インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

眠さに耐えて書く、自己愛

2010-06-20 20:56:22 | 考えるインディオ
  自己愛が強い人間は、孤独を愛するような気がする。孤独というのは、自分だけの世界を過ごすことだから、自分が好きでなければ耐えられないだろう。

 ブログを書くのもなかなか孤独な行為で、書きながら自分自身と対話しているのである。頭の中にが出てきたり、が声を発したりするのも、やはり自分が、別の自分の内面と話しているのかもしれない。

 親しい仲間だと、自分の延長上のようなもので、会話しながらでも、何かしら自分自身と話をしているような気にさせられる。嫌な相手では、自分の中の嫌な側面を見ているような気にさせられる。

 色んな人と対話したりして、人間は成長していくわけだが、ベースは自分自身との対話にあるのだろう。自分自身がAという経験をしなければ、Aに染まった人間と対話しても、相手を受け入れられないだろう。別に経験しなくても、孤独のうちに、Aを仮想の自分として対話していれば、理解し合えるのかも知れない。 

 一体何をぐだぐだ書いているのか、それも分かる人にはちょっと書いただけでもわかるだろう。あんまり喋らなくとも、通じ合う人間とは自然と通じ合うものだ。無意識のうちに、相手の中に、自分と同じ要素だとか問題だとかを発見するのだから。

 世の中、色んな人間がいるから面白いので、同時に、色んな自分の側面があるから人生は味わい深いのかもしれない。

 小説家でなくとも、想像力をリアルに膨らませれば、自分はランドセルを背負った子供にもなれるし、ノアとかで子供を載せて運転するパパにもなれるし、温泉巡りをしている老人にもなれるわけだ。

 と、考えるならば、世の中は自分の分身で溢れているわけで、どこに自分をはめ込むかは、自分のイメージの力次第かもしれない。ただ、もはや子供に戻れるわけでもないし(子供に託すことは出来るが)、現実は自分の想像力を凌駕している。

 もし、インディオの想像力がもっと強ければ、このブログの閲覧者をもっと引き付けているに違いない。所詮、孤独にブログを書いて悦に至る輩は、自己中心的なナルシシストなのかもしれない。

 かくして、想像力の未熟さによって、聖なる木が未だ育たないのであります ← 孤独に踊る輩

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