平成最後の今日の日記は、去年9月11日某ストリップ大和劇場で応援していた踊り子A嬢から頂いた同僚元踊り子の情報の事です。
私は、その当日彼女から第1回目写真撮影時の会話の際、『私のダンスレッスンの先生から、”さゆぽん”がレッスンに通っていると教えられた』との言葉を頂戴しました。その言葉を聞いた時、私は私が昔応援して10年前5月10日に突然引退した”N野さゆき”嬢と勝手に思い込み、『とても信じられない!』と彼女に返答しました。
次回の撮影時に、確認の為踊り子のフルネームを教えてもらえば良かったのですが、一回目写真の彼女からコメントが全く予期せぬもの(前回の日記を参照の事)だったので、私はその行為を怠ってしまいました。二回目写真の彼女からのコメントにも『”さゆぽん”どうしてレッスン受けてるのかしら?やっぱり踊る事楽しいもんね♡』とあったので、すっかり私は応援していた”N野さゆき”嬢の事だと思い込んでしまいました。
しかし、今年某渋谷劇場の正月公演香盤表に、”I原さゆみ”嬢の名前が掲載されている事に気が付き、A嬢が私に語った、”さゆぽん”は”N野さゆき”嬢では全くなく、”I原さゆみ”嬢だったと、私はようやく得心しました。
A嬢は、昔の”N野さゆき”を、”N野さゆ子”と私へのポラ写真コメントで表現(2018年8月16日付日記『ステージアスリート嬢”アイドル難しい”と評す応援踊り子嬢は私推薦「花しばり」をアイドル的「春の夢」に』を参照の事)したけれど、私は”さゆぽん”という言葉は彼女から一度も聞いた事が無かったです。
また、A嬢はその同僚元踊り子”I原さゆみ”嬢を、私が知っていると判断して、私に話したようですが、彼女の劇場デビューは、私が劇場追放されていた期間中の2014年12月21日です。だから、私は彼女の事を何も知らないのです。さらに、A嬢は私が劇場追放された事(9年ぶりの再会と、私が彼女に復帰後劇場で語ったのだが?)を、全く関心もなく何も知らなかったのです。だから、この私が全く知らない関知しない情報を、何も分からず教えたのです。もう少し慎重な考察が必要だったと、私は今強く反省しています。
そして、この言葉の勘違いのエピソードを目にして、今松本清張著名作『砂の器』で語られる地名”亀田”と”亀嵩”の事を、私は思い出しています。この名作『砂の器』は、読売新聞夕刊に1960年(昭和35年)5月17日から掲載され、当時まだ小学生だった私でもその名作推理小説をリアルタイムで無謀にも読んでいました。
さらに、1974年(昭和49年)製作の映画『砂の器』も、リアルタイムで私は劇場鑑賞もしました。東北弁らしい地名「カメダ」を秋田県「亀田」と勘違いした刑事丹波哲郎は、言語研究所で出雲地方にも東北弁に近い言葉があると知り、ようやく間違いに気付き、本当の地、島根県”亀嵩”に到達したのでした。添付した写真は、その”亀嵩”の石碑です。
昭和時代を生き大いに活躍された丹波哲郎さん・加藤剛さん・緒方拳さんは全て亡くなっておられます。平成の時代が終わろう今日、「平成」の前には間違いなく「昭和」が有った事を、御三方が私に静かに訴えているように、私は今強く感じています。
私は、その当日彼女から第1回目写真撮影時の会話の際、『私のダンスレッスンの先生から、”さゆぽん”がレッスンに通っていると教えられた』との言葉を頂戴しました。その言葉を聞いた時、私は私が昔応援して10年前5月10日に突然引退した”N野さゆき”嬢と勝手に思い込み、『とても信じられない!』と彼女に返答しました。
次回の撮影時に、確認の為踊り子のフルネームを教えてもらえば良かったのですが、一回目写真の彼女からコメントが全く予期せぬもの(前回の日記を参照の事)だったので、私はその行為を怠ってしまいました。二回目写真の彼女からのコメントにも『”さゆぽん”どうしてレッスン受けてるのかしら?やっぱり踊る事楽しいもんね♡』とあったので、すっかり私は応援していた”N野さゆき”嬢の事だと思い込んでしまいました。
しかし、今年某渋谷劇場の正月公演香盤表に、”I原さゆみ”嬢の名前が掲載されている事に気が付き、A嬢が私に語った、”さゆぽん”は”N野さゆき”嬢では全くなく、”I原さゆみ”嬢だったと、私はようやく得心しました。
A嬢は、昔の”N野さゆき”を、”N野さゆ子”と私へのポラ写真コメントで表現(2018年8月16日付日記『ステージアスリート嬢”アイドル難しい”と評す応援踊り子嬢は私推薦「花しばり」をアイドル的「春の夢」に』を参照の事)したけれど、私は”さゆぽん”という言葉は彼女から一度も聞いた事が無かったです。
また、A嬢はその同僚元踊り子”I原さゆみ”嬢を、私が知っていると判断して、私に話したようですが、彼女の劇場デビューは、私が劇場追放されていた期間中の2014年12月21日です。だから、私は彼女の事を何も知らないのです。さらに、A嬢は私が劇場追放された事(9年ぶりの再会と、私が彼女に復帰後劇場で語ったのだが?)を、全く関心もなく何も知らなかったのです。だから、この私が全く知らない関知しない情報を、何も分からず教えたのです。もう少し慎重な考察が必要だったと、私は今強く反省しています。
そして、この言葉の勘違いのエピソードを目にして、今松本清張著名作『砂の器』で語られる地名”亀田”と”亀嵩”の事を、私は思い出しています。この名作『砂の器』は、読売新聞夕刊に1960年(昭和35年)5月17日から掲載され、当時まだ小学生だった私でもその名作推理小説をリアルタイムで無謀にも読んでいました。
さらに、1974年(昭和49年)製作の映画『砂の器』も、リアルタイムで私は劇場鑑賞もしました。東北弁らしい地名「カメダ」を秋田県「亀田」と勘違いした刑事丹波哲郎は、言語研究所で出雲地方にも東北弁に近い言葉があると知り、ようやく間違いに気付き、本当の地、島根県”亀嵩”に到達したのでした。添付した写真は、その”亀嵩”の石碑です。
昭和時代を生き大いに活躍された丹波哲郎さん・加藤剛さん・緒方拳さんは全て亡くなっておられます。平成の時代が終わろう今日、「平成」の前には間違いなく「昭和」が有った事を、御三方が私に静かに訴えているように、私は今強く感じています。