天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

映画『昭和残侠伝』出演条件で池部良さんは入墨を入れずポスターやタイトル字は小さく一話ごと殺さるを提示

2010-10-18 22:16:20 | 日記
今日の日記は、92歳で亡くなった池部良さんが出演した東映任侠映画『昭和残侠伝』シリース9作品(1965年~72年製作)のことです。添付した写真は、そのシリーズ主演の二人、高倉健と池部良さんです。
昨日紹介した東宝映画『宇宙大戦争』で池部良さんを観てから、次に劇場で池部さんの出演した映画を観たのは、東映映画昭和残侠伝シリーズの最終9作目『昭和残侠伝 破れ傘』(1972年製作 佐伯清監督 高倉健 池部良 鶴田浩二主演)でした。この当時とても人気のあったこの任侠シリーズを私は良く知っていました。でも、その頃の私は、洋画オンリーの高尚?な映画ファンでしたので、あまり芸術性のない東映任侠映画には二の足を踏んでいました。でも、この9作目がシリーズ最後になるとの東映宣伝文句に踊らされてしまい、ついに劇場に足を運びました。
そして、この映画を観終わって、私は、とてもカッコイイ主演二人の、その定型化された任侠様式美に私はうっとりとし、事前の思いとは違うとても満足した思いを持ちました。
池部さんのエッセイ書『心残りは・・・』(2001年文藝春秋刊)で、この映画に出演したエピソードを自ら紹介しています。以下に、その名文を、一部引用掲載します。
『男は「失礼させてもらいますわ」と言って僕の前、畳一畳を隔てて正座した。「あたし、東映のプロデューサー、俊藤と申します」と言って「あたし、今度、”昭和残侠伝”と題してまして、やくざ映画を考えておりますのや。それに、あんさんに、どないしても出演して戴こう思うて罷り越したわけですわ。池部はん、あたし、松竹の”乾いた花”(私注:石原慎太郎「泥だらけの純情」原作 1964年製作 篠田正浩監督)観ましたぜ。あのインテリやくざ絶品でおましたな。・・日本人の心を揺さぶる高度な娯楽映画を目指しておりますのや。そや。うちの高倉健を池部はんのお力で男にしてやってもらえまへんやろか。勿論、あんさん、助演ではおまへんで。支えになる主役として」「僕、今、俳優協会の理事長をやってます。理事長が、やくざ者を演るってのは、どうも」・・情けないことに、人の好さが主体性を押しのけて、俊藤さんの声涙、倶に下ると見えた説得と、東宝では味わったことのない三顧の礼にも似た嬉しい申し入れに屈服。出演を承諾してしまった。ただし条件として、入墨を入れないこと、ポスターやタイトルの字は小さいこと、一話ごとに殺してもらいたいと言ったら、俊藤さんは大きな目を開いて「おかしなスターさんやな」と言った。残念なのは、出演料を三倍にしてもらいたいと言うのを忘れたことだ。9本揃って、役者冥利に尽きる芝居が出来たのは望外の楽しさだった。』
私はこの名エッセイを読んで、私の食わず嫌いの嗜好が影響して二の足を踏んでいた昭和残侠伝シリーズを、最終作だけでも公開していた劇場で直接観れてほんとうに良かったと、今、昔のことを懐かしく思い出しながら、衷心より私は得心しました。
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