今日の続編日記は、連載中の私の中国・西安旅行記(4)です。
中国人ガイドの王さんから現地で聞いたこの遺跡の説明を、以下に書きます。
『この秦始皇帝の兵馬俑1号坑は、東西方向に延びた11列の細長いトンネル(注:これを過洞「かどう」と呼ぶ)に仕切られていて、床には磚(せん:煉瓦の一種)が敷き詰められています。その場所に四列縦隊で並んでいます。兵馬俑と兵馬俑の列の間にある畝状の土盛りは、過洞の隔壁です。隔壁の上の地面には、横じまのような規則正しい凸凹が見えます。これは、両側から渡した丸太の痕跡です。もともと兵馬俑坑は、列ごとに屋根が掛けられていました。造られた当時の兵馬俑坑はこの上にさらに版築(注:黄土を硬く突き固める技法)工法で突き固められた土がかぶせられ、地上からはまったく見えない闇の空間となっていました。現在、私たちはこの屋根の部分を取り払った状態でこの兵馬俑坑を見ているのです。
ここでは、人力で破壊された兵馬俑も発掘されています。その過洞に受け渡された丸太の凸凹は黒く汚れています。その汚れは、この秦に反乱を起し兵馬俑坑を略奪破壊した項羽軍が、その丸太を燃やした跡と言われています。』
この項羽軍の略奪の話を聞いて、その時司馬遼太郎さんの名著『項羽と劉邦』(1984年刊新潮文庫版)のそのくだりを私は思い出しました。だから、帰国してからその名著の該当する記述を再読してみました。尚、司馬さんがこの小説を連載執筆したのは「小説新潮」で、1977年1月号~1979年5月号までの約2年4か月です。そのくだりは中巻にあります。
『項羽が劉邦をおさえこんで漢中の主人公になったあと、彼の十万の軍隊は一人一人が猛獣に化したように秦都咸陽へひしめきすすんだ。「宝の山だ。皆欲しいままに振舞え」項羽は、掠奪を許した。・・兵は掠奪だけがたのしみなのだ、ということを項羽はよく知っていた。・・韓信は、すでに驪山(りざん)の始皇帝陵があばかれつつあることも知っていた。始皇帝が地上の富以上の財産をその地下におさめさせたといわれるだけに、項羽軍の半ばはこの人工の丘陵に殺到し、鍬をふるってそれをあばくことに熱中していた。だだし、すべてが掠奪されたわけでなく、彼らが奪いのこした一部が二千年後に、人民国家の考古学者の手で発掘されることになる。やがて項羽は、阿房宮その他に芝を積み、火をかけさせた。』
司馬さんがこの『項羽と劉邦』で「項羽軍の掠奪」を執筆された1978年は、その遺跡を保存するために建設されたカマボコ型のドームが完成した年で、その遺跡発掘は初期の状態のままで中断されていました。だから、ガイドの王さんが説明した人力で破壊された兵馬俑は、まだ発掘されていませんでした。しかし、司馬さんは秦皇兵馬俑坑の大発見のニュースに接して、卓越した想像力を駆使し、中国人ガイドの王さんが説明した「項羽軍の掠奪放火の主犯説」の結論に達したのでしょう。今この名著『項羽と劉邦』を読み直してみると、司馬さんの卓見した歴史的眼力に、私は驚くばかりです。
中国人ガイドの王さんから現地で聞いたこの遺跡の説明を、以下に書きます。
『この秦始皇帝の兵馬俑1号坑は、東西方向に延びた11列の細長いトンネル(注:これを過洞「かどう」と呼ぶ)に仕切られていて、床には磚(せん:煉瓦の一種)が敷き詰められています。その場所に四列縦隊で並んでいます。兵馬俑と兵馬俑の列の間にある畝状の土盛りは、過洞の隔壁です。隔壁の上の地面には、横じまのような規則正しい凸凹が見えます。これは、両側から渡した丸太の痕跡です。もともと兵馬俑坑は、列ごとに屋根が掛けられていました。造られた当時の兵馬俑坑はこの上にさらに版築(注:黄土を硬く突き固める技法)工法で突き固められた土がかぶせられ、地上からはまったく見えない闇の空間となっていました。現在、私たちはこの屋根の部分を取り払った状態でこの兵馬俑坑を見ているのです。
ここでは、人力で破壊された兵馬俑も発掘されています。その過洞に受け渡された丸太の凸凹は黒く汚れています。その汚れは、この秦に反乱を起し兵馬俑坑を略奪破壊した項羽軍が、その丸太を燃やした跡と言われています。』
この項羽軍の略奪の話を聞いて、その時司馬遼太郎さんの名著『項羽と劉邦』(1984年刊新潮文庫版)のそのくだりを私は思い出しました。だから、帰国してからその名著の該当する記述を再読してみました。尚、司馬さんがこの小説を連載執筆したのは「小説新潮」で、1977年1月号~1979年5月号までの約2年4か月です。そのくだりは中巻にあります。
『項羽が劉邦をおさえこんで漢中の主人公になったあと、彼の十万の軍隊は一人一人が猛獣に化したように秦都咸陽へひしめきすすんだ。「宝の山だ。皆欲しいままに振舞え」項羽は、掠奪を許した。・・兵は掠奪だけがたのしみなのだ、ということを項羽はよく知っていた。・・韓信は、すでに驪山(りざん)の始皇帝陵があばかれつつあることも知っていた。始皇帝が地上の富以上の財産をその地下におさめさせたといわれるだけに、項羽軍の半ばはこの人工の丘陵に殺到し、鍬をふるってそれをあばくことに熱中していた。だだし、すべてが掠奪されたわけでなく、彼らが奪いのこした一部が二千年後に、人民国家の考古学者の手で発掘されることになる。やがて項羽は、阿房宮その他に芝を積み、火をかけさせた。』
司馬さんがこの『項羽と劉邦』で「項羽軍の掠奪」を執筆された1978年は、その遺跡を保存するために建設されたカマボコ型のドームが完成した年で、その遺跡発掘は初期の状態のままで中断されていました。だから、ガイドの王さんが説明した人力で破壊された兵馬俑は、まだ発掘されていませんでした。しかし、司馬さんは秦皇兵馬俑坑の大発見のニュースに接して、卓越した想像力を駆使し、中国人ガイドの王さんが説明した「項羽軍の掠奪放火の主犯説」の結論に達したのでしょう。今この名著『項羽と劉邦』を読み直してみると、司馬さんの卓見した歴史的眼力に、私は驚くばかりです。
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