インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

希望のない世の中、救済する力はあるのか

2010-10-05 22:21:53 | 考えるインディオ
  何かさっき寝ていて変な夢を見た。福岡の都市部の方で、階段の多い寺で、住みついて寝ている夢であった。そして困っている人々に焼きソバとか振る舞い、太鼓を叩いていた。坊主にでもなったのか? 何かしら妙な夢であった。

 今、日本の雇用情勢やら、高齢化社会やら、デフレ経済での消費の停滞やらを考えるに、苦しんでいる人間は多いだろう。それでも何とか自分達でがんばっているのだろうが、ドル安による産業構造の転換とか、安くしても工夫しても売れないとか、人力を超えているように思われる。あたかも、日照りにより水がなくて作物が育たず、もうどうしようもない、それゆえに政府日銀もゼロ金利でカネを民間企業という田畑に流そうとしているのであるが、経済秩序があるわけで末端の零細企業には水が流れてこない。

 資本主義社会は弱肉強食の世界だから、それを政府の力で修正するのであるが、グローバル経済の中で、日本自体が生産性が低いとかドル安政策とかで食われていくと、これはもう政府の力すら超えているかもしれない。現に公共事業をやるにはあまりにも借金が多すぎるし、ゼロ金利政策にしろ、為替介入にしろ、あんまし効果がない。

 これはもう、民間のボランティアのような組織で、自発的に困った人を助けていくしかないのかもしれない。しかし表面的に助けたり、カネを与えればいいというわけでもなく、路頭に迷っている人間は、その人間自身に色々問題を抱えているわけで、政府がそれらを解決するというわけにも行くまい。やはりこんな恵まれた日本に生まれた以上、自己責任は問われても仕方ない。

 派遣村とかにしても、何とかしようとするボランティア組織だろうが、あんまし解決策にはなっていない(マスコミにアピールする程度か)。企業が悪い、政府が悪い、というのも一理あるのだが、やはり自己責任もあるわけで、深い所で、カルマの問題に行き着くのかもしれない。

 根本的なところを解決しない以上、金だけ与えたところで、また元のところに戻ってくる。まさに輪廻転生の世界か。そんな事柄は、やはりどっかの宗教に任せるしかないわけで、ボロボロになった人間は食べ物の施しでも受けながら、仏教とかに触れるのが一番いいのかもしれない。もちろん、自分で「気づく」しかないのであるが。

 ひょっとして坊主になるのではなく、さ迷って寺に行った夢だったのかも(潜在意識では既に家なき子…)。

 まあ、大都会にいたるところにある既存宗教の建物は、困って救いを求める人を助ける場所ではなく、カネがなければ近寄りがたい雰囲気が漂っている。大乗仏教ならば、今こそ使命を果たさなければならないような気もするのだが、国家同様、「どうしようもない」というのが現状か。

 世相は年々暗くなっていくし、希望の光が見えない。これはもう、どこぞの住職に、念仏りをやって頂くしかないであろう。それがネイティブ・アメリカンのゴーストにつながり(昔の記事、ゴーストダンス)、世の中を変えていく力となるのかもしれない。

 そういった場所が、地域通貨とか何とかを発行するのに適しているのかも知れぬ(裏書:この御札で念仏踊りと交換できます…)