田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

5.22 ファイターズ戦ライブレポ⑥

2019-05-22 21:00:06 | スポーツ & スポーツ観戦

8回、石井一成はヒーローになりそこねましたね。あそこで一本出るか、出ないかは彼の野球人生にとって非常に大きかったと思うのですが、それを生かすことができませんでしたね。彼自身が一番ガックリしているのかもしれませんが…。


写真はその石井一成選手です。


5.22 ファイターズ戦ライブレポ⑤

2019-05-22 20:10:49 | スポーツ & スポーツ観戦

どうも有原がパッとしません。シーズン当初は素晴らしかったのですが、最近はまた昨年までの有原に戻ったような感じです。
彼は闘志が表に出ないタイプなので、見ている方としては歯がゆさを感じてしまいます。先発が5点も献上しちゃダメですよね。


写真は日ハムの初ヒットを放ったワン・ボーロン選手のバッティングフォームです。


5.22 ファイターズ戦ライブレポ③

2019-05-22 18:57:49 | スポーツ & スポーツ観戦

最近のファイターズ戦を見ていて(もちろんテレビでですが)観戦客が一時ほど多くないのでは、と思うのですがどうでしょうか?
今夜は平日ということもありますが、空席が目立ちます。戦績も関係しているかもしれませんが….。試合は現在0対2と劣勢です。

写真は三塁側内野席の様子です。


5.22 ファイターズ戦ライブレポ②

2019-05-22 18:33:49 | スポーツ & スポーツ観戦

期待の有原が早くも打たれてしまいました。ガックリ😂
観覧席はいつものようにグレードアップして(C指定席 ⇒ A指定席)観戦しています。前から14列目、一塁手こ後方なので、かなりグランドに近いレベルで見ています。
ファイターズの逆転を期待します。

写真は好調とは言えそうにない有原投手のピッチングフォームです。


北大スラブ研公開講座№3 ゴーゴリ作『鼻』を考える

2019-05-21 17:11:26 | 大学公開講座

 文学とは何と面倒なものなのだろう…、と才のない私は思う。ニコライ・ゴーゴリ作『鼻』は、言語と存在が乖離することの恐怖と不気味さを暗示しているそうだ。その恐怖と不気味さとは?真剣に講義を聴いたつもりだったが…。

  5月17日(金)夜、北大スラブ・ユーラシア研究センターの公開講座(統一テーマ「再読・再発見:スラブ・ユーラシア地域の古典文学と現代」)の第3講が開講された。

 第3回目は「ゴーゴリの手-『鼻』から「手」を考える」と題して北大スラブ・ユーラシア研究センターの安達大輔准教授が講義を担当された。

 このシリーズに入って毎回吐露しているが、私の手に余る内容の講義が続いている。今回もまた同様であった。そこで今回は講師が事前に提示してくれた資料の一部を紹介することで、拙文をお読みいただいている方に少しでも講義の内容が伝わることを企図した。その提示された資料の内容とは…。

                

               ※ ニコライ・ゴーゴリの肖像画

ニコライ・ゴーゴリ(1809-1852)の作品『鼻』(1836)は、床屋イワン・ヤーコヴレヴィッチの朝食の食卓でパンの中に鼻が見つかるシーンから始まります。鼻を持て余したイワン・ヤーコヴレヴィッチがそれをネヴァ川に捨ててしまう一方で、役人コヴァリョフは自分の鼻が失くなっていることに気づきますが、鼻は彼より地位の高い高級官僚となって遁走します。必死の追跡も不首尾に終わり意気消沈して帰宅したコヴァリョフのもとに、突然警官がリガに高跳びしようとしていた鼻を拘束したと言って届けに来ますが、それでも鼻は元の位置に収まりません。やがて鼻をめぐる怪しげなうわさがペテルブルクの街に広まりだしたころ、まるで何事もなかったかのようにコヴァリョフの鼻は元に戻り、役人は以前と同じ生活ができたのです。」

という『鼻』のストーリーを紹介した後、安達氏は次のように問題提起しました。

「『鼻』は、主人公のコヴァリョフが自分の鼻を失くすだけではなく、私たち自身が「鼻」という言葉の指し示すものを見失う話です。「鼻」が、当たり前のように他人の顔、自分の顔の真ん中あたりにあって、手を伸ばせば触ることだってできるものでは「なくなった」時、何が起こるかをめぐる言語と思考の実験なのです」

