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”先生の言葉 2“     ‘23-1-16

2023-01-16 21:49:14 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*「人生 行旅の如し」と故人も言へり

正に教師の如きも行旅の如く人渡し場の渡守の如し

君ら教子達を学校と言う船に乗せ 卒業と言う向う岸に渡し了ると共に 旅人の渡守を忘れるる如く教師も 又君らより忘れらるるとせば寂しさ譬もなし

されど 我が限りをつくせる魂が教子達 君らの心一隅に宿され 永久に生きて うるほいて共に もゆる温かさを持つとせば 師の喜び限りなきものあるべし

いつかは別るるべき宿命を持つ我と教え子達よ 清らけく 美しく豊かに あの大空をます巨木のそれの如くに生き抜くべし 秋来たらば公孫樹の一時に落葉すれど 春と共に限りなき生命の伸長を若葉のみどりに見せるであろう

我が愛する教え子達よ 君達も又永久に かの大樹の大空に屹立する姿たるべし    五年を送るにあたり 春の暖かき光を浴びつつここに一葉の写真を取りぬ

幾年か後 君たち教え子が 大人となり 老人となり 又白髪の老翁となりたる時 これを見て その昔 高井戸なる小学校に就学云々せし 生徒たりしを思い その懐かしく愉快なるは譬えるものなきを信ず

教え子たちよ 我が愛する少年達よ 幸あれ永久に

我が教え子たちよ 初五了るの日に 春の陽を浴びつつ

 

*僕は、旧芝区の愛宕小学校に入り、1~2年を過ごし、3年~4年を群馬県桐生市の昭和小学校に疎開で入学し、5年~6年を浜田山に帰り、高井戸小学校に転校した。桐生は太田の中島飛行機の工場がアメリカの爆撃目標に成り、空襲が激しくなった。両親は浜田山に引っ越していたが、未だ桐生より田舎だったので、浜田山に帰って来た。第二次大戦の終戦の玉音放送は浜田山の家で聞いた。6年生の時、神田川へ遊びに行き、警戒警報から直ぐ空襲警報に成り、グラマンの戦闘機に機銃掃射をされた事がある。此の小学校時代は、とても印象に残っているが、それは佐藤先生との出会いがあったからだろう。教わった事は、「本を読む事」、「誠実」、「感謝」である。文学青年だった先生は、國木田独歩、島崎藤村、夏目漱石等を良く勧められた。

中学受験の時、母親が先生に家庭教師を頼んで家に来て貰った。その時、僕が作って居たこの「先生の言葉」のノートを見て、凄く喜ばれた時の事を今でもよく覚えている。先生から見たその当時の僕は、落ち着きがなく、先生の言う事を聞く子には見えなかったのだろう。先生のその後の消息は解らないが、風の便りに慶応の文学部に入り、青山学院小学校で教鞭を取られた様なことを聞いた事がある。そうそう、三田の丘の図書館の前で、一度、お会いした事があった。余り、話もしないで別れてしまった。この2回に亙り載せた「先生の言葉」は旧仮名使いの古い文体だが、とても奇麗な文章だと思う...


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