白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(356)梅沢武生聞書き(3)井上ひさし作「化粧」

2019-08-01 14:40:56 | 梅沢劇団
梅沢武生聞書き 井上ひさし作「化粧」




梅沢武生は客入れの音楽で目覚めると目の前に初めて見る男が座っているのに気が付いた
いつものようにダンヒルの箱から一本抜き取り金ののライターで火を点け目の前にいる ひどい出っ歯で風采の上がらない男をみて~そう言えばマネージャーの菊永からこの前終わったTBSのドラマ「悲しいのはお前だけじゃない」でお世話になったプロデューサーの大山さんの紹介で大層売れっ子の作者が楽屋に来るって言っていた~ことを思い出した 「おーい長ちゃん」と付き人の長島を呼び「お客が来ているのに何で起こさないんだ」と叱り お茶を出させた 「怒ってあげないで下さい こちらが起こさないでとお願いしたんです」と男は言い「遅くなりました、あのう私作家の井上ひさしというものです」と自己紹介をし、続けて「この度三越ロイヤルシアターという劇場で「女ばかりの一人芝居」という企画があって かねてより小沢昭一さんから聞いた大衆演劇の世界を取り上げようと思い 主演の渡辺美佐子さんの旦那さんの大山勝美先輩に相談したところ それなら武生座長がいいだろうとマネージャーの菊永さんにお願いして貰った次第で」とややドモリながら一気に言った
実は井上は寝ている座長が起きるまでにもうすでに芝居の頭のト書きが出来ていた

「さびれた芝居小屋の淋しい楽屋」
「舞台中央やや上手の最前部に座長用の大きな鏡台 しかしこの鏡台は観客には見えない
実を云うとこの作品に実際に必要なのは女座長を演じる一人の女優と彼女が「いさみの伊三郎」というやくざに変身するための化粧道具、衣裳、鬘〈銀杏本毛びんむしり)それに20数曲の演歌、そして観客の活発な想像力と、それだけである」
「音楽もなく何もなく明るくなると鏡台の前で仮眠をとっている女がいる 彼女自身が信じているところによると彼女は大衆劇団「五月座」の女座長五月洋子 46歳」
「しばらく何も起こらない 紗月洋子がときおり下品に寝返りを打っているだけである」

そして座長が起きてからは
「何度目かの寝返りをきっかけに遠くで演歌が鳴り始める 例えば水前寺清子の「男ならどうする」その瞬間に天井から糸で釣り上げられたようにすっと起き上がる」
いよいよ客入れが始まったよ
「と鏡台の斜め前方をチラッと眺めて」
七月の午後五時だというのに、ま、なんて暗い空なんだろ 土曜の夜の部書き入れ時雨になっちゃかなわない 幕が開くまであと四五十分 それまで降らないでおくれよ
「鏡台の斜め上方に窓があるらしい 女座長はダンヒルを咥え金張りのライターで火を点ける 鏡台の中の自分の顔を眺めながら煙を深々とプーっと自分に吹き付けた」
とト書きとセリフが浮かんだ

それから井上は自分が収集した大衆演劇の「いいセリフ」について聞いてみた
そして座長は「こんなセリフもありますよ」と父親清から聞いたセリフを教えながら「失礼しますよ」とメークを始めた 「はて前狂言には出ると聞いていないが」と思ってメークを見ていると瞬く間に「いい男」が出来上がって行く
ある程度出来たところで手を止めて「いやね、一本目は出てないんだが若い者に何かあってもいけない いつでも舞台に出ていけるようにしているまでです もちろんどんな役でもセリフは入ってます 自分で書いた芝居ですから」と言った

「女ばかりの一人芝居」というのは地人会の企画でAプロが神保共子の「乳飲み」(水上勉)萩尾みどりの「花いちもんめ」(宮本研)大塚道子の「四つの肖像」(ウエスカー)
Bプロには藤田弓子の「帰りなん いざ」(岡部耕大)渡辺美佐子の「化粧」(井上ひさし)李麗仙「母(オモニ)」(呉泰錫)というラインナップだった  人気は李麗仙だったが 蓋をあけたら「化粧」が評判も人気も高かった



1982年
何度か稽古場を覗いたあと 三越ロイヤルシアターにマネージャーの菊永と本番の舞台を見ることになった
武生座長はこれまでの付き合いで「新劇」の舞台を何度か見てきて気に入らないことがあった それは客が開演中クスっとも笑わない、いい芝居でも拍手や反応もない 開演中はそんなことをしてはいけないとばかり反応がない そして緞帳が降りてからは絶賛の拍手でカーテンコールを待つ 幕が降りてからカーテンコールが何度続けようがそれは「勝」に繋がらない 拍手が祝儀と言うのなら大衆演劇では祝儀を多く貰った方が「勝」なのだ

この芝居も同様だ 幕開きから面白いんだけど笑ってはいけないじゃないかという感じでクスクス抑えた笑いが聞こえてきた 
笑いたいんだけど押さえてる 「よーしここで俺たちがワ―っと笑ったら一気に来るぞ」と思ってそうしたら うまい具合に笑いが入りまして あとはどうやって最後を盛り上げるか・・・だった

芝居のラスト
「大変長らくお待たせ致しました 劇団五月座の本日の前狂言「伊三郎別れ旅」間もなくの開演で御座います」とアナウンス
 続いて大時代的なオープニング音楽
女座長は鏡台を覗き込み それから三度笠を手にゆっくりと歩きながら
「中丸のおじさん それからみんな しっかり頼みますよ 迫力で決めちまおうね」
下手袖に立ち止まり 音楽が終わったところで三度笠をかざして小走りに「舞台」へ駆け出す女座長 
2、3秒後に
「おとっつあん」
ゆっくりと暗くなる

台本にはこうあるが この時座長は菊永に合図して「舞台」に駆け出すところで 立ち上がり拍手した 周りのお客も釣られて立ち上がり拍手となった
結局台本ラスト三行は出来なくなり なかなか鳴りやまない拍手がようやく消えた頃カーテンコールを受ける形で出て行かざるを得なかった
しかしこのことは座長は知らない
「二人で立ち上がってウワーっと拍手したら他の客も溜めていたやつを一気にさせてワッときた もう「勝」を確信してあとは見ないで帰った」からである

あとこの芝居では渡辺美佐子が梅沢劇団の芝居「火の番小屋」に「物は試し」で出演して「大入り袋」を貰った話もあるが それは別の所に書いた(白鷺だより 132 小山内薫 「息子」について)