 それに続いて、

「私たちはコトバがあるモノを示すと想定して、日常生活を送っているのですが、このコトバとモノの結びつきが見失われると、コトバは勝手なイメージとして独り歩きしたり、何も指し示すことができずに気まずく沈黙したりします。人間の生活が織りなす言語と存在が乖離することの恐怖と不気味さは20世紀以降の文学の基調の一つとなりますが、ロシア文学でこの問題をはじめて提起した作家の一人がゴーゴリです。」

と指摘している。

               

          ※ 翻訳家・平井肇が1938年に著した訳本。岩波文庫から発刊されています。

 ゴーゴリが何故このような問題提起をしたかというと、ゴーゴリの作品や同時代の文化の中から「手」というキーワードが浮かんでくるという。例えば、「神の創る手」を真似る画家や職人たちの「下手な手」や、官僚たちの「不性確な手」など、存在の根拠を失った「手」と「鼻」はある意味通ずるところがあるのではないか、とゴーゴリは指摘したのでは?と安達氏は推測したのだと私は解釈したのだが…。

 私の解釈はまったく底が浅いものであり、あるいは誤解を伴ってもいる。このシリーズを拝聴していて、文学の持つ奥深さを改めて感じさせられている私である。

 


北海道のラベンダー80年史

2019-05-20 16:57:36 | 講演・講義・フォーラム等

 北海道でラベンダーの栽培が始まって80年が経つという。今でこそ、有力な観光資源として富良野地方を中心に北海道はラベンダーの栽培が盛んであるが、80年の間には私たちの知らなかった栄枯盛衰があったという。

           

 本日(5月20日)午後、「ほっかいどう学」かでる講座の第2回講座が開講された。今回は「北海道のラベンター80年目の真実 ~写真と証言でたどる歴史秘話~」と題して、香り通信舎編集人の伊藤由紀子氏が講師としてお話された。

             

             ※ 講師を務めた伊藤由紀子氏です。

 北海道におけるラベンター栽培の始まりは、昭和12(1937)年に関東で香料会社を経営していた曽田香料株式会社の創業者の曽田政治氏がフランスより種子を入手して現在の札幌市西区二十四軒(札幌工場付属農園)で試験栽培を開始したのが始まりとされているということだ。その後、曽田香料株式会社は栽培地を南区南沢(南沢農場)、後志郡共和町(岩内農場)と栽培地を広げ、昭和17(1942)年には南沢農場、岩内農場で蒸留を開始し、本邦初のラベンダーオイルを生産したそうだ。

 太平洋戦争を挟み、戦後になるとラベンターの栽培は上富良野町など富良野地方全域、さらには空知、後志地方にも栽培が普及し、品種改良も伴って昭和45(1970)年には全道の耕作面積は235haに及び、ラベンダーオイルの生産も5トンと、最盛期を迎えるに至ったという。

 なぜ北海道においてラベンターの栽培が盛んになったのか?伊藤氏は4つの理由をあげられた。それは①栽培に適した冷涼な気候、②生産コスト上の利点(土地代、人件費)、③ハマナス香料の生産計画が進んでいた。④ハッカ油の生産技術が確立されていた。ことなどがその理由としてあげられるとした。

 しかし、その後ラベンダー生産は激減の一途をたどる。昭和45年から5年後の昭和50(1975)年には栽培面積が1/3に激減し、それから10年後の昭和60(1985)年にはほぼ壊滅状態にまで落ち込んでいる。

 なぜこのような状態になったかというと、①外国産の似たようなオイル(仏産ラバンジンオイル)との価格競争を凌げなかったこと。②合成香料の発明による天然香料の需要減少。③他の農作物の価格が高騰したこと。④農業の機械化が進む中、ラベンター栽培が機械化に乗り遅れた。などのことがその要因だったと伊藤氏は述べた。

             

           ※ あまりにも有名な富田ファームのラベンターをはじめとした彩り豊かな観光農場です。

 そうした中で細々とラベンター栽培を続けていたのは、その後有名となる「ファーム富田」の富田忠雄など数軒だったという。その富田も栽培を諦めようとしていた矢先の昭和51(1976)年、富田のラベンダー畑が国鉄のカレンダーや新聞で紹介されたことによって観光客が押し寄せるようになったそうだ。さらにはTVドラマ「北の国から」、映画「時をかける少女」などでラベンダー畑が紹介されることによって一大観光ブームが到来し、今に至っていることは、私も良く知っていることである。

