天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

伊藤之雄『東久邇宮の太平洋戦争と戦後』談:天皇と皇室環境違で行動具現共感私秋篠宮様に結婚破棄ご聖断を

2021-09-22 09:35:07 | 日記
今日の日記は、今読んでいる伊藤之雄著『東久邇宮の太平洋戦争と戦後 陸軍大将・首相の虚実 一九三二~九〇年』で、私が共感し強く得心した著者が語る当時の皇室の姿です。添付した写真は、その著書の表紙(ミネルヴァ書房2021年6月初版)です。
以下に、その当時の昭和天皇と東久邇宮稔彦王に纏わる私が印象に残り共感・得心した記述の一部を引用・掲載します。
『近年断続的に天皇や皇室制度のあり方が問題となり、旧皇族(旧宮家)子孫の皇族への復活も話題になっている。しかし、史料上の制約で、皇族がどのような生活や言動をしていたか、詳しい実態はあまり分からない。本書が、皇室とはどんな人たちだったのかを考える素材を提供できれば幸いである。・・1941年昭和天皇は、日本の行く末を心配し、早期の講和を求めていた。皇太子時代から天皇という責任ある地位に就くことを自覚して育った昭和天皇。皇族というお飾り的な立場と環境の中で、自ら節制しなくてはいけないという自覚を持たず、何を学習したという達成感もなく、自らの言動に責任を感じることもなく気ままに育った東久邇宮。二人の資質の差以上に、天皇と一般の皇族という環境の違いが、二人の物の見方と行動に大きな差を、もたらしたのである。・・注目すべきは、東久邇宮は防衛総司令官兼軍事参議官(陸軍大将)であったにもかかわらず、1942年中は海軍のミッドウェー海戦の大敗や制空権を失っていく中でのガダルカナル島方面での陸軍も含めた日本軍の苦戦を知らされた形跡が日記には見られないことである。・・1945年8月16日、昭和天皇は首相になる東久邇宮に拝謁する直前、皇居御文庫で、ポツダム宣言受諾を海外の部隊に伝達するため、朝香宮鳩彦王(系図上は東久邇宮の兄)、賀陽宮恒憲王、閑院宮春仁王に、それぞれ支那派遣軍、関東軍、南方軍への派遣を命じていた。三人は翌日に出発、天皇は20日に朝香宮・賀陽宮から、25日に閑院宮から復命を受けた。』
私は、この戦後最初の総理大臣になった東久邇宮稔彦王に関して、敗戦・武装解除により暴発する軍部を抑えるため、現役の陸軍大将を抜擢したと思っていました。でも、実情は、昭和天皇みずからが指示して(これは憲法を超えた超法規的行為)、皇族軍人を特使にして現地に派遣説得したのです。
でも、もし、このような行動を取らなかったら、不測の事態が発生したかもしれないです。だから、首相になった東久邇宮王の貢献ではなかったのです。
さらに、要職の防衛総司令官(陸軍大将)だった東久邇宮王は、当時の大本営から正しい情報をリアルタイムで得ていなかったです。この一例を見ても、東久邇宮王は著者がいう【お飾り的な立場と環境】だったと私は強く得心しました。
一方の昭和天皇は、【天皇という責任ある地位】を自覚して育っていると、著者は断言しています。現在の天皇陛下も、その確固たる自覚は、当然持っておられるはずと私は御推察しています。
しかし、皇嗣となられた秋篠宮は、最近の眞子様御結婚問題を見ていると、私はこの東久邇宮王に似てように見えてしまいます。皇嗣殿下には、次期天皇に即位された時、義理の息子が小室圭氏でよいのか、もっと今後の皇室の安寧を深く考えていただきたいです。
だから、10月1日の宮内庁公式発表は、【婚約破棄】になる皇嗣殿下の【ご聖断】を、私は強くお願いしたいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする