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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

アイヌ民族・琴似又一郎の悲哀

2025-07-06 21:38:01 | 講演・講義・フォーラム等
 幕末から維新期にかけてアイヌ民族だった琴似又一郎は、卓越した日本語を話し、開拓使に重用されたという。道内に住むアイヌの代表のような役割を担ったものの、それは永続的なものではなかった。又一郎の立場は開拓使の都合で翻弄された。明治期のアイヌの悲哀を知ることができた講座だった。

 久しぶりの「さっぽろ市民カレッジ」の受講です。
 札幌市生涯学習センター(通称:ちえりあ)において、ちえりあ学習ボランティア企画講座で「先人たちのさっぽろ物語~札幌の「今」をつくった人の歴史~」という講座が開講されることを知りました。
 講座は4回シリーズで、各回のテーマは次のようになっていました。
 ◇第1回 「札幌に生きたアイヌの近代」~琴似又一郎の事績から辿る~
 ◇第2回 「琴似屯田兵村の歴史」~屯田兵のくらしと苦労を伝える~
 ◇第3回 「移住者の文化とその後」~年中行事と冠婚葬祭を聞き取る~
 ◇第4回 「戦前戦後の女性たちのあゆみを語り継ぐ」~『北の女性史』40年によせて~
      

 「めだかの学校」において、札幌の草創期のことを学び続けてきた私としては、私たちの学びをより深く広いものとするためにも、是非受講したいと考え申し込みをしました。
 その第1回講座が7月4日(金)の午後、ちえりあで開講されたので受講してきました。
 第1回講座は上記のとおり「札幌に生きたアイヌの近代」と題して北海道博物館アイヌ民族文化研究センター学芸員の大阪拓さんが講師を務められました。

 大阪さんは、主としてアイヌ民族に関して残されている古文書などにあたり、アイヌ民族の実態を解明することを研究対象とされている方のようです。(詳しくは不明なのですが…)
 その大阪さんが、道立古文館などで調査研究をしている中で、 琴似又一郎の人物写真が一般に伝えられている人物とは違っていたことを究明したということなのです。
 その写真は貴重なものと思われるのですが、ウェブ上で公開されているので、その写真を使って説明すると…。 
 
※ 大阪さんが究明するまで、琴似又一郎は前列真ん中の人物だと言い伝えられていたそうです。ところが大阪さんが古文書などにあたるうちに、琴似又一郎は左端の人物であることが特定されたそうです。

 そのことがキッカケとなって、大阪さんは琴似又一郎のことを詳しく調べ始めたようです。
 それによると、1857(安政4)年、16歳の時には「マタヱチ」と呼ばれていたようです。
 その頃、「マタヱチ」は石狩の幕府役人のもとへ「めしたき」として奉公に出ていたそうです。そこで「マタヱチ」は日本語を自分のものとし、他の和人変わるところがない言葉や立ち居振る舞いを身に付けたそうです。
 そうしたこともあって、役人たちも「マタヱチ」を重用し始め、1870(明治3)年には上京し東京を見聞させたり、翌1871年には札幌周辺のアイヌの行政的な代表として「乙名」という職名をいただき「琴似乙名」と称したそうです。
 さらに翌1871(明治5)には、東京に設置された開拓使仮学校「北海道土人教育所」に入学を許され、さらには、「マタヱチ」はアイヌとして初めて札幌市民としても認められたことから、その氏名を「琴似又一郎」と改名したそうです。

 ところが、開拓使の本道開拓が本格化するにつれ、又一郎さんは開拓使に翻弄されていくようになりました。
 1878(明治11)年に、又一郎さんが所有していた私有地を農事試験場整備のために移転するように求め移転を余儀なくされてしまったのです。
 さらには、アイヌ民族にとっては生業の基幹である石狩川河口の漁場も減らされたり、あるいは収穫した鮭の取引においても不利な条件を付き付けられたりされたうえ、ついには漁場を捨てねばならない状況に追い込まれたそうです。

 また、又一郎さんが移転した先の茨戸の土地も、後に移転を強いられるなど、開拓使は相当に酷い仕打ちを又一郎さんをはじめアイヌ民族に強要したようです。
 残された記録では、その後の又一郎さんの足跡は不明とのことです。

 ここからは、私の推測が混じりますが、北海道の開拓で主導的役割を果たした黒田清隆は、開発の効を焦るあまり、アイヌ民族を相当に蔑ろ(ないがしろ)にしたのではないかと想像されます。
 彼が主導した樺太千島交換条約において、宗谷に移住した樺太アイヌを札幌近郊の対雁に強制再移住させ、多くの樺太アイヌが慣れぬ土地と仕事で疲弊し、たくさんの死亡者を出したことも又一郎さんの運命を翻弄する一因となっているようです。

 又一郎さんの足跡は不明と記しましたが、大阪さんは又一郎さんの長男栄太郎さんが旭川近文原野に移転したとなっていることから、あるいは栄太郎さんと共に近文に移転したのではないか、と推測されました。

 大阪さんは、講義の中で開拓使や黒田清隆について非難するような言辞は一つもありませんでしたが、遺された古文書の内容をお聴きするかぎり、当時のアイヌ民族が相当に酷い扱いを受けていたことが容易に想像されます。
 人権意識が未成熟の時代だったとはいえ、アイヌ民族を人(ヒト)として見なさなかったという誤りを和人の末裔である私たちは、その事実を重く受け止めねばならないと講義を受けて今さらながらに痛感しました。