白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(271)「大島渚の帰る家」~妻・小山明子との53年~

2017-10-19 11:10:11 | 人物
「大島渚の帰る家」妻・小山明子との53年

 ユーチューブで2013年(大島の死んだ年1月15日死去)10月6日放送されたNHKBSプレミアムドキュメンタリードラマ「大島渚の帰る家~妻・小山明子との53年」を見た 大島を演じる豊原功補の力演によって(ちなみに小山明子役は奥貫薫)なかなか見ごたえがあった 元々大島は我らの世代の憧れであった 僕を政治闘争に引きずり込んだのは大島信奉のYだった 仕事で一緒になった小山明子(梅コマ「あかんたれ」)に芝居を見に来た大島に会わせてもらおうとした話の顛末はどこかのブログに書いた 

「深海に生きる魚群のように自らも燃えなければ何処にも光はない」

大島が学生の頃から座右の銘としているバセドー氏病の歌人明石海人の言葉だが 
これはあの時代の我々の座右の銘でもあった・・・・
助監督時代に仲間を募って脚本集を出したのもその思想の一環であった 

 松竹の新人映画助監督の大島は同じく新人女優の小山明子が気に入って猛アプローチをかける その頃出版された(1958)岸田国士の演劇の師匠フランス演劇のビトエフ夫妻の一生を描いた「演劇の鬼」を演技の勉強になるからと送ったり ラブレター責めの攻勢を続け やがて「愛と希望の街」(1959)で監督として一本立ちした時 「いつか世界的な監督になって君を海外に連れて行く」が決め手となり二人は結ばれる
ちなみにこの「愛と希望の街」は元々「鳩を売る少年」というタイトルだったが会社の命令で「愛と悲しみの街」に変えられた さらに封切ギリギリで「愛と希望の街」という内容とは正反対のタイトルとなった いわゆる添え物映画であったが異色の映画評論家の斎藤龍鳳がべた褒めしたことで注目され 次回作「青春残酷物語」(1960)に続くことになる このタイトルはヒットしたドキュメント映画「世界残酷物語」に由来する これが大ヒットして続いて監督になった篠田正皓い吉田喜重らとともにいわゆる松竹ヌーベルバーグ(これもフランスの映画運動ヌーベルバーグに由来する)と言われその旗手に祭り上げられてしまう 続いて撮った「太陽の墓場」(1960)もヒット しかしその後撮った「日本の夜と霧」(1960)(このタイトルもみすず書房より出版されたナチスの捕虜収容所の体験記「夜と霧」による)は松竹の言い訳によると「入りが悪い」という理由で封切4日で打ち切りとなってしまう

そんな状況の中で二人は10月30日結婚式を挙げる
祝いの言葉を述べる先輩監督に罵声を浴びせ堂々と会社批判が始まった それは大島が撮った「日本の夜と霧」の結婚式のシーンを再現しているようだった このシーンは演出家が元の映画を意識して撮っている いやこのシーンだけではなく大島映画の名シーンが再現ドラマのここかしこに使われている よっぽどこの瀬々という監督は大島映画研究家なのだろう

演出の瀬々敬久はピンク映画の監督だが 大島と同じ京大を出て自主映画「ギャングよ、向こうは晴れているか」(1985)で注目され 1989年「課外授業・暴行」で監督デビュー ピンク映画四天王の一人だと言われていたが1997年「黒い下着の女・雷魚」から一般映画にも進出 最近作は来年(2018)封切される自主映画「菊とギロチン・女相撲とアナキスト」女相撲の世界とギロチン社のアナキストの話で面白そうである

結婚後松竹を辞めた大島は仲間たちと「創造社」(学生時代やっていた劇団名)を結成 
松竹に居ずらくなった小山もフリーの女優となり創造社の最初のメンバーに名を連ねる
メンバーは役者の小山明子 制作の山口卓冶 脚本の石堂俶朗、佐々木守 田村孟 役者の渡辺文雄,戸浦六宏、小松方正ら酒飲みばかり 
小山は女優の仕事の終わったあと皆のために手料理を作るのであった
このあたりの再現は「さもありなん」と思わされて中々リアルで面白い

その中から「飼育」、東映で撮った「天草四郎時貞」(これは封切で見たが失敗作だろう)あとはテレビドキュメンタリーで「忘れられた皇軍」などを生み出す
低予算で作る映画を模索して写真のみで構成した「ユンポギの日記」同じ手法でマンガの原画を写して構成した「忍者武芸長」・・・
これ以降の大島の軌跡はよくご存じだからとばしてこのドキュメンタリードラマの白眉である大島の介護と小山の介護鬱との闘いを見てみよう

「愛のコリーダ」以降「世界の大島」となっていく 
「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「マックス・モン・アムール」を撮って次回作「御法度」の記者会見をすました大島は講演に行ったロンドンの空港で脳出血で倒れる(1996)すぐイギリスの病院で手術で助かったがリハビリが大変だった 彼にとって不幸だったのは麻痺は右半分に出たことだ 僕のように麻痺が左半身だったら何とか日常生活は出来る そのリハビリも 大島のようにプライドも高くない僕は平気で子供でもこなせる作業が出来たが大島は辛かったろう プライドと言えば僕はオムツひとつするのも平気だったが大島は看護婦に怒りまくったそうな そして小山も病気に侵されていく
下の世話から周囲に怒り捲る大島の代わりに謝る小山 女優である彼女のプライドはズタズタになり鬱病を患う そこからの脱却と大島のリハビリは3年を要した その甲斐あって何とか歩けるまでになり 医者の止めるのも聞かず「大島家は男が早死にする家系です 僕は一度死んでいます 仕事で死んでも悔いはない」と言い切って「御法度」をクランクインさせ完成させる(1999) 
しかしその疲労からかまた同じ病気で倒れる
今度は小山は一生懸命やるのではなく 色んな趣味を習い 水泳も習いながら介護することにした
最初倒れてから17年閑の介護生活が続いた 
そんな小山のもとに東京芸術劇場での舞台主演の話が舞い込む それは「女のほむら」という毒婦と言われた高橋お伝の物語だ 
不治の病の夫を自らの手で殺す女の話だ 小山は台本を読み20年ぶりの出演を決める
「女はさ 男を生むことは出来ないが殺すことはできるよね・・・
この舞台の再現はまるで大島の「愛のコリーダ」の定と吉蔵を見るようだ

その初日前日大島は死んだ(2013 1・12)
 
それは大島からの小山への最後のプレゼントのように思えた 
遺体をすぐさま防腐処置をして葬儀を遅らせ 小山は予定通り五日間の公演を終え それから改めて葬儀を行った