天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

丸尾長顕氏『女は結局のところ、頭の良いのが最高だ』は塩野七生氏の指摘通り、男と換えても金言

2009-11-03 18:26:22 | 日記
本日から私は塩野七生さんのエッセイ『男たちへ フツウの男をフツウでない男にするための54章』(1989年・文藝春秋刊)を読み始めました。その第一章「頭の良い男について」に、とても感慨深く含蓄に富む一節がありました。それを長文になりますが、以下に転載します。
「むかし、と言っても30年足らずしか昔でない頃の話だが、丸尾長顕という名の粋人がいた。当時、この人はストリップ・ショウが売りものの日劇ミュージック・ホールの親分かなにかをやっており、そのためか女に関しては専門家と思われていて、日劇ミュージック・ホールなどには行ったことのない、つまり典型的な東京山の手育ちの娘であった私でさえ、その人の名は知っていた。その彼がある時、「文藝春秋」の随筆欄に寄せた一文が、奇妙にも、いまだに私の頭の中から離れない。それは、要約すると次のようなものだった。
『女は結局のところ、頭の良いのが最高だ』
常日頃から精神的女性論など振りまわす、その辺にゴマンといる自称フェミニストの言でなく、裸の女ならばそれこそゴマンと見たにちがいない丸尾氏の口から出た言葉だからこそ、重みも断然ちがって感じられたのであろう。「女」とあるところを「男」に換えれば、私なども常々思っていたことと同じであった。・・・ここで言っている頭の良いということは、おしゃべりしたりする時のためばかりに取っておかれる類の基準ではない。ベッドの上であろうと、どこでもいつでもすべての行動を律する、いわば基本、ベースと言ってもよいものだ。だから、有名大学の競争率の高い学部を卒業して、一流企業や官庁や大学に勤めている人が、頭の良い男とイコールにならないという例も、しばしば起こるのである。日本では、教育はあっても教養のない男(これは女でも同じだが)は、まったくはいて捨てるほど多い。つまり、ここで言いたい「頭の良い男」とは、なにごとも自らの頭で考え、それにもとづいて判断をくだし、ために偏見にとらわれず、なにかの主義主張にこり固まった人々に比べて柔軟性に富み、それでいて鋭く深く洞察力を持つ男、ということになる。なんのことはない、よく言われる自分自身の「哲学」を持っている人ということだが、哲学と言ったってなにもむずかしい学問を指すわけではなく、ものごとに対処する「姿勢」(スタイル)を持っているかいないかの問題なのだ。だから、年齢にも関係なく、社会的地位や教育の高低にも関係なく、持つ人と持たない人のちがいしか存在しない。」
私も、塩野七生さんが言っている、ものごとに対処する「姿勢」(スタイル)を持っている「頭の良い男」になりたい。
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