは考え無かった。とは言え健康状態から「何歳位まで生きられるかな?」と考える事も無かった。大学卒業して入社した東京日産の定年は55歳。入社した時は、5年位で辞めて、増田商会を継ぐのだろうな...と漠然と考えて居た。何処の学校でも、野球部の監督は4年生の就職の相談には乗ってくれる。野球が巧かろうが、下手だろうがノンプロの野球部のある会社に斡旋してくれる。勿論、学業の成績は学校推薦が取れる事が前提である。
29歳までに、友人の結婚式に25回位出た。もう30も間近、ボツボツ結婚しようかなと考え出した。処が、2月に親父が痔で寝込んでしまった。意外に手遅れで重症だった。
その後、痔の手術は順調に終わったが、一向に血液が戻らない。病院も3ヶ所位回ったが、結局、我が家で療養することに成った。それで、お店はおばあちゃんに社長、家の内の事には、今のワイフに来てもらった。当時の僕は販労東京第一地区の委員長。それから間もなく親父は回復せずに亡くなった、52歳である。若かったな...葬式は菩提寺の安蓮社。400~500人の人が参列して下さった。参列者の皆さんは「増田商会如何するんだろうな?」と言うのが最大の関心事だった様だ。参会者へのご挨拶の時、僕は一瞬考えたが、「増田商会は現在の儘続けていきます。よろしくお願いいたします。ご参列有難う御座いました。」と言う挨拶をした。さて、それから本当に「今後どうしようか?」と考えた。思い余って、ワイフと銀座日動画廊の前に出て居る「占い師」の処へ行って、事情を話し今後の意見を聞いて見た。「占い師」は「貴方は大衆に関係のある仕事をした方がいい」と言われた。これで、僕の腹は決まった。店はおふくろを社長、ワイフに手伝わせる。僕は会社を辞めずサラリーマンとして家庭生活の経済的安定を考えよう...」これから僕の今日にいたる迄の生活が始まり、仕事は人一倍働いたつもり...これは誰でも同じだろう。唯、健康に恵まれ、友人、お客様、接する人に本当に恵まれた暮らしが出来たのである。あの時、会社を辞めて居たら今日90歳をどんな形で向かえられただろうか?
僕は、小さい時から体を動かすのが好き、さりとて、運動神経が鋭い方ではない、体も大きくない、それでも、なんでも10番目位には入って居た。大学卒業して、会社員に成っても方々で草野球をやったり、会社が野球部を作る事に成り、30歳位までは第一線でプレーしていた。職場が変わるごとに野球チームを作り楽しんだ。野球をやめてからは、スイミングプールに週1回位は泳ぎに行った。犬を色々飼って居たので、散歩には毎日行って居た。食事は腹8分目、酒は40位までは随部飲んだ。タバコは50歳で辞めた。今考えると、犬の散歩が一番体に良かったかもしれない。ゴルフは勿論、毎週の様に行って居た。野球仲間中心にメンバーには恵まれていた。こんな暮らしをしていていつの間にか、80歳の誕生日が近くなると、「何か年を取ったな」と言う実感が頭の隅に浮かんできた。
さて、今年は、8月の20日位から、「僕は、9月10日位まで生きられるのかな?」と言う不安が沸き上がって来た。体調も良くないし、「不眠」が酷い。足首に加えて、膝が何かスムースではない。務めて平常通りの暮らしをした。そんなこんなしている内に9月10日を無事に迎える事が出来た。さて、今度は幾つ迄生きられるのかな?お袋はボケ始めが93歳位で96歳迄生きた。9月10日までは無事に生きられたのだから、取りあえず、次の目標はお袋の年齢を目標にして、今のペースで頑張ろう...
*9月は天候が不順だった。「外出はしない方がいい」とテレビやラジオで言う。よく考えて見ると、外出して若し転倒でもしたら、人様に迷惑を掛ける...と言う様な事を考える。結局、外出は一切なし...大谷君のテレビを見て、残り少ない野球友達と電話で話をする位。誕生祝にメグミが送って呉れた愛車フィガロのデコレ―ションケーキが発注サンノゼ、発注先愛媛、東松山のデコレーション・ショップ、誕生日のお昼我が家着。これには驚いた。ケーキのフィガロが良く出来ている、食べるのには勿体なかったが,美味しかった。
最近の世の中は、日本はもとより世界各地で紛争が起こったり、大きな自然災害が発生している。振り返って見ると、コロナ以降の10年は歴史的な変化の時期なのかも知れない。僕は、「一帯一路」に世界平和の期待を掛けていたのに...また次の機会に夢を書くことにしよう...

'24-9-24“Double-Double” 

2024-09-23 22:19:44 | Megu's Sports
★Megu's Sports
*ひさしぶりにレースを2連戦した。9月8日Ironman 70.3 Santa Cruz, その後9月14日USA Triathlon Age-Group National Championship (Olympic Distance)。Oly-Olyと、Oly-70.3の連戦はしたとこがあったけど、70.3-Olyは、初めて。いつも全米選手権は、8月にあるんだけど、今年は、オリンピックのせいか9月。Santa Cruz 70.3は、地元なので参加したくて。全米選手権は、来年、Wollongong, Australiaで開催されるWorld Championshipに出たいので、トップ18に入ればなと言うことで、2連戦してみることにした。

*結果は、Ironman 70.3 Santa Cruzは、AG2位(40人中)で、全米選手権は、AG8位(58人中)。両方とも、納得のいくレースだった。全米選手権では、6日前の70.3の影響がないようなレースができた。体が、思ったように動いている時は、きつくても気持ちがいい。何が好きなのかって、メンタルゲームなのかな。今思うと、10代の頃、大学の頃に比べると、また、20代の頃トライアスロンを始めた頃に比べると、レース中の自分に対する接し方が、違う。もちろん年と経験おかげでしょうね。とにかく、両方のレース、楽しめたわけです。

*その一方、多分、このレースのコンビネーションは、近い将来、計画しないでしょ。このスケジュールで、レースをこなせることができるって分かったのは、いいこと。なんだけど、全米選手権は、New JerseyのAtlantic Cityで行われたので、1日かけてフライトとドライブの旅。西海岸から東海岸まで行くのって、 一日かかる。また、時差も2時間だとそんなに体に影響がないけど、3時間って、馴染むのが難しかったりする。レースが近く、同じタイムゾーンだったら、かなり楽だっただろうな。幸いレース中は、70.3も時差も影響がなかったけど、レース前日とレース後、よく寝れなかったので、移動日が、やけに疲れたりするのです。

*全米選手権の開催されたAtlantic Cityは、カジノで知られている街。と言っても、現在は、かなり寂れている。カジノ以外の2−3スターホテルは、街と一緒で寂れていて、Crazy peopleが深夜過ぎても外で、大声で話をしている。道路のコンディションも悪い。カジノの街で、ホテルは安いけど、物価が高い。普通のスーパーマーケットがないなど、今まで海外でも経験したことのないような経験ができた街。ところが、1マイル街から出ると、“どうなってるの?”って思うぐらい、突然、良い街並みと高級住宅街が広がっている。

Torremolinos, Spain is next up! 来月は、WTC finalです。



’24-9-17自動車販売の流れの中で90年(2)

2024-09-16 16:30:03 | Massy's Opinion
★Massy'sOpinion
”自動車販売の流れの中で90年 (2)

