白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(422) 絵沢萠子死す

2022-12-31 21:10:28 | 近況

絵沢萠子死す

 コロナというのは罪深い奴だ 亡くなるまで愛し合う夫婦が顔も合わせられない せいぜいタブレットによる画像を通して顔を見るのが許されてるだけだ だけどその相手が入院する前から年齢による認知症で顔すら判断出来ない状態ならばどうしょうもない 直接顔を見合ったり手を握り合う事が出来たなら又違った感情が湧くかも知れない そんな願いも叶わず絵沢萠子は12月26日旅立った 愛する「くっさん」を残して

絵沢萠子は中学生の頃から女優に憧れていた 県立西宮高校に進んでからも演劇部で文化祭で「修善寺物語」を披露した優秀な県西生がそうであるように当然のように近くの関西学院大学文学部に進学 卒論はテネシー・ウィリアムズ論であった 卒業後、さる会社に勤める傍ら「劇団くるみ座」の研究生となり「リチャード三世」で初舞台を踏む 1963年の事だった

1968年仕事を辞め、くるみ座も退団 劇団四季に合格したのだが新藤兼人監督の「強虫女と弱虫男」で映画デビュー、翌年上京、1970年「俳優小劇場」に入団 1971年関西芸術座出身のテレビ俳優でドラマ「部長刑事」で有名な「くっさん」こと楠年明と結婚する

1972 年 芸名を松田友絵から絵沢萠子に変えにっかつロマンポルノ、神代辰巳監督の「濡れた唇」、同年、同監督の「一条さゆり 濡れた欲情」と立て続けて出演、一躍脚光を浴びる その後NHK連続テレビ小説をはじめテレビドラマや映画にも進出  映画の代表作は崔洋一「月はどっちに出てる」や井筒和幸のデビュー作「行く行くマイトガイ性春の悶々」がある

旦那の出演してる芝居は可能な限り観に来られ、我々スタッフにも丁寧に挨拶をしてくれた その仲の良さはこちらが羨む程だった

 愛し合う二人が最後に会えない程辛いことはない 先月だったがさる芝居の客席てお会いした時奥さんの様子を聞くと「会いたいよう、でも会ったところで俺のことは判ってくれないんやな」と寂しく笑いながら言った だけど「今年中は持つと云われてるんや」とお聞きしたので年賀状を送らせてもらった矢先の訃報だった