インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

『アミターバ』 玄侑 宗久 ~無量光明~

2009-09-05 21:37:15 | 映画や小説、テレビなど
 昨日は閲覧数 : 374 PV 訪問者数 : 181 IPで、まだ高止まりしているようだ。 昨日書いた「技芸とパワー」が全然足りないブログだが、だからこそ、どこからか、それを引っ張ってくる必要があるだろう。

 『破裂』と『アミターバ』を同時に読んで、やっと後者を読み終えた(前者はあたまが『破裂』…)。これぞ神に捧げられた本…、というより「死を恐れるすべての人に捧げる」と横帯に書かれてある。「臨死体験記録や宗教体験から紡ぎだされた究極の物語」とある。

アミターバ―無量光明
玄侑 宗久
新潮社

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 玄侑 宗久(げんゆうそうきゅう)なる作家は、禅宗(臨在宗)の僧侶で、芥川賞作家である。
 義母の死の体験が核となっているようだ。舞台は主に病院。主人公は末期がん患者の「私」(お母さん)。仏教は勿論、物理学やらキリスト教やら色々詰められてある。タイトルのアミターバとは、無量の光、阿弥陀さんのことであるようだ。

 カスタネダとかサネヤ・ロウマンでも光とか、光る球体とか出てきたが、この本はもろにそれが出てきて、

 味わいある、技芸ある文章で巧みに述べられています(これこそ文芸です)

 細い光の筋が無数に並び、そのそれぞれがまた無数に枝分かれしていた。どこまで行っても光が弱まらないせいか、私は距離感を失っていた。はっきりと見えるのは、数十センチの厚みの光の帯で、それは陽を受けて煌く海原とも思えた。しかしよく見ていると何だか私は宙に浮かんだその中に入っていくようでもあり、初めは何も見えなかった空間もやがて微細な光の粒子に満たされていくようだった。私が光に近づいていくようでもあり、その逆のようでもあった。いずれにしても光は私の体を、間違いなく貫通していた。というより、私には体がないのだった。見える限りの空間に光の粒子が溢れていた…。

 死に際の「私」は、夢の出来事と過去の現実がゴチャゴチャになり、時間の流れも直線的でなくなり、光を感じるようになるのである。先立った配偶者が、あたかもキリストのように、天使のように、光から現れてくる。そして最後には飛行機から大地を見下ろすように、高いところから現実の人間世界を淡々と捉えていくようになるのである(死んでいる)。なお、「死ぬことは楽しみになるような」説法を、「私」の娘の旦那である僧侶(著者の分身)がしたりしている。

 まさにインディアンが草木から霊を感じ取るように、死者はエネルギーを注ぎ、樹木の葉をざわざわと揺れさせる。そして死んだ私は、あたかも太陽となり「発光する私の光が、それらの植物の茎にも葉にも根元にも入っていくのだった。…私は観音竹の喜びを自分の内側の振動のように感じていた」

 ただ、インディオの祖母が癌で死んだ時(90歳)、ただただひたすら苦しんでいたので、小説のように光を感じていたのかどうか、全く疑問である。自分が死に掛けた時、この『アミターバ』を再読して、安らかに逝こうと思う(甘いか)。

 もっとよく知るためにはこれが良いかも知れませんね(CD付です)

 
CDブック・無量光明(アミターバ)の世界-わたしたちの魂はどこへ行くのか[CD-ROM付]
玄侑 宗久
徳間書店

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 そういえば、この新書も持っています(執着心がない生活です)

 たくさん紹介していますね(でも味気なくて売れないような)

 
禅的生活 (ちくま新書)
玄侑 宗久
筑摩書房

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