*日産自動車の体制とトヨタの違い
;日産自動車は車を作るところ。工場ごとに製造車両を分けていた。
:販売会社は、基本的には1県1社 後に乗用車時代の到来を望みメイン車種を乗用車に替えメイン車種ごとのディラー・チャンネルを作る様になった。メーカーの内部体制は地域別、だったが、車種別、地域別に運営するようになった。
:特筆すべきは、トヨタで日産に僅かに立ち遅れて、来るべき時代に対応するために卸し売りのトヨタ自動車販売を設立したのである。
トヨタ自販の社長は、神谷正太郎氏である。先ず、この人の事で、知っている範囲の事を書いて見よう。神谷正太郎氏は三井物産に入社したのである。その後、日本ゼネラルモータース、トヨタ自動織機製作所の勤務を経て、トヨタ自動車販売の初代社長に成ったのである。
この自販方式と日産の様なディーラーへの直売方式との優劣は、解らないが、現在ではトヨタも自販方式は止めてしまった。自販方式はメーカーに取っては資金的には、各販売店から集金する手間が省けるし、メーカーと自販の重複する業務はあるにしても、メーカーの成長期にはメリットがあるかも知れない。然し、この自販方式を取る際にメーカー、自販の間で取り決められた。次の事は、今日のトヨタ、日産の大きな差の元になって居ると思って居る。
即ち、神谷さんの語録には
*「1にユーザー、2にディーラー、3にメーカーの利益」
*「経営者には6段階の時期がある」
第1の段階は、社長個人でお金を儲けようとする時期。
第2の段階は、会社として利益を生みだす事を考える時期。
第3の段階は、売上高や、社員を含めて、会社全体を大きくしたいと願う時期。
第4の段階は、人や組織造りに一生懸命になる時期。
第5の段階は、業界や世の為、人の為に尽くす時期。
第6の段階は、死んだとき悪口を言われない様に努める時期。
と言われている。

*日産から学んだこと。
私は、日産自動車の人々に色んなことを教わり、余りにも「士農工商」的なメーカーと販売会社の基本契約に疑問を持ち、この序列を変えるべく、「異質だけど対等」と言う考えを強く持っていた。特に、日産自動車には戦争中に軍の学校に居た人々が多く、素晴らしい人が沢山いた。基礎学力のレベルが販売会社とは、全然違う。それでも組織は、トップ次第なのだろう。
・原価低減を徹底してやっていた事。
ストライキから、再建の道を進むのだから、当然の事、営業部門の事務の人は、「鉛筆一人3本、砂ゴム(消しゴム)は一人半分」と言う時代が在った。大卒新入社員は、殆ど原価課に配属されていた。そこのトップが後の石原社長であり、下に後の国内営業トップの大竹さんがいた。「原単位」と言う言葉を大竹さんはよく使って居た。私はその意味を大竹さんから教わった。
・学歴別差別が厳しかった事。
当時、日本全体がそうであった様に、人事管理は基本的に学歴別、年功序列であり、全く軍隊的であった。東大、以下東北大等が優遇されていた様に思う。国内営業部門の人は中卒が多く、男親の人はどうしても子供を大学に入れたく、其の学費稼ぎに、我々の車を引き取りに行くのと一緒に会社終了後、吉原工場通いをして、車陸送のアルバイトをしていた人が3人位いた。
・整理、整頓が良く出来ていた事。
私が入社した1957年頃、東京日産の販売は、月800台位が毎月倍々ゲームで増えて行った。
業務の仕事も在庫日報と言えば、毎日日めくりの在庫帖を付けていた。それではデータが取れない。メーカーの製造タクトは3か月である。そこで、一ヶ月一覧で見える在庫日報を作った。「日報は一日一枚ずつつけるものだ」「一日一回付ければいいでしょう」と大議論をしたことがある。ある日、日産自動車に行った時、新入社員の女子が、ファイルを整理していた。「江草さん、誰に整理を教わったの?」と尋ねたら、「ここに在るから、同じ処に閉じているんです...」この返事には、「歴史が大事なんだな...」つくづく思い知らされた。
・メーカーとディーラーの関係。
東京日産が上場して、株式が日増しに上がって居た時、担当の部長代理が僕に言った事がある。
「増田君、如何して東京日産の株価があんな高値を付けているんだ?メーカーと1年契約書1枚の会社だろう?」「もう10数年続いている関係が壊れる事は無い...と言う歴史的現実が在るからだ...」と言われた事がある。歴史と言うものはとても大事なものだと、この言葉は今でも鮮明に覚えている。
・少し、話が前後するが、東京日産の指導体制は、吉田社長、中島専務、荻野常務と言う体制であった。業務部は部長が常務、その上は吉田社長と言う体制であった。晩年、吉田社長が体調を崩され、少し、長い間会社を休まれ、その後、出社された時は、会長に成られた。ある日、秘書の女性が、「増田さん会長のお相手をして上げて...」と僕を呼びに来た。会長室へ出向くと、「どうなんだね、最近は...」と言う事から色んな話に成り、会長が「当社を関東のデイストリビュウターにしようと思うんだ。宮家君を呼んでね...」「会長、宮家さんは無理ですよ。今、業務部と言う新設部署でディーラーの基準造りを始めたばかりですよ...」とご進講した事がある。当時、車のやり取りを関東一円のディーラーと一月200台位やって居た。当時は、地方と東京と仕切に価格差があり、勿論、損しない様にやって居たことは当然である。吉田会長はそんな事もご存じだったのである。丁度、其の頃か、東京日産は株価の面で非常に注目される会社だった。後の秀和の株買い占めに繋がる時代だった。
当時は、日産の販売体制に少しずつ問題が出始めた時である。「財界」と言う経済紙の記者が、僕の処へ取材に来て、「川又、中島不仲説がありますが実態は如何なんですか?」と聞かれた事がある。直ぐ、中島社長に言うと「儂は、日産に足を向けて寝られはせん、日産のお陰で今日があるんじゃ...」と言われた。川又社長も組合問題には頭を痛めて居たし、ディーラーとの話し合いは営業に任せると言う態度を取られていた様に思う。
・メーカーの考え方は,新車を如何に作るかと言う事第一に考える。ディーラーはメーカーとの契約台数は引き取る責任がある。此のディーラーの業績評価は、販売台数=登録台数で評価される。私の持論は、ディーラーの経営責任も大切である。その為に、固定費の70%は、部品、修理、中古車の利益で賄える様にしなくてはならない。ある時、日産から常務で日産ディーゼルに出た人から、電話が掛かって来た。リコールが発生して、その部品がライン供給で余裕がなく、販売したリコール対象車両に回す部品が足りない。「私はラインを止めてもすでに販売した車に部品を供給するべきだ」と言っても、役員会で多勢に無勢で意見が通らない...と言った話だった。神谷正太郎さんの考え方とは、随分違いのある話だ。
・’91年、私は、日産特販と言うメーカー全額資本の会社の社長を命じられた。兎に角、これから激動の自動車界で生き残れる会社にしようと考えた。私の業務時代の上司が1代目、2代目、と社長をやり2代目が急死をして、3代目が東京日産の常務が遣った後である。
兎に角、自立できるディーラーにしようと思い、日産の中古車部門に居た良く知って居る人間を2人連れて行った。役員体制は、偶然にも台湾関係の著名な軍人の御子息と永田鉄山の息子さんが居た。皆、私の方向性には賛成で色んな私の構想には強力な力を入れてくれた。女子を戦力にしようと思ったが、幸いに一人車が好きでツナギを着て車洗いをやっている子がいて、女子が男と一緒の仕事をするのを嫌がらなかった。顧客管理は、リースの手法を利用して、径年数残価価格(お客様の簿価)が解るようなシステムを組んだ。狭い場所で、LPG車のハイヤーの下取車の販売会を遣ったりしたが、お客さんはタクシーの運転手さんで、皆さん車の整備状態が良いのは極知して居るので、よく売れた。全く新しい中古車の展示会のやり方と新しい顧客層の発見だった。‛96年にはミヤンマー観光年向けにタクシー車の中古車を350台輸出した。この時は、日産の輸出部担当のK副社長と随分交渉した。「新車が売れなくなってしまう。タクシ―の中古車なんか売らないでくれ...」「向こうの国は、お金が無くて買えないのですよ」ミヤンマーの軍の責任者が「日産自動車に挨拶に行きたい」と言うので、説得に大変だった。最後はそれでもお土産に「ニコン」のカメラを準備して両国の旗を立てた応接間でキチンとした対応はしてくれた。ミヤンマーは基本的に右側通行、左ハンドルだが、この350台はミヤンマー政府が特別に右ハンドルを許可したのである。香港でも同じようなケースがあった。香港政府が排気ガス対策のテストで40台のタクシー車をテストしたいと言う話があり、何とかトヨタと20台ずつに漕ぎつけた。香港のタクシーは20,000台、昔は皆セドリックの中古車だった。ガスの注入口はオーストラリア製、日産は絶対に変えない。トヨタはオーストラリア製に変えると言う事でテスト車以外はトヨタに成ってしまった。今は、韓国製が入っているかも知れない。
これらの例は、「日産とトヨタの誰の為に車を作るか?」の造り屋の考え方の違いだろう。
・日産特販当時は、タクシーの料金制度に合致するように小型のタクシー車を作ったこの車は、左後席のドア―の開口幅右側より5㎝広い。乗降客の利便性に配慮したのである。従来の乗用車からは画期的な発想でった。今この発想はトヨタのジャパンタクシー車に取り入れられていて、タクシー業界はこの車が95%位の全国的シェアーを持っている。売価は付属品も色々付いているが、400万近いと言う話で、25年前の日産車の売価は約180万位だった。

