1965(昭和40)年、水上勉原作の「飢餓海峡」を映画化し公開された作品である。完全版183分の長尺だったが、少しも長さを感じず最後まで緊張感を保った映画だった。日本映画の名作の一つといっても良いのではないか。
3月13日(月)午後、かでる2・7において「めだかの学校」の「映画の中の北海道・昭和編」として「飢餓海峡」が取り上げられた。
「飢餓海峡」は、水上勉が岩内町大火と青函連絡船「洞爺丸」が台風で遭難したという二つの事件をヒントに推理物に仕立て上げた作品である。
実際の岩内町大火と宗谷丸の遭難事件は1954(昭和29)年に発生しているのだが、小説の中では戦争直後の1947(昭和22)年に発生したことになっている。戦争直後ということもあり、ストーリーの中で人々が飢餓状態にあったことがその背景として描かれているのがこの作品の特徴の一つである。
ここでストーリーについて触れることはしないが、映画製作の背景を覗いてみると、制作費の莫大な予算超過のために制作陣が始末書を書かされ、減給処分を受けたとある。しかし、私から見れば台風のシーンや大火の場面などはミニチュアのセットで制作されたことがみえみえだったし、ロケも一部しか実施されていない。どこが予算超過なのか?といぶかるのだが、昭和40年というと、映画の製作費も飢餓状態にあったということなのだろうか?
映画ではそのネームバリューもあってだろうか?主役が三国廉太郎となっているが、私はむしろ刑事役(函館警察署)の伴淳三郎と、それを引き継いだ高倉健(東舞鶴警察署)の二人の刑事役の方が映画全体の中では存在感を発揮していたように思えた。
この日は、映画鑑賞後、めだかの学校の「給食会」が開かれたのだが、その歓談の中で犯人役の三国廉太郎(樽見京一郎)の逮捕には訴訟を維持するだけの証拠が十分ではないのではないか、という話が出た。
また、三国(樽見)は逮捕された後に函館に護送される際に青函連絡船から投身自殺を図り、映画はTHE ENDとなるのだが、手錠で繋がれた犯罪者が投身自殺などできないのではないか、など現代の捜査方法・護送方法との違いを指摘する声が出た。
これはやはり時代の違いを写したものと言えるのかもしれない。
※ ポスターにはカラー版もあったが、映画は白黒映画である。
そうした綻びがあったとしても、映画としては大変楽しめた映画だった。解説などを読むと昭和期の映画としては「砂の器」と並び日本映画の名作の一つであるとしている解説もあったくらいである。
「めだかの学校」では、2年間にわたって「映画の中の北海道・昭和編」を実施してきたが、今回で一応終了ということになった。映画好きの私としてはちょっぴり残念な思いである。
またいつか、違った企画で名作映画の鑑賞機会が訪れることを望みたいと思っている。