祖父が屯田兵の第1陣、琴似屯田兵として入団、入植されたという講師のお話は具体性に富み、非常に興味深かった。「めだかの学校」の渾身の企画「さっぽろの古を訪ねて」の第3弾がいよいよスタートした!
※ 以前にも提示した今年の企画「さっぽろの古を訪ねて」第3弾の内容を記したリーフレットです。
私が所属する「めだかの学校」では、2018(平成30)年度より「さっぽろの古を訪ねて」という企画を連続して開催してきた。第2弾までは順調に開催してきたのだが、第3弾を開催を前にしてコロナ禍に出会い、頓挫していた。せっかく企画した第3弾をぜひ実施したいと願っていたのだが、コロナ禍も一段落したことから、今年度実施に踏み切ったのである。
その第1回目が一昨日の4月23日(火)に実施した。屯田兵村は札幌市内、周辺に計5つの屯田兵村が存在した。その全てのゆかりの地を巡ることにしているのだが、第1回目は、屯田兵についての概要を把握する機会とした。
そこで屯田兵の子孫である琴似屯田兵子孫会の事務局長をされている永峰貴様をお招きして「屯田兵の果たした役割」についてお話を伺い、併せて私の方から「講座全体を把握する」と題して、訪れる屯田兵村についてレクチャーをさせてもらった。
※ 講師を務めていただいた琴似屯田兵子孫会の事務局長である永峰貴さまです。
永峰氏のお話は興味深かった。屯田兵制度は、当時の開拓使が北海道の開拓と北方警備を目的として、戊辰戦争において朝敵となった旧会津藩をはじめとする各藩(旧仙台藩、旧庄内藩など)の旧士族の救済という名目のもと募集されたものだった。しかし、募集を開始したものの予定の200名に足らず、永峰氏の祖父は当時17歳で募集年齢には1歳足りなかったのだが、追加で応募が認められ第1陣として入植されたそうである。
永峰氏の祖父は、現在の琴似地区の中心街に建てられた屯田兵村兵屋に住居を割り当てられたそうであるが(集団密居制)、永峰氏は現在もその割り当てられたところで生活されているそうだ。第1陣として入植した200戸のうち、当時の住所に現在も住まわれているのは永峰氏ともう1戸だけだそうである。
屯田兵の一日は大変厳しいものだったという。夏季間の屯田兵の一日は、
◇起床 4:00
◇就業 6:00~12:00
◇食事 12:00
◇就業 13:00~18:00
実に11時間の過酷な労働が課せられていたそうである。
また、開拓使から与えられた住居は寒冷な北海道に適したものではなく、非常に過酷な環境だったことが、残された屯田兵屋からも伺えるが、それは今後の見学で私たちも実感できそうである。
屯田兵は永峰氏の祖父が入植された1975(明治8)年の琴似屯田兵村を皮切りに、発寒、山鼻、江別、篠津と次々に入植地が広がっていった。それと同時に入植条件も変化していき、当初(明治8年)は支給された農地が一戸5,000坪だったのに対して、明治16年には倍の10,000坪となり、明治22年には15,000坪に拡大していったという、それに伴い先に入植していた者にも、その都度同じ条件になるように拡大して支給されたそうだ。そのため先に入植した琴似屯田兵の場合は、栽培する農地があちらこちらへと散在する結果となり、集団密居制のため家から支給された農地まで遠くなり、農作業が一層困難となってしまう結果も産み出したそうだ。
その他に数々のエピソードを紹介いただき、今後の屯田兵村跡地の訪問が楽しみになってきた。
※ 永峰さまのお話を聴く「めだかの学校」の会員です。
今後、「めだかの学校」では5月に「琴似屯田兵村」、6月に「篠路屯田兵村」、7月に「新琴似屯田兵村」、8月に「野幌屯田兵村」、9月に「山鼻屯田兵村」を訪ねる計画を立てている。今回のテーマ「北の守りと開拓を担った屯田兵の史跡を辿る」に一層の興味を掻き立ててくれた今回の講義だった。この後も現地を訪ねた様子をレポトーしたいと思っている。