*21世紀の自動車と環境
・創世期の自動車販売業界
自販連では、協会の格付けの為に大学教授を毎年総会時に講師に大学教授を呼んでいた。
確か、一番初めは、慶応の藤沢キャンパスを主導した加藤寛(最終、千葉大学長)教授だった。その後4~5人の先生が入れ替わりに呼ばれていたが、京都大学の塩地洋教授が排ガス問題と中古車の海外輸出の研究を定年まで約30年位続けられ自販連でも事あるごとに講演をされて居た。僕は、塩地先生に随分と自動車販売の実態をご進講させて頂いた。そんな関係で京都大学東アジアセンターの外部研究員をコロナ以前、塩地先生が定年になるまで続けさせて頂いた。最近ではその頃の先生方が皆さん定年に成り、又、コロナ禍で会議が出来なくなり、中古車の海外輸出問題、電動化、自動運転等の問題は、各企業内で議論されるように成り、まとまった方向付けが出来なくなった様である。テスラ、韓国等の比較的小さい国やメーカーがトライアンドエラーで新しい方向を進めやすい様だ。

経営の再建には、稼働率の悪い不動産の整理と人員整理しかないと思って居る。日産はゴーンの体制に成ってから本当によく不動産を売った。何故、ルノーに株を持って貰ったのか?ルノー自体がフランスの自動車業界立て直しの一環で出来た公団である。日本の政府は日本の産業政策の将来を如何考えていたのか? 外車の輸入時代から日新自動車でオースチンを売り、晩年は、ルノーを扱っていたキャピタルに居られたが、英語流暢、タイプも打つ、小西芳三さん、日産の国内営業をやって居た、前原正憲さん、神谷正太郎さん、梁瀬さん等の意見を聞く場があっても良かったのではないか?トヨタもこの処大きなリコールで大変だ。日本の基幹産業を如何するのか?自動車産業の二の舞をしない様に政府にはシッカリと中核産業を決めて将来の方向性を決めて貰いたい。

*さて、ルノーは日本では販売チャンネル造りが遅れていた。僕の知って居る範囲では、タバカレラ貿易と言う会社が輸入権を持っていた。大体、10年サイクルで契約する代理店契約である。日野自動車がルノーと技術提携をしたが、大型車に絞り込み乗用車の生産を止めた。タバカレラ貿易はディーラーネットも作らず10年で三井物産が次の契約を引き継いだ。ルノー公団の事務所は三井物産の中に置いた。三井物産は「フランスの公団の代理店」と言うタイトルが欲しかった様だ。僕の学友が、偶々、ルノー公団の副代表と言う仕事についていた。代表のデユプレと言う人に紹介され随分と日本の自動車事情をレクチャーした。ルノーは当時1%以下のシェアーだった。「日本は無理ですよ。どの位のシェアーを望むのですか?」彼は「10%」と言った。「大きく考えて、小さくスタートだ」この言葉は非常に印象的だったので、よく覚えている。
その後、オースチンを売って居た日新自動車が東京日産の関係会社キャピタルに替わり、売る車が無くなって居たので、ルノーをキャピタルに紹介して、10年代理店をしていた。その時、日産自動車はルノーの総裁が東日の本社を表敬訪問する事に成ったが、日産自動車は東京日産の本社は止めて、場所を変えて呉れと言ってきて、ホテルでの面談となった。その後、ルノーは余り売れず、10年後日英自動車に販売権が移った。
日産の川又社長はストライキ以後の立て直しで、「労使の相互信頼」石原社長は「世界で10%のシェアー」と言う目標を建てられた。然し、会社が大きく成れば、労働組合も大きくなる。組合内部の権力争いも宮家、塩路のせめぎあいも激しく、特に塩路さんのスタンドプレーは激しかった。僕の部下のセールスが、ヤマハのセールスに車を売ったが、そのセールスは塩路さんにボートを売って、川又社長の小切手を貰ったと言う話を聞いて来た。全く色んな裏話が在るものだ。確か、’99年8月頃、僕は塙社長から呼び出しを受けた。生憎、神奈川のお客様を訪ねていて、時間が合わずお会いすることは出来なかった。内容は解からないままだが、屹度、ルノーとの事だったろうと思う。日本の政府は何をしていたのだろう。ゴーンの問題を此の儘にして置いては絶対に許せない...「秀和による株の買い占め」につては、別に書くことにしよう。

