インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

気づき ~外側からの情報~

2009-07-08 21:25:03 | 考えるインディオ
 ふと思った。このブログには「考えるインディオ」という変なカテゴリーがあるが、人間は書くときには何らか考えるのでナンセンスだ。むしろ、「考える」ことより、「気づく」方が重要か。

 同じ道を通って、毎度同じビルや看板、住宅を目にするが、やっと「気づいた」ものも多い。そのときの精神状態は落ち着いていて、情報が向こうから勝手に飛び込んでくるような感じがする。

 一瞬にしてパッと何か言葉にならないような情報が押し寄せてくる。外側からやって来る。それに対し、酒とか飲んでいると、内側から(独り善がりな?)情報が湧いて出てくる。「聖なる木」というのも内側からの情報(妄想?)で、もっと外側からの情報を取り入れなければならないだろう。

 もっとも落ち着いて、外側からの情報を、ただ受け入れれば、「聖なる木」などどうでもよくなってしまう。箱(不動産)に「聖なる木」(看板)を掲げて、それでどうなる。ヒーリング教室だったり、ダンスホールだったり、営利を目的とした、単なる一つの事業体に過ぎなくなる(外観から)。

 面白い(?)であろうが、社会的な必要性が?だから、赤字ですぐに撤退を余儀なくされるか。もし必要性があるなら、周辺の人が客になるなり寄付するなりして、事業の生存を支えるから、続くだろう。

 結局、支持する人間しだいである。このブログにしても、支持者がいるからせっせと更新されているのであって、いなくなれば消えるだろう。

 事業とかは金が絡むので、支持者の意識だけでなく、懐が重要だ。「こっちを利用してくれたら、そっちも利用しますよ」ってな相互関係で、田舎の商店街も昔は活発化したのであろうが、今は…。

 家の隣に金物屋があっても、値段が安いとかサービスがいいとか、遠くの品物を買う(支持する)。その結果、募集のテナント、シャッターや放置された不動産が増えてくる。

 自由だから仕方がない、もっと支持されるように努力しろ、ということか。

 もっと大きい箱に変えて、看板を変えろ、ということなのか。

 昔は、品質より、ウエットな人間関係で支持を保つ事業体が、かなり沢山あったような気がする(どうみても高くてサービスが悪い)。それでも人間関係によって無理やり利用してきた。

 昔は同じ箱に沢山の事業体が入っていたのかもしれない。まとまっていたからマネーを廻す力があったわけだ。世界経済競争で?バラバラになったのかもしれない。支持者の意識や懐の構造が、全然変っている。

 地方経済が復活するには、何かしら大きい箱を作ってそれに入るしかないような気がしたのであった。

 おかしな結論になってしまったわい(いつの間にか経済論議に)

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