ハイサイおじさん

「本土が寒くなったら沖縄に行こう」と久しぶりに沖縄にやってきた といっても約半年ぶりだけれど 国際通りを歩いていたら喜納昌吉のライブハウス「チャクラ」はまだ健在だった ちょうど「花」が大ヒットしたころこの店が出来てすぐの頃覗いたことがある
今や喜納昌吉は政治家に成り下がってかっての民主党(今やだだ落ち目の民進党)に担がれ 民主党のいい時に参議院当選 次は落ち目の民主党で落選 浪人中に沖縄知事選に民主が推す翁長に対抗して出馬 民主党を除名される 現在無所属
彼の最初のヒット曲は中学生の頃作ったといわれる「ハイサイおじさん」だろう
すべてウチナーグチ(沖縄方言)で書かれたこの歌は実は中学生の少年と隣の「おじさん」との会話で綴られている 例えば一番は
ハイサイおじさん ハイサイおじさん
昨夜(ゆんび)ぬ 三合ビン小 残(ぬく)とんな
残(ぬく)とら我んに 分きらんな
ありあり童(わらばー)いぇー童(わらばー)
三合ビンぬあたいし 我んにんかい
残(ぬく)とんで言ゆんな いぇー童(わらばー)
あんせおじさん 三合ビン不足(ふずし)やみせぇーら
一升(いっす)ビン我(わ)んに 呉(くィ)みせーみ
とサッパリ判らない
ヤマト言葉に直すとこうなる
「小僧」(生意気な中学生)
ハイサイおじさん ハイサイおじさん
夕べの三合ビン残っとるかあ?
残っとったらワレに分けてくれんかあ
「隣のおじさん」
おいおい小僧 えい小僧
三合ビンの量を このワシに
残っとるかと聞いとるのかい ええ小僧
「小僧」
あのなあ おじさん 三合ビンで不足ちゅうなら
一升瓶でもワレくれるとでも いうんかい
続いて2番はおじさんの娘さんを嫁にくれと言ったらまだ早いと怒られる
3番はおじさんのハゲ頭をからかったらハゲてる人は昔から頭がいいんじゃと言い返され
4番ではおじさんの髭をからかったら髭があるからもてるんじゃと言われ
5番では初めて女郎屋に行ったことを自慢して一緒に行こうと誘うとワシは沖縄の殆どの女郎屋の株主だと言われ しっかり稼いで金持ってこいといわれる
これは沖縄の男の子の性、酒 みだしなみなど大人になるための成長記でもあるのだ
その先生が「ハイサイおじさん」であったということだ
このおじさんとのかかわりはこんな悲惨な事件から始まる
1962年のことだ その5月23日付けの夕刊の琉球新報では「母親が娘を惨殺 斧で切り付ける コザ精神異常者の凶行」沖縄タイムスではもっと生々しく「狂った母親 七つの娘を惨殺 マナイタに乗せて夫の留守中発作的に」とある
この日の午前9時40分頃コザ市立島袋小学校そばのN氏(53)宅で妻(39)が7歳になる娘をマナイタに乗せその首を切り落とした まだアメリカ占領下の出来事だった
この事件を喜納昌吉は見ていたのである 「殺された子供の足をひっぱったら首がなかった それを見たおじさんの魂(まぶい)を落としたおじさんのあの時の顔を」見た
Nおじさんの家は彼の家の隣だった 昌吉の父の喜納昌永が歌いに行って貰ってくる酒を狙ってやってくるおじさん アル中で生活破綻者で妻を病院にも入れることが出来ないので自宅内に軟禁しておいたがもう大丈夫だという妻の言葉で軟禁を解いたばかりであった
事件後は村八分にされたが昌吉少年は憎めずおじさんの酒と話の相手をした そして唄が生まれた この唄は最初父親のLPの一曲として録音された それが人気を呼びシングルカットされて大ヒットとなった ただしその頃昌吉はヘロイン不法所持で獄中にあってヒットの渦中の体験はしていない 沖縄はそのころ返還された
沖縄から帰ってきました
さすが大阪に比べて温かくオスプレイも飛んで熱く燃える沖縄でした
ブログ再開します よろしく