さて、非常に大雑把であるが、僕の仕事を振り返って見た。書いて居ると次から次えと色々な事が想い出て来る。然し、自動車の仕事は、作る方も売る方も本当に利益を出すのは難しい。生まれ育った芝界隈も大規模な再開発で街の様子は本当に変わってしまった。古い昔の人にお会いすると、「自動車屋は再開発が無いと生き残れないなあ...」と言う話が出て来る。街の整備工場も、これからの自動車の燃料がハイブリッドか?電気か?によって整備に必要な知識は大きく変わって来る。それにプラスAIの知識だ。果たしてどちらの方向にむかうのか?間違いないのは「自動車の需要がある」と言う事だろう。
P,S 秀和による株買い占め事件
昔の話で、日時は詳しくは調べないと解らない。僕が、八王子営業所長の時だった。
僕の中学時代の野球仲間DMSと言うダイレクトメールの発送業務をやって居るYから、「お前この間、T君を紹介したよね。彼奴は株を大きく動かしているんだ。彼奴から電話があって何処か買い占めている奴がいて今日、東京日産の株が、100万株動くと言って来たよ。」
「えっ、本当...それは大変だ。本社の連中知って居るのかな?全然そんな話は聞こえて来ないよ...」早速、本社のI財務部長に電話をした。「そんなの大丈夫だよ、当社は不動産を沢山持っているから値上がりしているんだよ。それだけ有料株だと言う事...」その日は、100万株は動かなかったが、77万株買われた。Y君に「本当だな。どこが買って居るのか調べて呉れよ」「これ以上は解からないよ。品川練習所のHさんに聞いたら...お前付き合いあるだろう...」僕の付き合いは、次男の方なので次男に聞いたら、「そんな事俺にも解らないよ。兄貴に怒られるよ...」と言う返事。2~3日後次男から電話があり、「マッサン、今日銀座で飲もうヨ」「いいよ、6時三原橋のパチンコ屋で...」その日、次男と飲みに行った。「そこで、兄貴に殺されてしまうよ...と言いながら、証券会社を教えて呉れた。その後、秀和は株を買い進め、東日の株が買い占められている事は徐々に知られるように成って来た。
当時は、この他にも買い占め案件が多くあり、ディーゼル機器もその一つであり、これは日産自動車へ泣きつき日産はその手当の方が優先であった。此の77万株動いた日に誰に報告しようかなと考えて、東日の大野副社長に電話して、話し合う事にした。大野さんは慶応の先輩で父君は横浜モーターの役員、田園調布に住んでいた。東日の中島会長、泉社長と同じ仲間である。大野さんとはホテル大倉の喫茶室で会った。「大野さん実はこう言う事があってね、財務部長に話してもあの人は意味が解らないんですよ...」「マスよ、実は俺も困って居たんだ。3日ばかり前に、お前知って居るだろう...ヤナセの森山、奴に呼び出されてプリンスホテルで秀和の小林社長に会わされたんだよ。そして、「君を社長にするから秀和に来ないか?と言われたんだ」「もちろん。断ったよ...」「大野さん、株を買い占められるなんて、社長の恥ですよ。泉社長に言った方がですよ」「うん、お前一緒に行かないか?」「僕はいやですよ。田園調布グループのご近所さんの話にした方が良いですよ」と言う事で大野さんが一人で直ぐ行くことにした。そして、翌日から東日所長以上が集められて概略の話と動揺しない様に泉社長から話が在った。ヤナセの森山さんは、ヤナセ商事部長されて居たが、慶応商工時代からヤナセ次郎社長の家に下宿していて秘書課長等を歴任し、商工時代からの大野副社長親友だったのである。僕は以前から会社の安定株主は、日産自動車20%、ダットサン研究会等大口顧客20%言うのが持論だった。この問題の始まった当初から、東京日産の在り方論ついては、唯メーカー支配を怖がるだけで競輪場、ゴルフ場等の多角化測るだけ、メーカー「日産は株屋ではない...」と言う誰も触れたがらない問題が現実的に起きたのである。秀和には、森山さんの他に、慶応野球部の4年先輩の瀬尾さんと言う人も入って居た。八王子まで、森山、瀬尾二人で僕の処へ来たことがある。此の買い占め事件は、結局最後は日産が買い取ったのである。この時代、ダイエイが高島屋の株の買い占めをやって、高島屋側の窓口を遣ったのは、僕の成蹊時代の仲間H君だった。東大卒で高島屋では早くから業務部長をしていたが、その後はカローラ高島屋へ行って、自動車の事解らないからと僕の処へよく来たものだ。ある時、金融庁の前で、偶然に会い「こんな事があって、日本の資本主義は変わって行くのだろうな...」と話し合ったことが想いだされる。兎に角、秀和もダイエイも高学歴の連中を引っ張った事は確かである。僕の人生の中では、これらの人間関係と事件は、貴重な経験と財産である。






‘24―9-9 “自動車販売の流れの中で90年(1)”

2024-09-09 21:54:09 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
・明日は僕の誕生日 早いもので、生まれてから90年である。僕の今までは部品商の一人っ子に生まれて周囲の人と、健康に恵まれて今日まで生きて来られた。振り返って見ると自動車の事は昔の事を知らない人が多く成っている。順序は未整理だが思い出す儘に今月は3回に分けて覚えている事を書いて置こう。
*日本の自動車販売 発祥の地
東京日産の20年史によれば、石沢愛三氏(明治11年、芝愛宕下3丁目、生まれ、早稲田大学出、)が日日新聞、毎日新聞の記者を経て、大倉男爵の要請により、東京自動車商会の経営に当たった。同商会が日本自動車株式会社となり、昭和10年12月、鮎川義介氏の要請で、ダットサントラック会社となり、後に、日産自動車販売株式会社の創立と成った。た。
旧芝区内に自動車関係の業種が密集したのは、この大倉男爵は自動車に興味を持たれていて、お屋敷の周辺には、大倉邸に出入りする八百屋、魚屋を始め霊南坂を上る大八車の後押しを幾らかのお金を貰いそれから一年発起して一台のトラックを買い、運送会社を始めた人が居たとか、男爵邸の車、磨きをやっていた。(現 ホテル・オオクラ)と言う人が僕の東京日産入社時代には、まだ数人在社していた。其の頃の人は、増田商会と言う部品屋がこの辺にあったことを知っている人が居た。この大倉邸と東京自動車商会、が自動車販売の発祥の元に成ったのだ。「汽笛一斉新橋を」の鉄道唱歌にある様に新橋駅、汐留が物流のポイントに成って運送業が発達したのだろう。昔、東京陸運事務所のブレーキテストは、所内の人造坂を上り、下る時に検査官の号令でブレーキを踏み車検期間が1年とか2年と判定された。近所の修理工場は車検場へ行く前に、霊南坂の脇の江戸見坂でブレーキテストをして、検査場に行って居た時代が在った。
まあ、こんな時代で、僕自身の中では、日本の自動車販売の発祥の地は芝、愛宕下になるのである。

*僕の生い立ち
さて、当時の虎ノ門近辺事情を書いたが、僕の家は、旧芝区田村町6丁目6芝郵便局の隣である。9尺間口、奥行き3間の店である。親父が18歳で部品商を開業して小僧さんを二人住み込みで置いたのである。此の住み込みと言うのは、3食皆家族と同じ物を食べ、旦那だの子供だの区別するわけにはいかない。狭い家の中で一緒である。洗濯物も一緒。雇人と区別をする場所がある家は良い、そんな大店は余りなかった。晩年、親父と母の、職住について意見の相違はこの辺にあったと思う。(母は職、住分離を強く希望)

・本籍地は、東京市新宿区四谷1-9
・産院は、 慈恵大学病院 命名 虎ノ門金毘羅神社
・菩提寺、 東京都港区 安蓮社170年位前から増田家の墓がある。
父は、本籍地の生まれ、祖父の金太郎さんは株屋で羽振りも良く、女中さんを5人位使って居たとか...父が小学生の頃、大損をして神谷町の貸家に転居せざるを得なくなったとか...曾祖父の清三郎さんは、増上寺の僧兵の頭だったとか...それで安蓮社が菩提寺に成っているとの事。父は姉、弟が二人の4人兄弟、弟二人は高等小学校卒ですぐ軍隊に召集され、気球隊に配属になったとか...父は商業学校を卒業するとすぐ日加商会と言う部品商に務め、18歳の時には、部品商を僕の生まれた田村町で開業している。当時の商店は、間口9尺、奥行き3間と言うのが、芝界隈の商店であった。小僧さんが二人住み込み、我々は2階暮らしと言う状態だった。母の実家は、田村町1丁目、交差点の傍、新橋から虎ノ門へ続いている道の角から2軒目で、油屋をやっていた家の4人姉妹の3番目である。土間に大きな箱があり、その中が仕切られていてゴマ油、麻油とか色んな種類の油が入れられていた。店の前にはポータブルのガソリンスタンドを置いてガソリンも売って居た。そこに、当時、流行りだしたタクシー業者今の日本交通とか国際自動車の創業者がガソリンを入れに来ていたのである。当時の田村町1丁目の交差点は、日石本社、隣に日比谷公園寄りに三井物産別館があり、東側に飛行館、新橋寄りにアンパンの木村屋、南側におもちゃの大黒屋(僕の慶応で同級生)、西側は、うまいお煎餅の忠勇堂があり、今でも目に浮かぶ。日石と三井物産別館の間に虎ノ門の方に向かって行くと修理工場が4~5軒並んでいた。

