体調が悪くて、眠っていた。ここ一ヶ月、健康状態がすっきりしないが、それも色々考え事をしているからかもしれない。
「戦士の闘いとは、人間から力を奪う、自我意識との戦いである」というわけであるが、人生を「反復」したりする時に、当時の音楽を聴くのだが、自我意識がメラメラと燃え上がってしまう。
たとえば、「作家になろうと投稿していた時期」は、頭が妄想モードになっていたのであるが、それが甦ってきたりする。音楽というのは、自我意識を掻き立てる代物なのかもしれない。そしてもちろん、執筆というのは、自我意識を書き連ねる行為であり、自我意識が肥大化していき、勝手に自己陶酔したりするわけである。
面白ければ読者は付いてくるだろうが、書き手の精神状態は異常をきたしてくるだろう。文筆業というものはそういうものかもしれない。自殺者も多いし。
こうやってブログを書いているのも、「自我意識=自惚れや自己憐憫」がまだまだ残っているからであろう。単なる備忘録でなく、誰かが読んでくれるのを期待している。他人のブログなど、長文ならば飛ばして読むのが普通だが。
「面白いことを書け」「何かで笑わしてくれ」というのが、読み手の本音なのであろう。そして、自分もそれを目指していたのであるが、何か趣向が変わってきた。
「ガツンと意識を変えさせてくれ」「この太った自我意識を何とかしてくれ」というのが、今の我輩の本音である。
カルロス・カスタネダやドン・ミゲル・ルイスなどがそれに応えてくれている。
吾輩の意識を例えるならば、大地を這っている巨大なイモムシのようなものであったのだが、カスタネダの本の重みによって、ぶちっと、潰されてしまったのである。
イーグルの圧力が、意志の力が、イモムシの動きを止めた。つまり、妄想小説が書けなくなったのかもしれない。
踊りや神々、音楽、芸術といったものは、より高いものと接続するときの、ほんのカケラに過ぎない。
これからは、「沈黙の中で書かれた文章」を尊重していこうと思う。
夢の出来事か、神秘体験か、カスタネダの文章の援用か。このブログ自体が「自我意識との戦い」なのだわい
(この猫は「自惚れ」の象徴ですね)
では僕は「自己憐憫」の象徴なのですか
(そろそろ消されるのですね)
「戦士の闘いとは、人間から力を奪う、自我意識との戦いである」というわけであるが、人生を「反復」したりする時に、当時の音楽を聴くのだが、自我意識がメラメラと燃え上がってしまう。
たとえば、「作家になろうと投稿していた時期」は、頭が妄想モードになっていたのであるが、それが甦ってきたりする。音楽というのは、自我意識を掻き立てる代物なのかもしれない。そしてもちろん、執筆というのは、自我意識を書き連ねる行為であり、自我意識が肥大化していき、勝手に自己陶酔したりするわけである。
面白ければ読者は付いてくるだろうが、書き手の精神状態は異常をきたしてくるだろう。文筆業というものはそういうものかもしれない。自殺者も多いし。
こうやってブログを書いているのも、「自我意識=自惚れや自己憐憫」がまだまだ残っているからであろう。単なる備忘録でなく、誰かが読んでくれるのを期待している。他人のブログなど、長文ならば飛ばして読むのが普通だが。
「面白いことを書け」「何かで笑わしてくれ」というのが、読み手の本音なのであろう。そして、自分もそれを目指していたのであるが、何か趣向が変わってきた。
「ガツンと意識を変えさせてくれ」「この太った自我意識を何とかしてくれ」というのが、今の我輩の本音である。
カルロス・カスタネダやドン・ミゲル・ルイスなどがそれに応えてくれている。
吾輩の意識を例えるならば、大地を這っている巨大なイモムシのようなものであったのだが、カスタネダの本の重みによって、ぶちっと、潰されてしまったのである。
イーグルの圧力が、意志の力が、イモムシの動きを止めた。つまり、妄想小説が書けなくなったのかもしれない。
踊りや神々、音楽、芸術といったものは、より高いものと接続するときの、ほんのカケラに過ぎない。
これからは、「沈黙の中で書かれた文章」を尊重していこうと思う。
夢の出来事か、神秘体験か、カスタネダの文章の援用か。このブログ自体が「自我意識との戦い」なのだわい
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では僕は「自己憐憫」の象徴なのですか
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