「本土が寒くなったら沖縄に行こう」と久しぶりに沖縄にやってきた といっても約半年ぶりだけれど 国際通りを歩いていたら喜納昌吉のライブハウス「チャクラ」はまだ健在だった ちょうど「花」が大ヒットしたころこの店が出来てすぐの頃覗いたことがある
今や喜納昌吉は政治家に成り下がってかっての民主党(今やだだ落ち目の民進党)に担がれ 民主党のいい時に参議院当選 次は落ち目の民主党で落選 浪人中に沖縄知事選に民主が推す翁長に対抗して出馬 民主党を除名される 現在無所属
彼の最初のヒット曲は中学生の頃作ったといわれる「ハイサイおじさん」だろう
すべてウチナーグチ(沖縄方言)で書かれたこの歌は実は中学生の少年と隣の「おじさん」との会話で綴られている 例えば一番は
ハイサイおじさん ハイサイおじさん
昨夜(ゆんび)ぬ 三合ビン小 残(ぬく)とんな
残(ぬく)とら我んに 分きらんな
ありあり童(わらばー)いぇー童(わらばー)
三合ビンぬあたいし 我んにんかい
残(ぬく)とんで言ゆんな いぇー童(わらばー)
あんせおじさん 三合ビン不足(ふずし)やみせぇーら
一升(いっす)ビン我(わ)んに 呉(くィ)みせーみ
とサッパリ判らない
ヤマト言葉に直すとこうなる
「小僧」(生意気な中学生)
ハイサイおじさん ハイサイおじさん
夕べの三合ビン残っとるかあ?
残っとったらワレに分けてくれんかあ
「隣のおじさん」
おいおい小僧 えい小僧
三合ビンの量を このワシに
残っとるかと聞いとるのかい ええ小僧
「小僧」
あのなあ おじさん 三合ビンで不足ちゅうなら
一升瓶でもワレくれるとでも いうんかい
続いて2番はおじさんの娘さんを嫁にくれと言ったらまだ早いと怒られる
3番はおじさんのハゲ頭をからかったらハゲてる人は昔から頭がいいんじゃと言い返され
4番ではおじさんの髭をからかったら髭があるからもてるんじゃと言われ
5番では初めて女郎屋に行ったことを自慢して一緒に行こうと誘うとワシは沖縄の殆どの女郎屋の株主だと言われ しっかり稼いで金持ってこいといわれる
これは沖縄の男の子の性、酒 みだしなみなど大人になるための成長記でもあるのだ
その先生が「ハイサイおじさん」であったということだ
このおじさんとのかかわりはこんな悲惨な事件から始まる
1962年のことだ その5月23日付けの夕刊の琉球新報では「母親が娘を惨殺 斧で切り付ける コザ精神異常者の凶行」沖縄タイムスではもっと生々しく「狂った母親 七つの娘を惨殺 マナイタに乗せて夫の留守中発作的に」とある
この日の午前9時40分頃コザ市立島袋小学校そばのN氏(53)宅で妻(39)が7歳になる娘をマナイタに乗せその首を切り落とした まだアメリカ占領下の出来事だった
この事件を喜納昌吉は見ていたのである 「殺された子供の足をひっぱったら首がなかった それを見たおじさんの魂(まぶい)を落としたおじさんのあの時の顔を」見た
Nおじさんの家は彼の家の隣だった 昌吉の父の喜納昌永が歌いに行って貰ってくる酒を狙ってやってくるおじさん アル中で生活破綻者で妻を病院にも入れることが出来ないので自宅内に軟禁しておいたがもう大丈夫だという妻の言葉で軟禁を解いたばかりであった
事件後は村八分にされたが昌吉少年は憎めずおじさんの酒と話の相手をした そして唄が生まれた この唄は最初父親のLPの一曲として録音された それが人気を呼びシングルカットされて大ヒットとなった ただしその頃昌吉はヘロイン不法所持で獄中にあってヒットの渦中の体験はしていない 沖縄はそのころ返還された
沖縄から帰ってきました
さすが大阪に比べて温かくオスプレイも飛んで熱く燃える沖縄でした
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