*ヤナセ自動車は、三井物産の自動車鉱油部の鉱油部が分かれて独立したのである。
三井物産機械部に勤務していた梁瀬長太郎氏は大正4年に独立、同社から輸入自動車と輸入鉱油類の一手販売権を譲り受けるとともに、日比谷公園前の270坪の店舗及び工場を拝借し、梁瀬商会として営業を開始した。ヤナセはガレージもやって居り、其処にタクシー―を始めた人たちが車を置いていた。今の日本交通の創業者、川鍋秋蔵氏はその当時から車を2台持っていて、1台は車を持てない同業タクシー希望の人に貸していたそうだ。
 跡地は後に三井住友銀行の本店になり、現在は東京ミッドタウン日比谷の一部にあたる。僕の母の実家は前述した通り、油屋で、ガソリンも売って居たのでこのヤナセガレージに止めた車は殆どガソリンを入れに来たのである。女4人姉妹、皆、若かかった時代、店の人気が出たのは、想像がつく。

*太平洋戦争の戦中,戦後
太平洋戦争中色々な事が変わって起きてきた。あらゆる産業が大戦用に向けられてきた。当時日石本館と三井別館の間に道があり両側に小さい修理工場が4~5軒あったが、戦争中に合併させられたのである。この三井の別館の中には「海軍艦政本部」と言う部署が配置されて居た。後に聞いた話であるが、ここでかの有名な「人間魚雷」が考えられたらしい。そこで、修理屋2軒と部品や1軒が合併させられて,梁瀬さん、川鍋秋蔵さん等が少しずつ株を持たされて「日の出自動車工業株式会社」が出来て人間魚雷用の中古エンジンの整備を一部始めたのである。当時の人間魚雷は1400艇位が考えられたらしい。
これらは、記録が残っている訳でもなく、親父から聞いた話である。当初、浜田山の三井グランドの辺りに地下工場で大きな工場を作ろうとしたらしい。そんなこともあり親父はこの杉並方面に家を探してこの浜田山を見つけたようだ。当時、この杉並近辺にはプリンスの工場もあり、随分自動車生産の準備はしたらしい。旧後藤知事時代の大東京構想には、神田上水、玉川上水を境目に巨大な大東京構想があった様である。当時の浜田山一帯は神田上水を底に田んぼが広がり、いくつもの灌水用の小川が神田上水の分流となり、冷たい、澄んだ奇麗な水で、ウナギ、タナゴ、鯉、フナ、ナマズ等の小魚が沢山いた。当時、韓国人の労務者が風呂代わりに水浴びをしていたのを覚えている。柏の宮公園は自然豊かな良い場所で縄文土器のかけらも僕らでも発掘出来た。そんな環境の所で、海軍の工場設置の考えも生まれたのかもしれない。小学校5年で高井戸小学校に編入したが、この時期。米軍の東京空襲は激しさを増し、富士山を目当てに北上してきた米機は、富士山から東に曲がりと東京中心に向かうルートが爆撃ルートに成り、僕は鎌倉街道沿いで、先導するグラマン戦闘機の機銃掃射を受けたこともある。
話が大分ずれてしまったが、戦後は、三井クラブの野球場4面。テニスコート12面位。50メータープール1個、200メーターの陸上トラック1面の大きなグラウンドが出来。隣の柏の宮公園には、野球場。テニスコート8面、プールとグランドがあり、未だ、野ウサギが居るような環境だった。三井のグランドでは、当時グラウンドのなかった塾の幼稚舎、普通部,商工、塾内リーグなどは随分使わせてもらったものである。

*日産自動車の役割
さて、本題に戻そう。戦争中は日本の重工業はそんな力強いものではなかった、明治時代に海外に目をむけるように成り、急速に近代化に向かったのであろう。その中に、戸畑鋳物の宗主、鮎川義介の「戸畑鋳物」からダットサンが生まれた。此の当たりからの話はいろいろな文献が在るし、正確な記事もあるだろう。当時、日産以外にも数社の自動車会社もあったようだが日産が一番大きく進んで居たのだ。三菱が軍艦、戦車等の重機を中心に作った様だ。当時の軍用トラックは、大体、その後の5トン、トラックとバスだったと思う。戦後、日産はこのトラック、バスの路線から、小型トラックやバンに生産の中心が移っていった。

*第二次世界大戦が始まると国内は戦時色一色。町の自動車屋も軍用車両か軍隊に収める食料輸送の車両の整備で一杯になって居た。神谷町周辺の自動車修理工場や部品屋に務めていた人々は徴兵、志願等で軍隊に入った後も、殆ど近くの部隊に配属に成り復員も殆ど同じ時期だった。日産は横浜工場が主力で戦後は大型トラックから生産の中心を小型のダットサントラックに移し、折からの戦後復興ブームに乗り、歴史的なストライキを乗り越え,他社を寄せ付けないシェアーを築き上げて行くことが出来たのである。此のストライキは矢張り日産の中に大きな種を残していると思う。日産の労使挙げた再建、民主的労働運動、川又社長、石原社長の「私の履歴書(日経新聞)」に出ている様な海外進出に対する見解の調整が一大難事だったと書かれている。私は、この時代販売労働組合の東京地区の委員長を専従で3年していたので、実際に自動車労連が宮家会長から塩路会長えの交代、販労(ディーラー)と日産労組(メーカー)とのギャップをよく知っている。この当時の日産自動車の社内は、「どちらを向いて良いのやら...」川又、石原、宮家、塩路の焦点探しに疑心暗鬼が渦巻く中で、ブルーバードを中心に車は売れまくって居たのである。私は、メーカーとディーラーの賃金水準の格差を無くすように主張して来たが、ある労連大会の時、配下の大会代議員にある議案に反対の挙手をさせた。大会後、販労の組合長に呼び出され、「なんであんな事をさせるんだ...」とお叱りを受けた。もう一つ、販売店の持っている、メーカーに対する要望を自動車労連として、メーカーのトップに知って欲しいと考えて、石原社長と販労の幹部との労使懇談会の開催を要求した。勿論、塩路会長から申し入れをして貰ったのである。この会議の時、塩路さんは30分遅れて来た。わざとである。勿体をつける為である。私は、この時すでに職場復帰をしていたが、職能人として組合側から出席を要請され、司会は当時日産の国内営業のトップ大竹専務だった。冒頭の話は、石原社長の「セールスは本当のところ一日何軒訪問できるのか?」と言う事から始まった。僕は、「一日午前中2軒、午後3軒,でしょうね。お客様との商談は、団体交渉と一緒ですから...」約2時間位の時間だったが販労サイドから出た組合幹部は皆、元気にいつもメーカーに対して持っている不満、疑問を発していた。その後、塙体制が終わるまでこんな会議が開かれた事は聞いていない。販売店の経営者も日産自動車の問題意識の強い連中もこの会議の様子を非常強い関心を持っていた。

’24-9-3 “Diary 212”