 今や富良野というとラベンダーをはじめとして、雄大な畑作地帯など農業風景が大きな観光資源となっている。ラベンダーの栽培、さらにはラベンダーオイルの生産はとても往時に比べるべくもないが、北海道とラベンダーの縁が途切れることなく現在にまで繋がってくれたこと、そしてこれからも細々ながらも繋がっていきそうな状況にあることを道産子の一人として感謝したい思いである。

 ※ ラベンダーの写真は2枚ともウェブ上の写真を拝借した。

 


映画 236 カレーライスを一から作る

2019-05-19 18:43:41 | 映画観賞・感想

 探検家で、武蔵美術大学の教授を務める関野吉晴氏がゼミの学生たちとカレーライスを作るうえで必要なすべての材料を一から自分たちで作るという計画を提案し、実際にその軌跡を追うドキュメンタリーである。

                

 今日(5月19日)、札幌プラザ2・5で表記映画の上映と関野氏の講演があると知って駆け付けた。関野氏はアフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通って南アメリカ大陸まで拡散していった約5万3千キロの行程を自ら脚力と腕力だけをたよりに足かけ10年の歳月をかけて遡行したグレートジャーニーを完遂したことで知られる探検家である。

 関野氏はグレートジャーニーの完成と相前後して武蔵美大の教授に就任していた。

         

         ※ 武蔵美大で講義中の関野吉晴氏です。

 今回の映画は、「モノの原点を知ることで社会が見えてくる」と考える関野氏が学生たちにそのことを伝える手段として、カレーライスに必要なすべての材料を一から自分たちで作るということを学生たちに提案し、9ヵ月にわたる学生たちの試行錯誤の様子をドキュメンタリーとして追い求める映画である。

 学生たちは、田植えの経験も、野菜を種から育てる経験も初めてだった。その作業の姿はいかにも頼りないものだった。そして最大の懸案は、カレーに入れる肉をどうするか、という問題だった。当初はダチョウを飼育しようとして幼鳥を飼い始めたが神経質なダチョウは環境に慣れることなく三羽ともに死なせてしまった。代わりに飼い始めたのが烏骨鶏とホロホロ鳥だった。やがてその鳥たちが成長して、カレーライスの材料としなければならない時になって、ゼミ生たちの中に迷いが生じ始め「鳥たちを屠るべきか、生かすべきか」悩んだが、学生たちは「人は命を食べないと生きていけない」という現実を直視する中で結論を導き出す。映画の中で、ともすれば感情的になりやすい(?)女子学生が冷静に自分の考えを述べる姿が印象的だった。

      

      ※ 学生たちは慣れない手つきで懸命に農作業に励みました。

 関野氏は言う。実は「一から作る」という実践はカレーライス作りが初めてではなく、その前に学生たちと「カヌーを一から作った」という体験があったそうだ。そのことを知っていた後輩たちが、関野氏に再びと要請があったことで、関野氏は今度は「カレーライスを一から作る」ことを提案したという。こうした一から何かを作るという一見無駄な行為を通して学生たちに「何かに気付いてほしい」という願いがあるそうだ。

           

           ※ プラザ4・5のステージで映画の背景や氏の生き方を語る関野吉晴氏です。

「学生たちは今気づかなくともよい。今回のプロジェクトが彼らの人生のどこかできっと生きてくるはず」だと…。それは関野氏がグレートジャーニーから得た貴重な体験でもあるようだ。

 関野氏のお話は一見とりとめのない話のようにも映ったが、そこには氏の地球に対する、あるいは人生に対する哲学のようなことを拝聴した思いだった。氏は今年70歳になるようだが、まだまだ夢をたくさん持っていると語る姿が魅力的だった。


北大スラブ研公開講座№2 「戦争と平和」は叙事詩的巨編なのか?

