おーっと、恐れていた掘割に遭遇した!そこを渡るべきか、それとも迂回すべきか? 目の前に密生する灌木帯があり直進はとても無理だ!ギリギリ川沿いを進むか、それとも川岸から離れるか? 冬の早い日没が迫っている。まだ目的地に届いていない。ここでトレッキングを中断すべきか、進むべきか? 私はそのときどきに判断を求められた。全ての判断が自己責任。私はその判断を楽しんだ…。
※ 大いなる石狩川の河原を独り往く代表的な一枚の写真かもしれません。
私が一人旅を志向するようになった訳を考えてみると、これまでのいくつかの経験に起因していることに気が付いた。
高校2年のときだった。親しかった1年下のT君と道東地方を巡る一週間の自転車旅行をした経験があった。
大学1年のときだった。高校の同窓で、同じ大学に進学したS君と、今度は北海道内一周の自転車旅行をした。
どちらも楽しい思い出として私の中には残っている。しかし、旅行中にT君とも、S君とも気まずい思いをしてしまったことも忘れられない。それはお互いに体力的にきつくなったときに、どう対処するかという方法を巡って対立してしまうことが多くあり、しこりを残してしまったことが忘れられない。
一方、私は大学3年を終えたときに、1年間休学してヨーロッパ・アジアをヒッチハイクで彷徨する一人旅に出た。
その旅は、一日一日が、一瞬一瞬が判断を求められる連続だった。明日はどこへ向かおうか? 所持金が残り少なくなり、この後どうしようか? ヒッチハイクで思うように進めなかったとき、どこに宿泊しようか? 等々…。
私は一人で判断しなければならなかった。判断したことに責任を持たねばならなかった。誰にも文句を言えない。誰にも責任を押し付けることができない。すべては自己責任に帰する旅を続け、両親と約束した1年後に無事に帰国することができた。
この一人旅は私を強くした。私に自信を与えた。そして何より、一人旅の醍醐味を知ってしまった。
※ 掘割に張った氷の上にうっすら積もった雪。はたして渡れるのか否か。真剣に検討しました。
「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクトにおいても、私は当然のように一人旅を選択した。(というよりも、誰一人こんな酔狂な企てを一緒にしようなどという者は現れない)
今回のプロジェクトにおいては、リード文でも触れたように一瞬一瞬の判断が求められた。さらには五感を研ぎ澄まして、行く先々の危険を事前に察知することが求められた。
雪の上に立ったら、考えることは“この先をどう進もうか?”、“危険な個所はないか?”、“昼食はどこで摂ろうか?”等々…、考えることは目の前で生起する問題をどのように判断し、処理するか、だけに忙殺される。そこに日常の雑事は全て忘れ去られている。
※ 私の行く手に立ちはだかる風倒木の塊。この先をどう進もうか?大いに頭を悩ませました。
さらに一人旅は…。
大いなる石狩川の河岸に、広い雪原に、唯一人…。聴こえてくるのは風の音、時に聴こえる川の流れの音…。自然の中にどっぷり浸かっている自分を感ずる…。
こんなシチュエーションに、相手の話し声、仲間の歓声など必要ない。独りでいることに無上の喜びを感ずる。
私のブログに度々登場する超人おじさんsakag氏は言う。「孤独感は心地良いが、孤立感は侘しい」 と…。
まさに私の「冬の石狩川河岸を遡る」旅は、孤独感を楽しんだ22日間だったのだ。
もう少し22日間を振り返ったみたい。