2024-09-02 23:09:10 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*8/9 神谷町祭礼 夜店
一月位前から、神谷町の夏祭りを復活しようと言う声が聞こえて来た。町会の役員もこの処、代替わりが多く古くから神谷町に住んでいた人は本当に少なく成った。
大体、町会のお付き合いは、ワイフと義弟が中心でやって居たので、今回もコロナ以来であるから7年ぶり位となるのか?足の具合が悪く、長距離は如何も自信がない。それでも、戸籍謄本を取る用事もあり、僕の本籍は、四谷なので、新宿区役所に行かなければならない。一度で用事を片付けようと先ず新宿へ回った。今月は、酷暑の為、外出は極力避けて居たので、久しぶりの外出となった。

神谷町の夏祭りは、昔はお神輿も出て居た。その後、子供神輿に成り、今では夜店とバンド演奏と屋台が定番の焼きそば、かき氷、射的、金魚屋さんが居なくなった相で、水玉取り、それなりに格好は就いていた。御神酒所もできて居たし。例年通りご寄付の張り紙も在ったが例年の2/3位しかなかった。麻布台の再開発で古い居住者が居なくなり、古くからの人は住まいが変わり町会の顔ぶれも随分変わってしまった。御神酒所は何時もの場所にあり、行事のレイアウトは変わって居ない、御神酒所の脇に例年通り寄付の看板が出来ていたがザット見ただけで、よくは見ていないが、約2/3程度だったので。寄付の募集活動が不足だったのだろう。実質町会長役の人に聞いたら、「今年は、赤字に成るだろう」と言う話だった。準備の段階で聞いた話だが、恒例のフラダンス・ショウやバンドも人間関係でやって居たので、連絡が取れなく、大分、困ったそうだ。それでも、5人編成のロックと6人位のフラダンスチームで2時間位は退屈せずに観客は集まって居た。色々、役員に聞くと夏祭りに付き物の「金魚やさん」が居なくて、困ったそうだ。現実、鯉を飼うのにも昔みたいにデパートの屋上の小動物売り場は殆ど見かけないし、僕が住んでいる浜田山にも、昔は釣り堀があったし、犬やも、小鳥やも在ったが、今は、無くなってしまった。街の中はどんどん無機化して行くのだろう。子供を集めて、太鼓をのせた山車を引き、お神輿を担いだお祭りが懐かしい。町会の組織は、マンションの管理組合に替わり、その中身は、何処でも問題だらけの様な感じがする。神谷町の夏祭りも来年は出来ないかも知れない。


‘24-8-27“アメリカのヘルスケア” 

2024-08-26 21:23:03 | Massy's Opinion
★Megu’s Sports
以前にも、ブログで書いたことがあったかもしれないけど。アメリカは、健康保険と医療費が高いので知られている。また、健康保険を持つことが、2010年のオバマケア以来、義務づけられている。雇用の場合は、会社・組織が、健康保険を福利厚生のベネフィットのひとつとして、半額または全額負担してくれる。その健康保険の適応範囲も、悪くはない。私の場合、個人営業なので、個人の健康保険を購入しなければならない。唯一のプラスは、税金控除となること。2008年から、個人で仕事を始めた時に購入した健康保険。保険料が月370ドルぐらいだったかな。で、控除額が年1000ドル。16年経った、今は、月1100ドル。パンデミックの2年間以外は、毎年、50−100ドルぐらい値上げがあって、また、歳のブラケットが変わる度に、さらに保険料が上がっていくわけです。私の保険のプランは、オバマケア以前のプランで、オバマケア以前に買った人は、使い続けられれるけど、同じようなプランは、現在オファーされてません。で、かなり保険料が高いので、他のプランを探してみると、同じぐらいの保険料で見てみると、控除額が5−6倍高かったり、同じぐらいの控除額だと、保険料が、3倍ほどしたりするわけです。と言うことで、今のプランを持続させた方がいいと。

今月、一月にした乳がん検診の放射線映像診断の請求書が来た。1108ドル。1)マンモグラム187ドル、2)ウルトラサウンド右胸458ドル、3)ウルトラサウンド左胸458ドルだって。マンモグラムは、“予防”なので、保険でカバーされているはず。年一度の検診は、無料。ウルトラサウンドは、“診断”なので、保険でカバーされない。保険を使うと、控除額に到達するまで、自己負担。保険を使わないと、控除額に含まれないが、かなり安い。毎年、これはギャンブルだ。いつも乳がん検診を一月にしているので、その年、どれだけ医療機関を使うかによって、保険を使った方がいいか、使わないほうがいいかと。健康でいれば、保険無しの方が年間を通して合計の医療費用が低くなる。医療機関を使うことが多ければ、控除額に到達にしていた方が、保険が効くので、それは、助かるでしょ。このような、ギャンブルをしなくてはいけないこと自体、システムがおかしいと思う。

で、放射線映像診断の請求書を送ってきた会社に電話した。“マンモグラムは、無料なはず。ウルトラサウンドは、保険を使わないから、この金額、高すぎるんじゃない?昨年、こんなに払わなかったよ”って。初めに電話に出た、カストマーサービスの人、30分電話をした挙句、金額を想定する部署にメールをして金額を確かめてくれと。諦めずに、数時間後、また電話した。2度目のカストマーサービスの人、10分以内の会話で、マンモグラムを請求書から取り外し、“ウルトラサウンドは、保険を使わないと、50%オフ”だって。“じゃあ、なんで初めからその金額で請求書をださないの?”って。話をしているうちに、まだ、“これ安くなるの?“って聞いたら、”ちょっと待って“って。”65%オフにできる”と言ってきた。請求書は、1108ドルから320ドルに。なんで、医療費のディスカウントの交渉をしなくてはならないの、この国?請求書に、疑問を持たないで、そのまま、支払いをする人って多いんじゃないかな。特に、支払いのできる人は。ヘルスケア、こんなに保険会社や、医療機関と費用のことで、戦う必要ないでしょ。国民健康保険のある日本では、あり得ないことが、通常に起こってる。親父のブログのタイトル、“advice for consumer”が、まさに今日のブログ。賢い消費者になりましょう。



’24-8-20 “東京日産野球部の想い出...“

2024-08-19 22:20:04 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
先週、渡辺文学君に 手紙を書きながら昔の事を思い出したら、昔の連中も殆ど居なくなった。監督の苦労も知らずに皆、結構、野球を楽しんだろうな...

僕が東京日産に入った当時は、本当に時代が良かった。野球は東京六大学野球が全盛時代未だ神宮の外野席は芝生の時代、公称、6万人位の入場者、まあ、今のプロ野球のスーパーレジェンド達が鎬を削って居た時代。街の草野球も盛んで赤坂溜池近辺でも野球チームが4つ位あった。東京日産の中にもチームは出来ていた。
僕が入社した時代は卒業部員全員の就職先は4年生全員の記事が、小さい記事でも一般紙含めて名前が出て居た時代である。特に慶応は、衆樹、中田、日野の3人がプロ入りしたから4年生は、随分大きく扱われたものだ。