2019-05-18 20:36:00 | 大学公開講座

 ロシアの作家・トルストイの代表作「戦争と平和」は「叙事詩的巨編」と称されるようだが、はたして本当にそうなのか?講義を聴いているとどうもその評価に疑問符を打たざるを得ないような気がしてきたのだが…。

  5月13日(月)夜、北大スラブ・ユーラシア研究センターの公開講座(統一テーマ「再読・再発見:スラブ・ユーラシア地域の古典文学と現代」)の第2講が開講された。

 第2回目は「トルストイ『戦争と平和』の戦争観・歴史観をめぐって」と題して北大名誉教授であり、中央学院大学教授である望月哲男氏が講義を担当された。

 最初に吐露するが、私はトルストイの「戦争と平和」など読んだことがない、という恥ずべき事実を告白しておく。トルストイと「戦争と平和」が結びつくのは、高校の国語か歴史の授業でテストのために記憶させられたことで覚えている程度である。そんな私が「戦争と平和」を評する資格などまったくないのだが、講義を受けた感想を述べるくらいは許されるだろう、との思いからこの投稿文を作成していることをお断りしたい。

               

               ※ ロシアの文豪レフ・トルストイです。

 まず、リード文でふれた“叙事詩”ということだが、ごくごく簡便にまとめると歴史や伝説に現れる神や英雄の事績を高揚した文体で歌う長編の物語詩」ということだ。

 講座ではまず、私のように「戦争と平和」を読んだことのないものに対するガイダンス的なところから入った。物語は1805~1813年までに起こったロシア側から見た二つの山からなるナポレオン戦争について書かれたものである。その二つとは、アウステルリッツの会戦(三帝会戦)とナポレオンのロシア戦争についてである。作品そのものは、その後1820年に書かれたエピローグも含めて、「戦争と平和」と題して1865~1869年にかけて順次発表されたそうだ。そしてそのナポレオン戦争そのものがロシアから見ると救国の戦いであり、ひいてはヨーロッパの救済を描いたということから「叙事詩的巨編」という評価を得ているとした。

 しかし、講師の望月氏は「叙事詩的巨編」という評価ははたして妥当だろうか?という問いを私たちに発した。というよりは自らに発したのだろう。(それが望月氏の研究テーマ?)そのことに対して、氏はYesの立場とNoの立場からそれぞれ論じた。

 Yesの立場としては、①二大戦争を対比的に配置していること。②政治・外交と戦争を描いていること。③集団の動きと個人や家庭の運命を相対的に描いていること。④戦場のパノラマと近景の接写を上手に配置していること。など多様な視点・距離・立場からの記述により、戦争を多元的・立体的に再現しているうえに、国民が総力をあげて外敵を撃退している点を積極的に評価する側がYesの立場であるとした。

 一方、Noの立場としては、①英雄的な戦士による荘厳なる「愛国の戦い」のイメージを裏切る予想外の屈折や挫折に満ちた物語である。②軍や戦場の「らしくない」側面の描写が目に付く。③内外の歴史家による既存の祖国戦争史への執拗な批判が展開されている。④戦争はどのように理解し、描写することが可能なのか?あるいは、なぜ理解も描写もできないのか?についての認識論・方法論的な問いに終始している。こうしたことから「叙事詩的巨編」という評価に疑問を呈するNoの立場があるとした。

          

          ※ 英国BBC放送がテレビドラマ化した際の「戦争と平和」の一コマだそうです。

 さて、例によって(?)ここからは私の独断と偏見であるが、望月氏はどちらかの立場であるとの明言は避けられたが、私が聞いている限りはどちらかと言えばNoの立場なのかな?と思えたのである。それはあの膨大な量の作品の中から望月氏は可能なかぎり本文を提示して、その部分の解説を加えてくださった。それらはとうていここで再現できるものではないが、私がイメージする“叙事詩”とは荘厳であり、英雄を讃えるものであり、非現実的な側面をもったもの、というイメージがある。それに対して、「戦争と平和」の中には神とか英雄の意思を排除しようとする考えが伺えたり、軍隊の作戦会議の様子を揶揄する表現があったり、戦争の行方(予想)は後から想起され、択ばれるという表現が紹介されるにいたって、おおよそ“叙事詩”的とは言えないのではないか、との印象をもったのである。

 講師の望月氏の本意がどこにあるのか私にはとうてい計りえないが、私には「そう感じられた」というだけのことである。う~ん、ここまでまとめるのにかなりの時間を要してしまった…。