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桑田真澄が己の野球人生を語る

2017-11-15 18:52:49 | 講演・講義・フォーラム等
 元巨人軍エースの桑田真澄は言う「自分の人生は挫折の連続だった」と…。そしてさらに彼は言う「自分は幸運だった」と…。しかし、挫折を乗り越えるために、彼は壮絶な努力を自分に課していたようだ。桑田真澄が己の野球人生を語るのを聴いた。

                    

 11月10日(金)、前日に引き続いて「ビジネスEXPO」のビジネスセミナーを聴くためにアクセスサッポロに馳せ参じた。
 この日のプログラムは、ドリーム講演と銘打って現在野球評論家として活動している桑田真澄氏が「試練が人を磨く」と題して講演した。
 さすがに有名人とあって受講希望者が殺到し、およそ100名程度のメイン会場は入りきらず、私はサブ会場でプロジェクターでの同時中継を見ながらの受講となった。

 桑田氏は冒頭、自分は野球が大好きであり、素晴らしいスポーツだと思っている。と話した後、「自分の人生は挫折の連続だった」と語った。
 まず、生年月日が1968(昭和43)年の4月1日だったことだという。4月1日は早生まれに属するために、特に小学生時代は遅生まれ(前年の4月2日以降に生まれた人)に比べて1年おくれの状態で体格的なハンディを背負った小学生時代だったと振り返った。
 さらには、小学校時代には野球チームに入ったときには、飛び級で上級生チームに加わったために「いじめ」で野球を辞めてしまったこと。清原選手との出会ったときには、清原の怪物ぶりにそれまで培った自信が粉々に砕かれたこと。さらにはPL学園入学時も周りのレベルの高さから野球を辞めようと思ったこと。そしてプロでも肘の故障で挫折を味わったという。

 そうした挫折をなぜ乗り越えられたのか、ということについて、桑田は「自分は幸運だった」と何度も口にした。
 幸運とは、母親の存在を指している。彼の母は彼が挫折する度に「ぜったいあきらめてはダメ」、「この後、何があるか分からない」、「自分らしく、自分のペースで」と励まし続けてくれたという。
 この母の言葉から、自分らしくとは何だろうと考えたときに、上背もない、投球も飛びぬけて速いわけではない、自分は総合力で勝負しようと心に決めたそうだ。このあたりが桑田の真骨頂のように思える。

 桑田はまた、中学時代にまったく不得意だった勉強で努力することで成績が向上する楽しさを知ったという。つまり「努力」が楽しいことを自覚したという。
 彼の努力の極意は「けっして沢山しないこと」だという。少しを集中して、それをコツコツだという。彼の言葉を借りれば「短時間集中継続型」が大事だと話した。

 桑田はまた、物事には裏と表の二面性があるという。野球をする上において、桑田はその「裏」と「表」の両立を目指していたという。
 例えば、学生時代には「野球」と「勉強」の両立。プロの時代は「結果」と「プロセス」、引退後は「戦略」と「収益」というように、相反する二つのことを両立させるように心がけていたそうだ。
 彼が誇らしげ(?)に語ったことは、中学、高校を通じて授業中に居眠りしたことは一度もなかったことだという。

 桑田はまだまだ多くのことを語った。その語り口は、メディアから伝わる桑田そのもので、静かに、穏やかに語り続けるもので、自分を美化するでもなく、卑下するでもなく…。

 彼の講演で面白いと思ったのは、事前に彼のサインをした色紙をたくさん(30枚くらい?)用意して、話の節々で受講者に問いかけ、それに応えた方に色紙をプレゼントしていたことだ。
 そして、桑田氏はメイン会場だけではなく、サブ会場にも姿を見せてくれ、サブ会場の人たちにも色紙をプレゼントしていた。
 私はもちろんその対象とはならなかったが、色紙は桑田自身が手渡しするのだが、一度だけ私の傍を通ってプレゼントしたときがあった。そのとき彼の体格がごくごく普通であることに(身長174cm)改めて驚いた。
 プロ野球界では小柄に属する体格で、巨人軍のエースとして君臨し通算173勝もあげたということは、相当な努力なくしてなしえなかったもの、と改めて桑田真澄の偉大を知らされた思いだった。


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