と言う様な時代で、僕の入社式の後、女子社員が集まって来て、僕の顔を見に来る。全く驚いたものだった。野球部は在ったが、好きな者が集まって来るようなチーム、唯、ピッチャ―は左で割合と良いピッチャーでキャッチャーは日大三高出の強肩でよいバッテリーだった。僕は、ショートをやらせて貰った、打順は期待されての4番、処が、軟球は軟球の打ち方があり、ヒットが打てない。皆、内野フライに成ってしまう。軟球慣れしてる連中の方がチョコン、チョコンとヒットを打つ。会社の野球が嫌に成り、大学の先輩たちが作って居たチームのトラ(エキストラ)で、日曜日は、中央区や港区で野球をやり、東京温泉に行き、夜は、キャバレーと言う草野球ばかりやって居た。このころ、明治生命、大和証券等が野球部を作り、出来立てのチームの練習試合をやったり、硬式でも軟式でも何でも野球なら2年上の遠藤さん、塾高初甲子園組の薄君の3人で草野球を楽しんでいた。そんな処へ、’59年、早稲田から遠間君が入社して来た。会社の野球に出ない訳に行かない。処が、遠間君も軟球は打てない。要するに、スイングが速くポップフライに成ってしまうのだ。会社は車が売れに売れて毎月新記録。新車の在庫場所に困り、20000坪の土地を買い、半分を車置き場に、半分をグラウンドにして硬式野球部を作ろうと言う役員の意見が出て来て選手集めを始めた。遠間君は、早稲田から、4人集めて来た。一軍の選手は殆どノンプロに引っ張られて、残って居た2軍の部員である。もうその時のメンバーは殆ど亡くなってしまった。何とか部員の体制は決まったが、肝心のチームを硬式にするか?軟式にするかが決まらない。「メーカーが硬式野球部を作るから、ディーラーは軟式にしろ」と言う流れに成って来た。ディーラーにも名古屋日産モーターとか、サニー札幌南とか硬式のチームがあり、プロ野球選手も2名輩出して居た。トヨタはこの辺もハッキリしていて、ディーラーは軟式とハッキリ決めて、東京トヨペットは専務が立教野球部のマネージヤーだった方が居て、殆ど立教出で固めた、強いチームを作って居た。慶応は、殆ど1次産業の野球部を希望して、数人勧誘をしたが、皆断られた。‘60年にはW4人、Ⅿ2人、R2人、トヨペットは東京大会に出ることを初めから決めていて、豊島区の連盟に加入していた。我々は、港区に加盟したのだが、ノンプロの強い会社があり、どうしてもÇクラスからやってくれと言われ致し方なく、Çクラスから始めることにした。さて、硬式野球と言う事で勧誘して来た連中に、軟式でやる事に成ったので,皆、ぶうぶう言う。兎に角野球をやらせる事だ。グラウンドの話も進まない...神宮外苑の軟式野球場を借りようと決めて、あすこのトップ外苑長は早稲田野球部の大先輩伊丹さんだったので、早稲田の元副応援団長だったマネージャーの坂本君(後、組合専従に成り、全労済の専務理事を務めた)に交渉に行かせた。それで、週3回朝7時から9時までと夕方4時から6時までを組み合わせて軟式で始めたのである。1年目はÇクラスから始めたが、その他の大会を探して大会に参加し練習試合も含めて、77勝4敗の成績で、連盟の方も、認めてくれてAクラスの参加を認めてくれた。会社の方も土地の取得は数年遅れたが、僕らの事情も理解して、当時、年間1000万円程度の予算を呉れたので、バットはルイスビル、夕食は高級料理店で1食一人1000円、風呂も使わせて貰って兎に角チームの形造りをした。随分、面倒を見たものだ。
自動車産業の準硬式の大会でも良く東京トヨペットと当たった。対戦成績は僕が監督をしていた‘63年位までで4勝6敗だったかな...何かの大会で、その年の初戦が東京トヨペットで、いつも監督批判の多い内山君が「今年はベンチ批判は止めようぜ...」と言いだして、「やっとチームは纏まって来たな...」と思った。’63年には、港区代表で都大会に出て安田生命と決勝に成り延長戦で3対2のサヨナラ勝ちをして、東京代表に成った。そして、東日本大会に出場したが、全国レベルは良いチームが多く、長野代表の三協精機に2回戦で敗れた。試合は新潟の新発田球場で行われたが、選手が普段見たこともないような夜寝る前に自発的に素振りをして居たので「おお。本当に皆やる気だな」と感じたのは今でも覚えている。
P,S当時のスターテイングメンバー
w遠間 4 内山7 平野3 小宮9 渡辺5 内山は3年位我が家に2食付きの月4500円で下宿していた。おふくろに「おばさん。これ洗っておいてください」と言って、パンツの洗濯を出したので、おふくろが「私は合宿のおばさんではないわよ.弘さん良く言っておいてよ」とカンカンに怒ってしまった。平野は湘南で衆樹の後の投手、当時は神奈川県では3年生の大会が秋に在ったが、塾高と当たり僕は平野と対戦した事が有る。遠間は桐生高校の投手で新田恭一さんに引っ張られて松竹ロビンスの2軍に半年位居た事が有る。その後富岡高校に移り、早稲田に入った男。グラブが下から出る非常に巧い選手だったが、打撃はゴルフスイングで当時の早稲田向きではなかった。
M木村8 植木6 植木は明高からの兄弟選手死ぬ前に突然我が家へ電話があって、「今警察で縛られているんだ。マスさん助けてよ」と電話が在った。驚いて奥さんに電話したら頭が狂っていたらしい。木村は意識不明の儘、入院して、15年位生きていた。島岡監督は二人の採用のお礼に会社に来たが、その時、入社3年目の僕の職場にわざわざ挨拶に来られた。非常に義理堅い部員想いの名物監督だった。
℞ 石川1 黒沢2 石川は浅野高校時代、慶応高校を相手にパーフェクトにした事が有る。非常にコントロールの良いっピッチャーで、関東学院出の黒沢とのバッテリーは当時の神奈川高校選抜のバッテリーだった。黒沢は馬鹿肩のキャッチャーだったがバッテイングが弱かった。六球会の幹事を昨年位までやって居た。未だ肩はシッカリして居た。石川の口癖は「後ろは全部敵だ...」と言う冗談。

東京代表になるまでに、サードと投手を補強した。wの森、と黒田。℞からセカンド門田、左腕の井戸崎、高校は大宮商業、関東一高、巣鴨高校を中心に部員40人位の野球部だった。東京代表に成った時には、立正佼成会とも対戦したが、投手は後にプロ野球中日に入り、背面投げで鳴らした小川、ショウートは後に巨人軍に入った黒江が居た。

まだまだ、面白い話がある、伊東合宿では1週間雨に降られて、毎日、バット振りとマージャン会社の仕事も心配...毎日大室山を眺めて居た。大室山のテッペンが見えると雨が上がるのである。遠征も、須磨、浜松、とか随分出掛けた。兎に角、1年間で126試合した年があった。専務に呼び出されて、「増田君、野球やり過ぎだぞ。プロでも年間120試合だ。」と𠮟られた事が有る。いい時代、楽しかった。遠間君とはずいぶんサボって神宮へ行った、ある早慶戦の時、専務が来ていて、「遠間拙いな。見っかったかな...」「マッサン向こうもサボって見に来ているのだから、構わないでしょう。神宮へ砂を運ぶトラックを売りに来た...と言いましょうよ」「それじゃ先に、挨拶に行こうよ」挨拶に行くと専務は、「君たち、ご苦労様...」

