絶海の孤島に12年余も閉じ込められた男の壮絶なノンフィクションである。以前に読んだ「大黒屋光太夫」の物語よりももっともっと過酷な話である。よくぞ生き抜いた。よくぞ帰還した。水主(船乗り)長平のタフネスさには驚くばかりだった…。
時は江戸時代、天明5年(1785年)長平が舵取りをする御蔵米を積んだ三百石船が、長平が住む土佐の赤岡村を出航した。しかし、船はシケに遭い舵も帆柱も無くなり漂流を始めた。大黒屋光太夫の場合もそうだったが、当時は船がシケに遭い漂流することが多かったようだ。まさに「板子一枚下は地獄」の世界で、船乗りは相当に危険な職業だったようだ。
船には水主頭の源右衛門、水主の音吉、炊ぎ(炊事係)の甚兵衛、そして舵取りの長平の4人が乗っていた。水も食料も途絶えそうな中、漂流を始めてから13日目に長平たちは瀕死の状態である島に流れ着いた。
ようやく助かったぁ!と思った長平たちだったが、島には人影がなく、草木もまばらな火山島だった…。食べるものといえば、岩に張り付いた貝や海藻くらいしかなかった。しかも火山島のために水も湧いていなかった。ただ、長平たちにとって幸いだったのは、流れ着いたその島がアホウドリの生息地だったことだ。そうその島はアホウドリが繁殖するために渡ってくる小笠原諸島の一つ「鳥島」だったのだ。アホウドリは大きな鳥のうえ、動きが鈍いため彼らはそれを食料とし、水は雨水を貯めて凌ぐことにした。しかし、火を起こす手段も持ちえない中で、生の鶏肉だけを食べ続けるということはどれほど辛いことだったろうか?アホウドリが繁殖を終え、島を離れてしまうとたちまち食料が無くなってしまうことに備え、彼らは鶏肉を干して保存をして命を繋いだ。しかし、島に辿り着いて2年。助かる見込みが皆無の状況の中、彼らは絶望と栄養失調で次々と倒れていき、長平一人が生き残った。その時、島に流れ着いてから1年半が経過していた。この時長平は25歳だった。
それから長平の一人暮らしが始まった。彼は身体的にも精神的にも強い人間だったようだ。そんな彼の前に漂流が3年を過ぎたある日、やはりシケで遭難した船頭の儀三郎をはじめとした船乗りたち11人が島に漂着した。この時儀三郎たちは火打石を持っていたために火を使うことが可能になったことは生肉だけを食べていた長平にとっては朗報だった。長平を含めて12名となった漂流者は、若いが島での生活が長い長平と船頭の儀三郎が自然リーダーとなって暮らしていくことになった。12人での生活の中から、やはり二人が病に倒れ亡くなり生存者は10人となった。
こうして希望のない島での生活が長平で5年、儀三郎たちで2年が経過した。そうした1月のある日、またまた船が難破し、伝馬船(船と陸とを結ぶ手漕ぎの小さな舟)に乗って船頭の栄右衛門以下6人の船乗りたちが漂着した。栄右衛門たちの伝馬船には船用の大工道具一式(カンナ、鋸、鑿、ヨキ、山刀包丁、曲尺など)と他にも鍋、釜などが積み込まれていて、長平たちを喜ばせた。これで島で生活する者は16人となった。
道具を得たこと、仲間が増えたことで島での生活に活気が出てきて、彼らは雨水を効率的に集めるために池を造った。その際、なんと限られた材料で重次郎という器用な男が漆喰を造って池の底に敷き詰め、漏水を防いだ。栄右衛門たちが流れ着いてからもすでに3年が経過し、長平は32歳になっていた。島での漂流生活実に8年である。その夏、大工道具を眺めていた長平は無理を承知で「船を造ろう!」と提案した。材料もない中での提案は他の者たちから当初問題にされなかったが、「ともかく無理は承知でも、希望の日を絶やさぬために取り組もう!」という長平の強い意志を感じ、皆は立ち上がった。船造りなど経験のないものばかりだったが、中に器用な船乗りもいた。彼らを中心に取り掛かったが、材料がないことで頓挫しかかった。しかし、辛抱強く島に流れ着く材料を集めながら遅々とはしながらも船造りは進められた。その間にも月日は流れ、長平の漂流生活は12年にもなっていた。そんなある日、大シケの後に大量の木材が島に流れ着いた。そのことで船造りが一挙に進み、ついに長平が島に流れ着いて12年半が経過した5月、ついに15人が乗ることのできる船が完成した。
その船で6日間をかけて長平たちは人が住む八丈島に辿り着き、祖国へ帰り着くことができた。
またまた粗筋を長々と書き綴ってしまったが、私にとっては長平の感動的な漂流体験を2度にわたって味わうことができた思いである。吉村作品を紹介するとき、いつも述べることだが、彼は常に綿密な取材を欠かさないという。今回も関係文書、また伝聞等、できうる限りの取材を行った末での作品化である。事実を柱にして、そこに吉村流の肉付けがされていく吉村作品はいつも読み手の私をワクワクさせてくれる。本作の場合、満足な食事を口にすることなく実に12年余という気の遠くなるような漂流生活を耐え、無事に生還するという壮絶な物語である。このような物語を作品化した吉村昭の凄さを改めて実感した一作だった…。
※ なお、この「漂流」は1981(昭和56)年、東宝映画が北大路欣也主演で映画化しているそうだ。
いやあ、粗筋を読んだだけでも大コーフンしました。
生に対する執念のような強い思いを感じます!
漂流記といえば、高校生のときに岩波文庫でロビンソン・クルーソー漂流記を読んだことがあります。
主人公が何度も漂流することに驚きと多少の呆れもありましたが、都合よく生活物資が流れ着いて、そこそこ西欧的な文化生活を送ることに、いかにもフィクション臭さを感じたものです。
吉村昭の漂流記は、いずれも事実にそくしているのですから、本当に息が詰まるような物語ですね。
これ以上の漂流記というと、ヨットのタカ号の漂流記でしょうか。「たった一人の生還」だったかな?
いや~、粗筋で長平たちの凄まじさを感じていただけましたか?
私は「大黒屋光太夫」の後に読んで良かったと思っています。本文にも書きましたが、長平の過酷な13年間半は大黒屋光太夫の比ではないと感じたからです。大黒屋光太夫の場合も確かに帰国できないのではという厳しい状況でしたが、食べ物など命に直接かかわる危機はそれほど無かったように思いましたが、長平の方は、何せまともな食べ物もない中での13年半ですから、それはそれは今の私たちからすると想像の絶する過酷な中での13年半ですから、いや~大興奮でした。
漂流物というと、「エンデイランス号漂流記」という外国物ですが、凄い漂流記を読んだ経験がありますが、今回の「漂流」はそれに勝るとも劣らない素晴らしい内容でした。