‘23-8-13 “Letteer to Mr,Bungaku Watanabe “

2024-08-12 21:24:17 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion 
(渡辺文学禁煙ジャーナル編集長、早稲田稲門倶楽部、東京日産野球部時代のメンバー)
前略
文学さん 何時も資料お送り頂き有難う御座います。相変わらずの「禁煙活動 散歩とモク拾い」本当に頭が下がります。この間、何処だったか忘れましたが、昼間、貴兄と同じ様に袋を下げて「モク拾い」をしているオジサンを見かけ貴兄の事を思い出しました。
兎に角、「タクシー業界の禁煙化」には大きな敬意を表します。
野球の話、大谷君を見るたびに「優れた素質」を羨み、僕も素質が在ったら大谷君並みの努力をしたかな?と考えますが、多分出来なかったでしょうね。練習方法も野球も変わって来ましたが、難しい事ですが、継続は一番大切な事でしょう。そう言う意味では貴兄の活動本当に頭が下がります。僕は、30年位前から禁煙して居ますから、家も奇麗で助かって居ます。慶応高校の今年は桐蔭に負けてもう終わってしまいました。学制改革で新制高校に成って以来、慶応高校に成り、75周年を迎え、立派な「部史」が出来ました。販売課価格は約12000円ですから、お察しがつくでしょう。大学の部史は100週年の時に出来ています。大学の方は、飛田穂州先生始め野球部OBに記者の方が多かったので立派な「部史」が出来ています。皆、野球をやって居た人は、高校生時代の部活が一番良い思い出になるのでしょう。そう言う意味では、書いて記録に残す事は大事ですね。
僕は、昔から「高校野球部の指導者は先生が遣るべきだ」と言う持論でしたが、今、慶応高校の指導層は高校野球部卒業生が何人も先生に成って居ります。勿論、大学出では、出身地の学校に戻り野球部の指導者になって居る人も大勢います。今、大学の野球部長は藤沢環境学部の教授で、現役当時、野球部主将だった加藤教授が部長です。恐らく、東京六大学では、野球部出身者の野球部長は、初めてではないでしょうか...千歳高校学校名が変わったのですか?僕の2年上に榎並さんと言う千歳出身の左腕が居ました、良い人で、あの学年は花井(西鉄)多胡(鐘紡)野村(日石)と二刀流が多く、榎並さんは確か東レに行かれたと思います。真面目な良い人でした。
僕も、六球会でも、早稲田の連中とは顔見知りが多く、神奈川の連中も顔見知りが随分いました。僕らの時代は、早稲田は学院が強く、特に3番大久保、4番森徹は大学まで同じ打順でしたね。大久保君も野球が好きで、六球会の僕の最後の試合の時は、大久保君は酸素ボンベを持ってフアーストをやって居るのには驚きました。僕は、代打で最後に出たのですが3遊間に奇麗なヒットを打ちました。フアーストベースで、大久保君が「お前良く振れるな...」同じ、右投げ、左打ちレフトに打つのが難しいのは解って居るのでしょう。78歳の時でした。日産特販の時、新任で大泉練習所の加藤社長さんの処に、ご挨拶に行ったら、塾高時代の学院との早慶戦写真を机の上に出して迎えて呉れました。嬉しかったな...よく神宮で切符切りをした仲間でしたね。
貴兄には、東京日産で、僕が組合長の時、「生産性向上が僕らの組合の考え方」です。と言って、電話の問題を取り上げた時、宣伝課に居た貴兄に5種類のポスターを作って貰いましたね。あのポスターは奇麗なポスターで、役員さんにも大変好評で、組合活動の基本的労使関係(労使相互信頼)の基礎的考え方の宣伝に成ったものでした。この前、遠間君(僕が監督で東京代表に成った時の主将、早稲田OB)の奧さんに電話しました。奇麗な奧さんなので再婚したかな?と迷いながら思い切って電話したら奧さん一人で暮らしているとの事、全然、知らなかったですが、その日は、偶然、遠間君の命日だったとか、奥様に凄く喜ばれました。アフリカ野球は、「キャッチボールで世界を平和に」と言うスローガンで友成君と言う塾高、JAICA勤めの男が始めましたが,その男は、偶然、浜田山在住、高井戸中、慶応高校、大学野球部、出身の男が中心で始めました。練習は、浜田山の三井グランド、その後神宮外苑グランドに事情を話して月1回定期的に借りて、練習を20年位やりました。東日の野球部と同じで、あすこは早稲田閥ですからその辺を含んで交渉して「アフリカ野球友の会」の練習の定例化をしました。今、「アフリカで甲子園を」と言うのは大きすぎるのでガーナに絞って野球を広めようと言う事で友成君が頑張って居ます。慶応大学野球部と指導員派遣の3年位の期間で契約を結んでいます。自動車界も様変わりに成ってきました、我々は良い時代に恵まれて良い仲間が沢山出来てこれも野球のお陰の様な気がします。思い出すままに長文に成りましたが、貴兄の「禁煙運動」を活動陰ながら応援して居ります。ご活躍を祈りつつ...思い出す儘に、長文失礼...
                 早々



‘24-8-6“Diary211”

2024-08-05 21:58:41 | Massy's Opinion
★Massy‘s Opinion
・7/5 New Heart 検診
この処、左の足首がむくみ勝ち、高齢者には結構多いらしい足のむくみ、時たま足が付けない位に痛くなる。ご近所の掛かり付け医にペースメーカーを入れたNew Heart渡辺病院で「血液の検査をして貰え」と言われた。指示通り、予約して嫌だけれど行ってきた。・血圧・心電図・胸部レントゲン・下半身のエコー、診断はすべて異常なし...ほっとしたが足首の痛いのは治らない。どうも、運動不足が原因と老化によるものの様。運動は、可なりセルフコントロールをしているが年齢相応の適量が解らない。トレイナーのMeguや海星君に聞いても、「個人差がるから、一概には言えない」と言う、「だから、一般的には、これ位...」と言うのが知りたいんだよ。と水掛け論...  

・7/8 I-Pad 講習
我が家では、恵はApple padもスマホもAppleである。僕は、Windows ビデオ通話が出来て、テレビ画面を使ってリハビリをした方が、解りやすいとAppleのi-padをワイフに買って来た。ワイフはスマホでも、やっと使える位。それで、ご近所のPCの教室の先生に訪問教育をお願いしている。大体,週一回位。僕もワード位しか解らないので、一緒に聞いている。最近は、聞いた処から忘れていく。ボケ防止の授業...

・7/19 Good Bye!  My Lovely “Figaro”
遂に運転を止めることにした。大学4年の10月以降、長い間お世話に成った車も運転を諦めた。愛車、”Figaro”元の会社の部下に買い取って貰った。この3ッ月位、殆ど乗らなかった。週1エンジンは掛けて、少し、動かし、オイル漏れのチェックはしていた。なんせ近所の4ッ角は停止線があるのに、ママチャリが多く前後に子供を乗せ、一時停止は先ず止まらない電動自転車が多いのでスピードも出るし本当に怖い。免許証は返納する事にした。
Figaro は日産が最後の挑戦か初めてマーチをベースに4車種のパイクカーを作った、その内の一つでセミ・オ-プン・カーである。20000台の限定車である。イギリスには、。”Figaro Owners Club”といサイトがあり、約8000人の会員が居る。イギリスでは生産していない筈で、多分、日本から中古車で輸出されたのではないかと思う。丁度、右ハンドル国なので、通関も手間は掛かるまい。My Figaroの調子は最高のコンディションで、寂しい反面、ㇹッとしている。良く30年も乗ったものだ。

・7/Rehabilitation
火曜、木曜 村本海星(理学療法士) 介護保険のお世話になって居る。週2回来宅して貰い僕とワイフと二人マッサージとトレーニング。家の中でやったり、外に出て散歩。キャッチボール等
・水曜、土曜 Megumi  (MS,ATC,CSCS NATA= NatinalAthleticTrainer’s Asociation) On Skype
二人とも同業なのでメニュウはだぶらない様に打ち合わせして貰っている。幸い我が家にはMegumiが、 色んなトレーニング用の機材を買って来てあるので環境的には海星君曰く相当アカデミックな環境である。